最近、仕事もプライベートもうまくいかない。
実際うまくいっていないわけではなくて、私の中でそれらに対する熱意が保てなくなっているのだ。
仕事や趣味や家族や、そういったものを通して、またそういった人間関係から、私は自分を成長させようとかなりの情熱を傾けてきたと思う。
ところが、壁にぶち当たる。世の中にはどうにもならないことも多々あり、私はあきらめを持って大きな力が介入する世の中の流れの一つに組み込まれようとしている。
Let It Beー なるがままに。
そんな境地だ。
これは、ある面から見たらいいことなのだろうが、もちろんいいことばかりではない。
『変えられないことを受け入れる心の平静と、
変えられることを変えようとする勇気と、
それを見極める叡智を、
私にお与えください、神様ー』
私は変えられることもすべてあきらめようとしているかのようであった。
そこで旅に出ることにした。
旅と言っても、いつものような小さな撮影旅行なのだが、とにかく自分の裡に籠(こも)りたかった。
私の中の奥底に眠る、眠り呆けている核心、文明だの社会性だのとは切り離された原始的な魂に直接働きかけようとする。情熱を奪い返すために。
私は今まで出会った場所の中で一番高揚したその場所に出かけて行こう。
西外輪山のひとつ、三国山。老ブナたちが立ち並ぶ山だ。私はこの山をこう呼んでいるのだった。「私の山」と。
私がこの山を好いている理由は二つある。
ひとつめは人が少ないこと。箱根と言う観光地にあって、その対極にあるかのようにまったく人の手が介入されていない。自然のままの姿と言えば聞こえはいいが、私から見るとまるで放置されているようだ。それを証明する一つの例として、箱根町から旧街道を通って登山口、そうして終点の湖尻峠から深良水門、湖尻水門の遊歩道へ出るまで公衆トイレが一つもない。スカイラインと登山道が交わる個所に一か所食堂があってそこを借りることが出来るだけだ。いったい観光のための旅行者が行くことを想定されているのか。(されていないとしか思えない)ロープウェイや登山鉄道が走ったりする箱根の山々とはえらい違いだ。しかし、おかげでのんびりと行くことができる。特に写真撮影にはもってこいだ。三脚を広げて景色を独り占めしても、迷惑をかけるものは存在すらしない。
ふたつめはブナの木が多いこと。
三国山はブナの木が多い。が、この理由はブナ好きだからというわけでもない。原生林を保っているので、伐採だの植林だのは行われていないようなのだ。おかげで若木は極端に少ない。多分もう健全なブナ林のサイクルからは外れているのだろう。成木や幼木(若木)は細く黒ずんでみずみずしい姿とは言い難い。対照的に老ブナの見事さが際立っている。苔をまとった巨木の彼らが山伏峠から山頂のあたりから現れて、その迫力に息をのむ。思わず足を止める登山者も多いだろう。
そういった山の様子に私は自分を重ねているだった。荒れ果てて、衰退するときを静かに待つだけの、だけど見事な老ブナが立ち並ぶ、人気のない山。
「燃えながら死んでいく」かつて読んだ五木寛之の林住期を思い出す。死ぬと言うことは生きることと同じくらいの膨大なエネルギーが必要なのだそうだ。
燃えて、尽きる。
まさに老ブナたちは今燃えるような林住期をむかえているようだった。
箱根旧街道に入り、向坂、赤石坂、釜石坂、風越坂、挟石坂を越えて、道の駅前の外輪山周廻歩道入口から登山道へ入る。
初めて登って老ブナたちと出会った時のあの胸の鼓動、ときめきを思い返している。熱い思いを思い起こさせてくれるだろうか。また、「私の山」の老ブナや木々や数々の植物たちは元気だろうか。「誰も知らない小さな国」に出てくるコロボックルでも隠れていそうな道端の葉、美しい山つつじや山野草、季節を変えて彼らはどんな表情を見せてくれるのだろうか。
ところが私は登り始めてからずっと、最近起こった「いやな出来事」のことばかりを考えていた。
○○はああだった、それに対して自分は○○だったのに、相手はまた、○○だった・・なんで○○であって、○○ではないんだろう。
と言うような、職場や趣味の場所での気になることを延々と繰り返して思い出す。樹木や山野草どころではない。これでは現実逃避として誰もいない深山に逃げ込んできたかのようだ。しっかりしろ私。ちゃんと景色を見るんだ、と何度も言い聞かせるが、思いはいやな出来事に馳せられてしまうのだった。
