不可能を可能にする力。 ~人類からの懺悔、「アバター」を観て~

 
 
 
 

 
 
 
 アバターを見てから数時間、私の頭の中はジェームズキャメロンのことでいっぱいだ。
 いったい何者だ。彼が作った映画といえば「タイタニック」しか思い浮かばない。あの、退屈して途中2回もトイレに立った、ハーレクイン・ロマンスみたいな映画の監督ではないか。なぜ突然こんな映画を作った?彼の経歴は?どんな人生を歩んできたのか。
 
 
 「アバター」の世界を実体化することはジェームズキャメロン監督の少年のころからの夢だったと言う。
 ありとあらゆるSF小説を読み漁り、夢想していた少年は、14歳の時、キューブリックの「2001年宇宙の旅」を見て、実現方法を映画と定めた。
 映画は夢の世界だ。ありきたりな意味で言えば、見る者に夢を与える… 空想の世界を2時間のおとぎ話として体験させる… 夢想の世界を実体化する。どうも少し違う。
 不可能を可能にする。といえば、少し近いかもしれない。私が言いたいのは映画の中だけの夢の世界観ではなくて、映画という現実的な媒体に自身の夢を再生させるところがすごいと、そこに人類としての夢を、人間の無限の可能性を感じさせられるということだ。
 だから、今まで見た中で私が最も嫌っている映画は「セブン」である。あれを映画にする必要がどこにあるのか。すでに現実に溢れていることを映画という実体にして、そこに創り手としての夢はあるのか。人類としての夢は?可能性や未来はあるのか。さっぱり理解できないからだ。
 話が飛んだが、ほんの数時間前「アバター」を見てきたのである。私は予告編や特番でこの映画を目にして、どちらかと言えば見たい映画だとは思えなかった。
 まずキャラクターに魅力がないではないか。あの青い先住民、ナヴィにまったく親近感を覚えられない。アバターと言うと、思い出すのは私の代わりとして仮想世界を生きてくれるキャラクターだ。私の分身である。あんなのは嫌だ。私は年老いた私自身を忘れさせてくれるほど、若くて、愛らしく、お洒落で、性格も私の嫌なところを忘れさせてくるような、溌剌として人好きのいい、欲を言えば頭が良くて、人格者であるといい。そんなふうに思っていたのだ。
 自分に欠けたところを与えてくれるもの。不可能を可能にしてくれるもの。
 映画の主人公ジェイクもそうだった。彼は初めて自分のアバターであるナヴィと意識をリンクしたとき、(このあたりのシンクロニティを見て思わずエヴァンゲリオンを思い出したのは私だけか…)まず足の指を動かすのだ。現実の彼は足が不自由だった。彼は嬉しさのあまり思わず立ち上がり、少年のように駆け出していく。
 アバターによって自分を「取り戻し」、次にナビィとなることを心待ちにして眠ってから、私は次第に彼の夢を好きになりはじめた。青いナビィが好ましく、近しきものに思えてきたのだ。
 私はナビィになって、パンドラで冒険を始めた。バンジーと呼ばれる鳥(肉食飛行動物)に乗って、広大な森の中を駆け巡る。発光する魂の木の下で眠る。ナヴィの棲家として大きな木が出て来る。不思議な力が宿っているというホームツリーだ。地下には人類がのどから手が出るほど欲しがる高価な鉱石が眠っている。「われわれ」人類はその地下資源を採掘したいがために精霊の樹木をこっぱ微塵に吹き飛ばす。「私」の家を情け容赦なく奪うのだった。
 この映画のことを3Dの話題性だけで評価したり、ありきたりな勧善懲悪もの、と結論付ける方も多いようだが、それは疑問である。
 先住民ナヴィは神や自然、あらゆるものと調和して生き、彼らと繋がるものとして描かれている。神や自然の守護者(または神や自然そのものの象徴)だ。そして私が知る限り、人類と自然との闘いを映画いたハリウッドの映画で、人類の叡智は常に神宿る自然(自然災害)を打ち負かし、それらに敗れたという物語は存在しなかった。「それ」を描いたのは宮崎駿くらいではないか?
 私は何度も風の谷のナウシカやもののけ姫を思い出していた。外国の方なら、別の視点で、「2001年宇宙の旅」や「スターウォーズ」を思い出していたのかもしれない。それから、なぜか「ベンハー」を思いだしている。あの最後の競技場でのシーンを撮影するのに、本当に人が死んだという逸話を…
 この映画を実現化するにはあらゆる障害があったはずだ。商業的な成功を含めて製作サイドの思惑や、テクノロジーの進歩、ひとりの人間の夢想を現代の娯楽作品として蘇らせるために欠かせない歴史の蓄積。今までのすべての映画人が、成しとげてきたこと、成しとげようとしてきたこと。私は決して、ジェームズキャメロンが一人でこの映画を作ったとは思えない。これは、すべての夢の集大成ではないかと、歴史の彼らが乗りうつり、キャメロンに創らせたのではないか、そんなふうに思えてくるのだ。
 そんな映画の夢としての進化の極みである「アバター」は、人類がこれまで築き上げてきた世界観を完全に逆行し、人類の進歩を真っ向から否定している。
 そこが面白い。これは、人類の化身キャメロンからの懺悔ではないか。先住民への。神と、自然の意思への。
 私はこの作品がアカデミー賞の監督賞を獲れなかったことなど、そう考えると屁でもないように思う。キリストだって十字架に磔られ、処刑されたのだ。キャメロンがまだ映画界から追放されていないだけ驚きである。
 そんなことよりも、遥かに偉大なことを成し遂げたのではないか。何度も言うが、人類の過ちを認めたのはこの映画が初めてなのだ。そして彼が私たちの代りに磔になってくれた。この実体を創造し、作品としても成功させた功績は計り知れない。奇跡だとさえ思う。
 
 ラストに「エイリアン」である人間は破滅寸前の地球へと引き上げていく。そして、ジェイクはアバターの化身に魂を移して、ナビィとして生まれ変わる。
 その瞬間の、かっと目を開いたと同時のエンドマークが感慨深い。
 不可能は可能になる。「私」と共にあるならば。キャメロンは人類の進歩を否定しても、人類の可能性を決して否定してはしない。その奇跡を、希望として未来に託している。
 私はこの映画のDVDを買って、今後何度も見ようと思う。そして、道を誤りそうになったときには、「われわれ」にも繰り返し見て欲しいと心から願う。
 
 
 
 余談だがこの映画「アバター」は、中国では、突然上映打ち切りにされたそうである。
 さすが懺悔するつもりなど毛頭ない国ではあるだろう、と呆れ果てている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ともだちとヒーローの根源とは? ~『20世紀少年ー最終章ー僕らの旗』を見て~

 
 
 
 

 
 
