私がベンチャーに期待する理由

 
『「親方」との関係で悩むのは我々社会人も同じ。とはいえ「悪童が礼儀正しい若者に変身し親が感謝する。それが相撲界の特質でもある。」とまで言い切るのが相撲界。ならば、その礼儀正しい若者がさらに成長した「親方」は素晴らしい人格者であって欲しいものである』
 
 
しきたり、しごきと称したスパルタの訓練は日本の伝統的なものだ。現代では運動理論に則ったトレーニングも重視されているが、伝統を守る国技としての角界は時代に乗り遅れてしまった。だからこのようなことが許されてしまったのではないか、というような所感もあるが、どうだろう?
伝統的な世界とか、現代的な世界とか、そういう時代の背景や業界のルール等に関係なく、私はこういうことは未だ当たり前に存在することだと思う。
いじめのニュースを見れば一目瞭然だ。子供の世界だけではない。
すべては氷山の一角である。
それらは文化や伝統、しきたり以前に、人間の性なのだ。いや、集団の・・と言おうか。
集団と言うものは不安定だ。常にターゲットを作り、そのひとりを「しごく」ことによって結束を保つ。
指導者もこれを利用する。指導する立場から集団から孤立し(または阻害され)やすい彼らは「しごき」をも集団に指導、指示することで連帯感を維持するのだ。また、彼ら自身の(下からの)敬意を守るためにも使用する。
映画業界でも昔からよく使う手だと聞く。ロケに入ると、監督はまずターゲットを決める。そのひとりを叱ることで現場の空気を引き締める。大物の忠告しにくい俳優には、このターゲットに叱り飛ばす言葉を間接的に聞かせるのだそうだ。いい映画を作るためには欠かせないやり方なのだろう。
つまり、集団が成り立つためには、最低限ひとりのターゲットを作らなければならず、そのひとりになることを巧妙に避け続けて、ターゲットが酷い目にあっても見て見ぬふりを続けて、または「しごき」に加担し続けて、生き残った者だけが、上に行く、と言うわけである。人格者であるわけがない。
冒頭の文で言うならば、「礼儀正しいふりをするのがうまかった悪童」のままのやつらが、最終的に集団の上に立つのだ。
 
あなたは違うと言うだろう。実力があれば、そんなものは乗り越えられると。
確かに、実力で「しごいた」やつらをやり込め、仕事そのもの、成績で相手を見返した者たちは大勢いる。しかし彼らは、成長し、成功し、有名になったら必ず別の世界へ行く。しきたり、格よりも、利の多い世界を選ぶのだ。
もしも彼らが元の世界に残って、更に上に行きたくても、周りが許さない。
なにせ標的にされたのにそれをものともせず実力でのし上ったということは、明らかに元の世界の上のものたちより「つわもの」なのだ。恐ろしい。どうして仲間になど入れてやろうか?
 
私は断言する。集団の上にいるやつらはみなクソだ。
やくざより仁義を欠いた、酷い、殺人事件の主犯となったからと言って、今さら何を驚く必要があろう?
(なんだか共犯とか言われてるみたいなんだけど、どうみてもお前が主犯だろう、腹立たしい限りである)
ただし、唯一例外がある。
そのような集団の世界にうんざりして、理想を掲げて自ら集団を作り上げたもの。一から築いたものが上に立った場合だ。
唯一救いのある可能性は、ここしかない。
 
 
 
                                                     ~時太山さんのご冥福を心よりお祈りいたします~
 

最後の審判と人間社会での裁き

 
『パンが見つからない』 (2007年05月19日)
 
かつてマリー・アントワネットが言った。
「パンがないならケーキを食べたら?」
悪名高い彼女なら、いかにも言いそうに思える。
世の中には、パンさえ持っていない人が大勢いるというのに、どうしてケーキを食べられようか?
激怒する。なんと言うことだと。しかし、誰が言おうと問題ではない。自分の幸福に気付かず、安易にこういう発言をする人はどの時代にもいて、また、そういう激怒する対象を求めて誰かが言ったことをそのためだけに解釈を変えてしまう人もどの時代にもいる。
彼らは変わりがなく。
お互い、自分の幸福に気付かず、自分の不幸に目を瞑り。公然と。罪の原因は相手にあると。パンを持たぬ相手が悪いと。それを言う相手が悪いと。叫べるならば。豆腐で作ったケーキだって食べてしまう。自分のパンさえ投げてしまう。
 
