私の写真道
10月 25, 2008 コメントを残す
よく「色を好む」と言うけれど、どうして性欲や男女の情や秘め事のことを「色」という言葉で現すのだろう。
ここ最近の私の写真道にまつわる悩み、モノクロかカラーか、と言う問題がどうもそのことと重なって仕方ない。美しい色(の写真)に惹かれるくせに、撮ると妙な罪悪感に駆られたり、または好きなモノクロを撮るとその禁欲的な自己の世界観に陶酔して来て、色の世界観を全否定してしまう。前回、丹沢湖に行った時に後ろ髪を引かれる思いでカラー写真からモノクロ写真に切り替えて、ふと煩悩と戦う修行僧のような気分がしたものだが、私のこの色に対する執着が性的な意味の色と何か関連性があるのだろうか、などと疑問に思った次第だった。
そこで日本語源大辞典を調べてみる。
いろ【色】の二番目の意味(男女の情愛に関する物事、異性に惹かれる感情、恋愛の情趣、肉体関係を伴う恋愛、情事)の語源を見ると、実に様々な語源説があるのだった。
①漢語で女を色というところから。(和君栞)
②シロキモノ(白粉)の色の義。(大言海)
③古代、貴族の家庭内において女の順序を示したイロネ・イロモに関連して出た語か。(国文学=折口信夫)
④ウロと通う。ウルハシの語根。(日本語源=賀茂百樹)
⑤男女の放縦な情交を言う「淫」の語尾が省略されてラ行音が添ったもの。(日本語原考=与謝野寛)
どうやら色彩の色とは直接的な繋がりがないようだが、やはり一般的には女性や容姿などが美しいことを色と言ったり(広辞苑より三番目の意味)することから、美しいものを美しい色彩と同様の色と表現し、美しいものを好む傾向の発展形が愛情や色情、情欲、情人(広辞苑五番目の意味)となったのではないかと想像してみるのだった。女は美しい、それを過剰に好むと色好み、と、男性(中心の社会)が語源をもたらしたのならば頷ける話なのだった。
ところで、私はなぜモノクロにこだわるかと言うことについて、自分の中でこんな結論を下していた。(私は自分の行動に理由が必要な人間である)
モノクロの写真と言う存在は自己に似ている。地味で、一般受けしない。マイナーな存在だ。私はいつも要領のいい人にしてやられるのだが、それらの他人をカラー写真のような人だと考えた。彼らは美しく、誰からも受け入れられ、努力しなくても簡単に好かれるのだ。そこで、そのカラー写真の影で地味に存在しているモノクのロ写真でもしも、カラー写真より美しい絵が撮れたならば、それは自分自身の存在が評価され、一般に受け入れられることと同義ではないかと。モノクロだってね、素晴らしいんだからね。と、意地になるような思いで、何とかモノクロ写真の市民権を増幅させてやろうと考えていたのだった。
ところが冒頭に書いたがモノクロの写真を撮り続けていると、どんどんとハイになるのだった。どれだけ一般受けする綺麗な絵を目指していても、どんどんと自己の世界観に没頭していくのだった。何かがおかしい。このままではたどり着く地は孤高の極みでしかないだろう。
高僧は人類は愛しても、女性のことを愛さないのだろうか。
そんな馬鹿なことを考えながら山道を歩く。今日は運動も兼ねて丹沢近辺のハイキングコースを散歩する。リュックにおにぎりと水と、一片のチョコレートを忍ばせて、カメラを肩からぶら下げて。紅葉を探しにもっと山奥まで行きたいと思っていたが、前日の雨で山道がぬかるんでいることを想定した。滑りやすいだろう。
小田急本線秦野駅で降りて、南口に行くと、ロータリーにハイキングコースのウォーキングに参加するらしき年配者の団体が陣取っている。手にはコースの詳細なガイドブック、誰か一部落としたりしないものかと横目で見ながら彼らの後を追っていく。正確に言うと、私の目標としていたコースの第一地点、今泉名水桜公園で彼らとまた遭遇したのだった。この先は細い民家沿いの山道でわかりにくい。ぞろぞろと歩いていく彼らのカラフルなジャケットや帽子やリュックを目印に、ずいぶん後ろのほうからよちよちと歩いていく。時々畑のキャベツや道端のコスモスを撮っている。
まいまいの泉を通り越して次の白笹稲荷神社を目指すところで、ふと気がつくと姿を見失っていた。そんなときに限って、道が左右に分かれているのだ。私は民家の前で車を洗っている休日のお父さんと言った風情の男性に丁寧に聞いてみる。「すみません、湖ってこっちの道でいいのでしょうか」