 
 子供の頃、とりわけて小学校の3年生位から卒業するまでの夏休みに、あなたが毎日のように遊んだ友達を覚えていますか?
 そんな友達はいなかった?
 まぁ、そういう方もいるだろう。私の場合はのーちゃんだ。
 20世紀少年ー最終章ーを今日見終えて、ふと思い出した。
 本当はふとではなくて、彼女のことはずいぶんと回想され、この日記にもたびたび登場している。
 文章を書くようになるまでは、私もあなたと同じように、すっかり忘れていたか、もしくはただの楽しく懐かしい思い出でしかなかった友達だ。しかし、掘り下げてみると、なんとまぁ私の人格形成に多大なる影響を及ぼしていたことか。
 当時私はその事実にかなり驚かされたものだった。
 幼い頃、特に小学校高学年の時期に影響を受ける対象は異性ではありえない。これは私の勝手な持論かもしれないが、ヒーローは同性に限られる。
 あの頃もし私が、今のように深く意識をして、彼女との付き合い方を改めていたら、今とは違う未来があったはずだ。今のように自分を苦しめることも、他人を苦しめてしまうことも、ずいぶんと軽減されていたと思う。
 と、まぁ、その可能性があっただけ幸せではあるのだ。
 20世紀少年、この映画の主人公にはその可能性さえあったかどうか疑わしい。たぶん、なかっただろう。
 変えられたのは、ヒーローだけだ。
 彼はそのヒーローケンヂに「助けてくれ」と言い残して死んでいくのだった。
 
 
 
 
 写真を撮ることに疲れている。そんな時期は心を養うといいと言う意見もあり、美術館に行こうかと考えた。ところが、テレビの特番を見てしまった。『20世紀少年ー最終章ー僕らの旗』 が公開されると華々しく宣伝をしている。映画でも心はもちろん養えるだろうと、近場の映画館に急きょ向かった。
 安易なところで手を打ったわけだが、これがけっこう安易ではない作品だった。
 漫画における審美眼(もちろん自己流)が確立されている私にとって、たとえ数少ない作品しか見ていなくても浦沢直樹は神レベルである。が、20世紀少年、及び21世紀少年の原作は読んでいない。映画の内容が神・浦沢が意図したものなのか、堤監督による自己流の演出なのか、理解できなかった。そこで混乱をした。自宅に帰って、原作と映画との差を調べて、映画の原作(脚本)にも彼が携わっていたことを知って、やっと納得をする。
 彼が言いたかったことならば、たとえつまらなく感じても、安易な結末に思えても、そこには必ず深淵がある。
 それを読み取れないならば、私のほうが浅はかな大馬鹿野郎なのだ。
 私は深淵を見つけようと四苦八苦するが、とりあえず今のところ大馬鹿野郎らしくて、うまい考えがまとまらない。
 そこで見たまま感じたままをぼちぼち書いていこう。
 あ、ネタばれがあるので、観ていない方でこれから観る予定のある方は絶対に読まないでください!!
 
 
 まず、これは日本人だからなのか、年齢のおかげで時代の背景とその匂いが感じ取れるからなのか、とてもわかりやすく感情移入しやすかった、と言うことだ。表面的に、これは勧善懲悪ものの作品だ。ヒーローがいて、悪がいて、地球滅亡の危機が訪れる、と言うハリウッド映画でここ10年の間に散々、飽きるほど見させられているストーリーなのだが、まったく似て非なる物語だった。
 地球の危機をどう救うか、その一点にすべてがかかったハリウッド映画はもちろん、なぜその危機が訪れたか、には深い説明がない。一応悪役の心理も出てくることは出てくるのだが、やつらはそんなところに重点を置くつもりがさらさらないので時間の関係上かなり割愛されていて、悪役の心理の根源から派生した征服欲、支配欲のみがクローズアップされているようだ。いつも思うのはその欲望が全く理解不可能と言うか、現実味がない。私だって普通に贅沢はしたいわけだが、そこまで世界を征服したくも支配したくもないわけで、いつも「事件の前提の根源」には目をつぶって、ヒーローがどうやって地球を救うのか、だけを注視するよう努めていた。また、この地球危機ものには悪役そのものがはじめからいない場合も多い。竜巻や隕石や洪水など、自然が脅威となって襲ってくる、というパターンだ。そうするとやっぱり根源はわからない。せめて解釈するならば人間社会が今まで地球にしてきたことのツケがまわってきたのだ、という教訓くらいに捉えるしかない。
 ところが日本が世界に向けて発信した(って言っていいのかな?)この20世紀少年はハリウッド版より規模が小さいし世界征服なのに東京だけだしと散々に言われたとしても、あれだけ真似た型をなぞりながら、根源にしか興味がないのだ。なぜその危機が訪れたか。この映画はそこを遡っていく作品で、だからこそラストの10分も真価を問われるのだろう。
 
 ちょっと先走りすぎたと言うか、ぼちぼち書いていないな。
 
 ぼちぼちに戻ると、あと思ったのは、未来都市が最高です。「大人買い」とかあるけれど、究極の大人買いの町を作ってしまった主人公に感動してしまった。と、私はこの映画の主人公は「ともだち」だと思っていてその前提で書いているので念のため。
 日本人は鉄人28号からなのか、それともマジンガーZから?ガンダムからなのか、大型ロボットが大好きだ。アトムの頃から未来都市を想像するのも得意だ。SFに関して、その歴史とレベルはけっして他国に負けてはいない。どうも海外(特にこれもハリウッド)映画のSFを見慣れた私にとって、いつも疑問だったのは、あまりに完璧な未来都市過ぎると言うことで。20世紀少年の悪役は組織ではなくて個人であったせいか、日本人得意のSFにプラス(自分の子供のころの)過去を再現させるあたりが何といっても憎い。だって、未来都市を作る方々は、何を理想に作ると言うのだろうか。(これは本当に未来に建築される方に言っているのではなくて、未来都市を創造する製作者に問うているのだ)やり直したい過去や、どうしても得られないものがあったあの時代、究極を言えば母の母体にまで、人は立ち戻ること、そんなことが未来の活力や夢と化すように思う。征服者が幻想し欲するのは完璧な未来都市ではなくて、「あの時代」でこそ本物で、私が未来を想像するなら、やっぱりこんな町がいいなぁと思ったほどである。
 地球防衛軍もUFOも敷島博士のリモコン型ロボットもいい。昭和の未来都市も最高だ。
 
 ともだちは過去を再現させた舞台でヒーロー待っている。彼が遊んでくれること=救いに来てくれることを待ちわびている。
 ところがこのヒーローのケンヂが唐沢寿明なんだ。
 