私はパンを作りたいのだ。
そうして誰かと分け合いたいのだ。
今日もパンの種を探してうろついている。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
カミュの『転落』を読んだ。
彼の説によると、すべての人間はひとり残らず有罪なのだそうだ。
キリストさえしかり。
彼自身自分が完全に無罪ではないことを知っていた。だからおとなしく十字架に架けられた。『彼の親たちが彼を安全な場所に移しているちょうどそのときに惨殺されたユダヤの幼児たち、この幼児たちが死んだのが彼のせいでないとしたならば、一体誰のせいだというのか?』(原文より)
人は誰の無罪も請け合えず、しかし万人の有罪を確実に断言できる。
日々、自分以外の者の罪を証言しているのだ。しなければ、自分が有罪として裁かれる。
最後の審判など待つ必要もない。
人は人によって最も残酷な判決さえも下されるだろう、この世で、生きている間にだ。
 
読んでいたら、途中から凄まじい気迫を感じて恐ろしくなった。
私はよく人から裁かれるが、それで諦めたり、自分を責めたりする前に、もっと積極的に他人を裁き返す癖を身につけたほうがいいのかもしれない。
それは間違っている、と、以前のようには否定できない自分がいる。
人生は過酷だ。殺さなければ、自分が殺される。裁かなければ、自分が裁かれる。
カミュの言うことは、たぶん正しい。
 
しかし、人間社会での判決を「最後」と呼ばないように。
この世界で裁かれた人間が死の間際に、またはもし「それ」が訪れた際に同様に裁かれるとは誰が断言できるだろう?
なぜ、カミュはそのことに触れないのか。
 
彼は答えを知っているのだ。
秋は読書が進む。
 
 
 
 

ああ、曼珠沙華

 
彼岸花、別名曼珠沙華を撮りました。
赤に白に黄色、色とりどりでまことに美しい。
 
 
             
 
 
で、ふと家に帰って、そう言えば大昔、この華の歌を誰かが歌っていた、と言うことを思い出しました。
確か、引退した山口百恵でした。
そう、彼女特有のちょっと陰のある雰囲気と声で、ライトタッチの情念をしっとりと歌い上げていたように思います。
撮ってきた美しい写真を眺めながら、是非その名曲を聴いてみたくなったので、YouTubeで検索したところ。
ありました! ↓下です!
 
 

       

 

懐かしいなぁ~とわくわく胸をときめかせながら聴きはじめたのですが・・曲が進むにつれ・・・

無言になりました。

 
え? こんな曲だったか??
どうも記憶の中で美化されていたようです。
こぶしを利かせて歌う百恵ちゃんは、どうみても、一年後大麻取締法違反で捕まる頃の内藤やす子か研ナオコにしか見えません。
「弟よ」だの「あばよ」だの、あの本格的歌謡ロックと謳いながら、どう聞いても演歌の世界の楽曲なのでした。
 
百恵ちゃん・・・
私の中では百恵ちゃんは完璧です。幼少の時分に人気絶頂にありながら引退したと言う伝説がそうさせているのだとは思いますが、しかしこれはちょっとひどすぎるのではないでしょうか。美しい曼珠沙華の写真も、美しく撮れたと思っていたこと自体が大きなカンチガイだったような、色褪せたものに見えてきます。
 
 
しつこいけどもう一度、曼珠沙華登場。↓
 
 
     
 
 
