子供の頃、とりわけて小学校の3年生位から卒業するまでの夏休みに、あなたが毎日のように遊んだ友達を覚えていますか?
そんな友達はいなかった?
まぁ、そういう方もいるだろう。私の場合はのーちゃんだ。
20世紀少年ー最終章ーを今日見終えて、ふと思い出した。
本当はふとではなくて、彼女のことはずいぶんと回想され、この日記にもたびたび登場している。
文章を書くようになるまでは、私もあなたと同じように、すっかり忘れていたか、もしくはただの楽しく懐かしい思い出でしかなかった友達だ。しかし、掘り下げてみると、なんとまぁ私の人格形成に多大なる影響を及ぼしていたことか。
当時私はその事実にかなり驚かされたものだった。
幼い頃、特に小学校高学年の時期に影響を受ける対象は異性ではありえない。これは私の勝手な持論かもしれないが、ヒーローは同性に限られる。
あの頃もし私が、今のように深く意識をして、彼女との付き合い方を改めていたら、今とは違う未来があったはずだ。今のように自分を苦しめることも、他人を苦しめてしまうことも、ずいぶんと軽減されていたと思う。
と、まぁ、その可能性があっただけ幸せではあるのだ。
20世紀少年、この映画の主人公にはその可能性さえあったかどうか疑わしい。たぶん、なかっただろう。
変えられたのは、ヒーローだけだ。
彼はそのヒーローケンヂに「助けてくれ」と言い残して死んでいくのだった。
写真を撮ることに疲れている。そんな時期は心を養うといいと言う意見もあり、美術館に行こうかと考えた。ところが、テレビの特番を見てしまった。『20世紀少年ー最終章ー僕らの旗』 が公開されると華々しく宣伝をしている。映画でも心はもちろん養えるだろうと、近場の映画館に急きょ向かった。
安易なところで手を打ったわけだが、これがけっこう安易ではない作品だった。
漫画における審美眼(もちろん自己流)が確立されている私にとって、たとえ数少ない作品しか見ていなくても浦沢直樹は神レベルである。が、20世紀少年、及び21世紀少年の原作は読んでいない。映画の内容が神・浦沢が意図したものなのか、堤監督による自己流の演出なのか、理解できなかった。そこで混乱をした。自宅に帰って、原作と映画との差を調べて、映画の原作(脚本)にも彼が携わっていたことを知って、やっと納得をする。
彼が言いたかったことならば、たとえつまらなく感じても、安易な結末に思えても、そこには必ず深淵がある。
それを読み取れないならば、私のほうが浅はかな大馬鹿野郎なのだ。
私は深淵を見つけようと四苦八苦するが、とりあえず今のところ大馬鹿野郎らしくて、うまい考えがまとまらない。
そこで見たまま感じたままをぼちぼち書いていこう。
あ、ネタばれがあるので、観ていない方でこれから観る予定のある方は絶対に読まないでください!!
まず、これは日本人だからなのか、年齢のおかげで時代の背景とその匂いが感じ取れるからなのか、とてもわかりやすく感情移入しやすかった、と言うことだ。表面的に、これは勧善懲悪ものの作品だ。ヒーローがいて、悪がいて、地球滅亡の危機が訪れる、と言うハリウッド映画でここ10年の間に散々、飽きるほど見させられているストーリーなのだが、まったく似て非なる物語だった。
地球の危機をどう救うか、その一点にすべてがかかったハリウッド映画はもちろん、なぜその危機が訪れたか、には深い説明がない。一応悪役の心理も出てくることは出てくるのだが、やつらはそんなところに重点を置くつもりがさらさらないので時間の関係上かなり割愛されていて、悪役の心理の根源から派生した征服欲、支配欲のみがクローズアップされているようだ。いつも思うのはその欲望が全く理解不可能と言うか、現実味がない。私だって普通に贅沢はしたいわけだが、そこまで世界を征服したくも支配したくもないわけで、いつも「事件の前提の根源」には目をつぶって、ヒーローがどうやって地球を救うのか、だけを注視するよう努めていた。また、この地球危機ものには悪役そのものがはじめからいない場合も多い。竜巻や隕石や洪水など、自然が脅威となって襲ってくる、というパターンだ。そうするとやっぱり根源はわからない。せめて解釈するならば人間社会が今まで地球にしてきたことのツケがまわってきたのだ、という教訓くらいに捉えるしかない。