 ずいぶんいい役者のように扱われているが、どう見ても大根、そう言っては悪いが、ともだちがそこまで健気に待ちわびた意味があったのかと疑問だった。もう少し存在だけで演技できるような役者さんはいなかったのだろうか。
 それともだからこそ哀しいお話だったのだろうか。主人公ともだちは価値のないものに入れ込んで、自分と多くの人間の人生を狂わせた。そうして、凡人ケンヂはともだちによって、彼が子供のころ行くことができなかった万博の会場で、若き日々に果たすことのできなかった夢を実現する。歌手になりたくて挫折したはずの男が、野外コンサートで大勢の人に喝さいを浴びて歌を歌うのだった。
 本物のヒーローとなって。
「悪役を続けるのは生半可じゃないだろう。正義のヒーローになるほうがよほど簡単だ」
 これはケンヂが万丈目に言うセリフだ。
 全く皮肉と言うか、よくわかっていると言うか。その言葉を信じた万丈目は映画のラストでともだちを殺害する。
「どうだい!これでおれも正義のヒーローになったかい!」
 そう万丈目が叫んだとたんに、倒れたともだちが持っていたリモコンのスイッチが切り替わり、万丈目の上に巨大ロボットが落ちてくる。
 この万丈目さんの扱いはどうかとも思うが、まるで天罰を食らったかのようであった。
 正義を振りかざすと言うことは、いつだって罪をはらんでいる。
 
 
 そうして問題のラストだ。
 私は最初ゲイの堤監督が付け足した場面かと思ったくらいだ。
 それほどエンディングの前とそのあとのラスト10分では毛色が違う。
 甘ったるくて、感傷的で、幼稚でさえある。
 しかし、それが根源なのだ。ケンヂはともだちを救いに過去へと遡る。約束を果たしに行くのだった。
 世界征服の欲望も、地球崩壊の危機も、もとはそんな些細なところから訪れる。
 私たちもその一声で、たった一つの行動で、すべてを変えられるのだ。
 あなたも、私も、今日からだってヒーローとなれるのである。
 
 
 
 
 
 

 

 

 
 

山と人生について ~映画『劔岳 点の記』を観て思う~

 
 
 
 山を登ることは人生に似ていると思う。
 道を探して、苦しみに耐えて、ただ黙々と登り、そうして段々と高みに行き着き、はるか彼方を見渡せる、そんな美しい景色(視界)を手に入れる。
 辿り着く山頂は死だ。
 (やっと着いた山頂が死とは、その比喩はあんまりだ、と思われるかもしれないが、私は人の死を偉大なものだと思っていて、また、まともに往生できることの幸福さも多少は知っているつもりなのだ)
 大抵、ある山を制覇したものは、またそれよりも高い山を目指すものだ。
 なぜかはわからない、苦しみのあとに訪れる達成感が病みつきになったのか、人の手にはままならぬ自然というものを登頂によって征服したように感じられるのか、それともただ自動的に、登ることが当たり前の意志となるのか。とにかく一度山を登った人間は必ずまた登る。
 なので、死んだ人間は、また違う山を目指し、登って、以前よりももっと高い場所から美しい景色を得て、そうしてまた死んでいく。
 生きるということはその繰り返しで、最終的に行き着くのは、もう登らなくていい場所ではないか。つまり、もう登る山がないところだと。
 そんなふうに思えてならないのであった。
 
 
 映画、『劔岳 点の記』を観た。
 昭和40年、日本地図完成のために前人未到の死の山、「劔岳」に挑む男達の物語だ。監督は日本を代表する名カメラマン木村大作氏だけあって、CGと空撮は一切なし、すべての撮影は足場の悪い岩の壁から行った。ロケ隊は重い機材を担いで、立山連峰を登って、そうして自然の天候をただ待って、2年の月日を費やして撮った。
 通常映画の撮影は俳優のスケジュールや天候の都合上、シーンの順番に関係なく撮影し、あとで繋ぎあわせるそうだが、リアリティにこだわった木村氏はこれも拒否。すべてのシーンを最初から順番に撮ったため、まるでドキュメンタリー映画のような出来になったと言う。
 「厳しさの中にしか美しさはない」
 美しい風景は、じっと耐え抜いたものだけに神様が与えてくれるものだ、と言う監督の信念に基づいて、映画は進んでいく。
 美しく、時に厳しい山のなかをただ歩いていく、それだけに拘った映画だといっても過言ではないと思う。
 CGや空撮を見慣れた私たちには物足りなく感じることもあるだろう。それでもあの映像がすべて人間の手によって撮られたもので、本物の自然の姿なのだと思うと、やはり身震いを覚える。山が好きでない方でも、純粋に自然の美しさを堪能できることだろう。それだけでも観る価値はあるのだった。
 ただ、個人的に残念に思えたのは、結末が安易だったことだ。
 深いところに手を突っ込みながら綺麗なところで綺麗にまとめちゃったな、と言うのが正直な感想。(このあとはネタバレなので、これから観る方は読まないでください)
 劇中、観る側にとって興味深い、深い部分に行き着きそうなセリフ(問いかけ)はふたつあった。ひとつめは、
「なぜ地図を作るのか」
 これは、主人公の陸軍陸地測量手、柴崎芳太郎(浅野忠信)が発したもので、彼からすれば、ただ陸軍の沽券(こけん)を守るためにこの劔岳制覇と言う使命を与えられたようなものだった。また、無事劔岳に四角点を立てたとして、地図を作ったとしても、確かにそれは正確な立山連峰の地図となるのだろうが、しかしこんな誰も登れたためしのない山の地図を作っていったいどうするのだ?
 それともうひとつは、陸軍と競って、劔岳制覇を目ろんでいる日本山岳会の小島烏水(仲村トオル)に向けられたもので、(これも柴崎からの問いだ)
「あなたはなぜ山を登るのですか?」
 山岳会の小島は柴崎のように与えられた使命は何もない。ただ自分の「挑戦する」ということの美学に基づいて登っているだけだった。柴崎から見たらそれは遊びにしか見えない。自己満足のように映ってしまうのだった。
 この答えをどう出したか?
 最初の問は、柴崎の前に劔岳山頂を試みて失敗し、今は現役を退いている元陸軍参謀本部陸地測量部測量手の古田(役所広司)が答えを示唆する。
「住んでいる土地を知ることは自分を知ることだ。(略)私たちは国とか軍とか、そういう公的なもののために地図を作っているのではなくて、そこで生活を営んでいる人々のために地図を作るのだ」(正確なセリフではなく大意)
 つまり与えられた使命は地域の人々のためなのだ、というもの。
 次の問は、ラストシーンで答えを知ることが出来る。柴崎たちが劔岳から離れた山で劔岳山頂を視準をしていると、ふいにその望遠鏡の中の山頂に小島たちが現れるのだ。(この出来すぎた偶然にも驚いたが、そのあと小島が手旗信号で長々と、柴崎たちの栄誉を称えるというところも驚いたものだ)
 柴崎たちは自分たちの後を追って劔岳登頂を遂げた小島たちに対してこう言う。(やはり手旗信号で)
「おめでとうございます。君たちは僕たちの仲間だ」
 この僕たちの仲間と言うせりふの「僕たちの」と「仲間だ」との間に、偉大なる、とか、かけがえのない、とか何かもうひとつ言葉が入っていたのだが、残念ながらその一番大事なところを覚えていない。とにかく、そこが一番の、この映画で言いたいことだったことは確かだ。作り手はこのひと言のためにこの映画を作ったのではないか。そう思えるくらいだった。もちろんその前の、軍にも誰にも評価されないがあなたたちは偉大な功績を残した、敬意を払う、と小島が柴崎たちに手旗信号で伝えるところ、そこも大事なのだが、その続きとして、このセリフが来ること、その流れを考えるとやはりここでぐっと来る(来て欲しい)はずなのだった。
 つまり、山を開いた(道を作った)先人たちに対して、道を追って来たものが敬意を払ったこと。そのお返しとして、彼らが仲間と認められたこと。
 小島はこの手旗信号のセリフを聞いてはっとした表情をし、思わず目を濡らすのだった。
 これが彼が山に登ったすべての意味だ。使命でも、挑戦でも、遊びでもなくて、この瞬間を得るために彼は山を登っていたのだろう。
 これらの問と答えは納得が行くものの、地域に根付いたものが劔岳の地図を利用するのかはやはり疑問だし、またこの大自然との戦いの記録が、「仲間」と言うひと言でハッピーエンドになってしまうのも解せない。誰に認められなくても、何をしたかではなく、何を目的にしたかであって、そうして、正しい目的ならば、仲間があなたを褒め称えてくれる。
 そう公言しているような物であって、それは正しいのだろうけど、やはりあれだけリアルに自然を描いておきながらそれが最後の最後の、ラストシーンの主張としてはちょっと弱い気がしてならない。いつか香取慎吾が西遊記で何度も口走っていた「まなか、まなか」と言うあのノリ、あのわかりやすい感動を思い出してしまう。また、エンディングに「仲間たち」と言うエンドロールが出てくるところもそうだ。監督とか、製作とか、出演、協力とか、そう言った表示(と言うかくくり)は一切なく、すべての剱岳の映画に関わった人たちの名前が一緒に並んで出てくる、と言うあたりもその思いを助長させるのだった。まるで、僕たちは仲間だ!偉大な仲間とすべてでこの映画を創ったんだよ!そう観るものに訴えかけてくるように。
 おかげで私はがっかりして映画館を出た。「まなか、まなか」の連発がくどいかったのかもしれない。
 あれだけの根気で創りあげられた、素晴らしく美しい自然の映像を観たと言うのに、おかげでどこかうそ臭く、鼻白んだ思いが残ってしまった。
 