 
しかし、よけいなお世話ですが百恵ちゃんの名誉のために言っておくと、この曲がたまたま彼女に合わなかっただけだと思うのです。
引退間際の貴重?な映像を発見したので、是非ご覧くださいませ。
ロックンロール・ウィドゥを大胆に歌い上げる百恵ちゃんは、これぞ本格ロック歌謡といった趣きです。
美しい。(曼珠沙華より)
 
 

       

 

会社と言う刑務所の義務、または飲み会と言う強制労働について

 
『鳥かご通信』 (2007年05月19日)
 
鳥は大空を羽ばたくから鳥なのであって、鳥かごに閉じ込められている飼われた鳥は鳥と呼べるだろうか。
ふと疑問を抱いたら、どうしても訊きたくなって、1年前に死んだペットのぴーちゃんにインタビューしに出かけた。
「あなたは鳥ですか?」
 
「ぴっぴ」(そうです)
 
「鳥かごに閉じ込められていて、私たちと一緒にいて、幸せでしたか?」
 
「ぴっぴ」(もちろん)
 
「他の鳥がうらやましいと思ったことは?」
 
「ぴっぴ」(ありません)
 
「なぜ?」
 
「ぴっぴ」(他のたくさんの鳥たちが外に存在していて、大空を羽ばたいている、それを思うだけで私は幸せでした)
 
「ははぁ、鳥類愛ですか?」
 
「ぴっぴ」(いえ、私がそこにいる必要は特になかったというだけです)
 
 
☆☆☆☆☆☆                        
 
 
 
『会社』の飲み会が嫌いだ。
別に私がいてもいなくても、飲む人は飲むし、盛り上がる人は盛り上がる。
私はそもそもお酒が飲めないし、自ら盛り上がるのも苦手だ。なので、周りが盛り上がるよう最善を尽くすほうにいつでもまわるのだった。
または盛り上がる人の笑い屋に徹する。
この笑い屋や気遣いが、かなり疲れる。家に帰るころには、頭がガンガンし、顔の筋肉は痙攣をおこす始末だ。
そんなに無理をしなくても・・・盛り上がらないときは盛り上がらなくてもいいんじゃ・・
と言う人は、ならどうだろう。
盛り上がっている、または盛り上がらない席で、ひとりぽつりと仏頂面(または楽しくなさそうな顔)をしている人がいるのを見つけたら。いい気分だろうか?
盛り上がった雰囲気は水をさされ、盛り上がっていなければますます盛り上がらなくなること請け合いである。
またそれを同僚に見つけられた仏頂面の張本人だって、「私が楽しくないんだから正直にそうしたのよ」とは開き直れない筈だ。翌日、同僚たちに「協調性がない」だの「私たちなんかとは楽しく飲めないのよ」などと、評価を受け、それなりの裁きを受けるに違いないのだ。
その席に参加したからには、いやが上にも盛り上がり、それが無理なら笑い屋を演じる義務がある。
なので、私は自主的に盛り上がれそうもない席は、遠慮するようにしている。
出席を問われたときは行くと答え、当日急に体調を崩したことにして会社を休むのだ。(最初から断るより角が立たない、この方法が一番差しさわりがないことに気付いてからはそうしている)
あまり頻繁に社内の飲み会を催されると、当日休みが増えてしまうので、本当に好い加減やめてほしい。
仲のいい人たちだけが飲みに行けばいいのだ。どうして、会社の(部署)全員が参加しなければならず、全員が同じように楽しむことを強要するのか。
私は私がその場にいなくても、みんなが楽しく過ごしているならば、それで幸せなのだ。
それでももし、集団の一員としての私がいなくてはならないというならば、どうか。
皆と同じように盛り上がれない、協調性のない私を、赦してくれ。
 
 
 
  

ビジネスとしての刑務所

 
『十字架を背負うと言うサービス』 (2007年05月13日深夜)
 
