新政府と大和魂とマジョリティー

 
 
 
 
 よく外国人が日本人を揶揄してこんなことを言う。
『日本人を従わせたいときはこう言えばいい。「みんながそれをしているよ」』
 確かに日本人はマジョリティーが好きだ。流行りものは大好きだし、みんなが右を向けば右を向く。
 私自身の過去を思い返せば、政治は与党、野球は巨人、携帯電話はドコモ、かつて乗っていた自動車はトヨタだった。(野球に関しては大阪府民ではないと言うこともあるが)とにかく、業界最大手が好きだったりする。大多数が使っていることが選ぶ時の第一条件だ。権威と民意、これは絶対外せない。
 しかし、外国人が笑うようように、決して主体性がないというわけではない。私だって好きなスター選手がいる球団のほうがずっといいし、通信料は少しだって安いほうがいいし、好きなデザインの車に乗りたいというのが本音なのだ。特にiphone、アップルが携帯電話を出すならば、ぜひ使いたい、とずっと前から思っていた。ソフトバンクが契約を結ぶずっとずっと以前からそう願っていたものだ。(もちろんソフトバンクと提携したのでやめたが。現在ソフトバンクがどれだけシェアを伸ばそうが、日本人といえばNTTなのだ)
 それでもマジョリティーを選ぶ。私自身は決してマジョリティーから選ばれる人間ではないが、それでも自分が選ぶのはマジョリティーでしかない。
 私はこれをDNAに組み込まれた本能的な欲求だと思っていた。
 大多数に属し、権威に守られていれば安心する、というどちらかと言えばマイナス面の要素である怖れの感情や防衛本能などではなく、自らが選ぶ趣向であり、単純な欲望だと。
 決して笑うべきものではないのではないか。それは、武士道の忠誠心にも似ている。(武士道に関しては後日詳しく記したい)天皇陛下万歳!と言って死んでいった英霊たちの愛国精神とも似ていると思う。私自身の趣向などと比べるのはおこがましいが、こんな例えを出したのは、昔から日本人は個よりも公を重んじた、ということを言いたかったのだ。個人は主君に仕え、そのために生きて死に、一方で主君は先祖代々の霊と土地を守るために(個の命を預かるという)重い責任を授かった代表者でしかなく、彼らは皆国家(公)のために個を犠牲にして生きてきた。何の苦痛もなく、彼ら自身の誇りとしてそうやって生きて、そうして死んでいったのだ。
 それは日本人の民族精神だと言いきってもいい。時代は変わっても、不思議と人々の中に根深く残っているものなのではないか。
 日本では業界最大手を使っていれば何事もたやすく回るように作られている。日本独特のシステムのおかげだろう。なので、私はそれら産業界や市場の動向を公の意思だと思っているわけだ。多少自分の趣味趣向にかなわなくても、多少税金まがいの高いお金を取られても、だから日本製品に関しては一番大多数から支持を受けていて、良く売れているものを選ぶのだった。
 まぁ、ただのミーハー精神と言われても仕方ないし、主君や象徴に変わる現在の権威が産業(市場の動向)というのもおかしな話ではある。
 それでも日本人の大多数が個人の趣味趣向にあまり固執しないのは事実だ。彼らは我を通すより波長を合わせ、ある程度の妥協を知っており、関わる人々と協調しあって物事を選択をする。個よりも全体の総意を大切にする。封建時代とは違う意味で、それは彼らの誇りであるようにも映るのだった。
 ところが、この民族精神であるマジョリティーが犯されようとしている。
 またか、と思われても仕方ない、新政権ネタだが、書かずにはいれらない。
 
 
 
 
 ■戸籍制度の見直しへ議連 民主有志
 
 戸籍制度の廃止をめざす議員連盟が、民主党の有志議員約30人により10月に発足することがわかった。名称は「戸籍法を考える議員連盟(仮称)」で、呼びかけ人は川上義博氏、松本龍氏ら。個人を単位とした登録制度をつくるため、戸籍法の廃止も含む見直しを提案している。(2009年9月27日10:16 NIKKEINET) 
 
 
 ■夫婦別姓導入へ・・・政府、来年にも民法改正案
 
 政府は、夫婦が別々の姓を名乗ることを認める選択的夫婦別姓を導入する方針を固めた。
 早ければ来年の通常国会に、夫婦同姓を定めている民法の改正案を提出する方向で調整を進める。現行の夫婦同姓は1947年に民法に明記され、約60年ぶりの大幅改正となる。
 夫婦別姓の導入は、政権交代により、衆院選の政策集に「選択的夫婦別姓の早期実現」を明記した民主党を中心とした政権が誕生したことによるものだ。民主党は、1998年に民法改正案を共産、社民両党などと共同で国会に提出したが、自民党が「家族の一体感を損ない、家族崩壊につながる恐れがある」などと強く反対して廃案となった。その後も、毎年のように共同提出してきたが廃案となってきた。
 一方、法務省も、96年の法制審議会(法相の諮問機関)で選択的夫婦別姓の導入が答申されたことを受け、夫婦別姓を盛り込んだ民法改正案をまとめた経緯がある。強い反発を示してきた自民党が野党に転じ、与党と法務省の考えが一致し、政府提案による法改正が可能となった格好だ。
 民主党などの民法改正案は、〈1〉結婚時に夫婦が同姓か別姓かを選択できる〈2〉結婚できる年齢を男女とも18歳にそろえる――ことが柱で、おおむね法制審答申に沿った内容だ。
 しかし、別姓を選んだ夫婦の子の姓に関しては、法務省案が「複数の子の姓は統一する」としているのに対し、民主党などの案は子の出生ごとに決めるとしており、今後調整する。千葉法相は17日の就任会見で、夫婦別姓導入に前向きな考えを示した。 (2009年9月27日03時01分 読売新聞) 
 
 
 ■公明、外国人の地方参政権付与法案を提出へ
 
 公明党の山口代表は26日、静岡市内で記者団に、永住外国人に地方選挙権を付与する法案を10月中下旬にも開かれる臨時国会に提出する方針を明らかにした。
 公明党は1998年以降、与党時代も含めて、たびたび同法案を提出してきた。しかし、連立を組んでいた自民党内に慎重論が強く、2005年の衆院選後に提出した法案を含め、すべて廃案になっている。
 同法案を巡っては、民主党の小沢幹事長が19日、李相得(・)韓日議員連盟会長に次期通常国会への提出に前向きな姿勢を明らかにした。同法案成立に向けて「共闘」が成立すれば、公明党が野党に転落して以降、初めて民主党と連携する機会となる。
 ただ、民主党内でも、慎重派と積極派が対立しており、意見の集約は図られていない。山口代表は連携について、「民主党がどういう政策決定をするかは定かでない。否定的な意見もあるようなので、よく見定めて検討していきたい」と述べるにとどめた。 (2009年9月26日20時01分 読売新聞) 
 
 
 
 戸籍制度の廃止(見直し)、選択式夫婦別姓、外国人の地方参政権付与、その3つのニュースのほか、先日書いた千葉法相の人権擁護法案、また、議員立法の原則禁止(法案提出は原則政府提案に限る)を全国会議員に通知した、というニュースもある。
 ところが、これらはほとんどがテレビのニュースでは流れないし、流れてもあまり問題にされていない。
 原口総務が相がテレビ局とズブズブ、という関係からなのだろうか、どうしてこのような、国家を揺るがすほどの重大な問題が、見て見ぬふりをされているのかわからない。
 戸籍制度の廃止問題について言えば、まず戸籍というものは、
 ①本籍を記している。
 ②誰の子か、誰と婚姻し、あるいは誰と離婚し、または誰の親なのか、その人の生涯の履歴を概要で記している。
 ③墓石の登録確認にも必要。
 ④死後80年にわたって登録されている。
 という、4つの点から日本国民であることの実在の証となっており、また国を形成する基本単位である家族を証している、必要不可欠な日本の制度なのだ。
 次に、夫婦別姓導入、これも民主党は法改正を急いでいるが、法務省案の「複数の子供の姓は統一」に対して、民主党案では「子供の出生ごとに決める」とある。
 つまり、戸籍制度を廃止し、民主党案の夫婦別姓制度を取り入れることによって、日本人の実在を証明するシステムが崩壊する。血筋も定かではなくなる。後になって辿ろうとしても、性も違えばいっそうわかりづらい。制度の変更も手伝って混乱し、いつから日本に住んでいて、誰から生まれたか、よくわかなくなる人々が多くなるということだ。
 なぜわざわざそのような、本人や家族の実在証明を脅かし、彼らの人生の履歴を消しかねない制度改革を行おうとしているのだろうか。
 外国人の地方参政権の付与といい、人権擁護法案といい、これらの法案で、得をするのはいったい誰なのだろうか。
 そう思われても仕方ないほど、民主党は政権を獲ったとたんに、これら一連の、特定の方々の利になる法案を通すことに対して、やけに積極的なのだ。もっと景気対策をどうにかしてほしいと思うが、そちらは具体案を示さず、いたずらに公共事業を止めたり、企業に大打撃となる環境対策を勝手に発表したりと、消極的であるようだ。(亀井金融大臣のモラトリアムは論外なので除外)
 また民主党のマニフェストの最大の目玉だった子供手当にしても、子供手当をもらえる場合の国籍の指定はない。
 支払い条件は、
 ①子どもを監護し、かつ、これと生計を同じくするその父又は母
 ②父母に監護されず又はこれと生計を同じくしない子どもを監護し、かつ、その生計を維持する者
 ③子どもを監護し、かつ、これと生計を同じくするその父又は母であって、父母に監護されず又はこれと生計を同じくしない子どもを監護し、かつ、その生計を維持するもの
 とあり、今までの所得税から控除される扶養、配偶者控除制度の廃止と引き替えに、税金を納めないものでも上の支払い条件さえ満たせばお金をもらえるのだ。
 日本人ではなくても、税金を払わなくても、子供さえ生めば、お金がもらえるようになる。
 そしてその子供の親と家族は良くわかない。戸籍制度の改正や夫婦別姓で混乱し、外国人と日本人の区別はさらに付きづらくなる。
 万が一、はっきりとした区別があれば、差別だと喚き散らして、人権侵害とされる。
 すべては人権擁護法案で手厚く守られ、もちろん地方参政権だって与えられる。
 ここまで露骨だともう笑うしかない。
 先日私は自分の記事の後日談に、感傷的になったと書いた。それは私の好きな「ここ」が奪われるかもしれないこと、また素晴らしい表現者の文章が読めなくなるかもしないこと、ということのほかに、自分が反体制であること、70%の国民支持率を持つ新内閣を批判する文章を書いているマイノリティーになってしまったという自覚があったからだ。
 ついに、公を裏切る側の選択をしてしまった。そのことがやるせない思いだった。
 しかし、鳩山内閣が発足するがそうそう利権を与え、守ろうとしているのは多くの日本国民ではない。たとえ彼らの政権が短命に終わったとしても、その間にこれらの法案が通ってしまえば、国家として簡単には覆すことは難しくなる。
 なぜここまで執拗に、特定の外国人に入れ込むのか理解できかねる。ここまで来ると、支援や献金を受けたとか、そういった政治的な理由を越えて、もっと根深いものを感じずにはいられない。
 戸籍の問題でよほど苦労をして生きてきたのか、差別をされて、よほど悔しい思いを耐えて生きてきたのか、それとも、その痛みだけはどうしても取り除いてあげなくてはならないと使命感に燃えているだけなのか。
 どちらにしても本当に酷い話だ。未来の私たちに託して死んでいった、多くの先祖たちによく顔向け出来るものだと思う。
「私自身は参拝するつもりはないし、閣僚にも自粛するよう言いたい」
 そりゃ靖国神社にも行けないだろう。彼らは個を捨てて公のために、当時のあなたたちのような権威のために命を差し出したというのに。
 私は民族精神や組み込まれたDNAに反しても、自らマイノリティーとなってこの問題を徹底的に追求しようと思う。
 新政府がマジョリティーにしようとしているものが、日本という土地を代々守ってきた先祖たちの意思だとはどうしても思えないのだ。
 感傷的になっている場合ではなかった。日本の伝統と魂を守り抜こうとする固い決意を持って。
 玉砕するまで戦っていこうと思う。
 どうかもう少しお付き合いを願いたい。
 
