金時山より富士を見る ~北風と太陽と継続する道のりと~
2月 22, 2009 コメントを残す
ここ数日、いや、もう数週間になるだろうか、体に異変を来たしている。
思い出したようにある日突然過食をする。チョコレートやクッキー、甘いものを何か大量に買い込んで、胃腸が壊れるほどに食べる。翌日下痢を起こす。そうしてまたいつものようにストイックな日々に戻るのだった。
「継続は力なり」
昨年春辺りから目標を定め着々と励み、取り組んで来た。叶えるためならと他のものを犠牲にもした。修行僧のようでもあった。疲れたり弱音を吐きそうになると上の言葉を思いだした。継続する力なり。
と言っても私はこの言葉がそう好きでもない。特に、自らを鼓舞するためにではなく、継続をやめたものに言い放つ(ためにこの言葉を使う)ある種の他人の傲慢さが鼻に付いた。そもそも継続することはそんなに偉いことだろうか。例えば会社だ。一癖も二癖もある悪いやつらばかりが生き残り、一緒に働いていて救われるような存在の心優しき人たちは脱落して行ったりもした。例えば時間と実績の関係性だ。1時間で山頂と標識にあったとする。時速何キロで歩けばとは書いていないが、ハイカーなら何となくわかる。しかし、山に慣れない者たちがこの標識を見た場合、どれくらいのペースで歩くかと言う前提をすっ飛ばして「あと一時歩けば(経てば)山頂だ」と判断するかもしれない。つまり能力とか実績とかは関係なく、時間だけを重要視するものたちも多々あると言うことだ。彼らは山頂に辿り着かないまま、そのことにも気がつかず10年間同じ会社に勤めていたとする。100歳まで生きたとする。彼らは言うだろう。「私は○○年ここにいるからね」と、新参者を震え上がらせるだろう。その場合も継続するは力なり、と本当に言えるのだろうか。
私は時々つまらないことを考える。
40年以上同じ会社に勤めて定年退職していった人たちが、自分より早く効率よく山を登るものを見つけたときに、そのものが登山コースから外れるように願ったり、仕組んだりなどしなかったと誰が証明できるだろう。自分が継続するために。長いこと継続している彼らにとって、それはたやすい些細な後押しに過ぎなかったに違いない。
ああ、継続するは力なり、ってその力のことか。なるほど。などとひねくれたことを思う。
私が思う、この言葉を本当に他人に対して使ってもいいものたちの定義はこうだ。
継続し、一般のごとくただ継続してるだけでなく、継続した結果誰よりも早く達成して頂上に辿り着き、なおかつその頂上に継続して居続けられるもの。そしてなおかつ、後から山頂目指して来るものを、彼らが早く辿り着けるように助けることが出来るもの。
それが出来て初めて言うのだ。「継続するは力なり。若者よ、お前も早く上がって来い」と。
富士を撮りに金時山に出かける。
御殿場駅で降りた私は目の前に聳える大きな富士に驚いた。こんな大きな富士を目の当たりにしたのは何十年ぶりだろう。
バスに乗って乙女峠に向う。気が急いて仕方がなかった。こうしている間に、急に雲が流れて富士が隠されてしまうかもしれない。転げ落ちるようにバス停を降りたのは私きり。ひとり足早に登山コースへと向う。山道の右手に突然獣道のような細い登山口が現れる。気は急くが足取りは重い。霜が降りて真白くささくれ立った細い道を黙々と歩く。自分の荒い吐息だけが響いていた。体力が落ちたようだ。私の過食は時々からほぼ毎日に変わりつつあった。
今回の富士見ツアーは異変を来たした私が以前の私を取り戻す旅でもあったのだ。
継続するは力なり、たとえ異変によってすべてがやり直しに戻ったとしても、今まで続けて来た私ならばすぐに戻れるだろうと信じている。あの時とは違うだろうと。
荒い吐息が続く。苦しいと言う感覚を慣れた懐かいものとして味わいながら振り払うように歩いていく。しばらくすると標識があらわれる。乙女峠25分、金時山60分とある。時計を見る。もちろんただ60分過ぎれば山頂だとは思えない私は、時間を確認しながら自己の歩くペースを調整していこうと思っている。
だけどだ。もしも。もしも60分経っても山頂が現れなかったらどうだろう。
たとえどんなペースで歩こうと、効率や能力を確かめたくて人より早く歩こうと、達成義務を考慮して調整しながら人並に歩こうと、タイムも気にせずのんびり歩こうと、山頂がないレースだとしたらどうだろう?