初の民間刑務所が開庁式 法相「質の高い矯正教育」
 
国内で初めて、建設と管理運営の一部を民間に委託した刑務所「美祢社会復帰促進センター」の開庁式が13日、山口県美祢市であった。名古屋刑務所で起きた刑務官による受刑者への暴行事件で失われた刑務所への国民の信頼回復と、新たな刑務所設置による経費の節減を狙ったもので、民間の資金や技術、経営能力を活用した「PFI方式」を採用。コンクリートの塀に囲まれた閉鎖的なイメージを一新し、ハイテク機器の活用によりスマートな監視体制を敷いている。
 式には約300人が出席。長勢甚遠法相は「民間の創意工夫を生かした質の高い矯正教育などで、安全な社会の実現に向け、期待と信頼に応えることを願っている」と述べた。
同センターは、国が約28ヘクタールの用地を確保。大手警備会社などで構成された民間企業グループ「社会復帰サポート美祢」が建設し、管理運営の一部を平成36年度までの18年間担当する。民間委託額は総額517億円で、これまでの方法に比べ約48億円節減できたという。
初犯の男女各500人を収容。コンクリートの外塀や鉄格子はなく、強化ガラスの窓は10センチ程度開くなど開放的なつくりになっている。受刑者の上着にICタグを付けて居場所を監視するほか、居室に出入りするたびに指静脈画像による本人確認を行うなどハイテクを駆使している。
職員は法務省の刑務官が約120人、民間職員がパートを含め140人。受刑者を取り押さえるなど公権力の行使は刑務官が行い、民間職員は警備、監視業務や職業訓練、食事など担当する。
引用:http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/51650/
 
刑務所とは何のためにあるのだろう?
罪人は、刑務所に入って、罪を償えば良かった。
社会復帰とか、その後の難しい問題もあっただろうが、『罪を犯す→罪を償う』と言うその図式は、刑期を全うすればそこで一旦区切りがついた。単純なものだった筈だ。
しかし、刑務所が民間になったとき、それは明らかに変わる。
目的は罪を償うことだけではなくて、彼らが民間サービスの一環として、商品となることが含まれたのだ。
そうだ、民間に委託して、成り立つからには、刑務所はビジネスとして十分通用するのだ。FPI(プライベート・ファイナンス・イニシアチ)と呼ばれる民間の資金などを活用して公共施設を整備する手法とやらは、民間の設計、建設、維持管理のノウハウを活かした経費削減だけではない。それなら民間だって乗り出さない。運営を一手に引き受けれられる、ここが利益を生み出すのだろう。
スマートな監視体制、外塀や鉄格子はなく、開閉可能な強化ガラスの窓など開放的なつくり。囚人にそれだけのサービスを提供するには、彼らが金になるからだ。
労働力だけではないだろう。
この刑務所の運営に乗り出した美称株式会社のHPを見ると、彼らは融資団や数々のスポンサー、そうして省庁と繋がっていることがわかる。
太いそのパイプラインは、刑期中の囚人と彼らの社会復帰(復帰させること自体とさせた後の人材活用)によって、確実に美称株式会社に利益を生み落とすのだ。
囚人はもはやビジネスのひとつの駒になった。
罪を償うことさえ、大きな利益の流れの渦に組み込まれたのだ。与えられた心地よさとサービスと引き換えに。
この刑務所に行きたい、と願う囚人がいたら、私は頭を疑う。
魂を売り渡すことは、罪を償うことから最も遠ざかっている。
刑務所の意味はない。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
ずいぶん以前のニュースだが。
自分が書いたものながら・・・ 読み返すと我ながら手厳しいと思う。
初犯とか量刑の軽いもののために作られた、社会復帰促進センターと言う位置づけなのだろう。
まぁ、どちらにしても、やっぱり刑務所ではないわな・・
特にコメントなしです。(失礼しました)
 
 
 
 

可能性のツケを取る

 
『母の笑顔 ~幸せを象るもの~』 (2007年05月12日深夜)
 