 残念だな、劔岳・・・
 
 そう思って家に帰り、一息ついて、考えてみる。
 でももしも・・
 あの「まなか、まなか」は作り手のテレであって、もしもあの山頂を、登頂を、やはり私のように人生と捉えていたならどうだろう?
 そうだ。先に行くものは、いや神と言い換えてもいいかもしれない。それは人々のためにあり、そうして後を追うものは、彼から仲間と認められるために行くのだ。
 もしもそれが真実ならば。
 私はもらって帰った劔岳のチラシを観て苦笑いをした。美しくも厳しい劔岳の姿がそこにあった。
 あなたは何を感じるだろう?
 いろいろな意味を持って観てみるのも面白くはあるのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

凄まじき、人間賛歌というのれん  ~宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」を見て~

 
 
 
  親方はなつの作ったホオズキを叩き潰した。
 TBSドラマ、「あんどーなつ」のワンシーンだ。
 浅草の和菓子屋「満月堂」で修行中のなつは、余命いくばくもない老人のために、彼が若い頃食べ、今なお食べたがっていると言う満月堂のホオズキ(和菓子)を親方に内緒で作ったのだった。
「お前は自分が何をしたのか、わかっているのか」
 ホオズキは封印された菓子であった。
 親方はなつに、「お前のここでの仕事はこれで終わりだ」と告げる。修行の身のなつが自分が作った菓子を満月堂の箱に入れて客に渡すと言うことは「のれんを汚すことだ」と言うのだった。
「満月堂の和菓子はいつ食べても同じ味でなければいけない、自分がその味を作れるようになったのは、この店の代々受け継がれてきた歴史と伝統のお陰であって、この菓子は自分が作っているのではない、満月堂ののれんが作らせてくれているのだ」と。
 なつはその職人達が受け継いできた満月堂の歴史と、店の信用を踏みにじったのだった。
 
 
 映画、「崖の上のポニョ」を見て来た。
 宮崎駿監督が前作「ハウルの動く城」から4年ぶりに創りあげた新作である。
 ジブリの前作「ゲド戦記」を見て、食あたりを起こした私だ。ジブリののれんを借りたまがい物を食べさせられた私が、今回は本物の「ホオズキ」を食してやろうと意気込んで映画館へ出かけてきた。
 映画館は大盛況だったが、ポニョを上映するミニシアターに入ると驚くほどに中はガラガラ、チケット売り場に行列していた親子連れはほとんどがポケモン目当ての観客達だったらしい。往年の宮崎アニメファンらしき成人男性(もしくは女性)も見受けられない。上映中、館内がわいた様子もない。家に帰ってYahoo!の映画のユーザーレビューを見ると、酷評が目立つのだった。
「偉大な監督は年と共に作品は凡庸化していく」
「ナウシカやラピュタのような作品はもう作れないのか」
「宮崎さんのファンとしてこれまでの作品を汚すようなものを作らないでほしい」
 宮崎駿監督がまるで終わったような言い方だ。他にも、ストーリ性無視の子供騙し、キャラクターグッズの売り上げを優先考慮したとか、宮崎アニメにしては精度が低い、などなど。おや、これではジブリののれんを汚したのは、息子じゃなくて宮崎駿さんのほうではないかと首をひねるのだった。
 私には古くからの宮崎アニメを見て育った人々(中でも強烈な一部のファンか?)の方がよほどのれんの歴史だけにしがみついて、現在を見ていない、すでに終わった人々、に思えてくる。
 宮崎駿監督は進化している。原点に立ち戻ったと言うのは、アニメの本質である絵的な部分の話だろう。
 彼の情熱は、年々、老いれば老いるほど留まるところを知らず燃え盛っていくように思えた。年々冷えていく若者とも、時代とも、まるで逆行するかのように。
 
