私の写真道

 
 
 
 よく「色を好む」と言うけれど、どうして性欲や男女の情や秘め事のことを「色」という言葉で現すのだろう。
 ここ最近の私の写真道にまつわる悩み、モノクロかカラーか、と言う問題がどうもそのことと重なって仕方ない。美しい色(の写真)に惹かれるくせに、撮ると妙な罪悪感に駆られたり、または好きなモノクロを撮るとその禁欲的な自己の世界観に陶酔して来て、色の世界観を全否定してしまう。前回、丹沢湖に行った時に後ろ髪を引かれる思いでカラー写真からモノクロ写真に切り替えて、ふと煩悩と戦う修行僧のような気分がしたものだが、私のこの色に対する執着が性的な意味の色と何か関連性があるのだろうか、などと疑問に思った次第だった。
 そこで日本語源大辞典を調べてみる。
 
 いろ【色】の二番目の意味(男女の情愛に関する物事、異性に惹かれる感情、恋愛の情趣、肉体関係を伴う恋愛、情事)の語源を見ると、実に様々な語源説があるのだった。
 ①漢語で女を色というところから。(和君栞)
 ②シロキモノ(白粉)の色の義。(大言海)
 ③古代、貴族の家庭内において女の順序を示したイロネ・イロモに関連して出た語か。(国文学=折口信夫)
 ④ウロと通う。ウルハシの語根。(日本語源=賀茂百樹)
 ⑤男女の放縦な情交を言う「淫」の語尾が省略されてラ行音が添ったもの。(日本語原考=与謝野寛)
 
 どうやら色彩の色とは直接的な繋がりがないようだが、やはり一般的には女性や容姿などが美しいことを色と言ったり(広辞苑より三番目の意味)することから、美しいものを美しい色彩と同様の色と表現し、美しいものを好む傾向の発展形が愛情や色情、情欲、情人(広辞苑五番目の意味)となったのではないかと想像してみるのだった。女は美しい、それを過剰に好むと色好み、と、男性(中心の社会)が語源をもたらしたのならば頷ける話なのだった。
 ところで、私はなぜモノクロにこだわるかと言うことについて、自分の中でこんな結論を下していた。(私は自分の行動に理由が必要な人間である)
 モノクロの写真と言う存在は自己に似ている。地味で、一般受けしない。マイナーな存在だ。私はいつも要領のいい人にしてやられるのだが、それらの他人をカラー写真のような人だと考えた。彼らは美しく、誰からも受け入れられ、努力しなくても簡単に好かれるのだ。そこで、そのカラー写真の影で地味に存在しているモノクのロ写真でもしも、カラー写真より美しい絵が撮れたならば、それは自分自身の存在が評価され、一般に受け入れられることと同義ではないかと。モノクロだってね、素晴らしいんだからね。と、意地になるような思いで、何とかモノクロ写真の市民権を増幅させてやろうと考えていたのだった。
 ところが冒頭に書いたがモノクロの写真を撮り続けていると、どんどんとハイになるのだった。どれだけ一般受けする綺麗な絵を目指していても、どんどんと自己の世界観に没頭していくのだった。何かがおかしい。このままではたどり着く地は孤高の極みでしかないだろう。
 