一年ほど前、母が倒れた。
くも膜下出血だった。
遡ること20年前、祖母が同じ病で倒れた。
2週間ほど寝込んだ後、そのまま意識を戻さぬまま、祖母は帰らぬ人となった。
母が倒れたとき、まず思い出したのはそのことだ。すぐに手術も出来ぬほど重態だと聞いて、思わず母の死を確信した。
瞬間、脳裏を過ぎったのは現実的な未来だった。姉は結婚しており、私には伴侶がいない。父と母、ふたりの老人の死に水を取るのは私の役目だと思っていた。もしもどちらかが寝たきりになったら、もしもどちらかが痴呆になったら、もしもそれが両方同時に起こったら。肉体的にも金銭的にも私にできるのだろうか。絶えず、不安はあったのだ。
しかし、母があっさりと死を迎えようとしていた。
これは母が私に与えてくれた幸運ではないか。
ふとそう思ったとき、父がつぶやいた。
「母さんはぽっくり死にたい、寝たきりになって誰かに迷惑かけたくないと言っていたから。もう目を覚まさないかもしれないな・・」
私は明らかに動転していた。
そんなとき、人はもっとも残虐になる。
その現実的な判断が、冷静な思考から生まれたものではないことを忘れていた。
母の病、その死へのカウントダウンが日常的なものになってきたとき、私は初めて未来を描き始めた。
老後の母の面倒を見ることが出来ないかもしれないこと、そうしてもう二度と母は目を覚まさず、そうなったらもう二度と母の笑顔を見ることが出来ないこと。
そのことがつらかった。
私は毎晩願った。
「神様、もう一度、母の笑顔を私にお与えください」
それは感傷かもしれない。夢かもしれない。
現実的ではないかもしれなく、現実的に見たら、今ここで母の死を受け入れていたほうが遥かに幸運と呼べるのかもしれない。
ただの快楽かもしれない。欲望かもしれない。
しかし、私はそれを望んだ。
もう一度母の笑顔を見たかった。
私の強い想いは天に通じた。
心優しき神は、私の願いを受け入れてくれた。
1ヶ月と半を過ぎたときに、母は目を覚ました。
そうして、朦朧とした意識で、歪んだ顔をふと向けて、私に幽かに笑いかけたのだった。
奇跡だった。
死ぬと断言さえした医者はばつが悪そうだ。禍事を避けていた親戚は慌てて戻ってくる。私と姉は泣いた。義兄も姪たちと一緒に。母の笑顔は太陽のように眩かった。
幸せを象るものは、いつでもそんなところからやってくる。
現実的な思考とは程遠い、いつでもその狭間から。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
 
あのころを思い返すと、私たち家族が宇宙の真ん中でぽつりと孤立させられたような、そんな感じだ。
すべてのそれまでの人々との付き合い、関係性、華やかな事件は、母が繋ぎ合わせていたものだった。
いい年をした私はといえば、丁度その時分、それまでの自己の世界を放棄し、または見捨てられていた。
家族は漂っていた。寒く、暗い地に置き去りにされて。不安だけを道連れにしていた。
 
もし、母が目を覚まさず、その事実を乗り越えていたら、今頃どうなっていただろう。
乗り越えられると言う仮定だが、つらい経験は時とともに癒え、これで良かった、と思えていたかもしれない。
 
しかし、私は不安と言うものがそう嫌いではない、と言うことに最近気がついた。
不安、その不確かなもの、安定しないもの、気がかりなもの、それらには無限の可能性がある。
変な言い分だが、はっきりしていない分、どの要素にもどちらの方向にも転ぶように思われてくる。
この母の事件は、それを証明してくれた。不安はどちらにでも転ぶものであること、それと同時に新たな不安の芽を私に与えたわけだが、それでも私は可能性を失わずに済んだのだった。
私は自主的に自らを不安に晒す。
私の人生がいつまでも限定されないのは、常に可能性に満ちているのは、今まで無意識にそうしていたからかもしれない。
 
あと何十年、何年、母の笑顔を見ることが出来るだろうか。
それを見たいという私の欲望を満たすためなばら、私は悪い可能性のツケをも取ろう。
腹を括る。もしそれが訪れても、決して悔いず。
 
 
                            
 
 

ただいま巡回走行中

 
『ミニクーパーで、走る。』 (2007年05月12日)
 
