「不安定な物質が安定しようとするとき起きる爆発について」

 
 
 
 
 ※爆発
 ①圧力の急激な発生または開放の結果、熱・光・音などと共に破壊的作用を伴う現象。急激な化学反応、核反応、容器の破壊などによって生じる。
 ②比喩的に、押さえていた感情などが、一度にふきだすこと。「怒りが爆発する」
 
 
 
 

 
 爆発について面白い意見を聞いた。
「不安定な物質が安定しようとするとき、爆発は起きる」
 というものだ。
 これには感心した。考えれば当たり前のことかもしれないが、聞いた瞬間はっとさせられた。
 物質というものがまさか不安定だとは思わない。安定した個体の概念がある。爆発するからには、その安定の均衡が崩れるのだと教わるでもなくイメージしていた。
 ところが個体自体は爆発しないのだそうだ。それを構成する要素が不安定に晒されたとき、安定へと戻ろうとする力が急激に加速して爆発を引き起こするのである。
 考えれば考えるほど興味深い。
 「爆発」というと無条件に悪いものという負の印象があるが、もとは本来の自分に戻ろうとする正のパワーなのである。原子力爆弾もそうだ。あれも悪用されただけで、核分裂という原爆の仕組みを本来の正の力もって活用すれば、原子エネルギーとして世のため人のためになるというわけだ。
 そう考えると、「芸術は爆発だ」という有名な芸術家の言葉も、妙に説得力が出てくるではないか。
 あれは安定を求める力なのだ。独創的な芸術家が、世間とは少しずれた感覚から生じる不安定さを表現して、形ある作品とする。それによって、不安定な自我が系統付けられ、統一されて、自己の完成形に近づいていく。そうした内部の安定を目指す力の、そのより強大な噴出のことを言っているのだろう。だから統一された自己の象徴である作品が、多くの他者から評価されればされるほど、安定度は深まっていく。まずは不安定さ(無自覚の自己)を形にして、自分自身の中で意識の統一をはかる。次に、他者に認められることで、他者の世界と自己の世界も統一されていく。
 「太陽の塔」がもしも、奇抜で理解不能な作品だと世界中の人々から笑われていたら、岡本太郎は本来の意識を否定されたことになり、ずいぶん心もとなくなったことだろう。彼は以前よりも大きな不安に陥って、より膨大な「芸術は爆発」的なエネルギーを裡に抱えることになる。
 つまり、爆発は原子力エネルギーや芸術家の昇華のように正の力とすることが可能なものであり、不安定であればある程、より強力な爆発を引き起こすものだと言うことだ。
 ということは、裏を返せば、安定しない限り、人はより強力なエネルギーを持ち続けることができる。その力を正のエネルギーとして、活用できるのということなのである。
 人は誰だってそうそう安定しているわけではない。何かしら現状に不満があり、無意識に安定を求めているものだ。だが、この爆発的エネルギーはそんな無意識の安定レベルでは決して起こらないだろう。天才的芸術家が天才たるゆえんのように、安定しよう(安定へ戻ろう)という力を噴出させるためにはより大きな不安を抱えている必要がある。
 そうだ。爆発を活用するためには、「安定しているわけではない」ではなくて、「安定してはいけない」のだ。決して。常に、より不安定な状況に自らを導いていく覚悟が必要だということだ。
 
 以前私は問題を解決するための3つの方法について書いたことがある。
 ある問題を抱えているとして、それを解決するためには三通りの選択肢がある。
 一つ目は、否定。問題そのものや問題が起こっている現状を否定して、問題そのものを避ける、または反故にする。
 二つ目は、肯定。問題そのものや問題が起こっている現状を受け入れて、それがあるがままで自分は自分で幸せに生きて行こうとする、その発想の転換と問題に対する姿勢を言う。これは消極的な(問題に対する)解決策でもある。
 三つ目は、第一とも第二とも違う、積極的な解決策だ。たとえば核戦争についてだとして、一つ目が核戦争反対=核廃絶を唱えるとしたら、二つ目は核が抑止力のためとあることを肯定しながらそれでも核があるままで世界の平和を目指す姿勢だとする。三つ目の選択肢は核自体を無意味にしてしまうものだ。
 原子力爆弾を誰かが放つとする。その軌道を捉えて爆弾を放ち、空中(相手の領域)で原爆を爆発させてしまう、などという・・もしもそんな最新鋭の技術と武器が開発されたら、ばかばかしいので誰も核を放とうとは思わなくなる。また(外交のパワーゲーム的な)脅しにもならないことから、そもそも誰も作らなくなるということだ。三つ目の選択肢は、そのように問題そのものを無意味にしてしまう積極的な解決方法なのである。
 私は冒頭の爆発の話を聞いたときに、この第三の選択肢を思い出したのだった。
 今まで私は、自我が不安定な時に、何とかして安定させようと試みていた。大乗仏教的な空の思想を学んだり、考え方次第だと自分を戒めたり、気分転換の趣味に打ち込んだり、恋愛にのめり込んでみたり、心穏やかにしようとあれこれ試行錯誤をしたものだ。しかしそれはすべて第二の方法である。根本的な不安の元はなくならず、意識下に隠されたまま育っていく。自分で意識していないのだからコントロールも出来ようがない。それではいつか爆発を引き起こすのは当然である。
 平和的に安定させる必要などなかったのだ。というより、決して安定してはいけない、大切なのはその状況を意識して自ら作り出すことが必要だった。広辞苑の②番目の例でいえば、「怒りが爆発する」のように。わざと自分を不安定な状況に置く、つまり怒りを常に持ち続けること、そのことを意識し続けることによって怒りの爆発を本来のエネルギーにするのである。
 本当に怒りが頂点に達したとき、それまでの態度をふと変えて微笑む人がいる。あれは恐ろしい。彼らは怒りを押さえてなどいない。その瞬間、裡なるエネルギーに変えているのだ。もしも、そのように、無意識的な負の力を意識的な正のエネルギーに自由自在に変換出来れば、怒りの爆発は消滅することだろう、いやたとえ消滅することは不可能だとしても、爆発するでもない、強力な自己の力の源となることだろう。
 負の力に引きずられず、より良く、安定した人生を送るためには、決して安定してはいけないのだ。
 心理的に故意に自分を不安定に晒していく必要があった。常に不安定であること。もしも安定してしまったらその時は自ら課題を探し、試練を与え、決して安心することなく、より厳しい、自己が不安定となりうる状態を求めていく。より深く、より極めて、自己を追い詰めていく、それが安定を生みだす生きる力となるのだ。まるで武装するように。爆発に象徴されるすべての負の課題を、一瞬で無意味に変えてしまう唯一の術である。
 不思議なものだ。私はついに第三の方法を見つけたのだ。しかも、その答えは、思っていたものとはずいぶんかけ離れているではないか。決して、徳の高いものではなくて、まるで欲望にまみれた泥くさい人間のやり方ではないか。
 本当にこれであっているのだろうかと不安に陥る・・・
 なるほど、これもまたエネルギーということか、と私は独り笑ってみるのであった。
 
 
 
 
 
 

 
 
 

開けられたパンドラの箱と未だ見えぬ平成の坂本龍馬

 
 
 
 
 ※パンドラの箱
 ゼウスがパンドラに、あらゆる災難を封じ込めて人間界に持たせてよこした小箱または壺。これを開いたため不幸が飛び出したが、急いで蓋をしたため希望だけが残ったという。ほかに異説もある。(広辞苑より)
 
 
 
 先日、テレビのニュースを見て、背筋がぞっとした。事の重大さを初めて思い知った。
「仕方がないからと、思考停止をしてないですか」
 少女が問いかけている。25日、沖縄県読谷村で開かれた米海兵隊普天間飛行場の「早期返還」と「国外・県外への移設」を求める県民大会の映像だった。
 確かに沖縄の現状は異常だと思う。9万人を超える方々が声を上げるのももっともな話だと思う。が、しかし、思考停止をせずに、では早期返還を、国外への移設を、という話になれば、この国の安全保障問題や日米同盟そのものはいったいどうなるのだろうか。そこまでは言っていないと?突き詰めて考えれば、そこにいきつかざるを得ないし、日本の要望によってアメリカが国外に基地を移設したとして、そのまま都合良く日本を守り続けてくれるとはどうしても思えないのだった。
 敗戦からずっと続いていたこの国の異常性と矛盾を付き付けられた思いだ。このまま沖縄県民だけを犠牲にし続けていいわけがない。だからと言って、日本にはまだ準備が足りない。同盟を破棄し、憲法を変えて、自分の国を自分で守る覚悟は、資源はあるのだろうか。
 民主党は政権を獲りたいがために、外交と安全保障と国民感情とが絡む極めてデリケートな問題を利用した。
 自分たちの私利私欲のために、パンドラの箱を開けてしまったのだ。
 
 
 もう取り返しがつかない。急いで締めて、希望を残すしか道はない。しかし、いったいどのような解決方法があるというのだ。
 「山が動いた」と言ったそうである。沖縄の方々は、今まで県外移設、国外移設などという言葉を聞いたことがなかったそうだ。そうだ、山は動いてしまった。日本の根幹にかかわる問題が安易に動かされ、あれだけの盛り上がりを見せている。どう決着をつけるつもりなのか。これでもしも、やはり動きませんでいた、とでも言おうものならば、以前とはまるで意味が違うだろう。もうそれでは済まされないのだ。日本が今置かれている状況をぞっとする思いで見つめていると、今日の新聞のニュースだ。民主党の小沢幹事長がこう言ったそうだ。
 
 「私が答える立場にない」
 
 民主党の小沢一郎幹事長は26日の記者会見で、米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)移設問題が5月末に決着しなかった場合の鳩山由紀夫首相の進退について問われ、「そのような質問に答える立場にない。どのような結果になろうとも国会運営をスムーズにし、参院選で勝利する役割を全力でこなしていくのが私の役目だ」と述べた。普天間問題で窮地に陥る鳩山首相を突き放したような発言は、政界でうわさされる鳩山首相の5月退陣説とも関連するだけに、憶測を呼びそうだ。