白笹稲荷神社の先には地元で有名な震生湖があり、多分こちらの方が教えやすいだろうと思ったのであった。ところが震生湖にはまだだいぶ距離があったようで、男性は道を思い出すようにしながら私の十倍は丁寧に答えてくれた。
「湖・・震生湖ですね。ええと、この先を右に・・いや、そこの学校沿いを道なりにずっと行って、真っ直ぐ行って坂を上って、大きな道路に出ますから信号を渡ってやはりそのまま真っ直ぐ行って、そうするとゴルフ場が見えてきますから、それを目指して山を登って行って、そうするとゴルフ場の隣にありますよ」
考え考えしながら、あまりにも真摯な教え方だったので、私は男性が言ったことを全く同じように復唱した。それが礼儀であるように。そうして照れくさそうにそっぽを向いた男性を見ながら礼を言って、また歩き始める。男性が言ったように学校沿いは道が続き、矢印の形の案内板があるのだった。「震生湖○○km」。ここのハイキングコースは有名らしく、私は道々でこの矢印の案内板を見ることになる。コースの道が途中で二股に分かれるときはこの看板が必ず存在するのだった。
しばらくすると白笹稲荷神社に到着する。参拝をして、まだほとんど色付いていないカエデとイチョウを撮って、休憩を取って、また進んで行く。農家と畑が増えてきた。畑沿いのゆるやかな坂道をずっと登っていくと、右手に丹沢連峰が浮かび上がってくる。雲に霞んで美しかった。思わず写真に撮り、農家の人しか存在しない淋しい道の先の先にやっと例の矢印の案内板が現われた。
男性が言っていたゴルフ場が確認できないままだったが、矢印の方向に下りていくと確かに存在している。道の左手のネットの向うで人々が休日のゴルフを楽しんでいた。下り坂の終点に震生湖があった。水面は汚れていて、お世辞にも綺麗とはいえない。湖と言うよりは池に近い大きさのようだ。それでも森のような木々の自然に囲まれ、たくさんの釣人が集っている情景はなかなかいい風情だった。私は湖の片側をぐるりと回り、水辺の丘の斜面にある弁天堂を参拝して、その先の公園でお昼の休憩を取った。ベンチに座り、おにぎりの包みを広げる。続いて、やはりハイキング途中らしき年配の夫婦連れがやってきて、50メートルほど先のベンチに腰をかけ弁当を食べ始めた。穏やかなひと時。しかし翌日の雨のせいか、地面は湿っていて、濡れた草がうごめくのだった。虫たちが活発に活動しているようだ。ぼんやり地面を見ていると、地面の草が波打つように時々動くので、不思議に思って目を凝らすと小さな虫が地面から這い出している。だんだんと薄気味悪くなってきたので、おにぎりひとつだけ食べて早々に退散する。湖畔に戻ってまた写真を撮り始めた。
ここまで私はカラー写真しか撮っていない。最初の公園で一枚だけモノクロを撮ったが、勇気を出して、色に拘ることをやめてみた。唯一ホワイトバランスをいじった程度で、いつものようにコントラストを強めにしたり、露出補正をアンダーにしたりしなかった。美しい色に拘るからモノクロに没頭する羽目になるのだ。
その代わりに遠景にこだわった。景色をなるべく遠くから撮る。頭の中に大きなポスターの紙面をイメージし、その中に小さく景色を収めてみた。望遠は一切使わないことにし、それ用のレンズに徹底した。私は景色を大きく撮る傾向があるのだ。いつも無意識にイメージする頭の中の画像の紙面が小さいのである。今回はなるべくそれを広げるように努めて、色のことを考えないようにする。これはカラーだがモノクロ写真と同じ意味でしかない。と頭の中で繰り返している。これは、色の付いた、色抜きの写真だと。
枚数も抑えることにする。いつも目につくものからあれこれと夢中で撮ってしまうのだが、イメージを考えながら構図を選んでのんびり撮る。撮ることに陶酔したり、没頭することをなるべく抑え、淡々と撮る。心を穏やかにし、それを保つことを考えていた。
震生湖を出ると次の目標は表丹沢が一望できる渋沢丘陵だ。そのあと国榮稲荷神社に行き、最後に終点の渋沢駅、の筈だったが、途中道を迷ってしまった。