 
 高僧は人類は愛しても、女性のことを愛さないのだろうか。
 そんな馬鹿なことを考えながら山道を歩く。今日は運動も兼ねて丹沢近辺のハイキングコースを散歩する。リュックにおにぎりと水と、一片のチョコレートを忍ばせて、カメラを肩からぶら下げて。紅葉を探しにもっと山奥まで行きたいと思っていたが、前日の雨で山道がぬかるんでいることを想定した。滑りやすいだろう。
 小田急本線秦野駅で降りて、南口に行くと、ロータリーにハイキングコースのウォーキングに参加するらしき年配者の団体が陣取っている。手にはコースの詳細なガイドブック、誰か一部落としたりしないものかと横目で見ながら彼らの後を追っていく。正確に言うと、私の目標としていたコースの第一地点、今泉名水桜公園で彼らとまた遭遇したのだった。この先は細い民家沿いの山道でわかりにくい。ぞろぞろと歩いていく彼らのカラフルなジャケットや帽子やリュックを目印に、ずいぶん後ろのほうからよちよちと歩いていく。時々畑のキャベツや道端のコスモスを撮っている。
 まいまいの泉を通り越して次の白笹稲荷神社を目指すところで、ふと気がつくと姿を見失っていた。そんなときに限って、道が左右に分かれているのだ。私は民家の前で車を洗っている休日のお父さんと言った風情の男性に丁寧に聞いてみる。「すみません、湖ってこっちの道でいいのでしょうか」
 白笹稲荷神社の先には地元で有名な震生湖があり、多分こちらの方が教えやすいだろうと思ったのであった。ところが震生湖にはまだだいぶ距離があったようで、男性は道を思い出すようにしながら私の十倍は丁寧に答えてくれた。
「湖・・震生湖ですね。ええと、この先を右に・・いや、そこの学校沿いを道なりにずっと行って、真っ直ぐ行って坂を上って、大きな道路に出ますから信号を渡ってやはりそのまま真っ直ぐ行って、そうするとゴルフ場が見えてきますから、それを目指して山を登って行って、そうするとゴルフ場の隣にありますよ」
 考え考えしながら、あまりにも真摯な教え方だったので、私は男性が言ったことを全く同じように復唱した。それが礼儀であるように。そうして照れくさそうにそっぽを向いた男性を見ながら礼を言って、また歩き始める。男性が言ったように学校沿いは道が続き、矢印の形の案内板があるのだった。「震生湖○○km」。ここのハイキングコースは有名らしく、私は道々でこの矢印の案内板を見ることになる。コースの道が途中で二股に分かれるときはこの看板が必ず存在するのだった。
 しばらくすると白笹稲荷神社に到着する。参拝をして、まだほとんど色付いていないカエデとイチョウを撮って、休憩を取って、また進んで行く。農家と畑が増えてきた。畑沿いのゆるやかな坂道をずっと登っていくと、右手に丹沢連峰が浮かび上がってくる。雲に霞んで美しかった。思わず写真に撮り、農家の人しか存在しない淋しい道の先の先にやっと例の矢印の案内板が現われた。
 男性が言っていたゴルフ場が確認できないままだったが、矢印の方向に下りていくと確かに存在している。道の左手のネットの向うで人々が休日のゴルフを楽しんでいた。下り坂の終点に震生湖があった。水面は汚れていて、お世辞にも綺麗とはいえない。湖と言うよりは池に近い大きさのようだ。それでも森のような木々の自然に囲まれ、たくさんの釣人が集っている情景はなかなかいい風情だった。私は湖の片側をぐるりと回り、水辺の丘の斜面にある弁天堂を参拝して、その先の公園でお昼の休憩を取った。ベンチに座り、おにぎりの包みを広げる。続いて、やはりハイキング途中らしき年配の夫婦連れがやってきて、50メートルほど先のベンチに腰をかけ弁当を食べ始めた。穏やかなひと時。しかし翌日の雨のせいか、地面は湿っていて、濡れた草がうごめくのだった。虫たちが活発に活動しているようだ。ぼんやり地面を見ていると、地面の草が波打つように時々動くので、不思議に思って目を凝らすと小さな虫が地面から這い出している。だんだんと薄気味悪くなってきたので、おにぎりひとつだけ食べて早々に退散する。湖畔に戻ってまた写真を撮り始めた。
 
 ここまで私はカラー写真しか撮っていない。最初の公園で一枚だけモノクロを撮ったが、勇気を出して、色に拘ることをやめてみた。唯一ホワイトバランスをいじった程度で、いつものようにコントラストを強めにしたり、露出補正をアンダーにしたりしなかった。美しい色に拘るからモノクロに没頭する羽目になるのだ。
 その代わりに遠景にこだわった。景色をなるべく遠くから撮る。頭の中に大きなポスターの紙面をイメージし、その中に小さく景色を収めてみた。望遠は一切使わないことにし、それ用のレンズに徹底した。私は景色を大きく撮る傾向があるのだ。いつも無意識にイメージする頭の中の画像の紙面が小さいのである。今回はなるべくそれを広げるように努めて、色のことを考えないようにする。これはカラーだがモノクロ写真と同じ意味でしかない。と頭の中で繰り返している。これは、色の付いた、色抜きの写真だと。
 枚数も抑えることにする。いつも目につくものからあれこれと夢中で撮ってしまうのだが、イメージを考えながら構図を選んでのんびり撮る。撮ることに陶酔したり、没頭することをなるべく抑え、淡々と撮る。心を穏やかにし、それを保つことを考えていた。
 