 小沢氏はまた、「普天間という日米外交案件の問題に私は一切関与していない。説明も相談も受けていないし、私の役目柄ではない」とも語った。普天間問題では、政府が検討を進める「浅瀬案」で決着しても与党内の混乱が予想される半面、5月決着がずれ込めば鳩山首相の責任問題が浮上する。いずれにしても普天間問題は鳩山政権の急所であることは間違いなく、小沢氏がこの問題と距離を置いたことについて、民主党内では「(小沢氏は)首相を見放すのか」(中堅)と発言の真意をいぶかしむ声が出ている。

 一方、小沢氏は自らが高速道路の新たな上限料金制の見直しを唱えたことに対し、前原誠司国土交通相が猛反発したことについて「前原君がどういうことを言ったか、どう行動したか私は別に全く何の関心もない。興味もない。最終的には内閣総理大臣が決定することだ」と述べた。(msn産経ニュース2010.4.26

 

 私はぎょっとしたものだ。
 鳩山首相は確か、小沢幹事長が起訴されるかどうかの瀬戸際の時に、「どうぞ戦ってください」と言ってはいなかったか。取りあった手を共に掲げて、まるで運命共同体の様相ではなかったか。その鳩山首相に、普天間の問題を押しつけて、私は関係ないと?
 それに、そもそも普天間基地の県外移設は「民主党」の公約ではなかっただろうか。
 (巧妙にもマニフェストに県外国外移設の文字は見当たらないが、「米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方向で臨む」とはっきり記載されている)
 私は開いた口がふさがらない。小説「蜘蛛の糸」の主人公「カンダタ」のようだと思う。
 生まれて初めて買ってもらった本が芥川龍之介の「蜘蛛の糸」だといつか話しただろうか、私は子供心に妙にその物語が心に残って、自分独りが助かろうとすると罰が当たるのだと刻み込まれたものだ。利己心が働いて、ちょっとでもそうしようものならば、罪悪感がずきずきと疼く。孫悟空の頭のわっかみたいに、未だ強い効力を持っている。
 そのせいか、カンダタのような人や出来事を目の当たりにすると、つい嫌悪感を抱いて離れなくなる。
 小沢一郎は民主党の影のボスと言われているのに、自分の党の公約を、愚かな鳩山首相に押し付けて、自分だけ免れようとしている。自分が開いたパンドラの災いから。
 何と、まぁ、さもしいことだろうか。
 しかし、話はこれで終わらないのだった。
 昼を過ぎて飛び込んできたニュースは、
 
「小沢一郎、政治資金規正法違反で起訴相当」
 
 東京地検特捜部が陸山会の土地取引を巡る事件で不起訴とした処分を、東京第五検察審査会が「起訴相当」と議決し、公表したのだった。
 それを受けての鳩山首相のコメントが何とも言えないではないか。たった1日前に自身の政治資金規正法違反事件で「不起訴相当」とされた彼である。
 
 「私は何も申し上げられない立場」
 
小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反事件をめぐり、東京第5検察審査会が小沢氏について「起訴相当」と議決したことについて、鳩山首相は27日夕、コメントを求めた記者団に対し、「検察制度のプロセスの一環ですから、もし、私が何か判断すれば、そのことが検察の判断に影響を与えかねない。私としてはここで何も申し上げられない立場であることをご理解いただきたい」と話した。

 一方で鳩山首相は「党の立場の方からは、何らかの判断がなされる可能性はあると思います」とも述べた。(2010年4月27日18時19分 読売新聞

 

 
 鳩山首相は何も申し上げられないそうだ。自身の献金問題の時にはいろいろ言って「政治圧力」等と騒がれていたようだが、今回は何も言えないという。不思議なものだ。たった1日違いで、不起訴と起訴相当と、運命が分かれた。
 カンダタ=小沢に罰が当たったのかと思えば、救われたほうの鳩山首相もまるでカンダタのごとき発言をして素知らぬ顔である。
 どちらも自分だけが助かることしか考えていないようだ。
 いい加減、ことの重大さを思い知って、二人揃って消えて頂きたい。パンドラの箱を開けておいて、知りませんでしたでは国政を担う政治家として無能すぎるように思われる。自分だけ助かろうとするかのような双方の発言も、あまりに醜い。見るに耐えがたい思いがするようだ。
 しかし、その先どうなるだろうか。
 誰かを裁いて、思考停止にするでもなく、この国の行き先を問うならば、やはり救世主が欲しい。切実に。
 再編や再生を訴える新党が増えるのは嬉しいものの、分裂した野党を結集させて、あのあまりにもおかしな民主党を打破する勢力はでないものか。または民主党でもいい。本当に政界を再編をするならば、党を超えて、日本のことを思うものだけが集結してくれないものか。
 このままでは、日本はあきらかに危険である。
 早急にパンドラの箱を抑え、残された希望を私たちに見せてくれるものが欲しい。
 立ち上がった沖縄の県民大会の人々のように、もしかしたらもうそれは、政治家ではないのかもしれない。誰かを待つだけではいけないのかもしれない。が、正直、わからない。
 箱は開けれた。賽は投げられた。
 なのに、行き先の見えない日本である。
 
 
 
 
 
  
 
 
 

藤を撮りに郷土民家園に行ってみた今日のこと。

 
 
 
 
 昨年のこと。
 藤の花を撮りに出かけたら、見事に枯れていた。
 小田原城址公園に御感の藤という立派な藤棚があると言う。1時間ほど電車を乗り継いで、天守閣を一周めぐり、さて、最後に目的の藤をと思えばそれだ。がっかりして、僅かに残った枯れた花を、ぱっと見ではわからぬようにモノクロで撮ってきた記憶がある。
 今年は撮り逃したくないものだと思っていたら、すぐ近場の公園で藤が咲いていると言うではないか。立派な藤棚ではないようだが、藤は藤だ。
 撮ってやるかと鷹揚に構えて、出かけてきた。
 
 公園の中にある民家園の入口と一番奥に一本ずつ、藤は咲いていた。
 私は藤棚の藤しか見たことがなく、このような低木だったのかと驚かされた。もう少し背が高いものだという印象があった。見つけた藤はまるでミニチュアの梅の木のようである。
 ノダフジというらしい。どうも迫力はないが、マメ科の花は意外と好きなのであった。蔓のような姿で枝垂れるところも粋ではないか。私は藤が大きく見えるようしゃがみ込んで、ローアングルで撮ってみたりするのだった。
 気付くと、藤は人気者だった。狙っているとファインダーのなかに人が入って来る。写真愛好家たちがカメラを片手に後から後から現れる。中には子供連れの方も多かった。民家園の敷地で小さな子供を遊ばせておいて、自分は藤の花と格闘しているのである。
 
 
 

 
 
 民家園には鯉のぼりもそよいでいた。端午の節句のまつりがあるそうだ。藤の花を撮り終えて、戻ろうとすると、三脚を立てて蒲公英の群生を撮っている婦人と目があった。
「奥さん、いいの撮れた?写真長くやってるの」
 と気さくに声をかけてくる。
 奥に藤が綺麗に咲いていると教えると、もう撮ったからいいわといなされた。
「ほら、見てごらんなさい。ここから鯉のぼりを撮るといい感じよ」
 彼女は民家園の窓越しに見える新緑と鯉のぼりを捉えている。確かにいい構図だった。
 私たちは一緒に民家の中に入って、窓越しの鯉のぼりを撮りあった。
「レンズどんなの使ってるの。ふーん、広角なのね」
「マクロレンズですか?」
 大抵今まで出会う方はマクロレンズの方が多かったので聞いてみると、彼女は忌々しげに首を振るのだ。「私はフィルムだから」
「デジタルは色もけばけばしくて嫌いだわ。もうずっとフィルム」と笑って、「撮った後に、現像してどう撮れているのか見る楽しみがあるのよ」
「なるほど」
「どれどれ」
 年のころはもう60歳は過ぎているだろうか、小さなご婦人だが達者そうである。独りでいろいろなところに撮りに出かけるのだと言う。彼女は私の露出を失敗した写真を見て、デジタルは何度も撮りなおせるからいいわね、とまた笑っている。
 シャッタースピードを変えて、再トライ。上手く撮れると、彼女に見せる。
「どうですかね」
「いいんじゃない」師匠のようである。
 そのあとすぐに別れたのだが、最後にひとつ教えてくれた。私の住んでいる駅にあるカメラ屋さんで撮影会のツアーを企画していること。その行き先が渓谷であること。
 つい先日渓流の写真を撮りに行って、散々迷子になり、大失敗をした私は、不思議と何か縁深いものを感じてしまった。まるで導かれているような。
「行ってみるといいわよ。交通費とお弁当が付いて○○円と安いのよ。撮った写真はコンクルールに出して賞を撮ると景品がもらえるわよ」
 彼女は賞品を景品といい、まるでパチンコかゲームセンターでもらえるもののようだ。誰でももらえるものではないだろうに。
「どうせもらえませんからねー」
 ぶっきらぼうに言っても満面の笑みだった。
 撮っている間、彼女はカメラを持って現れたすべての人に語りかけていた。私は「奥さん」、おじさんは「おにいさん」。楽しい会話と笑顔が広がっていく。
 そのあと用事が入っていたので、あっけなく別れたが、もう少しいろいろ教えてもらいたかったな、などと後になって思った。
 じゅうぶん貴重な時間を頂いたのに、我ながら強欲であるかもしれない。
 またいつか逢う日もあるだろう。駅前のカメラ屋さんにも寄ってみようか。
 藤の花から、写真から、ふとした縁も広がっていくようである。
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 

独りであること、未熟であること。 ~高野悦子さんの「二十歳の原点」をふと手にして~

 
 
 

 
 
 
 旅に出よう
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草と笛をもち
 旅に出よう
 
 出発の日は雨がよい
 霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
 萌え出た若芽がしっとりとぬれながら
 
 そして富士の山にあるという
 原始林の中にゆこう
 ゆっくりとあせることなく
 
 
 
 高野悦子さんは一編の詩を書いた2日後に鉄道自殺をした。
 僅か二十歳の時のことだ。詩の結びで、彼女は左手に持った笛を深い湖の底に沈ませる。痛々しかった。笛が何を象徴しているのか、正確なところ私にはわからないが、ただ、彼女の書き残した日記を読んでいる間ずっと、彼女の心の声をまるで笛の音のようだと感じていたからである。透き通った、天高く鳴り響く、生の息吹の溢れ出るような音色であった。
 
 「二十歳の原点」という日記を偶然古本屋で手にし、読んだ時、私は衝撃を受けたものだ。
 そこには、私が二十歳の時には考えも及ばなかった、読んだその時さえ及ばなかった、さまざまな言葉が記されていた。今の私でさえ未だわからぬことを、二十歳の彼女はとうに知り尽くしていて、しかもそれを垂れ流すでもなく、美しい旋律とするのである。日記だというのに!
 