山道を歩いていたら突然あらわれた獣道のような登山口(左)
細い山道がずっと続く。自分の吐息しか聞こえない。思わず熊でも出るかと思った。
こんなに霜が張っていると帰り道は解けてぐちゃぐちゃになって滑るだろうと心配する。
渡るとぐらぐらする橋。恐いです。
乙女峠にはすぐに辿り着いた。タイムを見ると先ほどの標識から20分、まずまずのようだ。このまま行けば、あと35分歩けば「本当に」金時山山頂に辿り着くだろう。
峠にはハイカーの団体さんが寛いでいた。これから登るのか、もう登ったのか、私より10歳~20歳ほど年上に見える彼らは木のベンチに腰をかけて談笑をしている。これから山を登ると言う意気込みは全く感じられず、この力の抜け具合からいうとすでに登り終えた後か、もしくはもう何度も登っていて「たかが金時山だ」と山を自分の庭のように感じている地元のハイカーたちだろうと見当をつける。この様子だとそうきついコースではなさそうだが、今の私からするとまだ判断するのは性急のようにも思えた。
私は念のため休憩を取って、展望台から写真を撮る。富士の左側から流れて来る雲が気になった。休んでいる場合ではないかもしれない。
急げば現実の山ならば山頂はやって来る。しかし、終着点のないレースだったらどうしたらいいだろうか。会社の例にしたって、全員が頂点の社長だの役員だのに辿り着けるわけではないではないか。大抵の人々はただ、ただ、日々仕事の継続を続けて、役職によるちょっとしたランクの違いはあったとしても、みな同じように達成できぬまま終えていくのだ。もちろん、個々の目的意識上のまたは業務上の達成はあったとしても、私が掲げた山頂に誰よりも早く辿り着いて居続ける、下を育てる、と言う項目はどうだろう。もしもそれが(私が定義するところの)本当の意味で「継続した上で力を手にした人」ならば、類稀な才能の持ち主ならともかく、普通に生きていたら誰も力など手に出来ようもないし、もしかしたら継続しない人こそが力を手にする場合さえある。
類稀な才能の持ち主である彼は誰よりも早く上層部の存在になるだろう。そして多くの若手を教え、育てて、あっさりと去っていくとしたならば。彼は継続せずとも定義上したと同等の価値を得ることだろう。そのものが去る時は事故によるものだろうか。(例えば病気でやむをえない理由で継続できなかったとか)それとも自ら去っていくのだろうか。辞めたあと彼はどうしたか。同じような仕事をまた初めて、またあっという間に頂点へ行き、人を育てて、を繰り返して、場所は違えど同じ道を続けていくのか。道を歩き続けているならばもちろんそれも力となるだろう。だけど、この世界では同じ場所で続けてこそ「継続は力なり」を美徳とする場合が多いような気がするのだった。美談とされない本当の力を持った彼はどこへ流れるのか。私はそんなことが気になって仕方なかった。いつの間にか山道は佳境に入っていた。乙女峠のあとこぶのような小さな山を一つ越え、ゆるやかな山道を行くとすぐに金時山の頂上が見えてきた。
終着点のないレースに、継続せずに終わりを告げるレースに。
続けることが目的か達成することが目的か、金時山に付くころには何だかすっかりわからなくなった私はやっぱり体調の異変の所為だな、と結論付ける。どうもネガティブになって仕方なかった。
もしかしたら、終着点は個人が感覚的に掴めるものなどではなく、何代も何代もかけて積み重ねてまさに永遠と続けてこそその果てにやっと得られるもので、達成したと思えたものは今の人生上での僅かな達成でしかなく、やはりそれさえも何度も何度も同じ達成を重ね続けて永遠と続けてこそ意味があるのかもしれないと。