 
 
 
 
 

ちょっと休憩、皇居東御苑散策。

 
 
 
 天気もいいので、皇居東御苑にお出かけしてきました。
 
 
 
 まずは大手門から二の丸雑木林に向かいます。
 白鳥濠沿いに並んだ松の木の傍に、黄金色のススキが島のように茂っています。彼岸花もだいぶ痛んでいましたがまだまだ頑張っていました。
 
 
 
 
 
 二の丸雑木林は、「昭和天皇の御発意により、都市近郊で失われていく雑木林を復元しようと昭和58年から3年かけて造成された森」(ガイドマップより)です。
 前回見逃したのでここをお散歩するのを楽しみにしていました。
 迷路のような細い道をぐるぐるまわって、クヌギ、コナラ、カエデ類、ハゼノキなどが作り出す木陰と陽だまりを堪能させていただきました。
 
 
 
 
 
 
 
 次に、天守台に行って360度の景色を見回して、広大な本丸大芝生と大奥跡を一望します。
 二の丸雑木林の散歩に続いて、なんともいい気分です。
 
 
 
 
 
 そのあと桜の島と竹林に挟まれた道を通って、あの忠臣蔵で有名な松の大廊下跡をも通り過ぎ、富士見櫓に向かいます。
 この辺りは野鳥の島と呼ばれる雑木林もあり、さまざまな木々や四季折々の植物が楽しめます。
 特に目を引くのはクスノキの見事さ。富士見櫓に着くまでの散歩道に立派なクスノキがいくつも立ち茂っているのです。ついつい足を止めて見入ってしまいます。
 
 
 
 
 
 
 紅葉を始めたトチノキも美しかったです。
 本丸大芝生の大きな二本の木(ケヤキかと思っていたら微妙に違うみたい?)も良かったですね。
 大番所から、中雀門跡を抜けて、百人番所、同人番所を通って大手門に帰ってきました。
 皇居東御苑は都会のオアシス、と言いますが、今回ここをめぐって本当に穏やかないい気分に満たされました。
 樹木は自然の荒々しさから遠く離れ、私に安らぎと優しい力を与えてくれます。
 たまにはこんな時間も必要ですね。
 短い時間でしたが、有意義な散歩となりました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

人権擁護の相対的真実について 

 
 
 
 
 真実は相対的なものだ。
 見方や解釈を変えれば、どうにでもなる。
 つい最近それを実感したのは、同じ出来事を違う著者の本から読んだ時のことだ。
 グルジアのバラ革命、ウクライナのオレンジ革命、キルギスのチューリップ革命など、旧ソ連諸国で起こったカラー革命という出来事。旧ソ連支配から独立した共和国等が民主革命を成功させた、一連の政権交代にまつわる騒動のことをいうが、これをある著者の本で読むと、驚いたことにこれらは全てアメリカがやったことだというのである。
 アメリカとロシアとの冷戦は未だ続いていて、旧ソ連諸国に自国の傀儡(かいらい)政権を作ろうと謀ったアメリカの仕業であり、成功パターンは以下の通り。
 
 ①現地(目的の国)のNGOやNPOを支援し、反政府勢力を育てる。
 ②選挙が実施される。
 ③アメリカの意に沿わない候補が勝った場合、選挙監視団が「選挙には不正があった!」と発表する。
 ④野党はこの発表に乗じて「選挙のやり直し」や「大統領の辞任」を求め大々的デモを行う。
 ⑤大統領が辞任するか、選挙が実施され親米候補が勝利し、革命成功。
 
 そう言えばつい先日、テレビのニュースでアフガニスタンの選挙で不正があったとか騒いでいたが、なるほどこっちもそうなのかと妙に納得したものである。世界の石油支配が国策だというアメリカらしいではないか。
 ところが、この同じ民主革命、別の著者が書くと一行で終わってしまう。「ロシアのくびきからの独立という素朴な国民感情の表れだった」というのだ。
 その後書物は、強欲な北の熊(ロシア)がその革命を黙って見ているはずがなかったこと、新政権を揺さぶり、石油とガスの供給を止め、ありとあらゆる嫌がらせを企てた後、無理やりロシアの引き戻したこと、などなど、ロシアの悪事がづらづらと綴られているのだった。
 たぶん事件の前は前書のようなアメリカの干渉があり、事件のあとは後書のようなロシアの報復があったわけで、どちらも正しいのだろうとは思うのだが、それにしても、革命そのものが他国の支援によって仕組まれたものなのか、国民による素朴な感情の表れだったのか、ではずいぶん違うではないか。
 私が前書しか読んでいなかったら、アメリカひでぇ~強欲すぎる!で終わっていただろうし、後書しか読んでいなかったら、ロシアって陰険だなぁ~、やっぱり民主主義が一番だよね~、で、こちらも単純に片づけていたに違いないのだ。
 
 どうしてこんな例をわざわざ出したのかと言えば、最近のニュースを見て不思議に思ったからである。
 鳩山内閣、特にここ最近の鳩山首相&幸夫人、精力的な外交が功を奏し、好感度が上がっている。
 胡錦濤国家主席とは友愛を、オバマとは温かい雰囲気を、メドベージェフ大統領からは独創的なアプローチを取り付けて、国民からの支持率は70%を超えたということだ。
 私は鳩山さんのコメントや(対談後の)会見を見て、彼が今世界で起こっていることの問題点を私たちと同じような庶民レベルでしっかりと認識していること、現場を良く見知っていること、もちろん私が最近になって必死で読んでいる政治の知識本などはとっくの昔に多数を読破しているであろう、さまざまな問題について考えて抜かれていて、それらについて自分の意見をしっかり持っていることなどを知った。
 だからこそ始末が悪い。
 政権交代!というスローガンや友愛という理念でごまかして、彼(ら)がいったいどこへ導くのか、政権を獲ったとたんに、彼らに票を入れた多くの市民が読んでもいなかったマニフェストを持ちだし、公約を実行するが正しい義務であるという常識を逆手に取って、彼らが実行しようとしていること何なのか。
 彼らは確信犯ではないか。私は政権を獲った時に、マニフェストをブログに掲げた。もちろん公約を守ってくださいよ、などというつもりはさらさらなく、絶対これらの公約が後々問題になるだろうから、決して忘れないように吊るしあげたのだ。案の定、彼らはマニフェストを忠実に実行し始め(「マニフェスト原理主義」と呼ぶのだそうだ)、そのひとつが下に引用させていただくニュースだ。
 鳩山政権は他にもたくさんの納得できかねる政策があるので、この件だけをここで取り上げるのは申し訳ないのだが、だけどやはりこの件が一番の問題だと思うのは、冒頭で言ったような相対的な真実を奪う可能性に満ちており、そして、一番被害をこうむるのがネットユーザー(web上の表現者たち)ではないかと思うからである。
 
 
千葉景子法相は17日未明の就任記者会見で、思想・言論の自由の制限につながると指摘される人権侵害救済機関について「国際的にみても(設置が)当たり前の機関だ。実現に向けて早急に取り組みたい」と述べ、内閣府の外局として設置する考えを示した。

記事本文の続き 自民党政権での人権擁護法案は、救済機関を法務省の外局としていたが、「言論の自由を奪う」などとする党内の強い反発から提出を見送った。民主党案は、内閣府の外局とすることで官邸直結とし、救済機関の権限・影響力の強化が図られている。

 

 民主党の支持層が情報を入手するメディアはTV報道が最も多い。また、ネットから情報を収集する人々の多くは自民党を支持している。これは一部のネットユーザーの調査でしかないが、私自身テレビを見ている時とネットを見ている時の鳩山内閣に対する(国民の)温度差に良く驚かされる。
 しかし、人権擁護法案によって、そう言った鳩山政権の別の側面から見た真実は言葉を奪われる可能性がある。
 人権擁護法案で問題になるのは、人権侵害かどうかを判断する新たな機関が持つことになるその権限なのだそうだ。人選の不透明さ、曖昧さ、人数など、人権保護が正しいかどうかという問題ではなく、機関(人権委員会及び人権擁護委員)に選ばれた人たちによって簡単に差別が成立してしまうという点だ。
 千葉法務大臣は「国際的にみても設置が当たり前」などと言っているが、いったいどこの国と比べているのだろう。
 私はこの法案を実施して成功している国の実例を調べたかったのだが、ネットで探しても容易にヒットしなかった。人権擁護と相反する言論や表現の自由という問題はどうクリアしているのか。つい独裁者が統治する国、共産主義国家を連想してしまう。もしくは、よほど成熟した民主主義国家か。
 どちらも日本とはほど遠い。第一、そんな使い方次第でどうにでもなるきわどい法案を、本当に人権擁護のために役立たせることができる国だとは思えない。
 千葉さんは日本は特別な国だということを忘れていないだろうか。戦後60年以上過ぎてもアメリカの内政干渉を受けて、戦争は永遠に放棄をし、食料自給率は40%程という、独立国とはまったく思えないていたらくだ。1億を超える国民がいて、独立自尊の精神を失くした、そんな国はどこを見回しても日本だけだということをわかっているのだろうか。
 おまけに周りには反日感情を巧みに利用して統一を図ったり問題をすり替えたりする国々に囲まれ、「そう遠くない過去の疑うべくもない誤ち」とやらを政治カードにされては、いつまでも、いつまでも、理不尽な要求を受け続けている身だというのに、良くそう言ったいっぱしの国際国家みたいな発想が浮かんできたものだと思う。
 高尚な慈善事業をしている場合ではないではないか。国は情けなくも破産寸前、増え続ける失業者、生活保護を受ける人に、自殺をする人。国民の安全を守り食べさせることさえ難しいというのに、まだ食い物にされたいのだろうか。少しは今の日本の状況と置かれている立場を把握して、もっとがめつく、日本の国益を最優先にして欲しいものだ。
 そんな法律を作ったら、それこそ日本は反日ナショナリズムの思う壺だろう。
 そこを通そうというのだから、この場合、新内閣が三権分立を越えて新しく手に入れる権力で、制裁を受けるべき対象がおおかた決まっているのではないか、と思えてくるのだ。歴史の解釈は一つでいいように、鳩山政権に関する真実も一つでいいのだと、別の見方を表現する国民は反日カルト団体から処罰を受けると。こういった図式が見えてくる。
 真実の統制と、反日の保護。
 それともう一つ、浮かんでくるのが訴訟爆発社会。
 私がこのニュースを聞いた時に、漠然と思い浮かんだ絵は、例の有名なテレビ番組の「訴えてやる~!」というあれだった。
 で、その後、連想してしまったのが、アメリカが年次改革要望書で繰り返し要求している、日本の司法制度改革。
 三権分立のうち日本では影の薄い司法に膨大な力を与えて、アメリカ型の社会システムにすること、またそれによってアメリカの巨大ローファームを儲けさせること。今一番アメリカが熱心に推し進めようとしている内政干渉なのだが、常日頃私はそんな社会に改造したって日本人はそこまで訴訟好きではない、面倒を起こさずに穏便に済ますことが好きなのではないか、そう思っていた。モンスターペアレントみたいなありえないいちゃもんをつけた消費者とか、医療事故を受けたとされる患者や家族たち、彼らが企業や病院、もしくは行政を相手に団体訴訟を起こすとでもいうのだろうか。国民性の違いがある、そうそう儲かるほどにはうまくはいかないのではないかと。ところが、私の中で、反日向けの人権擁護法案とこのアメリカ向けの司法制度改革が見事にぴったりと合ってしまったのだ。まるでパズルの1ピースのように。
 そうして、うっとりと想像してみたりする。
 そう遠くない未来、疑うべくもない誤ち(過ち)で訴えられた表現者たち。反日カルト集団がまた集団訴訟を起こし。そうして訴えれた彼らはローファームへと駈け込むのだ。
 もちろん表現者たちが勝つはずもない。安易にそんな判例を作ったらローファームはもうからない。反日カルトとアメリカ巨大訴訟産業の利益になる判決のみがはびこるのだ。それでも弁護士がいなければもっとひどい制裁を受ける羽目になる。社会的に抹消されないために、彼らにお金を注ぎ込むしかないのである。
 鳩山政権は反日からもアメリカからも絶賛の支持を得て、国民支持率はついに80%を超えたようだ。
 首相の演説はいつも大人気である。今日も大歓声が上がった。彼が演説をすると、それを聴いている大勢の国民が、それをテレビで見ている大勢の国民が、こう叫ぶのだ。
「友愛!」「友愛!」「友愛!」
 右の拳を高く、高く、振り上げて。感極まって首相も叫ぶ。
「皆さん! 友愛とは自分の自由と自分の人格の尊厳を尊重すると同時に、他人の自由と他人の人格の尊厳を尊重する考えです。
 国民も、民族も、人種も、宗教も、互いの違いを認めて、共生することなのです!」
 そうして、相対的なもうひとつの真実は永遠に消えていくのだった。
 