 未熟であること。
 人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。人間は未熟なのである。ここの人間のもつ不完全さはいろいろあるにしても、人間がその不完全さを克服しようとする時点では、それぞれの人間は同じ価値をもつ。そこには生命の発露があるのだ。
 人間は誰でも、独りで生きなければならないと同時に、みんなと生きなければならない。私は「みんなと生きる」ということが良くわからない。
 
 「独りであること」、「未熟であること」、これが私の二十歳の原点である。
 
 
 実家の押し入れの隅に隠れていた本を先日偶然手に取った。彼女の本が偶然私に与えられるのはこれが二度目だった。
 私はその場でぱらぱらとめくり、そうして、そのまま部屋に持ち帰った。もう一度じっくりと読み返してみたくなったのである。
 彼女は「私の中に一人の他人がいる」というランボーの言葉を持ち出してこう言う。そうではなくて、私は、私というものが統一体ではなく、分裂し、無数に存在するように思うのだと。真の自分だと相手だと思い込んでいるものは合理化されて作られた虚像にすぎないのだと。
 そう冷静に分析した後、彼女は「己という個体の完成」を目指そうとするのだ。みんなと生きるために、不完全さを克服するために、自分の世界と他者との世界を、統一体のなかに創造し、完成させようとする。正確に言えば、完成させるための様々な要求を自覚していた。ときに何も出来ず、自らを「山椒魚」にたとえながら。
 彼女は何でも知っていた。私が今頃知ったことも、未だ知らぬことも。
 私は少し疲れていて、そんな聡明な彼女がなぜ死を選んだのか、知りたくなったのだ。
 なぜ、彼女にとって人生は生きるに値しないものとされたのか。読み進むうちに、私は以前に増して、多分年齢とともに彼女の考え方にやっと近づいたからかもしれない、以前に増して共感を覚えるところが多く、途中、ひやひやさせられた。やばいな。傾倒し、このまま引きずり込まれて、あちら側の世界に行ってしまうのではないか。
 などと、今考えると二十歳の少女の言葉にと可笑しくもあるが、本当に、彼女の言葉と孤独は私などとうに超えていて、心の隙間にもしも入り込み、情感が一致してしまったら、戻れなくなる可能性はじゅうぶんあったように思うのだった。
 
 時は1960年代後半で、大学生の彼女は学生運動とマルクス主義に傾倒していく。彼女は自分の部屋の王様で、毎日煙草を吸いながら本を読む。自分に良く似た孤独な、一人の男に恋をし、それが「恋愛の幻想」にすぎないことを知っている。なぜ、この世にはたくさんの男がいると言うのに、一人の男だけに幻想を注ぐのか。二十歳になって、僅か数か月の日記の中で、彼女の幻想の対象は変わっていくが、しかしその切ない幻想は終わりまで続くのだった。死の間際に崩れ落ちるまで。彼女は男に言葉を贈る。
 
 人間が真に人間たりうるのは闘争の中においてのみである。闘争する人間は、大岩におちた一滴の雨粒に似ている。しかし闘争する人間は、その過程の中で自己実現を行い、自己の完成に向かっているのである。
 
 人が不完全さを克服し、統一体になることは、血みどろの戦いであると彼女はいう。人生は闘いであり、人間は闘いにおいてのみ、完成するのである。
 しかし、年老いた私が、おこがましくも言わせてもらえれば、僅か二十歳でそのことを知りつくしていた彼女が唯一知らなかったことがあるということ。いや、知らないというよりは唯物論のマルクス主義からわざと敬遠していたものか、彼女の日記には人を超えたものが一切出てこない。神がないのだった。
 信仰がない。それから、もうひとつ。敵を見誤っているということ。
 国家権力も、階級闘争も、命を奪うものには値しない。
 私はかつて彼女の才能に絶望した。今でさえ、そうだ。しかし、今回読み返して、人生の価値を知ろうとして、私は悔しくて悔しくて仕方がなかった。
 私を絶望せしめるほどの人間が。こんなに聡明で、才能豊かで、これだけ瑞々しくて、生の息吹がはち切れんばかりの少女が、死を選ぶ。闘いをやめてしまうのだ。
 
 1時から6・15闘争報告集会がある。私はいかない。なぜ? すべてに失望しているから。アッハハハハハ。
 全くの独りである。そこから逃れることができない。
 自分を強烈に愛するということ、それが私には欠けていないか。なぐられたら殴りかえすほどの自己愛をもつこと。
 
 ちっぽけな つまらぬ人間が たった独りでいる。
 
 とにかく私は いつも笑っている
 悲しいときでも笑っている
 
 今や何ものも信じない。己れ自身もだ。この気持ちは、何ということはない。空っぽの満足の空間とも、何とでも名付けてよい、そのものなのだ。ものなのかどうかもわからぬ。
 
 日記の後半、彼女の悲痛な叫びが止まらない。
 しかし最後の最後に、まるで奇跡のように。ふと静寂が訪れて、冒頭の一編の詩を残すのだ。風のない湖面のような、静謐な、澄み渡る心情を言葉にして。
 
 小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
 中天より涼風を肌に流させながら
 静かに眠ろう
 
 独りであること、未熟であること、それを知るところから始めようと語っていた少女の人生はあっけなく奪われた。
 読み終わった私には相変わらず生の価値は本当にはわからない。独りであり、未熟であるだけだ。
 だけど、この歯ぎしりするような悔しさは彼女に届くだろうか。
 この人生という敵は魔物だ。思う以上に手ごわく、そして、道のりは険しい。たとえ大岩におちる一滴の雨粒であろうとも、私は決して、笛を手放したりはしないだろう。
 奪われたものの分まで、最後まで、闘い続けてやるのだと。
 
  
 
 
 
 
 