 
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 震生湖を出ると次の目標は表丹沢が一望できる渋沢丘陵だ。そのあと国榮稲荷神社に行き、最後に終点の渋沢駅、の筈だったが、途中道を迷ってしまった。
 渋沢丘陵を通り過ぎたあと、道が二手に分かれていたのだ。片方はいかにも渋沢駅があるような町が見える開けた道、自動車の轍も付いている。片方は歩んできたのと同じような山道。私は悩んだあと、山道を進んでいく。矢印の案内板もない。まだ山の奥へ進んで行っていいのだろう、と考える。ところが、その山道に入ったとたん、今までのようにハイカーの人々とすれ違わないのだった。昨日の雨のぬかるみが増え、山道はどんどん暗く、細くなっていく。しまった、と思う。やはりさっきの道を左に行くべきだったのだ。この道はどう見てもただの山道であった。きっと案内板を見逃したか、そもそもそれがない地点だったのだろう。それでも念のため、私はまだ進んでいる。暗く、細い、淋しいただの山道のままである。次第にトイレに行きたくなってきた。踵を返した。あきらめて、先ほどの二股の地点に戻る。その地点で確認すると、やはり標識はない。それでももう一方の道のほうは下り坂になっていて、いかにも町に降りる道のようである。先には民家も町も見渡せる。私はそちらの道に切り替えた。多分こちらが正しかったのだろう。私は疲れが出ていて、早く渋沢駅にたどり着きたい心境だ。
 それからが迷子の本番だった。あるけどあるけど、民家の周りの道をぐるぐる回っている。下って、昇って、車の音がやっと聞こえてきて、車道のある道にやっとのことで出ると、バス停にこうある。「秦野駅行き」。出発地点の駅であった。出発地点の方が多分近いところまで来てしまったのだろう。道路の逆側のバス停も渋沢駅に行くものではない。しかもどちらも次のバスは二時間後だった。目的の終着点にたどり着けないのは残念だが、そのままバス停沿いに歩き始めた。この道を行ってバス停を辿っていけば少なくとも出発点の駅には着ける。これ以上山道で迷子になっていても仕方がない。すると、あれだけぐるぐると回っていたのに、すぐに見覚えのある道が現われたのだった。バス停沿いのすぐ左に見慣れた矢印の案内板があり、「渋沢丘陵1km・渋沢駅3.7km」と書いてある。この道を折れればさっき通った道だ。震生湖を出てすぐに入った渋沢丘陵へ続くハイキングコース、つまり迷った道の出発点だ。
 
 
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 私はしばらく考えた。このまま車道をバス停沿いに歩けば、(矢印の案内板によれば)2㎞少しで秦野駅に出られる。またさっき迷子になった同じ道を歩いてまで終点に拘ることもない。そうは思ったが見つけたからには進むのだった。私は道を折れて、また迷子の出発点のハイキングコースに入った。なに、4キロ弱なんていつものマラソンを考えればたかだか20分から30分で行ける距離じゃないか。「渋沢駅」まで1時間15分、と書いてあったが気にしないのだ。迷子になって、またやり直して馬鹿だとか、ツイてないとか、そんなこともどうでもいいのだ。最近思うことだが、世の中と言うものは(誤解を恐れなければ神はといってもいいかもしれない)堪えられるものにしか試練を与えない。今まで私はずいぶん楽をさせてもらった。それは私の精神性が低次元だったからきっと周りが慈悲をかけて許してくれていたのだと思う。だから今は辛く感じることがあると、逆に勇気がわいてくるのだった。やっと私がこの辛い状況に耐えられると認めてくれて、信頼してくださったのだ、と感謝をする。私はこんなハイキングコースを何度でもやり直してやるだろう。何度迷子になっても、私ならやりおおせるに違いないと。
 私は勇んでまた同じコースを歩いていく。さっきは矢印の案内板がないにもかかわらず、道を曲がってしまった。あの暗く淋しい道を、今度は真っ直ぐ進むのだ。
 確実に間違ってると信じてしまっても、不安に駆られてしまっても、選択して歩き出した道を歩き続けなければ駄目だったのだ。その道から反れる必要があるときは絶対に案内板がある。人がいそうだとか、開けていて町がありそうだとか、下り坂でいかにも正しい道に見えても、安易に道を変えてはいけなかったのだ。やり直しの迷子の私はその間違いをかみ締めながら淋しい山道を駆けるように進んでいった。正しく進む人が1時間15分かけて歩くならば、間違えた私はこの道を45分で行ってやろう、そんな思いだった。そんなことを繰り返していたら、きっと今に無駄な労力を使わなくても正しい道をちゃんと進めるようになるだろう。だけどいったいいつの話だ。そんな簡単なことを知るまでにずいぶん長い道のりを歩いてしまったものだ。
 それでもそれが私の道なのだった。
 何度も何度も迷いながら、人よりたくさんの労力を使いながら、道を歩いていく。終着点の渋沢駅まで1.3kmの矢印の案内板が見えた。親切に公衆トイレも付いている。やはりこの道だった。暗く淋しい迷子の道が終わったのだ。
 山を抜けたようだ。平坦な道の先には渋沢の町並みが広がっている。懐かしい線路を見つけて、私は駆け出した。愛しい家には、写真という道を教えてくれた人が待っている。帰ったら、のんびりとお風呂に浸かって、温かいご飯を食べよう。体を休めて、また明日に備えるのだ。
 今日は終わっても、私の道はまだまだ続いていくのだから。
 