 
 
 
 
 【後日談】
 と、昨夜一人で連想していたら、何だか少し感傷的になってしまいました。
 ついに私も行くところが無くなってしまいます。王様の耳はロバの耳、と叫ぶ場所も消えてしまうかもしれません。
 自由な表現が出来るこの社会が、いつまでもあり続けますように。
 それから素晴らしい表現者たちの文章が、いつまでも読めますように。
 願いを込めて。
 
 
 
 
 

東アジア共同体構想について、どう考えても「ともだち」としか思えない鳩山内閣 ~「友愛」に立ちはだかる「憲法違反」~

 
 
 
 シルバーウィークで遊び呆けているうちに、事態は悠長なことを言っていられない方向へ進展しているようだ。
 

 [ニューヨーク 22日 ロイター]鳩山由紀夫首相は21日、中国の胡錦濤国家主席と就任後初めて会談し、東アジア共同体構想を提案した。会談後、首相が記者団に明らかにした。首相は会談で「友愛」に基づいた日中関係構築について話し、「互いの違いを認めながら信頼関係を構築し、東アジア共同体を創造したい」と提案した。日本の政府筋によると、胡主席はこれに対し、日中関係は中国にとって最も重要な関係の一つであると述べ、より頻繁な首脳レベルの会談やさまざまな交流活発化による関係強化の重要性を強調した。 東シナ海のガス田開発をめぐり、胡主席は両国の合意に基づき進めたいとした上で、国民の支持が必要だと表明。鳩山首相はそうした支持の確保を中国側に促した。日中は東シナ海のガス田共同開発について2008年6月に合意しているが、合意内容の実行には至っていない。

 

 
 ところで、この鳩山さんが連発する「友愛」なのだけれど、いったい何を持って「友愛」と定義しているのか。
 私はあいまいな友愛の意味がとても気になってしまう。
 そこで、今日見つけた記事。2009年4月の民主党幹事長時代にこんな発言をしている。
 
 (外国人参政権付与問題をめぐっての発言)
「これは大変大きなテーマ、まさに愛のテーマだ。「友愛」と言っている原点が、まさにそこにあるからだ」
「生けとし生けるすべての者のものだ。日本列島も同じだ。すべての人間のみならず、動物や植物、そういった生物の所有物だと考える」
 
 なるほど。確かに地球も日本列島も人間のみならず、動物や植物、すべての所有物だと思う。
 私は最近樹木や自然に傾倒しているので、こういった人間本位ではない考え方にとても好感を覚える。
 そう言えば、鳩山氏(鳩山総理大臣)の民主党代表選の時の発言にもずいぶん感動したものだ。
 
 (政権交代後どんな政権を作りたいかと聞かれての発言
「愛の溢れる、凛とした国家を作りたい。『友愛の社会』、すべての人が互いに必要とされながら社会に繋がっている、居場所をしっかり見つけられる社会をともに再生させよう」
 
 今は人との関係性が希薄になっている時代だ。
 愛を説く鳩山さんが伝道師のように思えて、「ああ、今の時代にはこういう人こそが必要な人なんだな」などと、不覚にも思ったものである。
 今となると、あの感動を返せと言いたい気分だ。
 友愛、人と人、人と自然とが繋がり合うユートピア、日本をそんな場所にしたいと言う高尚な思想はとても素晴らしいとは思うのだけれど、高尚な思想を隠れ蓑に何をしているのかと言えば、結局は「東アジア共同構想」だの「永住外国人参政権付与」だの、そっちの方向性でしかないわけで。
 私が感動した言葉も特定の国の方々ことを示しているとしか思えない。
 どう定義を考え直しても、解釈を変えても、言葉の真意は同じなのだ。
 
「友愛」=「永住外国人の参政権付与」
 もしくは、
「友愛」=「東アジア共同体構想」
 
 突き詰めて言えば、金銭的にも援助を受けている(民主党の)支持団体に見返りを与えたいとか。友愛と言う言葉を外交に利用したいとか。
 はっきり言えばいいのではないかと思うのだが、「生けとし生けるもの」とか「動物や植物、そういった生物」とか出されるとムカついてしまう。
 壮大に謳ってみても口実でしかないんでしょ、と突っ込みたくなるのだ。
 つい先日に見てきた映画、20世紀少年最終章を思い出す。
 あの平和を掲げて世界大統領となった「ともだち」とどこか違いがあるのだろうか。
 
 
 ところで、「参政権付与問題」の問題点について、興味深い記事を見つけた。
 要するに最大のポイントは「憲法違反」なのだそうだ。
 以前、この問題があがったときに与謝野馨氏がまとめた「与謝野論文」、これを読むと「友愛」の異常さがあらためて良くわかる。
 下にコピペさせていただきます。
 わかりやすく、憲法の視点から問題を捉えて、論文を記した与謝野氏に感謝。
 それから、「SANKEI EXPRESS」政治部の今堀守道さん。(2000年の産経新聞の記事をweb上に再提示して、上の友愛の定義(?)を教えてくれた)
 この記事から与謝野論文を書き写して教えていただいたのが、ジンボルトさん。(拡散OKとありますので、書き写させて、もとい、コピペさせていただきます)
 与謝野論文を新聞で探し、見解全文を書き写し写してくれた日本生まれの日本育ちさん、皆様、本当にどうもありがとうございます。
 あと、「博士の独り言」から日本と外国人の区別と差別についての記事を与謝野論文の後にコピペさせていただきました。
 こちらもどうもありがとうございます。
 
 
 
 
 
 
【まえがき】

 わが党は、自由党および公明党との連立の政策合意に掲げられている「外国人の地方参政権」の問題について、あらゆる角度から真摯(しんし)な検討を重ねた。

 その結果、次のような見解をとりまとめた。

【本論】

一.この問題の視点について

 この問題をどのような視点で論じていくべきかは極めて重要である。
 地方公共団体がわが国の統治機構の不可欠の要素をなすことは明らかであり、地方自治も憲法秩序の一環であることから、本調査会は、他の視点を全て捨象し、憲法とのかかわりからこの問題を論ずべきと考える。

二.憲法一五条一項の意義について

 憲法一五条一項は参政権について次のように規定している。

「公務員を選定し、およびこれを罷免することは、国民固有の権利である」
 国民固有とは何を指すかであるが、憲法は他の条文においてはこの表現を使っていない。固有とは、「もともと持っている、そのものだけに限って有るさま」を意味しているのであり、この条文はどのように解釈しても外国人参政権を予定しているとはいえない。
 従って本条文は、「日本国籍」を有する人に限って参政権を「固有の権利」として規定していると解するのが自然である。また、当然のこととして、何人にも日本国籍を取得した瞬間、この固有の権利が発生する。

三.国と地方の関係について

 学説の如く、「地方公共団体も、国家の統治体制の一側面にほかならない」と考える。

 一方、地方行政においては福祉その他の公共サービスを提供するだけでなく、「公権力の行使」、すなわち権利義務を規制する事務が多く含まれている。
 また、地方自治法において「二年以下の懲役もしくは禁固」を含む条例の制定権を、普通に地方公共団体に与えている。このように地方議会の機能と併せ考える普通地方公共団体には、「権力作用」を含んだ事務が存在することは明白である。
 すなわち、国と極めて類似の「公権力の行使」および公の意思形成の過程が存在する。憲法前文にあるように、国・地方を通じての統治の原理は「国民主権」という考え方に基づいており、言及するまでもなくここでいう国民とは当然の事ながら日本国籍を有する者を指している。

四.最高裁の判決文について(平成七年二月二十八日)

 最高裁判決には、その本論において、憲法九三条二項の解釈について、次のように述べている。
 「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものである。

 
 そこで、憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。
 
 そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。
 
 そして、地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。」
 このように最高裁判決は国民主権の原理から憲法一五条一項の規定について、わが国の国籍を有する者に選挙権を保障したものであるとした上、地方公共団体の長等の選挙権を保障した憲法九三条二項についても、国民主権の原理と地方公共団体が、わが国の統治機構の不可欠の要素であるとの理由で、同項にいう「住民」は、わが国の国籍を有し、区域内に住所を有する者であり、外国人は含まれないと述べていることに注目すべきである。
 なお、以上の考え方は、平成十二年四月二十五日の最高裁判決においても是認されており、この本論の部分についてのみ、判例としての拘束力があるにすぎない。
 ところで、最高裁判決は傍論で次のようにも述べている。
 「このように、憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。
 
 しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない。」
 これについては、判決の傍論部分にすぎず、判決の先例としての拘束力を持たないのであるが、これを別としてもいくつかの点で明らかでない点が残る。
 
(1)地方参政権の付与は憲法上禁止されていないと述べているが、これを許容する条文もなく、憲法一五条一項の「国民固有の権利」とも相容れないのではないか。
(2)判決のいう「公共的事務」という文言の趣旨は明確ではないが、これは「公権力の行使」、すなわち「権利義務を規制する事務」が含まれると解されるので、「国民主権の原理」と相容れないのではないか。
五.参政権の分割について

 国民の参政権は、国・地方を通じての選挙権・被選挙権を指し、憲法が一体として国民に保障しているのであって、これを分割して国民に付与することはできないと考える。

 最高裁判決も、被選挙権について憲法一五条の解釈に当たって、選挙権と被選挙権は表裏一体のものであると考えている。
(注)(1)選挙権・被選挙権における年齢制限は人間の成長による思慮・分別を基準にしたものであり、いずれも年齢とともに発現する権利であるから、参政権を分割したものとはいえない。
(2)かつて離島において国政選挙に対する参加が制限されていたが、これは外国に居住する日本人の参政権が実現していないのと同様、適正な選挙管理という技術上の問題である。
 以上のことは、外国人の地方参政権についても同様に考えられるが、この地方参政権はもともと憲法の予想するところではないので、日本国民とは異なった解釈が可能であるかを含めて、憲法上議論を重ねる必要があろう。

六.国籍と公務員の間の法理について

 平成八年十一月に出された自治大臣談話は、
「公権力の行使又は意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには日本国籍を必要とし、それ以外の公務員となるためには必ずしも日本国籍を必要としないという公務員に関する基本原則は、国家公務員のみならず地方公務員の場合も同様であると私は認識しております」
 また、昭和二十八年三月の内閣法制局の見解も、
「法の明文の規定で、その旨が特に定められている場合を別とすれば、一般にわが国籍の保有がわが国の公務員の就任に必要とされる能力要件である旨の法の明文の規定が存在するわけではないが、公務員に関する当然の法理として、公権力の行使又は国会意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには日本国籍を必要とするものと解すべきであり、他方においてそれ以外の公務員となるためには日本国籍を必要としないものと解せられる。