「外国人参政権に反対する一万人大会」を終えて。

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 平成21年4月17日、土曜日。私は武道館の2階席に座っている。
 前回ここにいたのはもう20年近く前のことだ。その時ステージに立っていたのは長い巻き毛のミュージシャン、今日の政治家先生たちとはまるで違う。私は自分の変化と言うより、節操のなさに、笑った。
 隣では体格のいい青年がもぞもぞ動いてせわしない。ときどき私の腕をすっ飛ばす。集中できない。やっと見つけてありついた席なのに、どうもババをひいてしまったようだ。青年が多分トイレだろう、席を立つと、私はようやく落ち着いて主催者から手渡されたカタログを読み始めた。
「外国人参政権に反対する一万人大会」
 冒頭にある、反対する、という文字を見て、なるほど、壇上は政治家先生ばかりだがこれも反体制側の主張ではあるのだな、とふと思う。ロックミュージシャンとの共通点を見つけたつもりなのだ。まぁ、たとえあの時の彼らが反体制を気取っていたとしても、しょせんショービジネスの世界に組み込まれたれっきとした「プロ」であったように、今日の私も夏の参議院選挙に向けて一票も多く票を獲得したい各党の先生方のプロ根性を目の当たりにすることになるのだが、それは後の話。このときの私は、これから始まるドラマにわくわくしている。20年前のように、ステージの彼らとこちら側の私たちの魂と魂が触れ合うような、熱い、ほとばしる思いを感じ合うことができるのではないかなどと考えている。
 前の列では、見覚えのあるでかい青年が歩いている。どうやら一列間違えたようだ。黒のライダースジャケットとジーンズ姿の彼は、私の斜め前の空席(そこにも空席があったのか!)に座ろうとして、席取りのためにおいていったカタログがないことに気が付いてきょろきょろしている。私はよほどカタログを渡してあげようかと思った。出来れば、私の隣に戻ってこないで、ずっとそちらにいてほしかった。
「そちらへいかれますか?!」
 声がしたので見ると、私の左隣のご老人、どうやらでかい青年の右隣に座っていた方らしい。彼はカタログを取って渡してあげようとする。
「いえ、戻ります」
 老人と私はがっくりと肩を落とした。が、青年の挙動不審は怪しいものではなくて、どうやら知能障害だということに私は気が付いた。しゃべり方が特有の舌足らずだったのだ。おまけに、抑揚がなく、異常に大きな声である。それならば仕方ない、悪意はないのだから寛容にならなければ。障害がありながら日本国民の決起集会にたった一人で参加するとは、素晴らしい心意気ではないか。そうだ、たとえステージに生まれて初めて見る亀井静香金融担当大臣がいようとも、平沼さんや関岡さんがいようとも…
「2時から始めさせていただきたいと思います」
「すみません、前のその席空いているんですかね」
 会場のアナウンスと同時に、私は身を乗り出して前の席のご老人に声をかけた。やはり青年には申し訳ないが、これから始まる2時間余りを集中して過ごしたかった。障害者差別などでは決してない。が、無事席を移して、開会後に国歌斉唱が始まると、またしても私は青年にひどい仕打ちをしてしまう。
 笑いが止まらなくなったのだ。
「きー!みー!がー!あー!よー!おー!はー!」
 彼の歌声のばかでかさと抑揚のない独特の節回しがツボにはまって仕方がない。記憶に残る限り、生まれての経験である国歌斉唱を私はほとんど歌うことができなかった。神妙に歌いだしては吹き出し、また顔を真面目に戻して、歌いだしては吹き出し。隣のご老人二人組に諭されるような熱視線を食らい続けた。
 最初の挨拶は初代内閣安全保障室長の佐々淳行さんだった。そのあと各党の政治家先生の挨拶と続くのだが、さすがだと感心したのは、皆さん声が大きい。それに喋り方がうまいのだ。間の開け方も抑揚の付け方も、言葉に説得力を持たせるに十分だった。散々街頭演説や公園などで場数を踏んでならしているのだろう、その腹から出す声は、まるで空中に拡散せずに、そのまま直球で、こちらの胸や腹に突き刺さってくるようだった。
 佐々木さんはお身体が悪いのか、手を引かれての登場。介助を受け、大儀そうに壇上に上がられる。で、不安げに見守れば、開口一番前述の語り口調でずんと胸を射抜いてくる。腐っても鯛とはこういうことを言うのだろうな、と私は妙なことを思っている。「政治は言葉の遊びではありません!命がけで国民を守るという覚悟なのであります」とはそのあとの亀井大臣の弁だが、いやはや、言葉遊びではないと言いながらも彼らは言葉の扱いが死ぬほど上手い。政治家や、佐々さんのように人の上に立つもの、指導となるべく生まれてきた人たちというものは、聴衆するものの心を奪う言葉の術を生まれながらに身につけているのではないかと思われた。多分、たとえあと何十年の時が過ぎて、彼の病状が深刻な事態となったとしても、やはりあの腹から出す直球の語りかけは変わらないのではないか。命の灯が消える寸前まで誰かの心を奪う言葉を発しているのではないかと思えてくるのであった。
 佐々さんから外国人と日本人の闘争の歴史の流れ(キャリア組警察官からの視点で)を聞いたあと、彼によって今度は各党の代表者の紹介がなされる。
 まずは、現金融担当大臣であり、今国会での法案提出を阻止した功労者、亀井静香大臣である。
「亀井君、彼はね問題児、」と私たちを笑わせた後、佐々氏はこんなエピソードを紹介する。
「首相も外務大臣もだめだっていうの。それを首相と外務大臣の許可もないまま、頼んだらね、彼がはいとすぐに二つ返事でやってくれた」
 阪神大震災の災害対応の話である。
 武道館アリーナから3階席まで一万数百名、全員がおお・・という声を漏らす。あの時は政府の対応が遅いと批判されたが、それでもましだったのだ。亀井大臣がいなかったらもっとひどいことになっていたのかもしれない。いのちを守りたい、などと阪神大震災を持ち出しては軽薄にアピールするこの国の首相はその時どこにいたのだろうか。私たちは全員大拍手で亀井大臣を迎える。
「みなさん、今この国がどんなに恐ろしい状態になっているか知っていますか?こんな国にいったい誰がしたんですか?」
 ところが亀井さん、やはり問題児らしさを発揮して、大ブーイングを食らうのであった。参議院選を意識して、自民党批判を繰り広げる。
「関係ねーだろ!参政権のこと話せ―――!」とあちこちから大きな野次。せっかく感動した直後だったのに、なんてもったいないことか。彼にしてみれば外国人参政権は反対だが、参政権に反対するの国民票がすべて民主党から野党に流れたら困るところなのだろう。連立与党としては、参政権は反対だが、そんな危ない日本を作ったのはそもそも自民党だということを強調しておきたいところらしい。
 この亀井さんに対する感動ムード→野次で、一気に私はここが各党の宣伝場所だという事実を悟りがっかりしてしまった。もちろん日本を守りたいとか信条的なものはみなさんあるのだろうが、その前にまずは票集め。まずは党のアピール。食うか食われるかの戦場なのだ。よく考えれば大物政治家が入場無料の集会にこれだけ集まるのだから、みなさんそれなりの宣伝効果を期待しているのは当然だったのに、私は純粋に信条の繋がりのみで各党の政治家が集まったのかと思い込んでいたのである。
 で、亀井大臣自民党批判よろしく始めたが、大ブーイングを食らったので、一気に話の流れを変えていく。(この180度転換もまた見事だった)今の日本は今何が起こってもおかしくない。危険な状態です。夫婦別姓、外国人参政権!(参政権・・と聞き野次がおさまる)
「外国人参政権がこの国の崩壊につながるのは当然であります」(大拍手)
「今国会で通らなかったのはあたながたが今野次を飛ばした、この私、この国民新党が断固反対したからであります」(大拍手)
「国民新党は夏の参議院選も決死の覚悟で臨みます」(大大大拍手)
 言葉尻は正確ではないが、このような主張で武道館の観衆の心を鷲掴み、国民新党を大アピールして終了する。席に戻ると、隣の大島幹事長は苦虫をかみつぶしたような顔。
 外国人参政権反対派に一番貢献しているのは国民新党だと聴衆の前で念を押されたようなものであった。いくら自民党が県議会を回って反対票を集めていても、国会では何一つ出来やしなかったではないか、と。「亀井のやつ・・・」という大島幹事長の内心の声が聞こえてくるようであった。
 反撃が始まった。次に壇上に歩み出た大島さんは礼儀正しく佐々氏に一礼。先ほどの親しみ深い亀井大臣の挨拶とはまるで違う。破天荒な亀井氏のあとだけに大島幹事長の礼儀正しさが際立って好ましく映っている。彼の主張は日本の安全保障と国民主権を守ることだ。
「今、日本の主権を守らなければなりません。国民の固有の権利を守るために我が党は党をげて戦っていきます」(大拍手)
 そもそも外国人参政権に反対する方々は自民党支持の方が多いのだろうか、大島さんが言うことは何を言ってももてはやされていた。また、問題点を党として参政権に反対か、賛成か、という事実のみに絞り、民主党(与党)=賛成、われわれ=反対=あたなたちの味方、という図式でわかりやすくアピールする。亀井さんがいくら貢献していようとも、彼は与党の一員で参政権に賛成している民主党の仲間です、本当の味方は私たちですよ~とさりげなく自民党を売り込む。大拍手が沸き起こる。
 挨拶を終えて、大島さんが席に戻ると、今度は亀井さんが苦虫をかみつぶしたような顔になっている。大島さんが彼に向って、ふふん、と笑ったように見えた。
 面白れぇなぁ…
 ここにきて、私は先ほど失望した思いも、自分の国を憂う気持ちをもすっかり忘れ、政治ショーを楽しみ始めている。なんとこの後、みんなの党の渡辺喜美さんまで現れたのである。彼はわざわざ予定を変更して駆けつけたという。外国人参政権反対派の国民票を逃すものかと、必死の思いが伝わってきた。
「みんなの党は政治のゆがみを直します!」
 彼は小さな体をあっちこっちに動かして、腰を曲げたり、手を差し出したり、拳を振り上げたり、身振り手振りで演説をする。声色も面白いように使い分け、党のアピールと聴衆に語りかけるときは猫なで声、民主党批判はあからさまに怒った声で、それが芝居がかっていて、本気よりも本気らしく話すので本気だとは思われないほどだった。彼もわかってやっているのだろう、演説途中まで、つい先ほどまでは国民新党、自民党側に寄り添っていた聴衆を全部かっさらうかのような第三極ぶりをアピールし、亀井さんと大島さんの危機感と警戒心をあおり続けた後、最後の最後でジョークに転ずる。
「みんなの党は調査によるとなんと公明党を上の第三党なっているのです!ネットの調査では自民党の上を行っているものもあるそうです!このままいくと第二極になる勢いです。えっ、第一極でもかまいませんよ!みんなの党が、第一極になれば政治のゆがみを直します!ぜひよろしくお願いいたします!」
 自民党より上だの、民主党を抜いての政権取りだの、そこまでいくと明らかに現実的ではなく、誇大表現の「笑い」である。それを見越して、自ら道化となって聴衆も他党の面々も笑わせては、安心させている。この後、渡辺さんは各界のみなさんの演説を聞かずにすぐに帰られた。調子の良さと要領の良さが目立ちはしたものの、「みんなの党」の愉快な印象は頭にしっかりと残された。難しい話は忘れても、これはみな忘れないだろう。
 民主党の松原さんは大ブーイングで迎えられた。やはりこの反対する大会では、推進する民主党はテキなのだろう。「ひっこめー」だの「党に帰れ」だの次々と野次が飛ぶ。
 こちらもまた、まずは政党なのだった。多分この集会で(一般参加も多い)民主党の票が全部流れることを阻止しようと、党から送り込まれた刺客のようなものなのだろう。個人的な信念も理念も国思う熱い思いも、誰よりも伝わってこなかった。権威ある名前や言葉を始終持ち出しては、それに対して自分も同じ思いだと訴える。が、知識を披露するたびに、野次が飛んで苦笑いする。あまりにも、とほほ・・・な状態だったので、最後には聴衆たちが同情的になり、「しっかりやれよー」「がんばれよー」などと励ましの声が飛んできた。
「民主党にも法案に反対する者たちがいるということを忘れないでください!」(大拍手)
 党から送り込まれたのか、監視されているのか、(民主党の面々はステージにではなく、アリーナの最前列に座っていて、批判が飛ぶたびにモニターに映し出されていた)それとも政権の退陣後を見越して個人的就職活動をしているのか。そんなもんでしょ、と思うくらい全く心を撃たれない。まだまだ政治家未満、テレビで見ると楽しい人なんだけどタレント向けなのだろうかと疑問に思いつつ・・・
 圧巻はたちあがれ日本の平沼さんだった。
 様々な党のアピールがあったので、新党をたちあげたばかりの彼がどう演説するのか楽しみだったのだが、こちら全く党を意識していない。
 何も、党の宣伝をしないのだ。政治ショーを楽しみ始めていた私は、はっとさせられた。
「よく鳩山君がいのちいのちというけれど、いのちをかけているのは彼ですよ。平沼君はいのちがけでやっています」
 とは佐々さんの平沼さんの紹介の弁だが、党自体を紹介したのは佐々氏だけだったのではないか。本人は語っていない。平沼さんと与謝野さんが二人とも大病をしたこと、そしてその後のいのちをかけて、いのちがけで国のために尽くそうとしていることを訴えられた。
 平沼さんは涼しい顔で、対馬へ偵察に行った時の経験談を語っている。天皇陛下の記念碑が立っている、対馬で一番見晴らしのいい立地を韓国人に買い取られて、日本人は入れないこと。航空自衛隊も海上自衛隊も駐在しているものの、一機の飛行機も一隻の船も(対馬にいる自衛隊は)持っていないこと。対馬のかつての港祭りは今は「アリラン祭り」ということ。アリラン祭りには韓国の有力者が現れて、「対馬は韓国の領土です」と書かれたたすきをして演説をすること。
「訓練したものが駐在していると言っても艦船に航空機もない。もしも誰かが銃を持って攻めてきたらどうやって守るんですか」
 言いたいのは自主憲法制定の哲学というよりは、日本には日本と日本国民を守ろうという気概が抜け落ちているということらしい。日米安保も大切だが、それをしっかり守っていかなくてはいけないけれど、しかし、私たちが住んでいる国、私たち自身たちを、私たちが守ろうというひとりひとりの覚悟。それはないんですかと。問われているように思えた。もちろん、守るのは彼だと言う。佐々氏に先ほど言われたように、命がけて頑張ってまいりますのでよろしくお願いいたします、と確かにそうおっしゃられている。話の始めはかすれた声で、トーンも低く、腹から響く声というよりは少々弱弱しい。老人の声。ところが体験談のあと、意思を伝える頃には朗々となり、一語一語を区切って、はっきりと。
「全国の皆様方の力が沸き起こって、それが国を動かしたわけです。どうかお力をお貸しください」
「平沼赳夫、命がけで、頑張ってまいります」
 それは私たち全員への覚悟を問う声で、私たち全員の答えでもあった。多分、私だけではなく、あの場にいたものすべてがショーを忘れて、心をひとつにした瞬間だった。
 沸き起こる拍手、なかなか鳴りやまない。外国人の参政権の話だけではなくなっている。拍手で彼の演説が聞こえなくなるほどだった。
 心からの言葉だった。何も犯されておらず、それよりも優先されるものは何一つ存在しなかった。
 私は若き日のことを思い出している。音楽も、政治も、同じなんだ。自分が変わったわけでも、節操がなかったわけでもなかった。
 そして、悟ったつもりになって、失望した自分をこそ恥ずかしく思っている。
 