やっと目を覚ましたのは海平に着いたころで、駄々広い緑の草原が一面ススキに覆われているではないか。海平の標識さえも見えなくなるほど、ススキたちは道をふさぐように茂っている。前回は草原と山つつじにカラスアゲハに心を躍らせて、腰をおろして休憩したポイントだが、今回はススキにアザミにアザミに群がるセセリ蝶が目を楽しませてくれると言うわけだ。おまけに目の前には富士山が姿を現し、雪帽子を脱いだ姿が淡いシルエットのように浮かび上がっている。天気が良くなかったので、期待していなかったのだが、これには心が弾んできた。曇り空と同化する淡い富士は本当に上品で美しかった。ススキと合わせて写真を撮るものの、絵にするとどうも良くない。やはり曇り空のせいではっきりしないのか、それとも腕のせいなのか、眠たくて間抜けな、つまらない絵にしかならないのだった。それでもやっと気を良くした私は細い丸太の階段に座り、休憩を取った。富士を見ながら心を静かにしている。すると後ろから声がした。
やっと落ち着いた時なので、思わず舌打ちしたい気分になった。夫婦連れがやって来て、富士を眺めている。彼らは仲睦まじく、綺麗ね、とか何とか言い合っているようだ。小声でくすくす笑いながら写真を撮ったり、撮った写真を見合ったりして、二人の世界。なかなか私の後ろから動こうとはしない。私は身を固くして待っていた。万が一人が通る時のために登山道の道が広くなっているところにある階段の端に座っていたのだが、そのうち、まさか自分がいるせいで通りずらいと言うのだろうかと心配になってきた。立って避けたほうがいいのか。またこんな無防備な姿を景色のワンポイントとして納められたらいやなものだなぁ、と彼らが自分を映していないかどうか気になってしまい、そわそわしてしまう。後ろの様子が気にかかって仕方ない。しばらくして、やっと通り過ぎる彼らは無言である。挨拶をされても間が抜けた雰囲気だったので、それはかまわなかったが、通り過ぎた瞬間に後ろを歩いていたご婦人のほうが「こんにちは」と声を発した。
まぁ言わなくてもいいと思うし、私も言いたくないんだけど、山のルールと言うか礼儀なので一応言わなきゃね、的ななおざりな挨拶であった。私は元気よく「こんにちは!」と返しながらも不快指数がまた上がっていく。「文明だの社会性だのとは切り離された私の裡の裡のもの」とは出会う予感すら現れない。
せっかくやっといい感じだったのだが・・ この一件で私はがっかりしてしまった。数少ないハイカーにさえ、心を乱されているようではだめだ。
今日はもうあきらめよう、と決心する。今日は写真を撮りに来たのでもなく、情熱を取り戻すでもなく、ただ健康のために山に登りに来たのだと。
しかし、山の神々はそう簡単に私をお見捨てにはならないのだった。
山伏峠のあたりからブナが目立ち始めた。持ってきた三脚を広げて、そのまま担ぎながら山を登り始める。時折、ブナや美しいヒメシャラや楓を見つけると立ち止まって写真を撮った。
あれ以来ハイカーには2回しか会っていない。単独で登る慣れた様子の男性と、短パンにタイツに小さなリュック、軽装で駆け抜けていくやはり男性ハイカー。前者は挨拶をしてすれ違い、後者は猛スピードで私を追い越して、あっという間に消えていった。そのあとは静かなものだ。誰もいないと、ますます愛着がわいてくる。私は誰にも邪魔されることなく、写真を撮り続けて、それから木々との対話を始めるのだ。
「ブナ~久しぶりだねぇ元気だった?」
「この間は雨上がりだから濡れて黒かったけど、今日は白いねぇ」
などから始まって、日ごろの愚痴を漏らしたり、長年立っていてどんな気分なのかとか聞いてみたりと、独り言を「話しかけている」。
期待していた紅葉は標高が上がってもさっぱりだった。今年はずいぶん早いようで、先週の鎌倉でも既に色づいていたので、かなり期待をしていた。職場のそばの神社の桜の木だって落葉を始めている、きっと「私の山」のブナたちは黄葉を始めて、落葉だって始めているかもしれない!見逃したらいやだなぁ、と私は彼岸花のピークを蹴ってやってきたのだが、わずかに一枚、二枚の葉が染まっているだけであった。