そう思ったらもう、今金時山に着いたとか着かないとか、タイムが30分だったとか1時間だったとか、それは小さな小さな積み重ねのたった一つの事柄で、何だかすべてが小さく小さくどうでもいいとまではいかなくてもそう大したことではないような気がして来て、寂しいような空しいような、何とも言いようのない無常感に襲われてくるのだった。
今まで私は何を頑張ってきたのだろうか。
乙女峠の展望台から見た富士。左から流れる雲が気になった。
こぶ山を一つ越えて金時山へ。傾斜は急ではないが相変わらずの獣道(左)。
左に見える黒い起伏が金時山山頂。
ついに山頂に到着した。天下の秀峰金時山、海抜1213mとある。山頂には大勢のハイカーが集まっていた。
山頂には大勢のハイカーが集っていた。彼らは記念撮影をし、富士を眺めて、いい天気で良かったねと笑いあう。
反対側の仙石峠の方から登ってきた若い女の子達は叫んでいる。
「わぁー!すごい!!」
「こんなの初めて見た!うそ~」
多分山頂について初めて富士を目にしたのだろう。私はひとしきり富士を撮り、過食続きの所為で全く空腹を感じない胃袋に持参のおにぎりを詰め込んだ。見回すまでもなく、ひとりでいるのは私だけなのだった。笑い声、叫び声、談笑を人々の多くの姿をシルエットのように感じながら、山頂の北風を受け止める。「今日は北風と太陽のせめぎ合いです」天気予報の一言を思い出している。冷たい北風と暖かい陽光と。相反するそれを同時に感じながら、それでも三脚を立てる場所を探しているのだ。
どうでもいい小さなこと。多分人生における達成、もしくは継続ポイントは(そんなものがあるとしたらだが)0.00000000001くらいの小さな小さな事柄。私が金時山に登って富士山を撮るという行為はその程度のこと。私は汗冷えで震えが走った。登山中脱いでいた服をすべて着込み、北風に耐える。人々がいない小さな岩場に壊れかかった木のテーブルを見つける。草を掻き分け岩場まで降りていき、テーブルの上に三脚を立てた。
それでも綺麗に撮りたい。
少しでいい。富士を綺麗に撮りたい。
そう願う私が居るのだった。
金時山からの富士。裾野まではっきり見渡せました。
皆見るのは富士山です。人気者ですね。ちなみに反対側には芦ノ湖が。
肉眼で見るともっともっと大きく迫力がありました。まさに聳え立つ富士。
望遠レンズにPLフィルターを着ける。山頂で撮るとコントラストが足りない。どうにか空を暗くして、露出も慎重に決める。露出補正は一段ずつ変えて何枚も何枚も試し撮りを重ねるがこちらもなかなか上手くいかなかった。携帯用のちゃちな三脚ががたがた言う。そのたびにまた調整して、螺子を締めなおす。
富士の撮り方は出発前に学習した筈だ。だけど、前の前に聳え立つ富士はそう簡単にはいかせてくれない。
私は必死だったと思う。ひとつひとつは小さなことでも、積み重なれば力となるとか、その継続に意味があるとか、あと付けでいろいろ理由を言えたとしても、そのときは頭が真っ白だった。ただ富士山と対峙して思っていた。
綺麗に撮りたい。
北風も陽光も感じなくなっていた。