 
 
 ※余談だが、各界からの提言で、一番聴衆の心を捉えていたのは、エドワーズ博美さんの演説だったように思う。
  冒頭に動画を貼り付けておきます。
  彼女の言葉を聴くと、「私たちを守る覚悟のない私たち」の時代の異常さが浮かび上がってくるようだ。
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
  

立ち上がれ、日本! ~揶揄的な「たちあがれ日本」を思う~

 
 
 
 
 街頭で、マイクを向けられた今風の女子がこう答えていた。
「あの党名がありえないわ~」
 新党「たちあがれ日本」のことである。
 私自身、比例代表の選挙用紙に「たちあがれ日本」と書くところを想像すると、どうも背中がむず痒くなるような思いがする。
 平仮名なのもさることながら、年代のせいか、「あしたのジョー」を思い出して仕方がないのだ。
「立て、立つんだ!日本~!」
 実際、今日本は打ちのめされていて、立ち上がらないとにっちもさっちもいかない状態ではあるのだろうが、丹下段平のあの顔と声を想像すると、切実なる応援団というよりは、ギャグのように映ってくる。
 多分、「たちあが・・・」と四文字目を書いたあたりで、吹き出すだろう。やっぱり駄目、ごめんなさいと、意思に反して「民主党」と書いてしまいそうで恐ろしい。
 その他には「あんな人たち(老人という意味で言っていた)に政党助成金を税金から払うなんていやだわ」というテレビタレントの意見もあった。
 「自民党の老人の家出」とか、「定年退職後の再就職」とか、「立ち枯れ」だとか、一番マシなところで「シルバー政党」だとか。メンバーの平均年齢が70歳というところばかりがクローズアップされて、あっちでもこっちでも散々な言われようである。
 政策の面でも印象が悪い。「将来的に消費税を15%に増税する」という財政再建と経済成長を目的としたものばかりが取りざたされているようだ。増税という言葉に国民は敏感だ。ならば、バラマキの民主党のほうがまし、と安易に思われてしまいそうである。
 石原都知事がいくら「揶揄をするのは簡単だが・・」と声を張り上げても、繰り返し流れるのは国会議員たちやコメンテーターたちの揶揄的なコメントばかり、街頭インタビューの揶揄的な意見の映像ばかり。簡単に揶揄されまくり、強烈なパンチを食らい続け、これでは、たちあがらなければいけないほど弱っているのは、日本じゃなくて当人たちではないのかと揶揄的に突っ込まれてしまいかねない。
 前途多難だなぁと、つくづく不憫に思えてくる。
 平沼さんという人は、それにしても情報戦争に弱い人だ。郵政民営化の時の悪夢再び、といった感もあるのではないだろうか。(あのときも揶揄された映像ばかり流れていたようだが・・)
 真の保守を貫く彼が、なぜいつも情報戦争でやられては、隅に押しやられるのか。
 「日本」という二文字を掲げて、(しかも「たちあがれ」付きで)新党を作らなければいけなかった本当の理由は何なのか。
 国の未来と国益とを思うその意思は、どうして「あえて」伝えられないのか。
 私はそれを思うと、日本は立ち上がらなければいけない、と再確認せざるを得ないのだった。
 そして、きっかけを作るのはまたしても、すでに日本を築き上げてきた者たち、老人だ。皆、揶揄している場合じゃないだろう。
 立て! 立つんだ! 日本。たちあがれ、日本人!
 と、熱くエールを送りつつ、たちあがれ日本のpre-siteを見てみると・・・
 
 
 

↑中央の平沼さんの顔、注目。

 
↑好感度大のシルバー微笑み。
 
 
 なんと、とってもシルバーパワー全開の写真ではないか。
 どう見ても、「老人」の揶揄を逆手にとって、ウケを狙っているとしか思えない。
 意外と、平沼さんは情報戦争に強いのかもしれない。強くなったのかもしれない。さすが散々やられ続けただけのことはある。
 と、彼らの大真面目さに感心しつつ、私もむず痒がっている場合ではないと自分を戒めてみたりするのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 

永住外国人地方参政権に反対する国民フォーラムさんより(拡散します)

 
 
 
 

 

 

 おかげさまで、4月11日現在、参加申込み数は7千名をこえましたが、まだまだご入場できますので、皆さんの知人・友人にお誘いいただければ幸いです。事前申込みがなくても参加できますが、座席の確保などの関係で、できるだけ事前申込みにご協力願えれば幸いです。

 もちろん、事前申込みをなさらなくても、ご参加は可能です。その場合は、Dゲート「当日受付」にお越しいただき、受付をしていただきますので宜しくお願いします。

【事前申込み方法】 主旨に賛同される方でしたら、どなたでもご参加できます。できるだけ事前に下記のFAXまたは電子メールまで、「武道館大会参加申込書」と明記し、①氏名、②住所、③年齢、④電話番号、⑤ご参加人数をご記入の上、ご送信下さい。当日は、事前にFAXまたはメールで送信された「参加申込書」を印刷してご持参の上、「Dゲート(南東口) 事前受付」までお越しいただければ、スムーズにご入場できます。プリンターをお持ちでない場合は、名前と連絡先を書いた紙をご持参ください。
●お申込みFAX  03-5157-5657(24時間受付中)
●お申込みメール  kokuminforum@gmail.com

【要 項】
日時 4月17日(土) 開場12:30 14:00~15:30頃 
会場 日本武道館
各界有識者と政治家が提言(予定)
佐々 淳行(初代内閣安全保障室長)
亀井 静香(国民新党代表、金融担当大臣)
大島 理森(自由民主党幹事長)
平沼 赳夫(たちあがれ日本代表)
石田 一夫(UIゼンセン同盟副会長)
百地 章(日本大学教授)
関岡 英之(ノンフィクション作家)
エドワーズ 博美(メリーランド大学講師)
ほか、民主党議員、都道府県知事、議会議長などが挨拶予定

主催 永住外国人地方参政権に反対する国民フォーラム
電子メール kokuminforum@gmail.com  

 

 

 
 

ご来場の皆さんへのお願い

 事務局の方に、会場の日本武道館及び北の丸公園で、「参政権反対のチラシを配布したい」「参政権反対のプラカードを掲げたい」という問合せがきています。しかし、北の丸公園及び日本武道館では、チラシ配布もプラカード等も禁じられています。皆さんのご協力をお願いできましたら幸いです。

 

 

 

桃源郷と四本目の大山桜。

 
 
 
  
 
 
 何のために生きているのかと訊かれたら、迷わず「金曜の夜のために」と答えた。当時の私にとってそれ以外の曜日は、長い、長い、苦痛の時でしかなかった。
 好きな人がいたのだ。
 彼と過ごす週に一度の夜のためだけに、すべてを耐えて、生きていた。
 ある日、職場の同僚に涙ながらに訴えたことがある。
「こんな糞みたいな人生だけど、それがあるからやっていけるんです」
 確か、金曜の夜のシフトを突然変えてくれと言われたのだと思う。十年前のことだ。販売職をしていた私は、カレンダー通りの休日のエリートの彼に合わせるために、金曜の夜を早上がりにし、土曜の朝を遅出にして、何とか時間を作っていた。
 私の涙は、しかし同僚の胸には何も響かなかったようだ。私の言葉は、無残にも宙に浮いた。
「そんなことだと思ったわよ・・」
 彼女は顎を逸らして、軽蔑するように私を見た。包装台の上の電話を手に取って、任務が「こじれた」ことを報告をしたのだった。
「もしもし、店長・・」
 