 
 従って、お尋ねの場合も、日本国籍を必要とする旨の法の明文の定が有る官公職または公権力の行使もしくは国会意思の形成への参画にたずさわる官公職にある者は、国籍の喪失によって公務員の地位を失うが、それ以外の官公職にある者は、国籍の喪失によって直ちに公務員の地位を失うことはないものと解せられる」と述べている。
 以上のような考え方を援用し、かつ地方議員あるいは首長の公権力の行使又は公の意思形成へ参画するものであることを勘案し、さらに国民主権の原則に照らせば、以上のような者の選任権を持つ者は日本国籍を有する者に限られていると考えるべきである。

【その他の問題】

一.相互主義との関係

 国と国との間で相互主義によって物事を決める場合の多くは、経済関係、司法関係、課税、領事事務の観点から双方の必要性を満たすために行われている。
 本件は事柄の性質上、相互主義にはなじまない。

二.諸外国の例との比較の関係

 各々の国と地域は、各々の事情にかんがみ、制度を判断し、判定してしているのであって、直接の参考とはなりえない。

三.納税者であることや善良であることとの関係

 わが国は普通選挙制度をとっており、納税の有無や多寡とは無関係に参政権は存在する。また、参政権は善良な市民であることが要件になっているわけではない。

四.長い間居住していることとの関係

 このことによって日本国籍の取得が容易になることはあっても、参政権との直接の関連は見い出せない。

五.法の下の平等との関係、外国人の人権との関係

 法の下の平等の原則は、特段の事情の無い限り、外国人にも類推されることとなっており、また、憲法第三章の基本的人権の保障は権利の性質上日本国民を対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶと解されている。

 
 しかし、参政権については、外国人にこれを認めないとしても法の下の平等に反するとは解されていないし、また、日本国民に限って保障されているものと解されている。

【結論】

一.現段階では、「外国人の地方参政権問題」には憲法上問題があると考えざるを得ない。従って、拙速な結論を出すことは適当ではない。

 
 一方、これらの議論をさらに深化させる必要があるとすれば、この問題は専ら憲法の視点から論ずるべきであって、衆院・参院に各々設置された憲法調査会で議論を尽くすのも一つの方法であろう。

二.日本に居住する外国人に対する地方行政のあり方は、個々の地方公共団体が配意すべき事柄であるが、一般論として言えば、外国人が有している考え方や希望を十分熟知した上で地方行政が進められることが望ましいと考えられる。

 必要な場合には、外国人住民の考え方、要望等を積極的に吸収する仕組みや方法を、各々個別の地方公共団体が将来に向かって工夫することも考えられるべきであろう。
 
 
 
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 不可欠な、日本人と外国人の「区別」

 ここで、在日韓国・朝鮮人に対してありがちな誤認識と、本来あるべき「認識」の筋道をおさらいしておきたい。在日韓国・朝鮮人に対して、戦後の日本には、不可解な誤認識が徘徊して来た。事の次第を整理すると、一部に、在日韓国・朝鮮人を「マイノリティ」であるかに定義し、または、所得税等の納税を以って「国民の権利、福祉と同等に遇すべき」(要旨)との解釈が、「共生」という言句とともに徘徊している。

 しかしながら、そもそも、在日韓国・朝鮮人は、それぞれに韓国、北朝鮮に国籍を有する外国人であり、マイノリティでは有り得ない。たとえば、在日ドイツ人、在日フランス人をマイノリティと呼んでは失礼に当たるように、同様に、在日韓国・朝鮮人をマイノリティと呼べば、むしろ、失礼にさえ値しよう。在日アメリカ人、在日イタリア人などと同様に、帰る国の国籍を有する外国人であり、さればこそ、いかなる国にも存在している、当事国の国民と外国人との「区別」が、この日本にも同様になされて然りであり、その「区別」を、「差別」と混同すべきではない。混同してしまえば、誤認識に他ならないからである。同時に、在日韓国・朝鮮人と呼称すること自体が"差別"であるかにするような錯覚があるが、この意味からすれば、実は、これこそが偏見であることが判る。

 また、我々日本人も外国へ行けば外国人である。たとえば、外国へ赴任し、納税者となった経験が筆者にもあるが、その国の国民と同等の権利や参政権、福祉を付与せよ、と考えたことはない。身が外国人である以上は、その国に、国民との区別があることはごく当然であり、むしろ、区別なくあつかえ、と要求するとすれば、その国に対して失礼にさえ当たるものと自覚しているからだ。また、その区別を差別と思ったこともない。外国に住まわれているブログの読者からは、同様のことを記したご意見をいただく機会が少なくないのも、印象的である。

 勿論、人の国としての多少の情状は有りといえども、それは、一義的な外国人救済措置のために存在するべきであり、それを常態・恒常化し、あるいは、法改正の名目のもとに、国籍条項を外してまで対処に資するべき性質には無いはずだ。外国人の根本的な救済義務は、それぞれの国籍本国に有るからで、これが、在日韓国籍者の場合は、韓国にその義務が存在し、在日朝鮮国籍者の場合には、北朝鮮にその義務が存在する。根本的な救済義務の全うをそれぞれの「祖国」に促す。それが、ごく当然の帰結であり、遵法の上で、日本の政治が執るべき方途に違いない。

 
 
 
 
 
 

鳩山内閣は思っていたよりへなちょこじゃないかもしれない。てか、怖いと真面目に思い始めた昨今。

 
 
 
 
 
 
 鳩山新内閣、始まったばかりだと言うのに、早くもいろいろな動きがあるようだ。
 書きたいことは多々あるが、点と点がなかなか一つの線にならず、はっきりとした意見としてまとまらない。
 大変読みづらいとは思うのだが、私が今疑問に思っていること、懸念していること、鳩山内閣への御意見等々を一つずつ書いてみようと思う。
 
 
 
 ■鳩山新内閣は(主党の)独裁政治となるのではないか。
 
「そんなことはありえない。両院とも過半数を超えたからと言って独裁政治ならば自民党だってそうだったではないか。一党独裁政権は独裁政治ではない。また民主党も自民党と同じ日米安保条約第一、大企業優先姿勢の政治であり、大した変りはない」
 そんな反論を耳にしているのだが、大した変りがないとは思えない。少なくとも自民党は行政と共存していたわけで、事務次官たちを一切会見させないなどとは言っていない。民主党が政治家主導の政治を目指している以上、今まで影の支配者だった官僚たちと対立するのは目に見えている。(事実、警察庁や気象庁や出先機関は本来国民に知らせるべき情報もその会見を中止している。一種のストライキだとしか思えないが)
 岡田外務大臣にしても初仕事は核密約調査を命令と来ている。初仕事が今までのデリケートな問題を暴露させ、拒否したものは更迭(って言うのかな?)だと言う非情な大臣命令なのだ。
 密約調査チームは来週発足と言うが、万が一密約があったとなれば、大変なことになる。政府は憲法に違反しても見て見ぬふりをしていた。やはり自民党と行政のコンビは信用ならないと言う烙印を押され、しょっぱなから信用を削がれた官僚たちはますます(民主党の)大臣たちに頭が上がらなくなるだろう。
 民主党はこれを発端に行政の力を封じ込めてやりたい放題やる可能性がある。
 また、日米安保条約第一と言うのも大企業優先姿勢と言うのも怪しい。民主党の支持団体やマニフェスト等の思想からすると、民主党は明らかにアジア寄りで、インド洋の海上自衛隊の給油活動を延長しないと言うひとつを取ってもアメリカ寄り(日米安保第一)だとは思い難い。日本で一番権力があるとされる大企業にだってかなり厳しい。温室効果ガスを2020年までに(1990年比で)25%削減、と言うのは中小企業じゃなくても大打撃だ。産業界から苦情が出るのも当然である。
 経済界、行政、日米関係、今まで力のあったところから民主党=鳩山新内閣は確実に体力を奪おうとしている節があるのだ。
 企業や官僚や日米関係が弱体化したときに、力を握るのは民主党と言うわけだ。
 どうして独裁政治を懸念しないでいられようか。
 ところで、日米関係だが、これに関しては私はアメリカからアジア(中国)へシフトするものだと思っていた。アメリカの傘の下であることを捨てて、中国の傘の下でも狙っているんじゃないかと。
 が、意外なことにこのニュース、鈴木宗雄が外務委員長に就任。中国に続いて、領土問題を解決したいようで、鳩山総理から直々に「北方領土を頼みます」と依頼されたそうだ。ロシアとの強力なパイプを持つとは言え、鈴木宗雄氏を選んだと言うあたりが驚きだ。あっせん収賄罪で公判中でも利用できるものは利用しようと言うあたり、よほどロシアとの関係を強化したいのだろう。中国とロシアの関係にもしも日本が割り込めれば、中国の傘の下に入る必要もなくなるかもしれない。太平洋パイプラインの競合で負けたあとでも、巻き返しの可能性が出てくる。
 民主党独裁政治は私が思うよりよほど巧妙かもしれない。
 下の一つも目眩ませである可能性がある、と言っては言い過ぎだろうか。
 
 
 ■民主党の韓国、朝鮮との甘い関係。
 
 9月20日、今日のニュースだが、「小沢氏が韓日議連会長と会談。参政権付与、通常国会で目鼻」。どうも民主党は支援を受けた見返りに参政権を与えなくてはならない状況になっているらしい。いったいいくらの金をもらえば、ここまで簡単に日本を売れる気になるのか疑問なのだが、マニフェストに書かなかったと言うとところだけは評価している。
 国民からの反発を避けるための目眩ませだったと言う意見もあるけれど、内閣が立ち上がって以来、「マニフェストに書いてあることだからやめます」とか「マニフェストに書いてあることだから早急に実現させます」とか、大勝ちして政権交代したのをいいことにあの悪魔の契約書をすべて忠実に実現しようとし始めているきゃつらにしてみれば、私からしたら書かなかっただけましと言うものだ。どちらにせよ、アンチ自民党(アンチ今までの政治)たちは民主党に入れただろうから、「マニフェストに書いてあったら、参政権を付与します!」と今頃堂々と言っていたに違いないのだ。鬼の首でも取ったようにそうのたまわれていたら、悔しくて悔しくて今頃寝付けなかったことだろう。どちらにせよ、次期国会では審議が始まる。まぁ、その間に民主党(=鳩山内閣)がどこまでしたたかなのか、もう少し様子を見守りたい。
 この件が一番不安材料&民主党毛嫌いの材料になっていた私にしては悠長である。
 それほどEU寄りより国連寄りより、ロシア寄りの鈴木宗雄氏の件が、意外だったのだ。買いかぶりすぎかもしれないが、ひょっとしたら、誰にでも甘い顔をして最後に逃げる、と言う結婚詐欺師のような狡猾な一面をこの参政権付与の問題で見せてくれないかと期待している。(いや~やっぱりありえないかな。「友愛」だもんな)
 
 
 まだまだあるのですが、二つ書いてダウンです。
 急いで書いたので誤字脱字も多々あると思います。(ごめんなさい)
 また時間を見てぼちぼち書いていきます。
 
 
 
 
 
  
 

深淵で橅が待っている  ~箱根西外輪山旅行記~

 
 
 
 