 宮崎駿監督が何より凄いと思うところは、彼の思いの引き出しの多さだ。
 だてに長く生きていない。彼にはありとあらゆる経験から得た感情と、思いが溢れていて、しかも普通の人々なら失ってしまう思いも、時代が失わせ風化させてしまう思いも、すべていまだ失うことなく持ち得ているごく稀な存在だと思う。少年の心を忘れない純真さとか、そう言う陳腐なほめ言葉を言いたいのではなく、若い世代ならば一しか知らない思いを彼は年の功で十知っており、しかもその知りえた思いを失うことなく生きていると言う言葉通りの事実であって、だから多くの若者が既成の概念を打ち壊して新しいものを創造することしか出来ぬことと対照的に、監督は過ぎ去った時代を今に甦らせ、人々に郷愁と愛おしさを感じさせたり、忘れていた感情を思い出させたり、それによって人々を再生させたり、過ぎ去った時代と世代と、現代の時代と世代とを結びつけることが出来るのだった。破壊と創造だけでなく、一度融合させて、その上で新たなものを創りあげる。それが出来る芸術家はなかなかいない。
 多分ゲド戦記を作った息子の吾朗さんにとっては、彼が生きてきた思いの中で名作として表現し得たのがあの物語であって、名作のステレオタイプを模倣すると言うよりは名作パロディーに近いものを創りあげるしか出来なかったわけだが、あれは人生の中で知り得た思いのたけの違いが出てしまったのではないかと思うのだった。父親への憎しみと言うのれん、そういう思いにも固執しない方がよりいいのれんを作れると思うがどうだろう。
 宮崎駿監督は今までに得た、失うことのなかった思いの多さを巧みに生かして、ありとあらゆる人々に自分のメッセージを伝えるすべを知っている。私はこの監督と同じ時代に生まれたことを、ひょっとしたら奇跡的な幸運だったのではないか、と年々強くそう思うようになった。たぶんあと十年もしたら、もっと、その思いを強めることだろう。
 しかしなぜ、彼の作品を私よりもよほど古くから知っていて、宮崎アニメを見て育った世代が今の彼の作品に絶望するのか。不思議でならないのだ。あの情熱に揺さぶられるものはもうなくなってしまったのだろうか。本当に?過去の思いでとどまっていると、老人にも置いていかれるのが現代なのか。年配者のほうがよほど、熱い。私は「崖の上のポニョ」を今回見て、晩年のピカソや岡本太郎の姿を思い出し、監督と重ね合わせてしまった。凄まじいエネルギーを感じたのだった。
 宮崎駿監督がこの作品で描きたかったのは、溢れんばかりの「人間賛歌」だ。
 ここには、負のエネルギーが一切存在しない。ポニョにわがままによってほころびた世界でさえ、愛によって再生する。ほころびる前よりもよりいっそう美しい、海底の町の姿として描かれている。
 世界を壊してもいいと。警告を発し続けていた宮崎監督に私は赦された思いがした。愚かでもいい。人間はそうしなければ、もはや自然と共存できない。しかし、そこには私利私欲や、憎しみや、狂気は存在し得ない。決して、介入させてはならない。
 監督のパッションを感じるのだった。突き抜けろ。周りを気にして小さくまとまるな。本当に好きなら世界が綻んでも貫いて見せろ。しかし、決して忘れるな。愛を持て。その貫く思いに愛があるならば、決してどんな結果が待っていようとも世界は救われるだろう。
 もう狂気によって世界がほころびるのはたくさんだ。人間はそうではない、もっと美しい、素晴らしい生き物なのだと、自覚してもいい頃ではないろうか。私たちは何でも出来ると。
 これは現代の人々への溢れんばかりの希望のメッセージだ。監督のそのパッションを人々はどう受け止めるだろうか。感じることが出来るだろうか。いとも簡単に芸術となりえる負の力ではなく、思いやりや情や愛、懐かしい記憶、愛する自然たち。常に善の力を信じ、貫いて作品を作り続けてきた宮崎アニメののれんは今最も激しく息づいている。それが一部ではなくすべての人々にどう伝わるのか、楽しみではあるのだった。
 
 
 あんどーなつの続きを書いておこう。
 伝説の菓子「ホオズキ」が封印されたのは、果実のホオズキが江戸時代に堕胎剤として使われていたことが原因だった。今でも妊婦には縁起が悪いと言われており、満月堂には跡取り息子が出来なかったのだった。だから満月堂は人々に愛されていた菓子を作らなくなった。
 なつはそれらの事情を知っていても、ひとりで、親方の目を盗んで、ホオズキを作ったのだ。修行中の身でありながら、のれんに値しない菓子を作った、その愚かな行為はなぜだったか。
「今なら間に合う」
 どうしても生きているうちに、満月堂のホオズキを食べたがっている老人の心を満たしてあげたかった。
 この事件をきっかけに、親方は封印されていたホオズキを作ることになった。そうして満月堂は「夏の新作」として、そのホオズキを店頭に並べることとなったのだった。
 時代の封印は解かれた。くしくも過去と今とを結びつけることとなったなつは浅草の縁結びの神様にお礼を言う。
 
  
 
 

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恋空。

 
 
 私は政治的な思想の話をしているのではない。
 ただの個人の自己表現の話をしようとしているのだ。
 
 デジタルカメラで撮る写真について、レタッチやトリミングなどの(写真)加工を邪道だとみなす人がいる。
 もちろんプロではなく、アマチュア写真だ。ただの素人の趣味、個人の自己表現の手段である。露出を補正をしようが彩度を修正しようが別にいいではないか、と思うのだが、多くが私のようにいいと認めるには一定の条件があるらしい。
 加工する写真は加工しなくては撮れないものか?
 ここがポイントだ。加工、修正はプロですらフィルム時代からやっていたことだとみなしながら、つまり、プロ並みの基礎がある者のみが、それ以上を追求する(自己)表現の手段として許されている、特権としての「技術」とされているようなのだ。
 だから、加工せずとも撮れるものを撮れずに加工に頼るものは軽視される。
 撮れてなお、加工によりさらに表現を充実させるものは賛美される傾向があるようだ。
 ただの自己表現だからといって、何でも垂れ流していいものではない。比較的自由なネットの掲示板やブログだって、そういうものは淘汰されていく。絵画や文章やすべての芸の世界と同じなのだ。基礎を持つものだけが応用を許される。たとえアマでも、自己表現をするからには、文化と伝統と言う十字架を背負って、技術を磨いて、なおかつ、その世界の第一人者たちや自己表現などせぬ多くのものたちの基準(価値観)に認められてはじめて、なされるものなのだ。
 表現には、多くの規制があるものなのである。
 冒頭に戻るが、ただの個人の自己表現である。それでも、そのポイントを無視することは難しい。見苦しさが生じてしまう。
 