 山桜が見たかった。隣町に桜山という小さな山があると言う。ハイキングコースを行けば、四本の大山桜を見ることができるそうだ。大山桜はヤマザクラの変種だからいいだろう、私はそう納得して、出かけることにした。
 三本の大山桜は、実は一昨年見たのだった。最後の一本を見逃したこと、それと自生の山桜を上手く撮ることができなかったこと、そのふたつがずっと心残りだったこともあって、今回の再訪に繋がった。
 山桜が見たい。今度こそ四本すべてを綺麗に撮りたい。
 今の私ならば出来るような気がしていた。あのころとは違う。写真だって少しは上達しただろう。
 都心から一時間ほどの駅を降りて、通称「桜山」へと向かうバスに乗り込む。満杯だ。もっと詰めてよ。これが限界だよ・・リュックサックを背負った親子の会話が耳元で聞こえている。乗車ドアの段の下まで人が乗っていた。マスクを持ってくればよかったとふと思う。私は目と口をぎゅっと閉じて、下を向いた。手すりのポールにつかまって、大山小学校入口の目的地まで二十分、そうしていようと足を踏ん張って、ふと前の椅子に座っていた男性の声を聞いた。
「見てごらん、里山の桜が綺麗に咲いているよ」
「あら~ こりゃすごいね」
 顔をあげた。並んで座った男性二人が窓の外に身を乗り出していた。私も人の頭越しに窓の外を覗き込む。丘陵の民家の傍のいたるところに桜が咲いて、男が言うように懐かしい昔の里山といった風情である。バスが進むたび、民家は遠くなっていった。こんもりとした山がいくつも連なっては見えて、草の緑から落葉樹の枯れ木の間から薄紅色の桜の花が見えるのだ。一本、二本、三本、しまいに数えきれなくなる。続く里山の景色と桜は同化していて、まるで桃源郷のようなひとつの世界だった。
 私は焦り始めた。もしかして、目的地を間違えたのではないだろうか。
 このバスに乗っている人たちは、みんなあの里山の上へと向かっているのではないだろうか。
「今日は最高の一日だね・・」
 インターネットで下調べをしたときには、そのような名所はなかったが、私が向かっている桜山には桜が四本在るだけではないか。あの夢のような、浮かび上がるような里山の光景にはかなわないような思いがしてきた。バスの終点はしかし知っていた。あの桜の群れに行くわけではなく、行き慣れた観光地としての山だった。いや、もしくはハイキングコースのひとつにあの里山沿いのものがあるのかもしれない。今ここにいる人たちはあの桃源郷で花見をするのだ。
 バスの方向が里山へと向いていないか、私は何度も確認する。リュックを背負って楽しそうに会話をする人たちを漠然と眺めながら、出し抜かれたような置いてきぼりを食らったような哀しい気持ちになりながら。「・・・小学校前~」アナウンスがいつの間にか流れていた。私が降車のボタンを押すと、すでにブザー音が鳴り、赤いランプは消えていた。
「すみません、すみません」
 前回このバスに乗った時もここで降りたのは私だけだった。誰も降りるわけはないのだと、私は大きな声を出した。通路に立つ人々を少し強引に掻き分けて、運転席横の降車ドアへと向かっていく。意外なことにひと組の団体が一緒に降りた。年配の男性二人と女性が二人。すぐににこやかに話を始めた。あっちかしら・・・あら、あそこにも桜が。綺麗ねぇ・・

 
 
 
 

小学校の染井吉野。

小学校の染井吉野。
 
 
 
 彼らと重ならないように、私は大山桜へ向かう道から少し逸れて、小学校の桜を撮りに行った。校庭をぐるりと囲むように満開の染井吉野が並んでいる。この町が丘陵の上なのだろうか、私の町より開花が遅いようだった。グラウンドにぽつりとサッカーゴール。フットサル用のハンドボールのサイズの小さなものがなぜかひとつ。その横と後ろを守るように桜、桜。青空の方向を見上げて、真下から桜を撮ってみた。まだ若い花だ。蕊が透けるように白かった。
 ひとしきり撮ってから団体の彼らのあとを追いかけた。小川を渡り、前回と同じように、動物の侵入を防ぐための金網の扉を開いて、桜山へと入っていく。小川というより渓流なのだろうか、ハイキングコースの横をずっと続いている。せせらぎの音、小さな滝の段差から流れ落ちる音、小さな水の音と大きな水の音が合唱のように聴こえている。
 五分ほど歩くとすぐに下大山桜が見えた。杉の木立の間から薄紅色の灯籠のように仄かに映っている。前情報では前日開花したばかりだそうだが、今日は天気が良かったせいか、すでに三分から五分は花開いているように見えた。この桜で去年痛い思いをしたのだった。
 どう頑張っても、全体を撮れる場所がひとつしかない。しかもそこは樹齢四百年の大木を捉えるには余りにも近距離だ。魚眼か超広角のレンズがない限り難しい。前回はどうにか切り取って撮ったものだが、おかげで綺麗に撮るというよりはかろうじて収めた、というだけだった。今度こそはどうにか撮りたい。
 しかし、私は忘れていたのだ。彼らは愛でられるために数百年の時の前からそこにあったわけではないということを。だからこそ私は撮りに来たのではなかったか。容易に花鳥風月の写真など撮らせてくれはしないのだった。私は何度もアングルを変えて、どうにか撮れる場所を探して、しまいにはハイキングコースから外れて、山の道なき道を登って行った。鹿の糞があっても気にも留めず、しゃがみ込んだり、片手を突いたり… が、見えた、と思うと杉の木立が邪魔をする。あるいは、生い茂る黄と赤の三椏(みつまた)が邪魔をする。また、満開ではないので写った写真は花の色が薄く、寂しくて、どうにも絵にならないのだった。
 
 
 
 

下大山桜。まだ三分咲きくらい。

上大山桜。5分と聞いていたが、満開に見えた。
 
 
 
 私は愕然とした。二年前より撮れないのだ。今ならもっといいアングルを見つけられるだろう、などと。なんと愚かな過信だったかと思い知るしかなかった。
 認めるのが悔しくてずいぶん粘ってみたが結果は同じだった。
「上手く撮れましたか」
 あまりにも私が必死なので、年配の観光客が気の毒そうに声をかけていく。いや、難しいですね、と難しそうな声で答えると、そのあとは会話にもならなかった。気まずそうに去っていく。
 後からやってくる家族連れやハイカーたちに私は挨拶をする余裕さえなくなっていた。無言で、先に行ってもらったり、追い越して、アングルを探している。ついに日が陰ってきた。太陽が照っているだけが救いだったのだが、陽も当たらないと、鬱蒼とした杉林に隠れて、三分咲きの大山桜はただの枯れ木に見える。または白い、曇り空の背景と同化してしまうのだった。私はついに諦めた。
 山桜を見たかっただけなのに、写真を上手く撮りたいと欲が出た。一昨年の私を克服したいと、超えた証明を手にしたいと焦りが出た。これではお日様も隠れるわけだ。
 私は落ち着いて、山桜を堪能しようとその後何度も思い返すのだが、やはりその上の上大山桜でも同じことだった。失敗する、何度も撮る、陽が隠れる。待つ。お日様が見える。撮る。撮る。失敗する。撮る。隠れる。待つ。何の教訓にもなっていない。お日様と追いかけっこをしているように、山桜を堪能とは程遠いところにいた。
 衝撃を受けて我に帰ったのは、十人ほどの団体の年配者の一言だ。
「まるで桃源郷のようだねぇ…」
 それまで私は若い女性たちが「桜のカーテンのようねぇ」と言おうが、年老いた女性ハイカーたちが、「○○ちゃん、ほらここ赤いミツマタ」と大声を張り上げようが、びくともしなかった。二本目の上大山桜は満開で、先程の下大山桜よりは撮りやすかったのだが、それでも満足のいく構図もアングルも得られていなかった。ましてや美しく撮ることなど出来やしない。それは、耐えきれない、とまではいかないが、屈辱的なものには変わりなかった。私の二年間は何だったのかと、その時は無意識にだとしても、「無意味だった」と結論付けるに足るものだった。とにかく、たった一枚でいいから、納得のいくものが撮りたいと願っていた。人の声など、かまってはいられないのだ。
 しかし、桃源郷と聞いた時に、私は、はっとした。バスの中でのことを思い出した。
 見ると、大山桜の遥か眼下には町の景色が広がり、そして里山の景色が広がり、点々と、あの美しい桜色が見えるではないか。
 まさに、朝見た桃源郷の景色だった。
「本当だ… 綺麗だねぇ」
 男たちは立ち止まって、景色を見渡している。上大山桜が桃源郷の里山に覆いかぶさるように、大ぶりの花をそよがせている。さらさらさらさら。四本しか桜の木がないこの桜山は、バスの中で見た里山よりも遥かに高いところだった。そうして、今私の眼下に桃源郷が広がっているのだった。
「お~い、ここらで男四人を撮ってくれよ」
 男の一人が道の下にいる一人に声をかける。
「ほら並べ並べ。○○が撮ってくれるぞ」
 カメラを手にした男は、苦笑いをしながらこちらにレンズを向けるのだ。
「その位置じゃ桜が入らねぇよ」
「入らないか。いいや、俺たちが桜みたいなもんだ」
 大笑い。記念撮影をして気がすんだのか、並んで山を降りていく。
 上大山桜の上の桜山の天辺に「最奥の大山桜」と言われる一本がある。彼らはそこまで行かないのか、それともすでに見た後で降りたところだったのか、気が付くと林道を登っているのは私だけだった。若い女性の二人組も、婦人たちのハイカーも、満開の上大山桜を愛でて帰って行った。僅かに一人とすれ違っただけで、後は頂上まで誰とも会わない。前回来た時に一番私が気に入った最奥の大山桜はまだ五分咲き、山桜は赤い葉が先に咲くのか、枯れた後かと思うほど葉が目立ち、花が寂しい姿だった。おまけにこの小さな頂は桃源郷とは反対側に位置していて、見渡す景色もそう美しいものではない。私は寂しい山桜の木の下で休憩を取った。やはり、ここが一番落ち着くのだった。
 山を登るのは、達成感を得るため、眼下の景色の美しさを知るためだと思っていた。しかし、私はベンチ代りの横たわった木の幹に座りながらぼんやり考えている。
 今までに見た美しい光景の数々。煌めく夜の町や、小さな町や川や限りなく広がるあの景色たち。まるで桃源郷のようなあの場所は。
 それは私が住んでいるところなのだった。そして、今、桜の傍に座り込んでいる私の景色は、落葉樹の木の幹がむき出しになり、枯れ木が立ち並び、花のない大山桜がぽつりとあるだけの、寂寥としたところで、土から出る根もベンチの木の幹さえ、まるで屍のように思えてくる、まさにそんな場所なのだった。
 私は立ち上がった。休憩を終えて、これから前回見逃した四本目の大山桜を見るのだ。百メートル程戻ると、道が二つに分かれている。ひとつはバス停のある小学校方面、今登ってきた道だ。こちらには大山桜の標識がある。もうひとつの獣道には標識がない。この細い道を選ぶと、四本目に辿り着くのか、私はそちらに歩き始めた。
 