渋沢丘陵を通り過ぎたあと、道が二手に分かれていたのだ。片方はいかにも渋沢駅があるような町が見える開けた道、自動車の轍も付いている。片方は歩んできたのと同じような山道。私は悩んだあと、山道を進んでいく。矢印の案内板もない。まだ山の奥へ進んで行っていいのだろう、と考える。ところが、その山道に入ったとたん、今までのようにハイカーの人々とすれ違わないのだった。昨日の雨のぬかるみが増え、山道はどんどん暗く、細くなっていく。しまった、と思う。やはりさっきの道を左に行くべきだったのだ。この道はどう見てもただの山道であった。きっと案内板を見逃したか、そもそもそれがない地点だったのだろう。それでも念のため、私はまだ進んでいる。暗く、細い、淋しいただの山道のままである。次第にトイレに行きたくなってきた。踵を返した。あきらめて、先ほどの二股の地点に戻る。その地点で確認すると、やはり標識はない。それでももう一方の道のほうは下り坂になっていて、いかにも町に降りる道のようである。先には民家も町も見渡せる。私はそちらの道に切り替えた。多分こちらが正しかったのだろう。私は疲れが出ていて、早く渋沢駅にたどり着きたい心境だ。
それからが迷子の本番だった。あるけどあるけど、民家の周りの道をぐるぐる回っている。下って、昇って、車の音がやっと聞こえてきて、車道のある道にやっとのことで出ると、バス停にこうある。「秦野駅行き」。出発地点の駅であった。出発地点の方が多分近いところまで来てしまったのだろう。道路の逆側のバス停も渋沢駅に行くものではない。しかもどちらも次のバスは二時間後だった。目的の終着点にたどり着けないのは残念だが、そのままバス停沿いに歩き始めた。この道を行ってバス停を辿っていけば少なくとも出発点の駅には着ける。これ以上山道で迷子になっていても仕方がない。すると、あれだけぐるぐると回っていたのに、すぐに見覚えのある道が現われたのだった。バス停沿いのすぐ左に見慣れた矢印の案内板があり、「渋沢丘陵1km・渋沢駅3.7km」と書いてある。この道を折れればさっき通った道だ。震生湖を出てすぐに入った渋沢丘陵へ続くハイキングコース、つまり迷った道の出発点だ。
私はしばらく考えた。このまま車道をバス停沿いに歩けば、(矢印の案内板によれば)2㎞少しで秦野駅に出られる。またさっき迷子になった同じ道を歩いてまで終点に拘ることもない。そうは思ったが見つけたからには進むのだった。私は道を折れて、また迷子の出発点のハイキングコースに入った。なに、4キロ弱なんていつものマラソンを考えればたかだか20分から30分で行ける距離じゃないか。「渋沢駅」まで1時間15分、と書いてあったが気にしないのだ。迷子になって、またやり直して馬鹿だとか、ツイてないとか、そんなこともどうでもいいのだ。最近思うことだが、世の中と言うものは(誤解を恐れなければ神はといってもいいかもしれない)堪えられるものにしか試練を与えない。今まで私はずいぶん楽をさせてもらった。それは私の精神性が低次元だったからきっと周りが慈悲をかけて許してくれていたのだと思う。だから今は辛く感じることがあると、逆に勇気がわいてくるのだった。やっと私がこの辛い状況に耐えられると認めてくれて、信頼してくださったのだ、と感謝をする。私はこんなハイキングコースを何度でもやり直してやるだろう。何度迷子になっても、私ならやりおおせるに違いないと。
私は勇んでまた同じコースを歩いていく。さっきは矢印の案内板がないにもかかわらず、道を曲がってしまった。あの暗く淋しい道を、今度は真っ直ぐ進むのだ。
確実に間違ってると信じてしまっても、不安に駆られてしまっても、選択して歩き出した道を歩き続けなければ駄目だったのだ。その道から反れる必要があるときは絶対に案内板がある。人がいそうだとか、開けていて町がありそうだとか、下り坂でいかにも正しい道に見えても、安易に道を変えてはいけなかったのだ。やり直しの迷子の私はその間違いをかみ締めながら淋しい山道を駆けるように進んでいった。正しく進む人が1時間15分かけて歩くならば、間違えた私はこの道を45分で行ってやろう、そんな思いだった。そんなことを繰り返していたら、きっと今に無駄な労力を使わなくても正しい道をちゃんと進めるようになるだろう。だけどいったいいつの話だ。そんな簡単なことを知るまでにずいぶん長い道のりを歩いてしまったものだ。
それでもそれが私の道なのだった。
何度も何度も迷いながら、人よりたくさんの労力を使いながら、道を歩いていく。終着点の渋沢駅まで1.3kmの矢印の案内板が見えた。親切に公衆トイレも付いている。やはりこの道だった。暗く淋しい迷子の道が終わったのだ。
山を抜けたようだ。平坦な道の先には渋沢の町並みが広がっている。懐かしい線路を見つけて、私は駆け出した。愛しい家には、写真という道を教えてくれた人が待っている。帰ったら、のんびりとお風呂に浸かって、温かいご飯を食べよう。体を休めて、また明日に備えるのだ。
今日は終わっても、私の道はまだまだ続いていくのだから。