 耳が痛い私はいつもそのことを意識せざるを得ないのだが、これを笑い飛ばすものたちがいる。
 以前、これは歴史からの復讐だと書いた、あの「ケータイ小説」だ。
 
 彼らは書く者も読む者も、基礎も多くの価値観からの許しも必要としない。
 彼らだけの「共感できる」と言うお題目を唱えて、大通りを闊歩する。
 「共感できる」、まさにこれはドストエフスキーが小説で言ったところのこの言葉だ。「すべては許される」
 たとえ多くの読者に共感を与えようと、許しが得られなければ社会から排除や淘汰されるのが通例だった今までの歴史を、彼らは若さと新たな手段を以ってぶち壊した。
 あれは革命だ。どうして世間はそのことをもっと深刻に受け止めないのだろう。私はケータイ小説を思うと恐怖の念に駆られてしまう。認知が足りなすぎるのではないか。それとも認めたくないのだろうか。彼らはアマを超えてしまったと言うのに、危機感を覚えないのだろうか。作品そのものではなくて、その事実に。
 多くの基礎を持たぬ写真(愛好)家たちが写真を加工すること自体に面白さを覚えるように、無視すれば消えていくものとは思えないのだ。
 
 
 

  

夕日が目に染みる ~ALWAYS 続・三丁目の夕日感想文~

 
昨夜に引き続き、三丁目の美しい夕日を見た。
続編が公開されたのである。
結論から言うと、素晴らしい。またしてもたっぷりと泣かされた。前作を上回るほどの、これでもかと言わんばかりの感動の噴射攻撃だ。劇場内はノックダウンされた観客の啜り泣きが響いていた。
しかし、ふたつほど、気になる点があった。
ひとつめは今作のターゲットを中高年と老年に絞った点だ。
前作は世代を超えた大勢の人々に感動を与えた、そこが素晴らしい功績だったと認識していた。もちろんその路線は引き継ぎながらも、明らかに違う。
くどいのだ。
昭和34年―、当時の生活情景、当時流行っていたもののみならず、その時代背景を知っている人にしか理解し得ない感情まで、体験者に郷愁を促す類のエピソードが多すぎる。
前作のように物語全体を通して、昭和の良さを人々に伝える、というレベルを超えている。共感を呼び覚まさせようと意図する挿話がくどすぎて、逆に物語りそのものの良さを損なってしまっていた。
まぁ、劇場内を見回せば初日だと言うのに若者はほとんどいない。中高年の夫婦と親子ばかりである。致し方ない方針なのかもしれないが、残念だった。
ふたつめは、これは一番の山場なのだが、「ブンガク」と呼ばれる主人公茶川(吉岡秀隆)の小説を読み上げるシーンがある。もちろん純文学なのだが、この芥川賞最終選考に選ばれる作品があまりにも稚拙だった。私は大泣きをしながら物語の世界観に没頭していた最中だったが、この読み上げられた純文学を聴いてずっこけそうになった。これで芥川賞が取れるなら私もいけるかもしれない、と妙なカンチガイをしたほどである。
たぶん今までステレオタイプの純文学ばかりを書いていたカタブツが、三丁目の人々の絆と真実の愛を知り、純文学を超えた、人間味溢れる、温かい物語を書いたと言う設定なのだろうが、それにしてもどうも説得力がない。登場人物が「純青」と言う文学誌を愛しそうに手にするたびに、どんな物語なのだろう!と心ときめかせていたのだが、お陰で最高の山場でしらけてしまった。ブンガクが一世一代の賭けに出た作品だ、もう少し現実味のある文章にして欲しかった。
 
 
                     ブンガク 
 
 
その2点を除けば、言うことはない。名作だと思った。
特に、日本を見直すにはいい機会となる作品ではないか。大連立だの世間は何かと騒がしく、政治不信から日本に対する失望も見え隠れする現代だが、この物語の舞台はなんと50年も昔ではない。日本は戦後僅か11年でこの映画の時代を作り上げ、更にそこから50年足らずで今を築き上げたのだ。その現実にあらためて驚かされ、その功績の偉大さを実感させられるのだった。物語に出てくる六子(堀北真希)が同郷の青年を叱りつけるシーンがある。喧嘩をして集団就職先を辞め、今は詐欺まがいの仕事をする男に一生懸命真面目に働くことの尊さを訴える。「一生懸命働いていれば、きっといいことがある」と彼女は言うのだ。日本人はその言葉を笑い飛ばすこともなく、みなそうやって日々懸命に働いてきたのだろう。失われたものの代償は大きかったが、しかしその勤勉さと真摯さはどの国にも引けをとらないと私は思う。
そして何と言っても圧巻なのは、脇を固める鈴木オートの主人(堤真一)とその妻ヒロエ(薬師丸ひろ子)の存在だ。
強い父と、優しい母。当時を知らない世代にも、この永遠の理想郷としての父親像と母親像には思わず心を打たれるだろう。失われたものの象徴であればあるほど、その笑顔が心に沁みる。
 
 
 
                     鈴木家
 

バファリン4錠分の物語

 
金曜ロードショーで「ALWAYS 三丁目の夕日」を見た。
で、頭がガンガンして、急遽バファリンを飲んだ。
私は昔から、泣くと頭が痛くなるのだった。
 
このブログを始めて少し経った頃だったか、私はエントリーしたあと、いつも泣いていた。
朝方近くまで泣いていたこともある。
頭はガンガンするし、神経は冴えてしまうし、涙で顔はぐちゃぐちゃ、声を押し殺した号泣に変わるし、翌日は仕事だし、散々だった。
余韻を残す記事を心がけていたため、かなりの感じる能力を噴出させていたことが原因だった。
どっぷりと思い出に浸り、それが今目前で起こっているかのような追体験を夜毎繰り返し、通常生活する限りでは絶対に必要としないレベルの、不必要な感傷力を必要としていた。
ブログを書いた後、泣き崩れてバファリンを飲んで眠るのは私くらいだろう。
その情緒不安定さは、箸が転んでも哀しい年頃、と言った風情の、あの「広末涼子」に匹敵すると思う。
最近ではわざと余韻を残さず、感傷に浸らないよう心がけている。
バファリンは意外と高い。それに今は過去の感傷に浸るよりも、先に進みたい。少しでも。
泣いている暇はないのだ。
 
しかし、「三丁目の夕日」を見て、その考えに疑問を抱いた。
明日は映画館へ行きたい、思い切り泣いてしまいたいと思う自分がいた。
感傷とか、過去への郷愁とか、ノスタルジアとも言う、本来なら嘲笑の対象ともなりうる、この恥ずべき代物は、なんと力に満ちていることか。
いつでも、人々を魅了する名作を生み出すのだ。
大家の先生がなんと言おうと。流行りのブロガーが否定しようと。
 
物語は理論ではなかった。
感じる力が創り出す。
私は渇いた自分をこそ恥じた。
 
 
 
  R0011585②
 
   
☆☆☆☆☆☆☆
 
 
 