 
 
 
最奥の大山桜。辺りは木の根が突き出た土。
四本目の大山桜を探して裏山へ。寂寥としたスイッチバックの道を行く。 
 
 
 
 
 不思議なもので、獣道は突然消えるのだった。何度も、突然山の斜面とぶち当たり、道が消える。きょろきょろすると、斜め下に山道が見えている。その視線をたどると、私の背後に戻ってくる。登山鉄道のスイッチバックの要領だった。まさか道が突然後ろに切り替わるとは思わずに、ぐるぐる見まわしても気が付かない。妙に感心しながら(今まで登った山ではここまで露骨な真後ろ道はなかった)寂寥とした山道を行く。
 この裏山のコースはあまり人が通らないのか、最後までスイッチバックの獣道だった。すれ違ったのは白い山伏のような格好をした若い男。下にある神社の神職の方だろうか。白装束にも見えるのだった。表山と違って陽もささず、雨水が乾かないのか、道が始終濡れていて足場が悪い。枯れた木々は何度見ても何の木だかさっぱり分からなかった。真っ赤に焼けて幹の樹皮の剥がれた木。アカカシだろうか。深くしわが刻まれたようなコナラ、もしくはイヌシデ。ツルツルの幹に横皺が入っているのはモチノキか。彼らの根の傍に細い枝が立ち並び、合体するように絡みあって、木の葉もどちらのものだかわからない。酷くなると、常緑樹か、落葉樹かさえも判断できなかった。ただ、見慣れない姿と、鬱蒼とした裏山に茂る姿が不気味で、異様で、枯れた姿も倒れた姿も、骨か屍のように見えてきては仕方がないのだった。
 途中、最後の大山桜に出逢った。こちらは写真を撮る気にもならぬほど、無残に枯れていた。前情報では強風のため枯れたらしいと書かれていたが、本当に、僅かに花弁を残しているだけだった。おまけに大山桜と行っていいのか疑うほど、染井吉野よりも小さく、見栄えが悪い。私はなおざりに一枚、二枚撮って、彼の傍を早々に離れていくのだった。
 不思議とこの異様な空気の裏山は、怖いという感覚はなかった。ただ、あまりにも、人の手が入っておらず、すべてが剥き出しの姿だった。自然の美さえもない。無情。虚無感。
 一昨年と違ったのは、この景色を見たことだけだった。花を落とした四本目の大山桜を見て、骨と屍のような森の景色を見て、それだけだった。
 
 
 
 
四本目の大山桜。
視界が開けて桜祭りの様子が見えてきた。
 
 
 

 
 ふと、祭囃子が聞こえた。甲高い打楽器の音、和太鼓と鉦鼓(しょうこ)だろうか。リズム良く、続いている。鬱蒼とした景色が晴れて、ふと桜が見える。神社の社務局のすぐ傍に咲いている鮮やかな染井吉野の花、満開の桜が目に飛び込んでくる。青い祭りのはっぴを着た少年たち。桜色の着物姿の若い女性たち。
 桜祭りの最中だった。人々の先には里山が続き、そうしてやはりところどころに桜の木があるのだった。桃源郷だ。
 私は終わりかけた山道の途中で、眼下の桜の花を、祭りの様を、里山に立ち並ぶ桜を、撮った。今までの道とは打って変わって、明るく、眩く、色鮮やかな世界のように感じられた。祭囃子はまだ終わらない。ふと、腰に巻いていたカーディガンがないことに気が付いた。休憩をしたときにはあったから、多分裏山を降りている途中に落としたのだろう。まぁ、いい。私は桜祭りに飛び込むように降りて行きながら、それも悪くないな、と考えている。
 大のお気に入りだったのだ。十年前に手にしてから、ずっと着続けていたものだった。気が付いた時は、だからかなりがっかりしたものだ。だけど、あの淡いグレーのニットが、あの屍たちの裏山にそっと置き去りにされた様を想像すると、とても良く似合っているようにも思えてくる。
 そんなことだと思ったわよ… あの店で手にした、金曜の夜のためだけに生きていたあの頃の服。
 それは、ふさわしい埋葬場所だ。
 何かを失くしたからには、何かを得たのだろう。今日の私は、きっと。だからいいのだと。
 祭囃子、神楽殿の前には神輿。はっぴの男たち、着物の少女たちが座り込んで花見をしていた。桃源郷へ向かう私の横を、通り過ぎては戻ってくる青いはっぴの少年が二人。
「だめだよ、おいら見つかっちゃうよ」
「早く、早く…」
 彼らは登っては降りて、桜山の裾野をうろつきながら、祭りの様子をうかがっていた。
 登りたいのだろうか。隠れたいのだろうか。山の上に、祭りはない。
 だけど、それだけが確かなもののように感じられた。
「いいんだよ、俺たちが桜みたいなものだ」
 男たちの笑い声を思い出している。
  
 
 
 
 
 

 
 
 

「アルジャーノンに桜の花束を」 ~染井吉野、千本桜紀行~

 
 
 
 
 
 
 
 
 「知らぬが仏」とは良く言ったものだ。
 思い出すのは「あるジャーノンに花束を」。最新の脳手術に成功した知的障害者の主人公が、記憶力と思考力を得るたびに苦悩も大きくなっていくという物語。
 ラストに、また知的障害者に戻って、やっと笑顔を取り戻すというくだりが印象的だ。彼は人を愛した記憶さえも失うのだが、それでも幸せに行くていくには何の問題もない。たとえその笑顔を目にして涙を流す女性がいようとも、気付くこともない。心の平穏を手にした彼は、今や天上に住んでいる。
 せつない物語だった。
 くも膜下出血という病気によって記憶力と思考力を失った母親は口を酸っぱくして私に言う。
「あんまり本を読むんじゃないよ」
 彼女は本能によってそれを知っているのだ。私が知識を得ると、なおさら不幸になると信じて疑わない。
 