 最近、仕事もプライベートもうまくいかない。
 実際うまくいっていないわけではなくて、私の中でそれらに対する熱意が保てなくなっているのだ。
 仕事や趣味や家族や、そういったものを通して、またそういった人間関係から、私は自分を成長させようとかなりの情熱を傾けてきたと思う。
 ところが、壁にぶち当たる。世の中にはどうにもならないことも多々あり、私はあきらめを持って大きな力が介入する世の中の流れの一つに組み込まれようとしている。
 Let It Beー なるがままに。
 そんな境地だ。
 これは、ある面から見たらいいことなのだろうが、もちろんいいことばかりではない。
 『変えられないことを受け入れる心の平静と、
  変えられることを変えようとする勇気と、
  それを見極める叡智を、
  私にお与えください、神様ー』
 私は変えられることもすべてあきらめようとしているかのようであった。
 そこで旅に出ることにした。
 旅と言っても、いつものような小さな撮影旅行なのだが、とにかく自分の裡に籠(こも)りたかった。
 私の中の奥底に眠る、眠り呆けている核心、文明だの社会性だのとは切り離された原始的な魂に直接働きかけようとする。情熱を奪い返すために。
 私は今まで出会った場所の中で一番高揚したその場所に出かけて行こう。
 西外輪山のひとつ、三国山。老ブナたちが立ち並ぶ山だ。私はこの山をこう呼んでいるのだった。「私の山」と。
 
 
 私がこの山を好いている理由は二つある。
 ひとつめは人が少ないこと。箱根と言う観光地にあって、その対極にあるかのようにまったく人の手が介入されていない。自然のままの姿と言えば聞こえはいいが、私から見るとまるで放置されているようだ。それを証明する一つの例として、箱根町から旧街道を通って登山口、そうして終点の湖尻峠から深良水門、湖尻水門の遊歩道へ出るまで公衆トイレが一つもない。スカイラインと登山道が交わる個所に一か所食堂があってそこを借りることが出来るだけだ。いったい観光のための旅行者が行くことを想定されているのか。(されていないとしか思えない)ロープウェイや登山鉄道が走ったりする箱根の山々とはえらい違いだ。しかし、おかげでのんびりと行くことができる。特に写真撮影にはもってこいだ。三脚を広げて景色を独り占めしても、迷惑をかけるものは存在すらしない。
 ふたつめはブナの木が多いこと。
 三国山はブナの木が多い。が、この理由はブナ好きだからというわけでもない。原生林を保っているので、伐採だの植林だのは行われていないようなのだ。おかげで若木は極端に少ない。多分もう健全なブナ林のサイクルからは外れているのだろう。成木や幼木(若木)は細く黒ずんでみずみずしい姿とは言い難い。対照的に老ブナの見事さが際立っている。苔をまとった巨木の彼らが山伏峠から山頂のあたりから現れて、その迫力に息をのむ。思わず足を止める登山者も多いだろう。
 そういった山の様子に私は自分を重ねているだった。荒れ果てて、衰退するときを静かに待つだけの、だけど見事な老ブナが立ち並ぶ、人気のない山。
 「燃えながら死んでいく」かつて読んだ五木寛之の林住期を思い出す。死ぬと言うことは生きることと同じくらいの膨大なエネルギーが必要なのだそうだ。
 燃えて、尽きる。
 まさに老ブナたちは今燃えるような林住期をむかえているようだった。
 
 
 
 
 
 
 箱根旧街道に入り、向坂、赤石坂、釜石坂、風越坂、挟石坂を越えて、道の駅前の外輪山周廻歩道入口から登山道へ入る。
 初めて登って老ブナたちと出会った時のあの胸の鼓動、ときめきを思い返している。熱い思いを思い起こさせてくれるだろうか。また、「私の山」の老ブナや木々や数々の植物たちは元気だろうか。「誰も知らない小さな国」に出てくるコロボックルでも隠れていそうな道端の葉、美しい山つつじや山野草、季節を変えて彼らはどんな表情を見せてくれるのだろうか。
 ところが私は登り始めてからずっと、最近起こった「いやな出来事」のことばかりを考えていた。
 ○○はああだった、それに対して自分は○○だったのに、相手はまた、○○だった・・なんで○○であって、○○ではないんだろう。
 と言うような、職場や趣味の場所での気になることを延々と繰り返して思い出す。樹木や山野草どころではない。これでは現実逃避として誰もいない深山に逃げ込んできたかのようだ。しっかりしろ私。ちゃんと景色を見るんだ、と何度も言い聞かせるが、思いはいやな出来事に馳せられてしまうのだった。
 やっと目を覚ましたのは海平に着いたころで、駄々広い緑の草原が一面ススキに覆われているではないか。海平の標識さえも見えなくなるほど、ススキたちは道をふさぐように茂っている。前回は草原と山つつじにカラスアゲハに心を躍らせて、腰をおろして休憩したポイントだが、今回はススキにアザミにアザミに群がるセセリ蝶が目を楽しませてくれると言うわけだ。おまけに目の前には富士山が姿を現し、雪帽子を脱いだ姿が淡いシルエットのように浮かび上がっている。天気が良くなかったので、期待していなかったのだが、これには心が弾んできた。曇り空と同化する淡い富士は本当に上品で美しかった。ススキと合わせて写真を撮るものの、絵にするとどうも良くない。やはり曇り空のせいではっきりしないのか、それとも腕のせいなのか、眠たくて間抜けな、つまらない絵にしかならないのだった。それでもやっと気を良くした私は細い丸太の階段に座り、休憩を取った。富士を見ながら心を静かにしている。すると後ろから声がした。
 やっと落ち着いた時なので、思わず舌打ちしたい気分になった。夫婦連れがやって来て、富士を眺めている。彼らは仲睦まじく、綺麗ね、とか何とか言い合っているようだ。小声でくすくす笑いながら写真を撮ったり、撮った写真を見合ったりして、二人の世界。なかなか私の後ろから動こうとはしない。私は身を固くして待っていた。万が一人が通る時のために登山道の道が広くなっているところにある階段の端に座っていたのだが、そのうち、まさか自分がいるせいで通りずらいと言うのだろうかと心配になってきた。立って避けたほうがいいのか。またこんな無防備な姿を景色のワンポイントとして納められたらいやなものだなぁ、と彼らが自分を映していないかどうか気になってしまい、そわそわしてしまう。後ろの様子が気にかかって仕方ない。しばらくして、やっと通り過ぎる彼らは無言である。挨拶をされても間が抜けた雰囲気だったので、それはかまわなかったが、通り過ぎた瞬間に後ろを歩いていたご婦人のほうが「こんにちは」と声を発した。
 まぁ言わなくてもいいと思うし、私も言いたくないんだけど、山のルールと言うか礼儀なので一応言わなきゃね、的ななおざりな挨拶であった。私は元気よく「こんにちは!」と返しながらも不快指数がまた上がっていく。「文明だの社会性だのとは切り離された私の裡の裡のもの」とは出会う予感すら現れない。
 せっかくやっといい感じだったのだが・・ この一件で私はがっかりしてしまった。数少ないハイカーにさえ、心を乱されているようではだめだ。
 今日はもうあきらめよう、と決心する。今日は写真を撮りに来たのでもなく、情熱を取り戻すでもなく、ただ健康のために山に登りに来たのだと。
 しかし、山の神々はそう簡単に私をお見捨てにはならないのだった。
 
 
 

  

 
 山伏峠のあたりからブナが目立ち始めた。持ってきた三脚を広げて、そのまま担ぎながら山を登り始める。時折、ブナや美しいヒメシャラや楓を見つけると立ち止まって写真を撮った。
 あれ以来ハイカーには2回しか会っていない。単独で登る慣れた様子の男性と、短パンにタイツに小さなリュック、軽装で駆け抜けていくやはり男性ハイカー。前者は挨拶をしてすれ違い、後者は猛スピードで私を追い越して、あっという間に消えていった。そのあとは静かなものだ。誰もいないと、ますます愛着がわいてくる。私は誰にも邪魔されることなく、写真を撮り続けて、それから木々との対話を始めるのだ。
「ブナ~久しぶりだねぇ元気だった?」
「この間は雨上がりだから濡れて黒かったけど、今日は白いねぇ」
 などから始まって、日ごろの愚痴を漏らしたり、長年立っていてどんな気分なのかとか聞いてみたりと、独り言を「話しかけている」。
 期待していた紅葉は標高が上がってもさっぱりだった。今年はずいぶん早いようで、先週の鎌倉でも既に色づいていたので、かなり期待をしていた。職場のそばの神社の桜の木だって落葉を始めている、きっと「私の山」のブナたちは黄葉を始めて、落葉だって始めているかもしれない!見逃したらいやだなぁ、と私は彼岸花のピークを蹴ってやってきたのだが、わずかに一枚、二枚の葉が染まっているだけであった。
 それでも懐かしいブナの姿を見るとやはり感動した。先ほどの海平もそうだが、季節によって表情を変える、山の姿を実感させられた。若葉のころとは違うようだ。まぁブナに関して言えば葉っぱが虫を食って減っているくらい、際立った違いがあるわけではないからどこがどうとうまく表現できなくて残念なのだが、理屈ではなくて五感で感じていると言うのか。木々と私の間に吹く風の違いとか、乾燥した彼らの匂いだとか、見た目のどこか厳しい様子。もっと山や木々のことに詳しくなれば春、夏、秋、冬、と言うわかりやすい変化のほかに、もっともっといろんなことが見えてくるのだろう。もっと詳しくなりたいなぁ。ひと月に一度は来たいものだと思いながら、私はブナの写真を撮っている。前回濡れていたために良く見えなかった年老いたブナたちの木肌を表現したくて、アングルファインダーを使って拡大し、慎重に映し出したい部分にピントを合わせる。露出補正を一段ずつ上げたり下げたりして光を調整している。
 いつの間にか頭は真っ白になっていたようだ。夢中になっていると、後ろから声がしてびくっと跳ね返る。見るとまたカップルだった。若い二人連れが登って来ている。
 私は三脚を担いで撤退する。山を登って、広い所に出ると、リュック下ろして休憩した。若い彼らは会話が弾んでいるようだ。明るく喋りながら通り過ぎていった。この二人とは山頂でもまた出会うのだが、私は先ほどの夫婦連れの時のように心を乱されることなく、一緒の空間を共有することに成功する。最後まで彼らは男女論を展開していて、「男とはこういうもので、女とはこういうところが違う」と言う例をあげては楽しそうに話しているのだ。2メートル先で私が三脚を広げ、山頂であることを示す木の標識を必死に撮っていても気にかける様子もない。もしかしたらあまりに人気のない山なので、人目を避けるカップルのデートスポットになっているのかしら、などと想像しながら、仲睦まじい彼らの横でおにぎりをほおばっていた。
 
 男にとって旅には目的がある。女はただ楽しければいい。当初の目的通りのところに行かなくても、楽しく過ごせれば結果オーライ、それでいいのだ。
 だけど男はいくら楽しくても納得しない。あそこに行く予定だったのに、行けなかった。あそこも見ることが出来なかった。悔しくて、旅を失敗だと思う。
 
 私は私の旅の目的を考えている。
 
 
 
 
 
 
 