『無力なハンマー』 (2007年07月28日)
 
最近哀しく思われたこと。
人の思いを伝えとることも、自分の思いを伝えることも、とても難しいと言うこと。
その人と人との間の壁に、哀しみを覚えた。
誰かが発信する想いを正確に伝えとり、それに応えたり、自分の正直な想いを正確に発信したり、それは奇跡のようであり、現実は困難だ。
学んでも学んでも学んでも学んでも学んでも。
届かず。
届けられない。
無力感に襲われる。
平行線。
それでも人は、線と線を少しでも近づけ、交錯する瞬間を捉えようと、想い、生きていく。
壁を叩き壊す。
 
 
 

最近映画見てないですが。

 
『映画監督というマラソン ~『大日本人』を観て~』 (2007年06月03日深夜)
 
 
松本人志監督「大日本人」公開初日で早くも興行収入一億円突破

ダウンタウンの松本人志が映画を創った。
思えばコメディアンとしてより、作家性の強い彼のことだ、今まで撮らなかった方が不思議ではある。
私の中で、まっちゃんはもう終わっている。
「ダウンタウンの時代を逆行した4ビートの漫才を見たとき、そのあとすぐに吉本へ直行して、引退を宣言した」と当時紳介竜介として漫才界の頂点にいた紳介に言わしめた、あの天才ぶりはもう感じられない。
自分の世界観に固執し、小さくまとまって、内輪ネタだけが目立ち、「面白くない」というのが正直な感想だった。エンターテインメント性が感じられなくなっていた。
しかし、土曜日、迷った末に、彼の映画を見に行くことにした。
もう私の中では「笑いの神」ではないが、映画監督としての松本人志は未知なのだ。
そうして、松本には、面白いつまらないに関わらず、「何かをやってくれそうだ」という期待感が常にあり、それだけは今も失われていない。

この期待感を持てる人間か、そうでないかの差は大きい。
私は常々それを評価の基準にしている。
松本は確かに未だその期待感を持てる存在であり、期待を適える才能、その持続性は未だ失われていないと確信した。
映画館へ足を運ぶ決心をした。
私が松本を本当に好きになったのは、ずいぶん昔のこと、何かの番組の企画で、確かホノルルマラソンだと思う、42.195キロを走る姿を見たときだ。ダウンタウンとそのファン、一行としての参加だった。
浜田はいかにも日ごろから運動をしているらしく、スポーツマンらしく軽快にスタートした。それに比べて松本は、のろのろと歩き出したのだった。ファンの女の子とお喋りしながら、にやけて、とろとろと。
浜田が汗を流し、炎天下の中懸命に走る姿がクローズアップされる。
私は当時浜田のファンであったから、その彼の姿に好感を抱き、松本がふざけていると思ったのだった。
しかし、浜田は16キロを過ぎた地点でダウンした。
一人で懸命に走り、飛ばしすぎて、足が動かなくなったのだった。
確か20キロ持たなかったように思う。彼はリタイアした。苦しそうに顔をゆがめ、悔し涙を浮かべ。動かぬ足が痛々しかった。
一方その頃、松本ははるか後方をとろとろと歩いていた。
時々気まぐれに走る。疲れるとまたお喋りしながら歩いている。相変わらずファンの女の子に囲まれている。
そうして、浜田がリタイアした箇所を難なくクリア、7時間近い時間をかけて、完走しきったのだった。
夕陽が沈む頃、ファンの子達と並んでゴールする彼の姿が、私に衝撃を与えた。
したたたか、というのか、持久力、というのか。見栄とか、体裁とか、そういう目に見える何かよりも、継続させることの強さを何よりも知っている人だと理解した。
その時から私は、浜田よりも松本に好意を抱くようになったのだ。
松本の映画は盛況だった。
小さな地元のミニシアターのような映画館だったが、それでも田舎だ、最近は話題の映画でも空席が目立つ。しかし、その日は満席だった。
この訪れた人々の期待を裏切るだろうか、いい意味で、悪い意味で。それとも期待通りのことをしでかしてくれるだろうか。私ははらはらしながらスクリーンを見つめた。
映画が始まる。出だしは最悪だった。だらだらした掛け合い。地味で、退屈なシーン。あらー、やっちゃったな、と直感した。冷や汗をかく。
しかし、期待感はまだ失せない。
続いて、物語が急展開を見せ、私は次第に彼の映画の世界に浸っていった。
ドキュメンタリーとして描かれるその虚構の世界は、独自の世界でありながら、決して、観客を忘れていなかった。
いつしか私は、マラソンをする彼と並んで歩いていた。
一緒にゴールに辿り着いたとき、思わずため息を吐いた。
天才だ、と心から思えたのである。
そう思えたことが何よりも嬉しかった。
「この世界観を笑いにしてしまう」ところが何よりも、すごい。
そうして、やはり「期待を裏切らなかった」と言うところが、すごい。
映画監督としての彼は、スタートしたばかりだ。
これから、たくさんの非難や、挫折や、困難が待ち受けていることだろう。
しかし、これだけは言える。
松本人志はこれでやめない。
2作目、3作目を必ず撮るだろう。
きっと継続させる。たとえ誰に何を言われようとも。
そうして、私たちと一緒に、ゴールへと向かうだろう。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
              R0011415②
 
その後どうなったのだろうと、最終興行収入を検索してみたが、ヒットさせることが出来なかった。
いったいこの映画成功だったのか、大失敗だったのか、せめて数字の上からだけでも量ってみたかったが、さすが吉本、ガードが固い。
DVDが11月28日に発売だそうです。(公式サイト新着情報より http://www.dainipponjin.com/news.html
私的には出だしの間の悪さ以外はすべて良かったです。
是非、ご覧になってみてください。
 
 
追伸・まっちゃんへ
「絶対2作目作れよ、コノヤロー!」
 
 
 

ダンサーインザダークという暴力

 
『光と闇の賛歌 ~映画・ダンサー・イン・ザ・ダーク~』 (2007年04月18日)
 
彼女は自ら死刑を望んだ。
なぜか?
いったい、ミュージカルなのか、シリアスなのか、ヒューマンなのか、狭いジャンルに収まらない、不思議な映画だ。
地味で、堅実な主人公が人を殺す。
絵に描いたような「いい人」が罪を犯した。
なぜか?
何が、誰が、どうして、彼女を罪人にしたのか。
まるで罪人擁護、殺人を肯定するかのような物語だが、直接的に思想として訴えられることはない。
それより、この映画から真っ直ぐに伝わって来るのは。
ラストシーンとは対照的な、ミュージカルシーン。
「生への謳歌」だ。
きっと誰もが打ち震えるだろう。
生の喜び、その眩さ、感動と言うよりは衝撃的でさえある。
打ち震えるほどに、私は生など愛していたのだろうか。
愛していたのだ!
だからこそラストシーンは重い意味を持つ。
一瞬にして暗転する死のカットは、二度とこの映画を観たくないと思わせるに十分だ。
「この映画によって」、生を愛した瞬間、その刹那に真っ逆さまに突き落とされる。「真っ直ぐに落ちていく主人公によって」。
残虐な作品だ。
ここでは、死さえも、謳われている。
そうして、後に残された私。
もう二度と観たくないと願う切実な思いは、そのまま主人公の歯車を狂わせ、罪へと導いた中途半端な何かや誰かへの、ありきたりに存在する小さな悪への、軽蔑へと転化される。
光と闇の偉大さを打ち消すのは、いつでもちっぽけなものだ。
しかし、それこそが、私やあなたなのだ。
 