ローバーのミニクーパーを買った。
念願の車を手に入れた。
神話に出てくる英雄が、神殿とトイレを行き来するために作られた仕様だ。
偉大な車は目が飛び出すほど高かった。
40年のローンを組んでも惜しくない。意気揚々とドライブに出かけ、そうして、誰かの私道に迷い込んだ。
長さ約300メートル、幅約3メートル、中途半端な住宅地の狭間を行ったり来たり繰り返す。出口はない。どこにも行かない。
私道は幹線道路でもないくせに威張っていた。所有者はやはり神話に出てくる英雄だそうだ。迷惑だから出て行け、と再三言うが出口が見つからないから仕方ない。ぐるぐるぐるぐる走るだけだ。
絶望を通り越したら、楽しくなった。
ふと気付けば、ミニは可愛らしく、美しくさえもあり、元気で、ガソリンは切れなかった。
鼻歌交じりにぐるぐるぐるぐる走り続ける。
ぐるぐるぐるぐる。
ぐるぐるぐるぐる。
ただ走った。
そのうちに話題を呼んだ。好奇の目が集まった。
ミニクーパーがただ走り続ける私道は、面白かったようだ。
いつしか幹線道路よりも有名になってしまう。 
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
 
 
 

jeansバンザイ

 
『Levi’s 502』 (2007年05月10日)
 
もとはデットストックを安く譲り受けた。
60年代のものだと思う。
太目のシルエット、ジッパーフライ(TALON42ジッパー)、赤タブビッグEにもちろん赤耳。
27インチの『LEVIS 502』だ。
 
体重計に乗ったことはない。一年に一度の健康診断を抜かして、もう何十年にもなる。
体重は気にしだすと切りがない。0.5キロの差に脅える。食べることに過度に敏感になり、おかげでますます食欲が増え、太ってしまう。または食べなくても吸収が良くなる。結果は同じだ。
しかし、気にかけなければ、不思議と変わらないものだ。
食欲を管理したければ、制限するより、気にしないことを勧める。
それが一番の抑制方法だと思う。
そんな私でも、体重が気になるときがある。
たいていは、仕事や遊びが過ぎたとき、忙しさにかまけて自己管理を怠ったり、不摂生が祟ったりして、体に異変を来たす時だ。
どうも調子が悪い。なぜか。
私の体に、何が起こっているのか、それを教えてくれるのは、体重計代わりのお気に入りの一本、前述の『LEVIS 502』である。
このジーンズがきつく感じるときは、ベスト体重を上回っている、危険信号だ。意識的に食欲を節制し、食生活を気にかけなければ、体調は治らない。
夏バテの時は、ゆるく感じられる。ウエストに腕が一本入るくらいならば相当やばい。冷房を控え、養生し、精のつくものを食べなければ。
またはウエストがきつく、他はゆるいときもある。反対に腰はゆるく、尻または腿あたりだけがきつく感じられるときも。
体の痛んでいる箇所が、穿き心地でわかる。
私の体をもとに、私の生活を管理してくれる優れものだ。
この『LEVIS 502』が美しく、自然に、穿けていればそれでいい。
私の愛しき看守である。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆☆
 
 
 
会社に行くにはそれなりの格好をしなくてはいけないと重々承知なのだが、うちの会社はジーンズが禁止ではない。
なので、どうしても履きなれたジーンズをはいてしまう。
最近のお気に入りは¥3900で買ったスキニーのブルージーンズだ。腿のあたりが切れていて、動くと足が見えてしまう。
通勤風景で、私だけが遊びに行くような格好をしていると思えるときもあるが。
看守は仕事中も私の体を管理してくれるのだった。
 
 
 
 
 

日本よ、どこへ向かう?