全く満足しないまま私は帰途へと向う。たぶんこれ以上努力しても、今の私にはこれしか撮れないだろう。諦めと言うよりはやるべきことはやったと自負していた。だけど全く満足していない。もやもやしたまま、ひとり下山する。連れと歩くハイカー達は歩みが遅い。相手を気遣って、皆ペースを調整している。またはお喋りをしながら早く歩けるところものんびりと行くのだった。すたすた抜くのは忍びない。彼らの後ろをくっ付いていると大抵は気配に気付かれて、道の脇に退いてくれたり、靴紐を直すふり、立ち止まって景色を眺めるふり、それらの行為で道を譲られる。見知らぬ人が後ろにぴたりとくっ付いていては話しもし辛い。ペースもマイペースというわけにはいかず、どこか急かされてる様で嫌だろう。私は一抹の寂しさを覚えながら彼らを抜いていくのだった。一組、また一組。誰も私とは一緒に歩むものは居ない。ついに座り込んで、休憩を取った。特に急いでいるわけでもないが、疲れも感じなかったので、歩き続けていた。休んだら、さっき道を譲ってくれた人がまた追い抜いて、休みを終えた私がまた後をくっ付くことになるかもしれない。私は彼らのためだけにでも早く歩いた方がいいようにさえ感じていた。だけどついに座り込む。もう富士は見えなかった。木立、霜柱、岩の上に腰掛け、目の前には笹の葉がしなっていた。さわさわ、さわさわ、私が休み始めるとほぼ同時に、それらは騒がしくさざなみ始めた。背中からは陽光が注ぎ。
今日は北風と太陽がせめぎあうと言っていたが、確かにそうだろう。しかし両者はせめぎあいながらも優しい。まるで孤独な私を労わるように騒いでは降り注いでいる。
「熊でも出るのかしら」
まるで何者かの気配を感じながら、その一時に慰められて、私はまた足早に歩き始める。帰りのバスは松田駅で降りて、また松田山へ登ろう。先日のまつだ桜まつりのリベンジだ、と意気込んでいる。先日は曇りだった。今日ならもっと綺麗に撮ってあげらるような、そんな気がするのだった。
1時間半近く待って乗った高速バスは眠りから覚めた私を松田のバス停で放り出した。するとそこは松田駅ではないのだった。駅に着くと思っていたのはどうやら私の勘違いで、高速バスは道の途中で乗客を降ろしていく。私が降り立ったのは西平畑公園の真ん前だった。まさにまつだ桜まつりの会場前に降り立った私は、人々に紛れて歩きはじめ、また小さな山と向き合っていた。あたりは桜、桜、桜。人々の笑い声も色鮮やかな、華やかな桜並木にかき消されていく。桜はすべてを包み込んでは咲き誇っている。まるで誘われたかのようだ。
私は祭りの中へ飛び込んでいった。
少しでも、少しでも綺麗に撮ってあげるからね。そう声を掛けた。
青年よ強くなれ
牛のごとく、象のごとく、強くなれ
真に強いとは、一道を生きぬくことである
性格の弱さ悲しむなかれ
性格の強さ必ずしも誇るに足らず
「念願は人格を決定す 継続は力なり」
真の強さは正しい念願を貫くにある
怒って腕力をふるうがごときは弱者の至れるものである
悪友の誘惑によって堕落するがごときは弱者の標本である
青年よ強くなれ 大きくなれ
住岡夜晃著『賛嘆の詩』(樹心社)より
牛のごとく、象のごとく、強くなれ
真に強いとは、一道を生きぬくことである
性格の弱さ悲しむなかれ
性格の強さ必ずしも誇るに足らず
「念願は人格を決定す 継続は力なり」
真の強さは正しい念願を貫くにある
怒って腕力をふるうがごときは弱者の至れるものである
悪友の誘惑によって堕落するがごときは弱者の標本である
青年よ強くなれ 大きくなれ
住岡夜晃著『賛嘆の詩』(樹心社)より
※帰宅後「継続は力なり」の出典を調べていて上記の詩を見つけました。