 
 
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運動会と私と子供達。

 
 
 
 姪っ子の小学校の運動会があったので、出かけてきた。
 上の子はもう中学生になってしまったので、下の子だけの参加、しかも行くのははじめてである。上の子が残念そうに言う。
「去年来てくれれば良かったのになぁ・・」
 去年は仕事の忙しさがピークで、帰宅が毎晩夜の12時近かった。睡眠時間は3時間程度と言う日も多く、休日は体調と家の中のことをリセットするのに必死で、朝早く出かける余裕すらなかった。悪かったなぁ、悪いおばさんだな、と反省することしきり。せめて今年は精一杯奉仕して、傍にいて、楽しませてあげたいと思う。
 ところがこれがけっこう面白かった。楽しませていただいたのはこちらの方で、子供達のがんばる姿や笑顔にとても力を頂いて、感謝して帰ってくることとなったのだった。
 

くすだまわれたつなひき

 
 
 運動会と言うと、今気になるのは騒音の問題だ。入場行進や、短距離走の間に流れる運動会定番の馴染み深い音楽、それからダンスなどに使われるアイドル等の時代時代のヒット曲、それら運動会と象徴とされる音楽が隣接する住宅の騒音になるということで、使われなくなったり、音が極限まで小さくされたり、いろいろ気遣わなければいけない状況なのだと聞いていた。それでその辺りをどうするものかと思っていたら、なるほど驚いた。今は入場行進自体がないのだった。入場門らしきものもない。僅かに一般席とグラウンドの間にロープを張っていない入口らしきところがあるだけだった。
 姉によると、それは時間短縮にもなるという。競技のたびに入場行進して、その競技が終わるとまた行進して(生徒達の席に)戻るようだと、運動会そのものの時間が長くなる。行進をなくし、音楽を省いて、時間も省いて、そうすることで騒音問題も解決できるし、その分楽しい競技の時間を増やせるし、または終わり時間を早めにしても良くて、家族ら参加者達の負担を減らしたりと、何かと一石二鳥も三鳥になるそうだ。
 生徒達はグラウンドの家族席とは対岸する方向に固まって椅子に座っていて、次の競技の先生からのアナウンスが流れると、ロープをまたいでグラウンドへ飛び出していく。騎馬戦とか、玉入れとか、組別対抗の競技の時は勢い良く、ダンスや双方で協力し合う競技の時はゆっくり、ぞろぞろと。その様子はなるほど、問題解決で効率的でよろしいのだろうが、どうも多少間の抜けたものではあった。あの入場門から整列して出て行くとき、音楽に乗って行進している時が、何度も晴れがましかったものだがなぁ、と子供の当時を振り返る。
 それともうひとつ、へぇーと感心させられたのは、今は組別のクラス対抗とか、学年対抗、と言う競技がないそうだ。対抗するときはあらかじめ作られたチームで対抗する。これは学年やクラスの中での運動能力の差をわかりにくくするためで、いじめを減らすためでもあるという。チームは横割りではなく、縦割りで作られていて、1年生から6年生までのひとりずつ(または競技によっては1年生から3年生、4年生から6年生に分かれた数名ずつ)の生徒で構成されている。私のお姉さん、とか、ボクの弟、とかそう言う愛称でも親しまれていて、各自がクラス以外での役割分担や関係性を持つことによって、責任感や閉鎖的環境からの開放感や横(同年代の友達)以外との情などを知るために役立つらしいのだった。
 今の日本は横は強いが、縦は弱いと言われている。先輩後輩の関係性がうまく築けなくて、新入社員が会社をすぐに辞めたり、上司が下を育てられなかったり、スポーツの世界でもそのおかげで団体競技が弱くなっているそうだ。なるほど、そういう問題を感じているからこそ、子供の頃から縦の関係を育てることに力を入れているのだなぁ~としみじみ感心した。しかし、1年から6年と入り乱れてチームになると、体格差も見た目に良くわかるし、並んでいても競技をしていてもどうも整然としない。ごちゃごちゃした感があり、入場行進のないロープを乗り越えての入場のときと同じように、頭の中にこんな言葉が浮かんでくる。「フリースクール」。
 