 
安倍首相の陳謝の会見と、自民党福田新総裁の党役員人事のニュースを見た。
党の人事について、古い自民党の体質が戻るのではないか、と批判するような声も上がっているようだが、意外だ。
それを国民も野党も自民党も各省庁も、国そのものが望んでいたのではないかと思われてしまうからだ。
たしかに小泉さんの(構造)改革はそれなりの結果を出した。政府の公共サービスの民営化に国から地方への経済(地域活性化)、そうして「聖域なき構造改革」と謳った特殊法人や特別会計の改革。天下り、癒着などの問題に切り込み、派閥からの解放も勧めた。古い体質から脱却した、国の新しい方向性を示して、描いて見せた。しかし、改革には反動が伴うものだ。安倍さんに取って代わったとき、その反動が一気に押し寄せたのだ。
安倍さんの会見は痛々しくて見ているのがつらくなった。彼はある意味で小泉構造改革の犠牲者だ。
それに比べ、うまく切り上げ、今回の件では安倍さんと比べられて株まで上げた小泉さんの手腕は見事だ。
 
小泉さんが革命を支配していたときは、国(民)は変革が耀かしく見えたものだ。「どこへ向うのだろう?」と。今までの悪い、古い、体質を打ち破り、新たな国を見せてくれるかもしれないとワクワクさせられた。
しかし、安倍内閣になって新しく見せ付けられた「美しい日本」の姿はワクワクする夢の出現とは程遠い現実的なものだった。蓋をし、隠し続けていた問題はここぞとばかりに一気に露呈し、叩かれて問題は悪化し続け、国民は不安に晒された。
「どこへ向うのだろう?」と言う輝かしい期待は、「どこへ向ってんだよ!」と言う激しい突っ込みに変わらざるを得なかった。
構造改革の反動が安倍さん個人に転化されたとき、すべてが彼を打ち負かせてしまったのも致し方ないとさえ思えてしまう。彼には手腕が足りなかった。
しかし、そうなった後で、古い体質が復活するなどと批判するならば。
安倍さんが小泉さんのようにワクワクさせられなかったからといって、あれだけ叩いたのはどこのどいつなのだろうか。
今この混乱した日本には、福田さんのような安定した存在が必要だ。だけど、続きが見たかった。改革をし続けて、この国がどのへ向かうのか、見届けたかったような気がしてならない。もはや、時は遅い。
福田新総裁に期待するしかないだろう。
 
 
  
 

記憶を憧憬しながら今の姿を見たい人

 
『夜に浮かぶ陽炎を探して ~私と煙草の物語~』 (2007年05月07日)
 
隣町へ向かう途中に広いとうもろこし畑があり、その先には深い森があった。
昼間でも人通りはほとんどなく、まるで山奥のように静まり返っている。
同級生のマツオが言った。
「夜中になると、光るんだって」
森の中から蜃気楼のようにゆらゆらと、光が現れ、暫くすると観覧車や回転木馬が闇に映し出される。きらきらと輝くのだ。
まるで、森林にそびえ立つ遊園地、光り輝くそれは、それは、美しい光景だと言う。
ノンちゃんやヒロミは笑い出した。
ガキ大将の彼がまたほらを吹いている。平凡な田舎町にそんな不思議なことが起こるはずもなく、そんな美しい光景が見られるはずもなかった。
ならば見に行こうか、と言う話になる。
線路を越えて、少し歩けばいいだけだ。
幸いもうすぐ夏休みだった。
その計画はいかにも面白そうだった。
 