それでも懐かしいブナの姿を見るとやはり感動した。先ほどの海平もそうだが、季節によって表情を変える、山の姿を実感させられた。若葉のころとは違うようだ。まぁブナに関して言えば葉っぱが虫を食って減っているくらい、際立った違いがあるわけではないからどこがどうとうまく表現できなくて残念なのだが、理屈ではなくて五感で感じていると言うのか。木々と私の間に吹く風の違いとか、乾燥した彼らの匂いだとか、見た目のどこか厳しい様子。もっと山や木々のことに詳しくなれば春、夏、秋、冬、と言うわかりやすい変化のほかに、もっともっといろんなことが見えてくるのだろう。もっと詳しくなりたいなぁ。ひと月に一度は来たいものだと思いながら、私はブナの写真を撮っている。前回濡れていたために良く見えなかった年老いたブナたちの木肌を表現したくて、アングルファインダーを使って拡大し、慎重に映し出したい部分にピントを合わせる。露出補正を一段ずつ上げたり下げたりして光を調整している。
いつの間にか頭は真っ白になっていたようだ。夢中になっていると、後ろから声がしてびくっと跳ね返る。見るとまたカップルだった。若い二人連れが登って来ている。
私は三脚を担いで撤退する。山を登って、広い所に出ると、リュック下ろして休憩した。若い彼らは会話が弾んでいるようだ。明るく喋りながら通り過ぎていった。この二人とは山頂でもまた出会うのだが、私は先ほどの夫婦連れの時のように心を乱されることなく、一緒の空間を共有することに成功する。最後まで彼らは男女論を展開していて、「男とはこういうもので、女とはこういうところが違う」と言う例をあげては楽しそうに話しているのだ。2メートル先で私が三脚を広げ、山頂であることを示す木の標識を必死に撮っていても気にかける様子もない。もしかしたらあまりに人気のない山なので、人目を避けるカップルのデートスポットになっているのかしら、などと想像しながら、仲睦まじい彼らの横でおにぎりをほおばっていた。
男にとって旅には目的がある。女はただ楽しければいい。当初の目的通りのところに行かなくても、楽しく過ごせれば結果オーライ、それでいいのだ。
だけど男はいくら楽しくても納得しない。あそこに行く予定だったのに、行けなかった。あそこも見ることが出来なかった。悔しくて、旅を失敗だと思う。
私は私の旅の目的を考えている。
風が強くなってきた。見ると時刻は2時を回っている。
ずいぶんのんびりと撮りすぎたようだ。私は前回の失敗を思い出して気を引き締める。
5月にこの山に登った時、わたしは夢中になって写真を撮って時間を忘れてしまった。気が着くと午後の3時を回っているのに山頂には着く気配もない。いくらブナを撮りに来たのだと言っても時間配分は必要だった。日暮れまでに山を降りなければ。私は駆けるように山を登った。見るブナ、見るブナ、立派で美しく、あきらめるには惜しすぎた。駆けて、止まってブナを撮って、また駆けて。アップダウンを繰り返す。あまり焦っていたので山頂の標を見逃した。(三国山の山頂は森の中で展望もない)目的は山頂でもあったはずだ。そこを通過したのかしないのか、わからないまま駆けている。止んだはずの雨がまた振り出してきた。ぽつりぽつりと地面を濡らしはじめる。私は三脚をたたみ、カメラをリュックに押し込んで、ついにあきらめた。また来るからね、ブナ。今度来るときは山頂近くの老ブナを初めから狙うのだ。
その教訓を生かして今回は山伏峠を越えて山頂近くなってから本格的に撮り始めた。時間配分はばっちりだった。はずだった。
が、風が吹き出した。今日は風が強くなる一日だとは天気予報で聞いていたが、まさかこれほどとは思わなかった。
三脚を広げ、老ブナと対峙していると、ゴオオオオォォォと言うすざまじい勢いで風が鳴るのだ。老ブナはその枝を大きく揺らしている。だけど風は私には吹いては来ない。ただ山に吹く風が轟音を鳴らすだけである。ゴオオオオオォォォと。髪の毛一つ揺れるわけでもないのに、耳をつんざくような風を聴いているのだ。
次第に私は恐ろしくなってきた。山頂当たりのブナは特に立派な巨木が多く、山の斜面に反り立つようなその姿は自然に対する畏怖の念を感じさせるに十分だった。彼らは一様に根元から枝を生やし、くねくねと枝をよじりながら陽を求めて天へと向かって伸びている。白神山地や健全なブナ林で見られるすらりとした若木ではなく、何百年もここに立ち続ける老ブナの武骨な姿はそれだけでも迫力あるものだというのに、今、彼らと対峙する私に風が吹き荒れ、轟音となって襲い掛かってくるのだった。