 
きばせんじゅんばんまちたまいれかけっこ
 
 
 
 登校拒否になったり、病気などの理由で集まるあのフリースクールではなく、もちろんその意味でも同じなのかもしれないが、もっと自分が子供の当時では手が届かなかった、憧憬の対象だった、海外のドラマに良く出てくる自由な校風の学校を想像しているのだった。学校が自由なら、そこで毎日を過ごす子供達も自由、何から自由かというと学校が生徒に押し付けるものからと言うことで、ルールはあっても個人を「特定の」型にはめるための規律も規則もないのだった。
 私が入場行進を誇らしげに感じたのは、もう完全にその手の型にはめられること自体に洗脳されていて、ある種の優越感さえ覚えていて、今で言うとTVで見る北朝鮮の行進と同じようなもので、それがいいとか悪いとか言う問題とは別に、やっぱりちょっと狂っていたように思う。狂いがないとうまくいかなかったり、狂いすぎるとずれが生じたり、その辺は適度ならいいのではないか、と言う気もするのだが、やはりどちらがいいかというと悩んだりするのだ。今年の北京オリンピックの開会式を見て、さすが社会主義国家だなぁ、と感心したように、イデオロギーに陶酔してしまうのはどうかと思う。そのくせ小学校の運動会はきっちり整列して行進しり競技した方がいいようにも思う。たぶん自分の子供時分を懐かしむ感傷と、日本の伝統やしきたりを繋いで欲しいと願う思いと、憧憬の対象に限りなく近付いている現在の彼らへの多少の嫉妬とか、まぁ、いろいろ複雑な思いが絡んでいるのだろうなぁ。
 
 
えがおやったかったぞ
 
 
 
 しかし、今運動会にいるこの彼らこそが、これから社会に出て、これからの日本を作っていく存在のなるのだから、どうかそんな個人の複雑な感情とは別に、時代に見合った、出来るだけいい方向へ進んでいってもらえたらいいと思う。今のような笑顔を彼らが永遠に続けて行ってくれることを、そんな国家や地球や私達であり続けられることを、願ってやまないのだった。
 
 
 
 
 

『もてなしの街すがも』を観る。

 
 
 
 老人は絵になる。死期が近ければ近いほど、力強く輝いている。
 私は死を人生の終焉ではなく、すごろくゲームで言うところの「あがり」だと常々思っているので、長い歳月の末についに天からのお迎えを得ようとしている彼らこそが明るい存在と映るのだった。
 その笑顔は純粋だ。若者の笑いには虚構の匂いがするが、老人の笑みは生を謳歌する嘘偽りのない微笑みに見える。人間社会のパワーゲームを卒業して、純粋にただ生きることを楽しんでいるようでもある。
 