煙草を初めて吸ったのは19歳の時だ。
本格的に吸い始めたのは20歳だった。きっかけはたわいもない、就職先の友達がみな吸っていたのだった。
学校にいた頃だって、吸っている友達はいた。喫茶店や部屋に行って彼女たちは煙草を吸い、「コレ吸うと痩せるんだよ」と私に勧めた。
その頃私は部活動をやめて太り始めた体型を気にしていたので、その誘いに惹かれないでもなかったが、彼女たちと一緒に吸うことはなかった。
そちら側には行きたくなかった。
煙草を吸うということは、「一線を越えること」であり、田舎の女学生だった私にとって、そのこちら側とあちら側の隔たりはとても大きく感じられた。私は超えたくなかった。
みなが楽しそうに煙草をくゆらすあいだ、いつもつまらなそうにコーラやピクニックを飲んでいた。
しかし、就職先の仲間は違った。
年の若い私は、社員の先輩たちよりも、アルバイトの大学生や短大生と仲良くしていた。
彼女ら(彼ら)はもちろん不良ではない。職場に近い都会に住んでいて、ある程度の品のいい家庭に育ち、優秀な学校へと通っていた。
それは田舎から通う私にとって、眩い存在だった。
きっと煙草がファッションとして成立する時代だったのだろう、彼女らは煙草を楽しんでいた。まるで彼女らの人生と同じように。笑いながら。
それは、スタイルのひとつだったのだろうと思う。
私はまるで処女や童貞であることを恥じるかのように、彼女たちに対して、こちら側にいる自分に対して、負い目を感じた。
一線を越えたかった。
その先には、私の知らない、輝かしい世界があり、私は切実にそこへ行きたかった。
私が煙草の美味しさに気付き、愛し始めた頃、彼女らは卒業をして去っていった。
ひらひらと笑いながら、たくさんの思い出を残して。
たぶん彼女たちはそうして大人になって、相変わらず軽やかに笑いながら、煙草を吸ったのと同じ理由で、恋を楽しみ、結婚をし、今を過ごしていることだろう。相変わらず輝きながら。
そうであって欲しいという希望だけかもしれないが。
もちろん煙草は、今は吸っていないだろう。
私だけが取り残されたのだった。
 
友達たちは、夜の森が輝き始める前に帰ってしまった。
十分楽しんだ。夏休みの遊びは終わる時刻だった。
取り残された私は呆然とたたずんで、まるで意地になって、夜道に座り込み、ひとり呟くのだ。
「もう少しだけ待っていれば、きっと見れたのに・・」
きっと輝き始める。
立ち上がって、踵を返して森へと向かうのだ。 
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
煙草を吸うのがお洒落で粋な時代だった。
現在は吸わないほうが健康でスマートな時代である。
だからと言って、では吸わない人々に憧憬を抱き、吸わないと言うスタイルに共感を覚えるわけでもない。
若かったのだ。自分が一番耀いていた時代に憧憬を抱いた事柄、もの、人々と言うものはそうそう代えられない。そのころの想いや感じたことと言うものはその後の人生やその後の生き方を左右してしまうだけのインパクトがある。
たとえばそのころ憧憬を抱いた人々、漫画家で言ってみると萩尾望都やくらもちふさこや木原敏江が今どんなにおばあさんになっていて、くだらないデッサンの狂った漫画を描いていようと、私は幻滅しないだろう。彼女らの漫画と言うだけで、きっと頭が上がらないようなひれ伏すような気持ちに陥るはずだ。
私の人生に影響を与えた彼女たちを幻滅する、と言うことは私の生きてきた人生そのものに幻滅すると言うことだ。そんな馬鹿はしない。たとえメタくそにけなしたい新作を出そうが関係ない。私は当時の記憶、若かった私の時代そのものに今度は憧憬を抱き、自慰行為をするように、彼女らの作品をいとおしんで読むに違いないのだ。
そういう意味で、どんなに落ちぶれても決して幻滅せず、時代に憧憬しながら現在を見てみたいスターが何人もいる。
いつか海外に行って、場末の落ちぶれたbarでキース・リチャードとスティーブン・タイラーがギターをかき鳴らし、歌う姿を見てみたい。彼らは決して落ちぶれないかもしれないが、落ちぶれた姿と言うのがまた当時の耀かしさを盛り上げる要素になるのだ。(なので私の想像上の未来の彼らはいつも落ちぶれている)
ロックスターで言うと3大「時代と記憶の自慰行為的ライブ鑑賞」を希望する人たちだが、最後のひとりはもう死んだ。
言わずともがな、ジョン・レノンである。
やつは落ちぶれた姿どころか現在さえも見せてくれなかった。彼自身の耀いた記憶のまま死んでしまった。
生きているときだけでなく、死んでからも。
ファンに対してわがままなのだった。