 
 風が強くなってきた。見ると時刻は2時を回っている。
 ずいぶんのんびりと撮りすぎたようだ。私は前回の失敗を思い出して気を引き締める。
 5月にこの山に登った時、わたしは夢中になって写真を撮って時間を忘れてしまった。気が着くと午後の3時を回っているのに山頂には着く気配もない。いくらブナを撮りに来たのだと言っても時間配分は必要だった。日暮れまでに山を降りなければ。私は駆けるように山を登った。見るブナ、見るブナ、立派で美しく、あきらめるには惜しすぎた。駆けて、止まってブナを撮って、また駆けて。アップダウンを繰り返す。あまり焦っていたので山頂の標を見逃した。(三国山の山頂は森の中で展望もない)目的は山頂でもあったはずだ。そこを通過したのかしないのか、わからないまま駆けている。止んだはずの雨がまた振り出してきた。ぽつりぽつりと地面を濡らしはじめる。私は三脚をたたみ、カメラをリュックに押し込んで、ついにあきらめた。また来るからね、ブナ。今度来るときは山頂近くの老ブナを初めから狙うのだ。
 その教訓を生かして今回は山伏峠を越えて山頂近くなってから本格的に撮り始めた。時間配分はばっちりだった。はずだった。
 が、風が吹き出した。今日は風が強くなる一日だとは天気予報で聞いていたが、まさかこれほどとは思わなかった。
 三脚を広げ、老ブナと対峙していると、ゴオオオオォォォと言うすざまじい勢いで風が鳴るのだ。老ブナはその枝を大きく揺らしている。だけど風は私には吹いては来ない。ただ山に吹く風が轟音を鳴らすだけである。ゴオオオオオォォォと。髪の毛一つ揺れるわけでもないのに、耳をつんざくような風を聴いているのだ。
 次第に私は恐ろしくなってきた。山頂当たりのブナは特に立派な巨木が多く、山の斜面に反り立つようなその姿は自然に対する畏怖の念を感じさせるに十分だった。彼らは一様に根元から枝を生やし、くねくねと枝をよじりながら陽を求めて天へと向かって伸びている。白神山地や健全なブナ林で見られるすらりとした若木ではなく、何百年もここに立ち続ける老ブナの武骨な姿はそれだけでも迫力あるものだというのに、今、彼らと対峙する私に風が吹き荒れ、轟音となって襲い掛かってくるのだった。
 これは警笛だ。私はとっさに理解した。山の神々が怒っているに違いない。
 人のいないのをいいことに、私は彼らに近づき過ぎた。自然に対する思慮もなしに、彼らの姿を覗き見すぎたのだと。
 興味本位で。多分山の神々からしたら許されざる軽薄な気持ちのままで、私は無遠慮にブナを撮り続けていた。
 いや、それとも。まさに私は自然の深淵を目の当たりにしようとしていた瞬間だったのかもしれない。もう少しで、ブナが近くに感じられそうな、私の裡に届きそうな、そんな時だったからこそ。
 風の音は強く大きくなるばかりで一向に止む気配はなかった。警笛が続いている。逃げろ。お前にはまだその資格がない。まだその時ではない。そんな風に叱りつけられているようだ。または情けなくも身を案じられているようだ。枝を揺らす老ブナと格闘していた私はついに観念した。まだ納得のいく写真は一枚も撮れてなかった。どうにか、一枚でもこのブナの姿を収めたい、そう思って食い下がっていたが、ついに恐怖心が勝った。
 深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
 ニーチェの言葉が思い出された。吹き荒れる風の音を聴きながら私は三脚とカメラをリュックにしまい込み、逃げ出すように山を降り始めた。これで二度目だった。
 なんとも悔しい、無念な思い。そんな私の前に老ブナがあらわれて、その姿をさらすのだ。私はギョッとして足を止めてしまう。立っているブナを見た、と言う事実とはかけ離れていた。走っている私の景色にぬっとあらわれて、大きな影を落とすのだ。驚いて見上げると、枝を大きく広げてそびえ立っている。そのリアルで、恐ろしいこと。私は鳥肌を立てて彼の姿を見上げている。
 もはや対峙とはいえなかった。巨大ロボットを呆然として見上げているようだ。
 いつかきっと本当の姿を撮ってやるからな。
「待っててね~また来るからね、ブナ」
 と負け惜しみのような独り言を「話しかけて」、私は山道を駆け下りていく。ブナから去ると轟音は消えていった。不思議だった。私にはこれも山の神々からの印しのように感じられて来るのだ。もう安心だよ、と。
 それからと言うもの、私はこの時折鳴り響く風の音に従って行動した。自然を味方につけるのだ。音が大きい時は注意を払って慎重に進み、穏やかな時は休憩を取ったり気を緩めたりした。わずかな標高の山だと言っても、これだけ人気がなく、悪天候も重なれば何が起こるか分からない。多分木の陰でトイレを借りようとして人が落ちたのだろう、箱根竹や雑草の中に立つ樹木から樹木の間には時折危険と書かれた黄色いテープが張り巡らせされているのだ。
 無事に湖尻峠に付き、深山水門を見た時は思わずホッとした。前回はこのあと突然大雨に振られたが、今日はそれも大丈夫そうだ。
 桃源郷からロープウェイに乗ると、それまで山の木々に隠されていた富士がくっきりと見渡せた。
 人々を乗せた小さな箱は風に揺れるでもなく、穏やかな山の上を登っていくのだ。
「わぁ~綺麗ねぇ」
「こんな富士山を見ると昔富士山に登ったことを思い出すわ」
 となりの婦人たちが話している。
 登山部に入っていたと言うそのうちのひとりは、若いころにこんな小説を読んでから山にのめり込むようになったそうだ。山が好きな女性が主人公のお話ー
「女同士で登っているときは良かったの。だけど山が好きな人を好きになって、彼と登るようになってから彼女は死んでしまったの」
「まぁ、なぜ死んだの」
「遭難したのよ」
 ロープウェイが乗り換え地点の大涌谷駅に着いて、彼女たちと離れてしまった。恋が女性を弱くしたのか。なぜ好きな人と登るようになったら死んでしまったのか、どうして遭難してしまったのか、続きが気になったが、聞くことはできなかった。
 恋をして、女性は遭難をした。彼女は道を誤り、見失った。
 だけど山の神々は私に旅の心得を叩き込んだのだ。
 そうだ、女だって、決して楽しければいいわけではない。
 大涌谷から新しい箱に乗り込みながら、私は人生と言う深淵に立ち向かうために、自ら怪物にならなくてはと考えている。
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 

鳩山新内閣発足! ささやかながら、ネガティブ・キャンペーンをさせていただきます。

 
 
 
 
■『鳩山新内閣』とは■
 
 
 自治労や日教組など、官公労組の強力な支持基盤を持ち、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)、在日本大韓民国民団(民団)、部落解放同盟ほか、さまざまな左翼の市民運動団体から支えられる民主党の代表、鳩山由紀夫氏による新内閣。
 民主党の長年の悲願である政策を実現させるために満を持して発足された。
 なお、主な政策は下記の通り。
 
 
 ☆外国人参政権
 ☆3K(キツイ・汚い・危険)移民大量受け入れ
 ☆日本の食料自給率を40%→12%に引き下げる日米FTA締結
 ☆中国を中心とした東アジア共同体構想
 
 
 主な顔ぶれは下記の通り。
 ※は私の個人的な感想、または個人的な「印象的な経歴」です。
 (この印象的な経歴は順次更新していく予定です)
 
 
 
 総理       鳩山由紀夫 62
在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会員(会員)

 副総理・国家戦略 菅  直人 62(経済財政諮問会議の廃止まで経済財政相と科学技術相を兼務)

横田めぐみさんら拉致被害者の拉致実行犯で韓国で死刑判決を受けたシン・グァンス工作員の助命・釈放嘆願書に署名。 
 
 総務       原口 一博 50
 法務       千葉 景子 61
在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会員(呼びかけ人)及び 朝鮮半島問題問題研究会顧問。
バリバリの社会党左派で、岡崎トミ子や福島と共に「いわゆる従軍慰安婦問題」を推進した反日政治家。横田めぐみさんら拉致被害者の拉致実行犯で韓国で死刑判決を受けたシン・グァンス工作員の助命・釈放嘆願書に署名。

 外務       岡田 克也 56

在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会員(会長)
※小泉さんがやっとのことで連れ戻した拉致被害者(5人)を北朝鮮に返せとのたまった大馬鹿野郎。
 財務       藤井 裕久 77
在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会員(会員)
※2009年7月7日、政権交代後の、政権公約の実行にかかる予算16.8兆円の財源について、元大蔵大臣の見識として「財源にはそこまで触れなくていい。どうにかなるし、どうにもならなかったら、ごめんなさいと言えばいいじゃないか」と楽観論を展開。(Wikipediaより)
 文部科学     川端 達夫 64
在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会員(会員)

 厚生労働     長妻  昭 49

 農水       赤松 広隆 61

在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会員(会員)
 経済産業     直嶋 正行 63

 国土交通     前原 誠司 47(防災・沖縄・北方相を兼務)

在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会員(会員)
 環境       小沢 鋭仁 55
在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会員(会員)

 防衛       北沢 俊美 71

※参議院外交防衛委員長。2008年、同委員会に参考人として招致された田母神俊雄さんの参考人質疑を行った。その際、集団自衛権の行使など日本国民憲法の政府見解や、村山談話とは異なった田最上主張(をしていると言われて問題となった論文)を一方的に否定。田最上氏に発言させまいとした。また、ホームページによると「多国籍軍への派兵は反対!」とあり、イラクの平和を訴えている。
 官房       平野 博文 60
 国家公安委員長  中井  洽 67

 金融・郵政改革  亀井 静香 72

 消費者・少子化  福島 瑞穂 53(男女共同参画・食品安全相を兼務)

 行政刷新     仙谷 由人 63

在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会員(会員)
 
 
 
 
 やはり最悪だなぁ、と思ったのはやっぱり法務大臣の千葉さんですね。
「永住外国人に地方選挙権を付与する法案」があっけなく国会を通ってしまいそうで、末恐ろしいです。
 あと、もっともっと徹底的にネガティブ・キャンペーンを張ってあげたかったんですけど、この顔ぶれを見てピンと来なかった私。
 新内閣の皆様、本当にごめんなさい。
 お詫びに、何か醜聞を耳にし次第、順次書き足しさせていただきます。
  
 
 
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北鎌倉、古寺と萩と私の旅。その②

 
 
 
 

 

 
 うたた寝をしたら夢を見た。
 ほんの15分ほどの間に、長い長い時間を感じていた。
 私たちははるか遠くから歩いてきて、バスにたどり着いた。手にはカメラ、三脚とリュックを担いでいる。どうやら写真を撮るために旅をしているようだ。
 「私のバス」は空席だらけだった。窓の外は大勢の旅行者たち。にぎわっているというよりは足早へどこかへ向かっている。殺伐とした景色の中、動く黒い影たち。モノクロの絵。
 対照的な色鮮やかなバスの中で、私たちは会話をしている。ひとりがなかなか戻って来ない。心配になった私が言った。「ちょっと探してくるね」
 返事はなかった。後ろの出入り口を降りながら振り向くと、椅子に腰かけた仲間たちの後姿、黒い頭ともしくは横顔、まっすぐ前を向き、口を閉ざしている。まるで私がいなくなることを予感していたかのようだ。そして、その時を待っていた(その時が来た)、といった風な緊張感が伝わってくるようだった。
 私はひとりを懸命に探すのだがみつけられない。辺りは白い小石が転がる乾燥した大地、点々と雑草、黒い枯れかかった木々。何台かのバスが止まっている。他には何にもない。仕方なく戻ってくると、バスには誰もいないのだった。私の真っ赤な座席に単語帳と鍵(が付いたホルダー)が置いてあった。それで私は、もう皆が戻って来ないのだということを知った。
 リュックを担いでバスの外へまた出ていく。急がなければいけない。乗車階段のすぐ下、小石の大地に100万円札の束が二つ転がっていた。リュックに押し込む。二三歩歩くと、今度は饅頭とおせんべいの袋がやはり無造作に転がっている。「仲間が置いていったのだ」。何の疑いもなくそう信じた私は食料も拾ってまたリュックに押し込んでいる。
 人々の流れに追いついた。足早に急ぐ人々は、遠くに見える黒い森の中へと向かっているようだ。
 そこで目が覚めるのだが、記憶の中ではバスのシーンの前に長い長い時が経過している。つまりたどり着いた旅の最後の一場面で、これは冒頭にも書いたことだがなぜだかそれがとても重要に感じられた。それと、皆がいなくなったのが、一時的なものではなくて、もう戻って来ないと理解させてくれたアイテム、単語帳とキーホルダー。
 単語帳は私がずいぶん前に資格試験取得のために購入し、使わずに放置しておいたもので、つい最近全く違う使い方をしたばかりだった。
 私は人付き合いが下手で傷つくことが多いので、それはなるべく傷つかないようにバスの仲間の一人が考案した、「決して傷つかない人との付き合い方」のための、いわゆる閻魔帳だった。私はそれを真似て、試みようとしていたのだ。誰が自分に良くしてくれたか、良くしてくれなかったか、またどれだけ良くしてくれたか、良くしてくれなかったか、その度合や詳細を事細かに記録する、と言う・・そうして同じ分だけ自分も誰かに返そうと言う・・
 単語帳の上に乗っていた鍵の束は、毎日私が持ち歩いている、なくてはならない大切なものであった。
 