 
 桜が満開だ。
 私はカメラを抱えてお花見に出かけた。大好きな染井吉野よりも、なぜか山桜と枝垂れ桜が見たかった。多分数日前に、少子化で統合される小学校の桜の木を伐採する、というニュースのドキュメンタリーを見たせいだろう。
 100年近く村の子供たちを見ていた老木の桜が最後の春を迎えようとしていた。黒い幹に苔生す枝。咲き誇る桜の花。立派な木々たち。しかし、新しい校舎を建てるには、その場所にいられては邪魔なのだった。
「最後の力を振り絞って、この子の入学式まで咲いていて欲しいです」
 三代続いて桜を見てきた家族の父親がそう言うのだ。思い出がある、人々を結びつけていた桜が消えるのは哀しいと言いながらも、何と身勝手なことだろうか。確かに少年は最後の桜の花を入学式の記憶に留めるだろう。それは桜にとっても本望だろう。でも、木にだって命はあるのだ。生きているのに、殺されるのだ。私はランドセルを背負った可愛らしい少年に憎しみすら覚えてしまった。
 それで、生きている桜を見たくなったのだ。人々のために植林されただけではなくて、まるでどんなにいられては邪魔な時代が訪れても、自らの力で咲き続けていたかのような、力強い桜。命や精霊どころか、魔さえも宿っていそうな、妖しい、生々しい桜を見たくてたまらなくなった。
 ところが何の因果か、探しても探しても、見つからないのだ。満開の桜が撮れるチャンスは短い。私は焦るのだが、見たいと思う桜は時期が早かったり、遅かったりで、撮影旅行の当日になっても出逢える気配はなかった。山桜は4月中頃~末、枝垂れ桜は3月中頃~末が満開なのだ。また、遠出する余裕もないので、どうしても限られてくる。
 お昼間近になって、あきらめた私は今週は我が町の千本桜を見に行こうとやっと重い腰を上げた。染井吉野の満開を撮れるのは今日が最後だろう。幼いころから良く見ているので、感動はないだろうが、大人になってから改めて見るのは初めてだった。いつかこの桜たちも、あの学校の桜のように伐採されたり、自ら命を終える日が来るだろう。人々のために毎年、毎年、咲いてくれる桜の木を見ておこうではないか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 思えば、私が桜の花を撮りたいと願うのもずいぶん身勝手な話なのだった。4月2週目の誕生日まで咲いていてくれればいいと毎年願うのも、ランドセルの少年の父親と何も変わらないのだった。その上、少しでもうまく撮って、趣味の分野で評価されればいいとか、一目置かれでもしたなら喜んでいる有様だ。それでも・・
「君が持つことができるのは、記憶だけなんだよ」
 思い出だったか、いつかふと目にした言葉の通りに、私は決してアルジャーノンのように記憶を手放したりはしたくなかった。ランドセルの少年も桜の記憶を決して手放さないでくれると嬉しいな・・そんなことを考えながら、電車に揺られていく。
 3つ先の駅まで本を読んだ。相変わらず、最近夢中な政治関係の本、「外国人参政権で日本がなくなる日」。別冊宝島から緊急出版された本で、保守系の田母神俊雄さんや台湾(金美齢さん)、中国(石平さん)、韓国(鄭大均さん)の視点から日本に帰化した外国人の著名人、ノンフィクション作家にライターの方々が寄稿している。
 ちょうど読んでいたのは、文筆家但馬オサムさんの「三国人と戦後日本」という短い著述だった。
 在日韓国人と言えば多くの方が「差別」、「迫害」を連想する。しかし、作者は「決して在日は弱者ではない」と言う。日本の敗戦後、彼らが戦勝国民だと言い張って、日本人を差別したこと、横暴にふるまったこと、闇市を牛耳り、日本の法律には一切従わなかったこと。表の経済と三国人が支配する闇の経済の二重構造が出来あがり、現在でもパチンコ業界、サラ金業界、ラブホテル街などでそれらは続いていること。在日の暴挙に対して、治安維持に努めたのは、日本のやくざ(任侠団体)であったこと。
 戦後の在日の横暴は聞いたことがあったが、やくざとの抗争は初めて納得できた話だった。裏の世界、闇の世界、そこに根付く在日はもはや警察の手には負えなかった。警察庁から任を受けたやくざが国民を守り、裏側から国の経済をも軌道修正していったのだ。良く政治家はやくざと結びついている、と言われるが、こういう戦後の流れがあったのだな、と思わず感心せざるを得ない。在日は戦後ずっと日本国を敵に回して、弱者どころか、傍若無人にふるまってきたのだ。
「だがひとつ確認できるのは、彼ら在日はよく言われるような弱者では決してなく、日本社会の地下深く、複雑に絡み合い、太く強靭な絆を形成しているということだ」
 差別だの人権だのと言って、同情したり擁護したりする日本人のなんと無知で愚かなことか。私が死んでも、きっと彼らは生き残るのだろうな、と漠然と考える。きっと、私亡きあとも、桜の花をずっと見続ける。彼らの記憶はずっとこの日本から途切れることはなく、続いていくのだ。参政権はそれが表向き(合法)になるかならないかの話でしかない。
 車内のわずか10分足らずの時間で、私は今まで学んできたこと、感じてきたことの最後の1ピースを得たような思いがした。
 彼らは敵だ。(戦後の在日韓国人、その後韓国に帰った人々も含む)いや、ずっとこの国と相反するところにいたものだと初めて心で理解した。この前提を本当に知っているか、知らないかは大きいだろう。冬ソナの撮影現場で34人が怪我をしたとか、韓国をひとり旅した女性が行方不明になった とか、韓流ファンの女性たちが聞いたらヒステリーを起こしそうな話ではあるが、彼女たちは天罰が下ったとしか思ないのだ。たとえ一人の人間として、恋に落ちたとしても、その二つの事件は明らかにやりすぎだろうと。マスコミは「知らぬが仏」とばかりにブームや友好ムードを必死になって作り出すけれど、そういった歴史の前提を抜きにして、または万が一無知なまま危険地帯に放り出されたとしたら。団体で買春する男たちのように、恥知らずなツアーが何でもないと思えるようになっているとすれば。これはもはや物語もロマンもないな、と私は思っている。降り立った町で桜を撮りながら。
 そうではないか。敵と恋をするのはいい。だけど、それが敵だと知らなければ、ウェストサイドストーリーは、ロミオとジュリエットはあんなに感動できただろうかと。
 それは悲恋になったのだろうか。主人公のふたりが、自分たちのギャング団や家を愛していなかったら。相手と恋に落ちることが罪だと思わなかったならば…
 私はずっと携帯が鳴るのを待っていた。
 桜を撮りながら、韓流ブームの安易さを嘆きながら。純愛なんて、なんてつまらないものなのだろうと。そうじゃない、お互いが想い、守るべきものがない、無知の上に成り立った恋愛の記憶などなんと薄っぺらいものだろうかと。それはただの逃げ道ではないかと。まるで生活から逃げるように、私はずっと電話が鳴るのを待っていたのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 駅を降り立つと花見の客でにぎわっていた。駅前には花見弁当を売る特設の売店、商店街では店先で桜のお菓子を並べている。人々が群がって飛ぶように売れていた。
 私も桜ロールや桜パンを買おうかと足をとめたが、大勢の花見向けなのだろう、量が多くて食べきれそうもない。あきらめて、お花見のコースを歩いていく。すでに、駅からまっすぐに伸びる道路には両側に満開の桜。人々をいざなうように続いていた。お弁当や飲み物をレジ袋に入れて歩いていく若者たち。散歩風の老夫婦、彼らに続いて、私も歩いていく。道に迷う気配もなかった。それなのに、私は持って行った地図を何度も見ている。どう歩いても千本桜にはたどり着けるだろうが、決めた道筋で散歩したかった。
 案の定、若者たちは私の道とは違う道に逸れていく。ひとり別の道を選び、そこでまた他の花見客と合流する。桜が立ち並ぶ河川が見えた。老婆が二人並んで座り、煙草を吸っていた。私は正規の仕事を得るために、もし決まったら禁煙しようと思っていたところだった。ああやって、老婆になっても煙草を吸う、そんな年の取り方が理想だったはずだが、今は彼女たちを眩しく見ることもない。足を広げ、待ち合わせだろうか、「綺麗に咲いて良かったね」、「○○さんはまだかね」と話し合う口調さえも下卑たアウトロー的なものに思えてくるのだ。心の中はもう新しい世界へと向いている。
 河川沿いの散歩コースの起点には写真を撮る若者が座り込んでいた。年配の男性もみな必死でカメラを向けている。若者と年配の男性は団子より花という感じだろうか。年配の女性たちは、河川敷きに座り込んで、お喋りとお弁当。笑い声。しかし、みな楽しそうだった。
 「サクラサク」。この桜を撮っているうちに、私の世界も変わることだろう。心待ちにしながら、私は桜を撮り始めた。木の枝が白い。黒い幹に苔生す枝、あの学校の老木の桜とはえらい違いだった。どの木もまだ若木に見えた。人々を楽しませるために、千本並んだ桜たち。それでも、雪や強風にも負けず、こうして元気に咲いていくれた。
 私は色の美しい景色を見つけるとカラーで撮り、人々と桜はモノクロで撮った。いつもは撮る前に場所と題材によってカラーか、モノクロか、決めるのだが、今日は貴重な染井吉野の満開の日だ。どちらにこだわるでもなく、より美しく、ドラマチックに撮りたいと願っていた。桜が、桜と人たちが映えるように。
 河川敷をどこまで行っても桜、桜、桜。あまりに桜が続くので、足元の花韮やタンポポやムスカリ、チューリップにスミレ、そんな春の花々が目立ったくらいだ。不思議なことに、桜はコースの始めでは蕾も多く、まだ8分咲きという感じだったが、桜並木の終わるころには花吹雪が舞っていた。葉の目立つ木々が多かった。日当たりがいいのだろうか、おかげで、初めから終いまで満開にしては花のボリュームに欠けていた。例年ならもっと花の厚みがあるのだろうが・・ ここ数年、一斉に花開いて、一斉に散る、その刹那の花々に満ちた桜の姿を見ていないような思いがする。空に向かって花をつけた枝を広げ、君臨するように立ち並ぶ桜には目を見張ったが、どうも桜に対する感謝と不満の想いが交互に訪れて集中できなかった。電話はまだならなかった。
 一本の電話をこの桜の花の下で迎えたかった。それさえ出来れば、私の生活は桜色に満ちるはずだった。本当はそんなことはなくて、電話の相手は私の記憶とは無関係だとわかっているのだが、それどころか今までの私の生活を否定するものだともわかっているのだが。私はならない電話に次第に焦り始め、花吹雪を目にするころには、すっかりしょげてしまっていた。
 いくつもの橋を抜け、河川敷の千本桜が終わるころには、少年がひとり川辺で遊んでいる。花見の場所にいるより、川辺で遊ぶ方がきっと楽しいのだろう。石の上を飛ぶように駆けて、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。でも、花を見上げないのだった。彼には桜が目に入らない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 私はまた一人道を逸れて、住宅街へと入っていく。小さな公園には仮設のトイレがあって、人々が並んでいた。その公園を抜けて、フェンスの下の石垣に座って、煙草を吸った。歩き疲れたようだ。少し足を広げて、まるで最初に見た老婆のように。
 最後からいくつ手前の橋だっただろうか。商店街をまたぐ橋は、見覚えのあるものだった。懐かしさがこみ上げてきた。それは、私が学生時代に部員たちと走っていたマラソンコースだったのだ。
 桜が咲いたときにこの橋を走った記憶はない。
 実際はあったのか、それとも忘れたのか、私は驚きを隠せなかった。あの時、3キロコースと5キロコースと曜日によって走り分けていたころ、どちらもこの橋を抜けると、後は学校も近い、商店街を見やりながら最後のスパートをかけていたはずだった。その記憶と、桜の記憶が重ならない。
 千本桜は学生時代のマラソンの記憶と全く別のところで存在していたのだった。今、何十年の時を経て、ふたつが初めてひとつに結びついた。商店街は見ていたはずだ。だけど、それが商店街だとわかっていただけで、景色を見る余裕は実際はなかったのか。それさえも思い出せなかった。
 私は最後の橋を抜けて、河川で遊ぶ少年を超えて、隣町の駅へと向かっていく。この河川と平行に並ぶもうひとつの千本桜のスポットを見る予定だったが、思春期の思い出を塗り替えてしまいそうで恐ろしかった。もしくは、何も「桜の記憶」などなかったことを知ってしまいそうで・・
 駅へ向かう途中には季節の花が咲くことで有名なお寺がある。山門には色とりどりの桃の花が咲いていた。前回ここに来た記憶を私は昨日のことのように思い出している。失ったもののその代償と、愛するものが与えてくれた奇跡とを、今の力に変えたことも。
 学生時代とは随分遠いところに来てしまったようだ。あの頃あの橋を走っていた私が、今の私を想像できただろうか。何十年後にひとりカメラを抱えて、同じ景色を見ることなどと。
 私はあの頃の、何も知らない私が今の私を見たら、ずいぶんがっかりするのだろうな、そんなふうに可笑しく思いながらも、この記憶をしっかりと胸に焼き付けておきたいと願っていた。
 今日見た桜の姿を、花のお寺の想いと同じように、たとえ何十年の時が過ぎても、たとえそれが苦悩と結びつくものであっても、覚えているといい。
 知らないものに天上の幸福が訪れようと。知っているから、物語が、感動が、悲恋が生まれるのだ。
 苦しみの上に成り立つこの喜びを、いや、いつの日か必ず、誰よりも深い喜びに変わるこの記憶を。
 手放してなどなるものか。そう思いながら、お寺の脇の急な坂道を上っていた。見上げると、青い、青い空。
 携帯カメラで撮って、私の帰りを待つものに、そっと送っている。