 
☆☆☆☆☆
 
いわゆる名作と呼ばれる小説や映画を目の当たりにして、打ちのめされることは良くある。
一番初めにこの感情を味わったのは、思春期だ。
萩尾望都のある漫画を読んだときである。
 
 
 
私は幼い頃から漫画を読み親しんでいた。敬愛し、尊敬する作家もたくさんいた。
しかし、望都はその誰とも違っていた。
たとえば私が彼女と同じような漫画を描いたら、ただのホモエロ漫画になってしまうことだろう。
少年愛という、当時世間から市民権を得ていなかった題材、ともすればゲテモノと蔑視されかねない題材を使い、彼女は見事に描き切っていた。
ゲテモノどころか、漫画の域さえ超えていた。誰もが認めざるを得ない、芸術作品にしていたのだ。
この事実が私を打ちのめした。
自分が小さく、みすぼらしく思えた。
 
このような思いを、長い間、うまく捉えることができなかった。しかしある日、こんな言葉を聴いた。
「それは、暴力だ」
目からうろこが落ちる思いだった。
私を小さく映し出す、打ちのめす、それはもはや暴力でしかない。
 
ダンサーインザダークは暴力だ。
限りなく暴力的な、見事な芸術作品だ。
 
 
 

『Dreamgirls』

 
 
今日は自転車を走らせて、近所のワーナー・マイカルにお出かけです。
映画館に行くのは久しぶりでした。
そのせいか妙にワクワクしてしまいました。
おのぼりさんみたいに館内をきょろきょろして、写真をぱちり。
     
マイカルはどこもこんな感じでしょうか。 ちょっとピンボケですが、薄暗い館内。 パイレーツオブカリビアン3!! 屋根(?)の上のスパイダーマン!
 
 
で、絶対的に観たくてたまらなかったので、衝動的にお出かけして。
観たのはこれ。
 
 
        
                                                                                                   
                                                              ※鑑賞前にナチョスとペプシを買い込みました。
  『ドリームガールズ』です!
 
 
うーん、いや、なんとも言えませんでした。
私は歌が大好きで、音楽が好きで、だから自然とミュージカル映画が大好きなんですが、映画の中の歌のシーンで泣いたのは、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とこの『ドリームガールズ』の二作だけ、不覚にもあとからあとから涙が溢れ・・・たまりませんでした。 
 
舞台は1962年、アメリカのデトロイト、自動車の産業で有名な町です。スターを夢見るハイティーンが三人。エフィー(ジェニファー・ハドソン)、ローレル(アニカ・ノニ・ローズ)、そしてディーナ(ビヨンセ)です。
実力はあるのにまったく売れない、そんな無限の可能性を秘めたダイヤの原石である彼女たちをひと目で見抜き、手に入れたのは、ショービジネスの世界で成功することを虎視眈々と狙っていたカーティス(ジェイミー・フォックス)でした。
ここから映画はサクセスストーリーと争い、裏切り、挫折、転落、ショービズ世界のありとあらゆる局面を描いていくわけなのですが、まぁその辺は説明不要です。そもそも、ブロードウェイのミュージカルで有名だったこの物語、皆さん内容をご存知かもしれません。
私が一番感心したのはこんなことです。
「男は愛よりも、自分の夢(目標)を実現化するための最強のアイテムと成り得る女を選ぶ」。
ちょっとした驚きでした。今まで私は、好きな男を手にするために、性格を良くしようとか、尽くそうとか、深く愛そうとか考えていたんです。
そうすれば愛されるだろうと。とんでもない。男はもっと現実的、かつロマンチストでした。永遠の夢見る青年だったのです。
この映画の中のカーティスも彼のショービズ界での成功、その重要かつ唯一のキーとなるディーナを女神のように崇めます。
彼は等身大の女としてのディーナを見ていない、ディーナは女神でありながら、彼の成功のための道具にしか過ぎないのです。
しかしですね、女性たち、ここからがこの映画のすごいところ、傑作の真髄を見せてくれるわけですよ。
ラストシーンは圧巻でした。いや、女はたくましいです。すべての女性に、もちろん男性にもぜひ観ていただきたい作品です。
 
                  
                   
 
エンドロールをぼんやりと眺めながら、ショービジネスの成功も挫折も、すべては儚いなぁ、と思いました。だから価値がないと言いたいわけではありません。それ自体は素晴らしい人生の目標、希望としての道のりです。
ただ、私が思ったのは、そういうすべては、いや、うまく言えないなぁ。ひとりの女の話に戻したほうがわかりやすいですね。
この映画の女性たちにとって、愛欲、お金、成功、挫折、すべてのショービズ人生の道のりは、彼女たちが最終的な『人類愛』に導かれていく、その達成のための過程のようなものでした。
そう、その最終過程は、彼女たち女にしか起こせないのでした。
男は女を道具にして、野望を果たし、成功し、有名になって、たとえすべてを手に入れても。
結局は、人類愛へとたどり着こうとする女の道具にされているに過ぎないような、そんな思いがしてしまうのでした。
男はつくづく寂しく、孤独です。
そんな切ない男たちへの愛おしさと、対照的な女性の逞しさがたまらない、なかなかの一作でした。
 
 
余談ですが、この映画で一番輝いていたのは、アカデミー賞助演女優賞を取ったジェニファー・ハドソン・・と、言いたいところですが違います!
なんと言っても、エディ・マーフィー です!!
ビバリーヒルズコップの頃から大ファンで、(彼の映画を観るとどんなときでも元気になるんです)いつでも観客を楽しませ、役者として挑戦し続ける彼が、今度はこんなに素晴らしい歌声を私たちに披露してくれて、パワフルで切ないソウルスターの男の役を見事に魅せてくれました。
やってくれました、エディー! 最高でした!
彼をこの役に抜擢した、監督に大大感謝です!
 
 
 
   
 劇場内です。闇の中を進んでいくと・・・ 目的の劇場にたどり着きます。 ゲゲゲの鬼太郎のポスターが目を引きました。なんとナイスなキャスティング・・・