 
  萩を求めて北鎌倉へまた旅立った。これで二週連続である。先週はまだ満開には早く、十分には堪能できなかった。しかし、今週はばっちりだろう。いい具合に雨も降っている。萩に古寺、情緒ある光景が撮れそうではないか?
 勇んで出かけると、情緒とはほど遠い、団体客が30人ほど山門の下に集まって、三脚を並べたり、ニコンで接写したりと忙しい。隙をぬぐって階段下まで行く。萩は先週よりは咲いているものの、どうも花が薄い。緑ばかりが目立つ。
 
 
 
 
 
 
「これってもう枯れちゃったのかしら」
「終わったのね」
 とご婦人がたの声が聞こえてきた。がっかりした。生まれて初めての萩は満開を見ることができなかったのだ。
 団体客が去るのを待って、それでも一生懸命撮り始めた。しつこく山門に迫って、それから境内の萩を撮ろうとしていると突然叱りつけられた。
「あなたねー、人が通る道をふさいじゃだめだよ」
 私は細い石畳の道に三脚を広げていた。誰もいなかったので、いいだろうと思っていたのだが、誰かが通る可能性があるのだからいなくてもダメらしく、それが写真愛好家たちのルールであるようだった。男は「広い道ならいいけど、こういう細いところはだめ」と懇々(こんこん)と諭して、礼を言うと納得して去っていった。それから今度はまた近寄ってきて、萩には当たり年があること、今年は不作の年であること、とくに萩寺の宝戒寺の参道はいまいちだということ、今日は雨で花が寝ているからあまり良くない、などと言うことを丁寧に教えてくれた。
「英勝寺がいいよ」
 萩は咲いていないが、鎌倉一彼岸花が美しく咲くと言う。通りかかった仲間の一人に「今年の英勝寺はどうかね。もう彼岸花は咲いたかな」と聞いている。
「うん、いいんじゃないか。あとは浄光明寺もいいよ。行ってごらん」
 ふたりは紙に地図を書いてくれた。私は今日は海蔵寺しか行くつもりがなかったので(他に行ったとしても知っている寺しか行くつもりがなかった)、地図を持っていない。
「地図を持たずに鎌倉に来るなんて不思議な人だね~」
 と男も仲間も笑っているのだ。「あんまり不思議な人で面白いから名前を聞いておこうかと思ったくらいだよ」
 私はただ笑ってやり過ごす。訊かれたら答えるが自分から言うつもりもない。へらへらとする。そうして礼を言ってから彼らと別れて、勧められたとおりにまずは浄光寺へ向かうのだ。ところで、最初に怒られた件だが、彼は正直に理由を説明してくれた。私を手招いて自分の撮っている写真を見せる。「見てごらん」。ファインダーをのぞくと、マクロで迫った芙蓉、その遠くに背景としての本堂が映っていた。私が三脚を広げて立つと、余計なものとして映り込んでしまい、その構図が台無しになるのだ。
「先に来て、撮っている人がいないか、後ろもしっかり確認するんだよ」
 私は頷いた。他人と言うものは実にたくさんのことを教えてくれる。道の端の端に三脚を広げていた男の撮るものが、私の撮りたい場所(仏殿の脇道からのアングル)と重なるとは思いも寄らなかったのだった。またどう見ても、本堂の背景と仏殿の道の間には隔たりがあるように思われる。しかし、覗いて見ればファインダーのなかでしっかりと重なっていたのだ。迂闊(うかつ)だったとしか言いようがない。
 
 
 
 
 
 
 
 浄光寺は芝の広がる本堂前に綺麗に萩が咲いていた。海蔵寺のような白と濃いピンクのものではなくて、淡い可愛い桜色が、芝を覆うように枝垂れている。
「この芝を撮れば、このお寺の萩ってすぐにわかるよ」
 このお寺も写真愛好家たちと良く出会った。「北鎌倉の師匠」と呼ばれている人たちが多いのだそうだ。先ほどのようにいきなり恫喝するわけでもなく、今度の師匠は布袋様のような笑顔で諭してくれる。「萩の目線になるといいよ」ファインダーを覗いて、位置を直す。「こっちのほうが可愛いけどどうかな」
「来週はこの花壇の中にたくさんの彼岸花が咲くよ。来週来るといいよ」と微笑んでいた。
 先ほどの海蔵寺のひとりの年配者もやってきて、(彼はこの寺にいた写真愛好家たちとも仲間のようだった)
「三脚を使わないともったいないよ」と教えてくれる。「面倒くさいし、手間がかかるけど、使えるところでは必ず使ったほうがいい」
 彼はこの愛好家たちのリーダー格のようだった。海蔵寺にいた男に電話をして、この寺の萩が綺麗だと教えている。(どうも私とくっつけたいらしい、あいつは独身だとしきりに言う)それから、お寺さんに声をかけて、撮影の許可を取り、心付けを渡していた。
 
 
 

 
 
 
 私は写真を撮りながら、来週もここに来て、彼らと仲間になると言う選択肢を想像していた。不思議なものだ。つい先日、私は自分はそういうものとは一生無縁なのだと思ったばかりである。これからは多少淋しくても、「それ」を避ける道を選ぼう。自分と他人を傷つけないためには、それが一番楽な選択肢なのだった。ところが、そう決心したすぐ後にずいぶんたくさんの人々と関わるではないか。また、続きがありそうな気配ではないか。
 萩と彼岸花を撮っていると、海蔵寺で出会った男が現れた。あいさつを交わしたが声をかけてくるわけでもない。良く見るとなかなか男前だ。濃い眉をしていて意思が固そうである。きっと理想が高くて婚期を逃したのか、などと想像する。しばらく撮り続けてから、私は布袋様と年配のリーダーに声をかけて次の寺へ行くことにした。
「次はどこへ行くの」とリーダー。
「英勝寺へ行きます」と私。
「あそこは何もないよ」
「え~っ。そうなんですか。では宝戒寺に行ってみます」
 お疲れ様です、と言って別れた。そもそも英勝寺を進めたのは海蔵寺で出会った濃い眉の男だ。その彼をしきりにどうかといい、まるでくっつけようとしてたリーダーにしては、ずいぶんなのだった。あっさり否定された英勝寺が可哀想にも思ったが、彼岸花で人気の寺のこと、きっと見ごろはもう少し先なのだろう。
 今日は長い一日だった。いろんな人たちと出会ったようだ。たくさん写真を撮った。が、あとひと寺で御終いだ。最後のひと頑張り、鎌倉まで歩いていこう。
 ところが驚くべきことが起こった。
 一応(もしかしたら来週のために)英勝寺の前を通って宝戒寺に向かおうと、歩いていた私の横を車が止まった。見ると、濃い眉の男が乗っていて、英勝寺へ行くのかと訊く。
「ええ、」あいまいに答える。
「乗っていくといいよ!」
 私はバンに乗り込んだ。特に警戒するほど悪い人には見えない。そうして、ずいぶん驚いたものの、乗り込んだ時点で私はそう男に意思表示をしているようなものだと思っていた。
 ところが人間と言うのはとてもとても繊細なのだった。
 私はまたしても自分の迂闊さに傷つけられる。
「ここだよ。いつもなら花の看板が出ているんだけど・・ああ、彼岸花はないなぁ」
 英勝寺は門に木札が掛けられていて、今寺で見ごろの花がわかるようになっていると言う。この日は芙蓉ともう一つは読めない漢字の花の名前。二つしか木札はない。
「ああ、でも○○が咲いている!ちょっと見てくるよ」
 男は車を降りて、寺の門から中を覗く。「ほらほら、あの奥に○○の花、初めて見たよ。おれも撮っていこうかな」
 私はどうしても男の言う花の名前が聞き取れなかった。芋・・・?と言っていたか。確か芋の花のような名前ではあった。漢字も読めない。名前も聞こえない。そのせいかピンと来ないのだ。車を降りて、私もその花を覗きに行こうかとしたところ、矢継ぎ早に男が言う。
「どうする?ここに止めようか。鎌倉の寺はほとんどは4時までだからね」(そのころは3時を回っていた)「それとも宝戒寺に行く?」
「ああ、はい」
 時間がないなら宝戒寺に行って萩が見たい。しかし、その時点で、男の誘いを無残にも断っていたとは気付かなかった。
 私は男も宝戒寺に行くのかと思っていたのだ。だからピンとこない花よりは当初の目的の萩のほうが良かった。(宝戒寺を選んでも相手の親切を裏切るつもりはないと思っていた)が、よくよく考えれば、道の端の端で写真を撮り、そうでない相手を恫喝した男のことだ。もしも相手が自分と一緒にいたいならば、英勝寺に行って彼のいう花につき合うはずで、そうでないならば自分は必要ないのだと感じても何の不思議はなかった。
 逆を言えば、英勝寺に行かない私は相手にとって必要ないのだ。
 私は間抜けにもただ彼を宝戒寺まで送らせた人となり、そうして挨拶をして別れた。去っていくバン、まるで夢の中のバスのようにも見える。
 見送りながら、来週また北鎌倉へ来ることはないだろうと考えている。仲間を得るためにはそれだけの代償が必要だった。
 「北鎌倉の師匠たち」との選択肢は、迷う前に向こうから消えていったのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

拒否できない日本、日米FTAも時間の問題か。

 
  
 
 
 
 
 
 民主党の鳩山由紀夫代表、社民党の福島みずほ党首、国民新党の亀井静香代表は9日、3党党首会談を開き、連立政権樹立に向けた合意文書に署名した。合意したのは政権運営の枠組みや政策で、農政では戸別所得補償制度創設を明記した。日米自由貿易協定(FTA)は盛り込まなかった。民主党の鳩山代表は閣僚人事を本格化させ、週内にも全閣僚を内定する方針だ。3党連立による新政権発足で、農政も転換へと動きだす。
合意文書の前文では、家計に対する支援を最重点に位置付けるとともに、中小企業や農業など地域を支える経済基盤を強化し、内需主導の安定した経済成長の実現を掲げた。その上で、3党の党首クラスによる基本政策閣僚委員会の設置や憲法三原則(国民主権、基本的人権の尊重、平和主義)の順守、国と地方の協議の法制化、速やかな緊急雇用対策の検討、地域の活性化、地球温暖化対策の推進、新型インフルエンザ対策、外交・安全保障政策、今回の政権担当期間中の消費税率据え置き、郵政改革見直しなどを確認した。
 ・・・(詳しくは日本農業新聞紙面をご覧ください)
 
 
 
 朝、新聞を見てほっとした。
 民・社・国の連立政権の合意書ではとりあえず「日米(及びアジア太平洋諸国との)FTA」に関する記述はなかったようだ。
 そもそも私が民主党を見限ったのは、この自由貿易協定締結をマニフェストに掲げたからだ。日本をより良くしてくれるならどこだって良かった。自らを否定した自民党だって野党と変わりはしないのだから。そう思っていた。しかしこの公約だけはどうにも許し難い。海外の農作物が無関税で入ってきたらどうなるのだろう。日本農業は壊滅、それを免れても食料自給率は今以上に著しく低下、また、戦力も持たず食べるものさえも他国の頼みの日本はあっけなく崩壊するだろう。すべての経済が自由化されているのだ。戦後唯一勝ることが出来た日本経済は弱体化を続け、そのころには非常事態に対抗するすべはもはや残されていない。中国の農薬まみれの野菜を食べたくはないものだ。日本の野菜は一部のセレブしか食べられなくなるに違いない。そうか、貧乏人の私は危ないものを食べて早く死ねと言うのか。(以下延々と続く私の夢想)
 私はとんだ思い違いをしていたのである。
 中国野菜などどうでもいいのだった。日本の農産物の自由貿易を望んだのはアメリカであって、日本ではない。何のことはない、2009年度版の年次改革要望書(日本規制改革及び競争政策イニシアティブに基づく日本政府への米国政府要望書)にちゃんと書いてあるではないか。
 民主党ははじめから年次改革要望書を念頭に入れて、公約を謳ったのだ。対外的なバラマキのえさとしてだけ、FTA締結(促進)を掲げたわけではない。はじめから農産業はターゲットにされていたのだろう。アメリカが希望している特定の市場の創出(もしくは希望する措置)は、私たちが政権を獲っても引き続いてもきちんとやりますよ、と言っているようなもので、まずは農産業というわけだった。
 そう、問題はアメリカの野菜だ。CODEXコーデックス(FAO国連食料農業機構とWHO世界保健機構によって設置された食品規格のこと)基準に準拠された「やつら」、最大残留農薬基準が厳しかったり、反対に収穫後に農薬を使用したり遺伝子組換えなどで危なかったりすると聞く農産物であった。
 
