彼岸花の恋
9月 28, 2008 コメントを残す
彼岸花。梵語で曼珠沙華(マンジュシャカ)。妖しく、美しい花。哀しみの花。どこか禍々しい匂いを漂わせる花。
私はこの花を観念として捉えている。正式な意味も由来も知らなかった。季節はめぐり、またこの花の季節が訪れ、たまたま撮影会に参加することになったので、またはネット上のコメントに興味を持ったので、ふと意味を調べてみる。
ヒガンバナ ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋
特徴
全草有毒な多年生の球根性植物。散系花序で6枚の花弁が放射状につく。
有毒性
鱗茎にアルカロイド(リコリン)を多く含む有毒植物。誤食した場合は吐き気や下痢、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死にいたる。水田の畦(あぜ)や墓地に多く見られるが、これは前者の場合ネズミ、モグラ、虫など田を荒らす動物がその鱗茎の毒を嫌って避ける(忌避)ように、後者の場合は虫除け及び土葬後、死体が動物によって掘り荒されるのを防ぐため、人手によって植えられたためである。
名前に関わる話
彼岸花(ひがんばな)の名は秋の彼岸ごろから開花することに由来する。別の説には、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある。上記の飢餓植物としての面から一考する価値はあると思われる。別名の曼珠沙華は、法華経中の梵語に由来する(梵語での発音は「まんじゅしゃか」に近い)。また、"天上の花"という意味も持っており、相反するものがある(仏教の経典より)。仏教でいう曼珠沙華は「白くやわらかな花」であり、ヒガンバナの外観とは似ても似つかぬものである。国内には、曼珠沙華と称するカルト新興宗教団体も存在する。 万葉集にみえる"いちしの花"を彼岸花とする説もある。「路のべの壱師の花の灼然く人皆知りぬ我が恋妻は」(11・2480)異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもある。しかし、そのような連想が働かない欧米を中心に、園芸品種が多く開発されている。園芸品種には赤のほか白、黄色の花弁をもつものがある。日本での別名・方言は千以上が知られている(中略)。おそらく国内で、もっともたくさんの名を持つ植物であろう。
そもそも彼岸花はその有害性から虫除けのためや死人を守るために人の手によってあぜや墓地に植えられた、そのくせ仏教の経典では天上の花と意味されている。思わず感心した。漠然とした想いを言葉に置き換えられ、論理的に説明されて、納得したような感じだ。禍々しい毒性と崇高なる天上の花、矛盾した解説は全く論理的ではないのだが、その矛盾そのものこそが彼岸花であるといわれたような気がした。神秘の花だ。そうして、私にとって死や天(死後の世界)はまさにそのものであって、いつでも彼岸花に惹かれる想いは妖しく、禍々しく、神秘的なものなのだった。避けて通れないもの。必要不可欠なもの。有毒で、崇高なもの。曼珠沙華。恋と同義語なのかもしれない。
大船の植物園に彼岸花を撮りに出かけた。
本来は彼岸花を撮ることが目的と言うわけでもなく、数人で花でも撮りに行こうか、と言う主旨の集まりで、季節だから彼岸花もいいかもね、と言った雰囲気ではあった。しかし、私の中では目的は彼岸花に限定されている。いつでもこの季節になると打ちひしがれる。私が惹かれるほどに、美しく撮れたためしがないのだった。
今年こそはもう少しどうにか撮ってあげたいなぁ。そう考えている。私は大船に勇んで出かけて行く。
大船の植物園も初めてならば、大船駅で降りたことも記憶にない。東海道線で通ったことは何度もあるが、果たして降り立ったことはあっただろうか。記憶を辿りながらホームを降りて、階段を上ると、改札を出る前に目当てのトイレを見つけた。撮影前に必ず行っておかないと集中が出来なかった。最近の新しい駅は改札の出口によってトイレがないところも多い。ほっとした。改札を抜ける前にショップもカフェもある。意外と開けているようだった。集合時間にはまだ間がある。私は改札を出て、階段を降りたところに備え付けられた円形のベンチに座って一服をする。数名の同類がのんびりと煙草を燻らしている。深呼吸をした。リラックスしているのがわかる。複数の人と会い、行動を共にするということの免疫が薄い私にとって、このような一連の儀式が大事なのだった。僅かなことがひとつでも狂うと、もちろん僅かなことなのでその場は我慢してことを進めることは可能だが、しかし小さな圧迫が生じる。自分を保ち、リラックスして過ごせる最低限のメンタルレベルが少しずつ綻び、対人関係による圧力が少しずつ加わって、微妙な狂いが加速してくるのだった。
大船は相性がいい。そう結論付ける。良かった。幼い頃、母が里帰りする時に通りかかった町、夜にライトアップされて浮かび上がっていた大きな観音様がふと見えた。懐かしい。私は観音様に軽く手を合わせて、お辞儀をした。幸先が良さそうだった。今日はリラックスして、楽しく過ごせそうだ。良い(私らしい)彼岸花の撮影ができそうだった。神様はいるかもしれない、不思議とそんな考えが頭をよぎる。 もちろん神はいるだろう。だが、私の神は気分屋なので、なかなか出てこないこともあるのだ。
集合時間ちょうど位に待ち合わせた相手と落ち合って出発する。まずは3人、植物園の前で6人になる。ちょうど居心地のいい程度の人数。軽く会話をして、すぐに解散。各自園内を気ままに歩く。好きな場所を撮影し、途中で落ち合えばまた会話をする。全員での集合はお昼のランチタイムまでない。付かず離れずのゆるい感じも良かった。私は好きな相手になかなか向かえず、そちらを気にしながらも友達とばかり喋ってしまう女子学生のように、真っ先には彼岸花に向わないのだ。まずは園内を一周して、他の花を見て歩く。試し撮りもしない。そうして、ついに勇気を出して、誰もいないところにひっそりと咲いていた白い彼岸花を写すのだった。
結果は惨敗。どうも良く撮りたいと気負いすぎたのか。リラックスしていたはずなのに、彼岸花を前に緊張していたらしい。それからはお喋りしながら、楽しみながら、撮ることにする。もちろん美しく撮ってあげたかったが、そうこだわらないことにする。まずは一年に一度しかお目にかかれないこの花との再会を楽しまなくては。
園内も出来る限り歩いて、雰囲気を写し取る。今日がいい思い出になりますように。
全員でランチを食べてからまた撮影を続ける。予定は4時だったので、時間は充分ある。私は彼岸花にまたチャレンジする。
今日の彼岸花は明るかった。禍々しさも、妖しさも感じさせない。かと言ってその魅力を半減させるわけでもなく、相変わらず美しく、私に向って微笑みかけている。
「これからはすべてがうまくいくんだよ」
まるで彼にそういわれているような想いがした。
私は太陽のように眩しい彼岸花を撮り続けた。時間の限り、ずっと撮り続けていた。
見守るように。見守られるように。
哀しい恋は終わったのだ。