これは警笛だ。私はとっさに理解した。山の神々が怒っているに違いない。
人のいないのをいいことに、私は彼らに近づき過ぎた。自然に対する思慮もなしに、彼らの姿を覗き見すぎたのだと。
興味本位で。多分山の神々からしたら許されざる軽薄な気持ちのままで、私は無遠慮にブナを撮り続けていた。
いや、それとも。まさに私は自然の深淵を目の当たりにしようとしていた瞬間だったのかもしれない。もう少しで、ブナが近くに感じられそうな、私の裡に届きそうな、そんな時だったからこそ。
風の音は強く大きくなるばかりで一向に止む気配はなかった。警笛が続いている。逃げろ。お前にはまだその資格がない。まだその時ではない。そんな風に叱りつけられているようだ。または情けなくも身を案じられているようだ。枝を揺らす老ブナと格闘していた私はついに観念した。まだ納得のいく写真は一枚も撮れてなかった。どうにか、一枚でもこのブナの姿を収めたい、そう思って食い下がっていたが、ついに恐怖心が勝った。
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
ニーチェの言葉が思い出された。吹き荒れる風の音を聴きながら私は三脚とカメラをリュックにしまい込み、逃げ出すように山を降り始めた。これで二度目だった。
なんとも悔しい、無念な思い。そんな私の前に老ブナがあらわれて、その姿をさらすのだ。私はギョッとして足を止めてしまう。立っているブナを見た、と言う事実とはかけ離れていた。走っている私の景色にぬっとあらわれて、大きな影を落とすのだ。驚いて見上げると、枝を大きく広げてそびえ立っている。そのリアルで、恐ろしいこと。私は鳥肌を立てて彼の姿を見上げている。
もはや対峙とはいえなかった。巨大ロボットを呆然として見上げているようだ。
いつかきっと本当の姿を撮ってやるからな。
「待っててね~また来るからね、ブナ」
と負け惜しみのような独り言を「話しかけて」、私は山道を駆け下りていく。ブナから去ると轟音は消えていった。不思議だった。私にはこれも山の神々からの印しのように感じられて来るのだ。もう安心だよ、と。
それからと言うもの、私はこの時折鳴り響く風の音に従って行動した。自然を味方につけるのだ。音が大きい時は注意を払って慎重に進み、穏やかな時は休憩を取ったり気を緩めたりした。わずかな標高の山だと言っても、これだけ人気がなく、悪天候も重なれば何が起こるか分からない。多分木の陰でトイレを借りようとして人が落ちたのだろう、箱根竹や雑草の中に立つ樹木から樹木の間には時折危険と書かれた黄色いテープが張り巡らせされているのだ。
無事に湖尻峠に付き、深山水門を見た時は思わずホッとした。前回はこのあと突然大雨に振られたが、今日はそれも大丈夫そうだ。
桃源郷からロープウェイに乗ると、それまで山の木々に隠されていた富士がくっきりと見渡せた。
人々を乗せた小さな箱は風に揺れるでもなく、穏やかな山の上を登っていくのだ。
「わぁ~綺麗ねぇ」
「こんな富士山を見ると昔富士山に登ったことを思い出すわ」
となりの婦人たちが話している。
登山部に入っていたと言うそのうちのひとりは、若いころにこんな小説を読んでから山にのめり込むようになったそうだ。山が好きな女性が主人公のお話ー
「女同士で登っているときは良かったの。だけど山が好きな人を好きになって、彼と登るようになってから彼女は死んでしまったの」
「まぁ、なぜ死んだの」
「遭難したのよ」
ロープウェイが乗り換え地点の大涌谷駅に着いて、彼女たちと離れてしまった。恋が女性を弱くしたのか。なぜ好きな人と登るようになったら死んでしまったのか、どうして遭難してしまったのか、続きが気になったが、聞くことはできなかった。
恋をして、女性は遭難をした。彼女は道を誤り、見失った。
だけど山の神々は私に旅の心得を叩き込んだのだ。
そうだ、女だって、決して楽しければいいわけではない。
大涌谷から新しい箱に乗り込みながら、私は人生と言う深淵に立ち向かうために、自ら怪物にならなくてはと考えている。