 
 先日、スランプの時に頓挫した巣鴨散策計画を実行する。
 巣鴨を降り立ち、喫煙所に向うと、歩行人の邪魔になっていた喫煙者に通りすがりの老婆がこう言っている。すれ違いざまにポツリ。
「こんなところでタバコ吸ってんじゃないわよ」
 物怖じしない、歯に衣着せぬそのもの言いに一発かまされた。老人はかっこいい。年を取ると何かと人生楽しそうだな、と思いながら歩道橋を渡って巣鴨駅前の商店街に突入する。
 百メートルほど歩くとすぐにあの有名な地蔵通商店街だ。入口のカラフルなアーケードの前は、あいにくの雨だというのに大勢の人々で賑わっている。待ち合わせの人々、これから商店街に向う人、出てくる人、色とりどりの傘が舞っている。意外と若者が多いことに気が付いて、少なからず驚いた。もっともっと「老人の聖地」のようなところだと思っていた。おばあちゃんの原宿は若者にも人気があるようだ。
 雨の日は濡れたアスファルトに映し出される影を撮るのが好きだ。私はうつむいて、商店街と人々の影を撮りながら進んでいく。すぐにとげぬき地蔵に到着。正式名称は高岩寺と言うのだが、とげぬき地蔵と言う愛称と病気や痛みのあるところを洗うと効き目があると言う洗い観音様で親しまれている。参拝を済ますと、さっそく私も洗い観音の行列に並んで参戦する。前の人に倣って列の途中で観音様を洗うための白いタオルを購入。僅かなその合間に後ろの老母が私を追い越して観音様に飛びついていく。油断も隙もない。私は写真を撮るのを諦め、老人パワーに蹴落とされぬよう、負けじと観音様に向っていく。まず柄杓で白いタオルを濡らす。(これも私を追い抜いた老母の真似をしている)次に念入りに絞る。観音様に柄杓の水をたっぷりとかけて、良くなって欲しい体の部分をゴシゴシとぬぐう。
 みな貪欲だ。後の人々のため急ぐでもなく、顔から肩からお腹から足から背中から尻から観音様の体を洗いまくる。そんなに体中悪いのかと心配になるほどだ。前の人が洗い終わるのを待って観音様の頭から水をかけ、その頭を念入りにぬぐった。まずは頭に効き目があるといい。それから持病の腰を洗う。白いタオルはその場に置いていく人も多いが、持って帰ってもいいと言う。次の人が使うのかとも考えたが、見るとみな新しいタオルを買っているようなので、記念に持ち帰ることにした。リュックにしまって、やっと落ち着いて、取り巻く人々と観音様のお姿を撮らせていただいた。何とも絵になる光景だった。
 
 
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 裏門から出て、表の鳥居に戻り、横手に出ていた屋台の塩大福を購入する。申し訳なさそうに「ひとつでいいですか」と聞いてみると、愛想よく「どうぞどうぞ」と老婆が答える。「食べながら行きますか」と小さい紙袋に入れてくれ、満面の笑みで「晴れて来て良かったですね、行ってらっしゃい」と送り出してくれる。どうも気分がいい。私は境内前広場の建物の階段に腰をかけて、ありがたく塩大福を頂戴した。
 雨は止んだり、また降ったりを繰り返しているようだ。この分だと午後からは完全に晴れそうだった。貴重な雨の光景を撮り収めようとまた地蔵通商店街を歩いていく。左右の店を見て、懐かしい風情の裏路地の風景に心を奪われる。雨のおかげでなおさら趣が増しているようだ。マルジ2号館でお土産の赤いパンツと靴下を買い、商店街の終点である庚申塚交差点手前の巣鴨庚申塚(猿田彦大神)を参拝する。その先には都電荒川線が走っている。この路面電車を見るのは初めてだった。私は電車の到来を待つ。踏切が鳴って、いよいよ、とカメラを構えると、身を乗り出しすぎたのか遮断機のポールに思い切り頭をぶつけてしまった。失笑が起こらなかったのを幸いに何事もなかったように撮り続ける。
 そうこうしているうちに午後になり、すっかり雨は上がっている。晴れ間が眩く広がっている。私は踵を返して、また巣鴨通り商店街に戻っていくのだ。
 