ところが日本が世界に向けて発信した(って言っていいのかな?)この20世紀少年はハリウッド版より規模が小さいし世界征服なのに東京だけだしと散々に言われたとしても、あれだけ真似た型をなぞりながら、根源にしか興味がないのだ。なぜその危機が訪れたか。この映画はそこを遡っていく作品で、だからこそラストの10分も真価を問われるのだろう。
ちょっと先走りすぎたと言うか、ぼちぼち書いていないな。
ぼちぼちに戻ると、あと思ったのは、未来都市が最高です。「大人買い」とかあるけれど、究極の大人買いの町を作ってしまった主人公に感動してしまった。と、私はこの映画の主人公は「ともだち」だと思っていてその前提で書いているので念のため。
日本人は鉄人28号からなのか、それともマジンガーZから?ガンダムからなのか、大型ロボットが大好きだ。アトムの頃から未来都市を想像するのも得意だ。SFに関して、その歴史とレベルはけっして他国に負けてはいない。どうも海外(特にこれもハリウッド)映画のSFを見慣れた私にとって、いつも疑問だったのは、あまりに完璧な未来都市過ぎると言うことで。20世紀少年の悪役は組織ではなくて個人であったせいか、日本人得意のSFにプラス(自分の子供のころの)過去を再現させるあたりが何といっても憎い。だって、未来都市を作る方々は、何を理想に作ると言うのだろうか。(これは本当に未来に建築される方に言っているのではなくて、未来都市を創造する製作者に問うているのだ)やり直したい過去や、どうしても得られないものがあったあの時代、究極を言えば母の母体にまで、人は立ち戻ること、そんなことが未来の活力や夢と化すように思う。征服者が幻想し欲するのは完璧な未来都市ではなくて、「あの時代」でこそ本物で、私が未来を想像するなら、やっぱりこんな町がいいなぁと思ったほどである。
地球防衛軍もUFOも敷島博士のリモコン型ロボットもいい。昭和の未来都市も最高だ。
ともだちは過去を再現させた舞台でヒーロー待っている。彼が遊んでくれること=救いに来てくれることを待ちわびている。
ところがこのヒーローのケンヂが唐沢寿明なんだ。
ずいぶんいい役者のように扱われているが、どう見ても大根、そう言っては悪いが、ともだちがそこまで健気に待ちわびた意味があったのかと疑問だった。もう少し存在だけで演技できるような役者さんはいなかったのだろうか。
それともだからこそ哀しいお話だったのだろうか。主人公ともだちは価値のないものに入れ込んで、自分と多くの人間の人生を狂わせた。そうして、凡人ケンヂはともだちによって、彼が子供のころ行くことができなかった万博の会場で、若き日々に果たすことのできなかった夢を実現する。歌手になりたくて挫折したはずの男が、野外コンサートで大勢の人に喝さいを浴びて歌を歌うのだった。
本物のヒーローとなって。
「悪役を続けるのは生半可じゃないだろう。正義のヒーローになるほうがよほど簡単だ」
これはケンヂが万丈目に言うセリフだ。
全く皮肉と言うか、よくわかっていると言うか。その言葉を信じた万丈目は映画のラストでともだちを殺害する。
「どうだい!これでおれも正義のヒーローになったかい!」
そう万丈目が叫んだとたんに、倒れたともだちが持っていたリモコンのスイッチが切り替わり、万丈目の上に巨大ロボットが落ちてくる。
この万丈目さんの扱いはどうかとも思うが、まるで天罰を食らったかのようであった。
正義を振りかざすと言うことは、いつだって罪をはらんでいる。
そうして問題のラストだ。
私は最初ゲイの堤監督が付け足した場面かと思ったくらいだ。
それほどエンディングの前とそのあとのラスト10分では毛色が違う。
甘ったるくて、感傷的で、幼稚でさえある。
しかし、それが根源なのだ。ケンヂはともだちを救いに過去へと遡る。約束を果たしに行くのだった。
世界征服の欲望も、地球崩壊の危機も、もとはそんな些細なところから訪れる。
私たちもその一声で、たった一つの行動で、すべてを変えられるのだ。
あなたも、私も、今日からだってヒーローとなれるのである。