 
 年次改革要望書は毎年10月にアメリカ政府が日本政府に向けて送りつけてくる要望書で、まぁそう言うと聞こえはいいが、要するにボスからの指令書である。
 日本政府は、はっ!とばかりにありがたくそれを頂戴すると、まるでぜんまい仕掛けの人形のごとく、忠実に実行するのだった。
 私が初めてこの制度を知ったのは、電子図書館である青空文庫が著作権の延長反対の運動をしていたときで、その(著作権の)利権のために期間延長の圧力をかけてきたのがアメリカ政府だと知った時だ。そのあと、日本企業を弱体化させるために、社員の愛社精神と家族のような団結力を内部からぶっ壊そうとたくらんだ人材派遣の自由化と派遣法の改正、その真犯人としてまた耳にした。
 多くの国民が知らされていない年次改革要望書によるアメリカの日本支配。この事実を暴き、赤裸々に描いている関岡英之さんの「拒否できない日本」を読んでいて、ふと、今年の要望書はどうなっているのだろう、と疑問に思った。米国大使館のホームページに行ってみると、農業の記載がやはりあるではないか。
 表面的には政府慣行を推進しているだけである。内容も安全な野菜を作るために基準を変えてみてはどうですか、と言っているだけのようだ。
 私は素人だから各国の基準とかわからないので、ますますわかりづらい。社内の専門者に聞いたり、ウェブを調べてみたりする。
 
 以下、記載されている内容。
 
「その他の政府慣行」(P11)
 (中略)農業分野においては、生産者のために日本の輸入制度の透明性および予見可能性を高める一方で、日本の消費者に安全な農産物・食品を届けるために日本が科学に準拠し、WTO/SPS協定に基づく義務に従うことを確かなものとするなど、円滑な農産物貿易を促進するための措置が推奨される。
・提言の要点(P11)
 有機農産物輸入、安全な食品添加物、収穫前、収穫後農薬検査制度に関して、CODEX基準に準拠する。最大残留農薬基準にして、できる限り貿易を制限することがない効果的な輸入措置をとる。
1、農業に関連した政府慣行(P26)
(中略)IーA. すべての緩和措置が貿易を極力制限しないものであること、輸入産品に対して内国民待遇を与えるものであること、国際慣行に従っていることを確かなものとする最大残留農薬基準制度を実地する。
IーB. 有機農産物貿易を促進するという目標の下、有機農産物に使用される生産資材の安全性を評価するに当たり、また、現行の残留農薬政策を修正するに当たり、科学知見に基づいた基準を適用する。
IーC. FAO/WHOの合同食品添加物専門家会議によって安全と認められており、かつ世界各国で使用されている46種類の食品添加物の審査を完了する。(後略)
(中略)
IーE. 収穫前、収穫後の使用形態に対して単一のMRL基準を実施することにより、ポスト・ハーベスト農薬を食品添加物と見なさないことで、特定の農薬に対する収穫前、収穫後のMRL検査の日本の実施計画に国際的慣行を適用する。
 
 私が重要だと思うところを抜粋してみました。
 このあと、感想を書きたかったのだが、ちょっとまだ勉強不足ですね。
 このアメリカの押し付けてきた新たなルールによって、自由貿易後の市場は安くて安全性の乏しいアメリカ産農産物がどっと輸入されるであろうことはわかった。
 日本の消費者のために安全な農産物を、と言っているが、日本の消費者のためを思うなら放っておいてほしいものだ。
 また、生産者のために日本の輸入制度の透明性を、というくだりは、「アメリカの生産者のため」であろう。
 アメリカと言うのは本当に欲張りな国だ。
 拒否できない日本の一文を紹介して、今日はひとまず終わりにしておこうと思う。
 そうそう、民主党の追求だが、この本で驚いたことに、アメリカは日本が立法、行政、司法のバランスが行政に偏っているのをよく熟知しているらしい。だからこそ、行政の力を奪うことに必死なのだ。彼らは日本のシステムを研究し尽くして、日本をアメリカ型の社会に改造することに異常なほど執着している。もはやそれはアメリカの国益を得ることよりも重要な使命であるかのようだ。
 もしかしたら、まぁ想像でしかないが、彼らにとっては面白いゲームなのかもしれないなぁ。さぞかし愉快なことだろう、などと思う。
 しかし日本の国民からしたら、たまったものではない。自公連立政権から解放されたら、楽になるどころかますます酷くなっていく。このアメリカ支配からは到底逃れられそうもない。
 なにせ「政と官の関係を抜本的に見直」したり「霞が関を解体・再編」したり「特別会計、独立行政法人、公益法人をゼロベースで見直」したりと、官を徹底的にたたくことをマニフェストで謳っている民主党を選んでしまったのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだ。
 
 
 
「そして日本の法文化には、前近代的で非合理な否定すべき面も確かにあるが、その一方では、共生や協調といった、これからの地球に生きていくうえで不可欠な叡智を先取りしている面も見逃すことができず、むしろ近代西洋型の司法制度の限界を打開する手掛かりや示唆を含んでいる(中略)。だがアメリカ人は決してそうした目で日本を見ようとしない。実に厄介で迷惑な隣人を持ったものだ。」
 
「いま日本で推し進められている事態は、占領軍でさえ躊躇したことだということを、是非とも理解してもらいたいのだ」
(『拒否できない日本』より抜粋)
 
 
 
 
 
 
 

改革と革命と。血を流すのはいったい誰だ!

 
 
 
 
 欧州連合(EU)は先月の衆議院選挙で政権を勝ち取った民主党鳩山由紀夫代表による温室効果ガスを2020年までに25%削減する計画書を歓迎している。
 EU環境委員のStravros Dimas氏は8日、鳩山代表の計画書について「地球規模の気候変動の新たな枠組み作り形成にとても励みとなる内容だ」と称賛した。
 先月の衆議院議員選挙で政権交代を実現した民主党はマニフェストとして選挙運動中に国内温暖化ガス排出量を1990年レベルから25%削減させると宣言していた。
 EUは2020年までに20%の温室効果ガス削減を誓約しているが、先進国には30%の削減が可能であると勧めている。
 温室効果ガス削減については、2012年に期限切れとなる京都議定書に次ぐ新たな国際規模の合意書づくりが待たれている。
 鳩山由紀夫代表は民主・社民・国民新の三党での連立政権樹立に向けた協議を続行させている。8日中にも連立合意が目指されていたが、外交・安全保障について三党の意見が一致せず、9日以降に連立合意は延長されることとなった。
 
 
 
 
 
 温暖化削減計画を推進する、と言えば、環境問題が多く取りざたされる今日、いかにも聞こえはいい。
 私だって温暖化をどうにかしなければと悶々とする毎日だ。実現されれば願ったり叶ったりである。しかし、あまりにも現実を無視しすぎていないだろうか。私が勉強不足なだけで、この数値はどうにかなるものなのか。企業や一般家庭にかかる負担はどれほどのものか。これだけ国が弱っているときに、耐えられる痛みなのか。
 どうも対外的にカッコつているか、暴走しているかとしか思えないのだが、さすが日本(のシステム)をぶっ壊す気概だけは十分のようだ、鳩山さん。
 
 昨夜の記事だが、民主党の改革を小泉構造改革とどう違うのか、と訴えたことについてひとこと言っておきたい。
 私は小泉構造改革を真偽はどうあれ肯定しているひとなのだ。
 あれ(昨日の文)は、ぶっちゃけ皮肉である。あなたたちあれだけ小泉さんの改革を批判しておきながら、選んだのはもっとおバカな改革を推進する民主党ではないかと言いたかったのだ。
 日本語とは難しいもので、まるで民主党を褒めたかのように思った方がいたら申し訳ないので言及しておく。
 
 小泉さんは「小泉劇場」によって国民を扇動(及び洗脳)したが、彼はヒトラーだったわけではない。
 小泉さんはアメリカに郵政事業を切り売りしたが、だからって日本のシステムをぶっ壊してはいない。
 彼は民族抹殺を煽ったわけでもなければ、聖域なき構造改革を掲げたものの最後まで官僚の立場を守っていた。
 当たり前のことを言っているが、要するにぎりぎりまともだったと言いたいのだ。
 国民は無知により踊らされたのではなくて、4年前のあの時、彼を本当に信じたのだ。郵政総選挙は「本当の争点」が見えなくなっていたのではなくて、それこそが「本当の争点」だったと私は思う。
 小泉純一郎を信じるか否か。自民党を信じるか否か。
 小泉さんがどんな事情から、日本の国益に反するようなあのような政策を支持したのか、行動を起こしたのかはわからない。
 それでも、私は今でも思う。彼だったら絶対に壊さなかったはずだ。たとえ弱っても、一部が破綻しても、また巧妙に壊れたシステムを埋めて、新たな日本のシステムを構築していったに違いないと。
 自民党が負けたのは、小泉構造改革の痛みによってではない。小泉構造改革、強いては自分たちの党自体を否定したからだ。
 なぜ信じ続けなかったのか。
 小泉さんは多くの日本人にとって唯一、生まれて初めて出会った単純に信じられる政治家だったはずで、利害関係を越えて信じられるという奇跡的な存在だったはずだ。ロックスターではなくて政治家だ。多くの人にとってそういった体験は一生のうちにあるかどうか、あることのほうが珍しいとさえ私は思う。
 私たちは奇跡的に彼を信じた。
 真実よりも、それは重要な時があるのだ。
 なぜ、そのことがわからないのだろう。
 あの時無所属になった造反組の政治家たちは、今頃になって他党から返り咲きを果たした方も多いようだ。
 しかし、私から見たら、何をやってるんだろうなぁ~、と言った気分。
 あなたたちは何なんですか? 自民党を裏切って、他党からまた議員になって、あなたたちはいったい何をやるんですか?
 彼らが必死になって守ろうとした、公に比を置いた日本固有のシステム、歴代の政治家や官僚たちの智慧の結晶であるはずのそのシステムは、今誰がぶっ壊そうとしているんですか。
 自民党じゃなくて、民主党なんじゃないですか。
 全く主義もへったくれもない。
 もしも私があの時の造反組の議員だったならば、決して民主党から返り咲いたりなどしない。
 詫びを入れて自民党に戻り、選挙を戦って勝ち、わずかに残された日本のシステムを必死になって守ったことだろう。
 
 まぁ、いい。
 詫びを入れても戻れなかったのかもしれないし、私もそう偉そうなことは言える人間ではなかった。
 とにかく小泉さんは変人ではあったが日本をぶっ壊してはいないと言う事実を忘れないでほしい。
 小泉さんが既にぶっ壊したものを立て直したのだ、などという言い訳だけは口が裂けても言わないで欲しいと願う。
 来年の夏の参院選を楽しみにしていますよ、政治家たちさん。
 それと国民たちへ。また信じられる政治家と出会えることを―