 
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 雨上がりの町並みはすっかり趣を変えている。
 それぞれの店が、特売のワゴンを並べたり、試食販売を始めたり、店員は陽気な呼び込みの声を上げている。歩行者天国のなか、両側の歩道は商品と人々で大賑わいだ。
 雨の情景も素晴らしかったが、この明るさはどうだろう。これこそがおばあちゃんの原宿、巣鴨の本来の姿なのだろう。
 人々は一様に笑っている。時折ひとりで通り過ぎる老婆だって、車椅子の老紳士だって、険しく気難しい表情を身につけていたって、心は踊っているようだ。まるでハミングするように通り過ぎていく。私には彼らの姿がハッピーエンドのミュージカルのように映るのだった。
 元気を授かった。
 老人パワーはやはり偉大だ。すっかり晴れ上がった高岩寺横手の広場のベンチに座り、私はのんびりと行き交う人々を眺めている。幸福な舞台の明るい役者達。早くこのくだらないシーンを撮り終えて、この境地にたどり着きたいものだ。ベンチの横には共に戦って来た戦友のような相方がいればなおいい。私は顔を上げて陽光を見つめている。そのときまでまだまだ頑張らなくてはならないと、目を細めては自分にはっぱをかけている。
 
 
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水先案内人と私と寄り道の旅と。

 
 
 
 時折、学校の名前が入ったTシャツ姿の学生が走り過ぎる。歩けど歩けど山沿いの道が続き、右手には丹沢湖が耀いていた。
 陽光が降り注ぐ。風が心地いい。絶好の撮影日和だ。私は見るものすべてに心を奪われ、シャッターを切った。液晶モニターを確認する。その割には一様にくだらない絵ばかりが映し出されているが、気にしない。落ち込む閑もなくまた景色に心を奪われている。足取りも軽い。
 帰りのバスまでまだ時間はあったはずだ。だけどずいぶん歩いたようだ。戻れるだろうか。ふと不安を感じた。
 まだまだ撮りたい。この景色をもっと焼き付けたい。気を取り直して歩き始めるが、もうずいぶん歩いているのに、次のバス停はやってこない。やはり戻るしかないのだろう。そう思うと、これ以上進むことにまた疑問を感じ始めてくる。年を取って、トイレも近くなった。疲れやすい。もしバスの時間に間に合わなかったら。次のバスまで2時間近くある。山の中でひとりどうしようか。
 別に道に迷ったわけではない。なのに進むことに不安を感じている。しかし、進みたいと思っている。帰宅時間も気にしている。
 守りに入ったのか。昔はもっと無茶が出来たはずなのに、山道を歩くことから自分の現在の人生観まで考え始めた頃、軽快なエンジン音が響くのだった。
 見ると、帰りのバス会社のバスがやって来る。ああ、次のバス停まで撮影しながら歩きたかった。そうしてあのバスに乗れていたらちょうどいいタイミングだったのに、いつも私はタイミングが悪いのだ。せめて途中まで乗せていってくれたら。まだ帰らなくてもいいから、景色が良くて、トイレもあって、帰りの連絡のいいところまで。そんな風に調子よく考えてバスの運転手の顔を眺めていたら、目が合った。若い運転手は自分の運転席のあたりを指差して、頷くのだ。「これ、乗りますか?」そう言っているようだった。私は頷いて、スピードを落としたバスに走っていく。ああ、バスがタクシーのように止まるなんて!幸運をかみ締めるのに夢中で彼の声が聞こえない。
「○○行きですけどいいですか?」
 いつでも行き先はどうでもいいのだ。行きたいところに行けたためしはないけれど、必ず救いの手は伸べられてきた。それなりにやってきた。私は運転手の人の良い笑顔が、幸運の女神のように思えてくる。
「はい」
 よろこんで~!といった調子に元気良く頷いた。
 車内には5人ほどの乗客、次の停留場所は運よく行きたかった丹沢湖だ。そう表示されている。やはりラッキーだった。多分観光客の彼らと一緒に降りてやろう。私は財布から小銭を出し、次のバス停までの運賃を用意するのに忙しい。確かpasumoは残金が僅かだ。
 しかし、バスはバス停を通り過ぎるのだった。身を乗り出すまでもなく、当たり前のごとく美しい湖畔を通り過ぎていく。
 誰も下車のボタンを押していなかったのだ。彼らは観光客ではなかった。
 善意で乗せてもらった手前、またここで降ろせとは言えなかった。それこそタクシーではないだろう。
 旅行者は私ひとり。地元の住人と一緒にコトコトバスに揺られていく。帰りの駅とも、美しい湖畔とも、正反対の山の奥へ。
 
 
 
 なぜかふと、テリトリー以外のところへ行きたくなった。
 テリトリーとは私の場合東京を示す。最近は下町巡りを楽しんでいる。地下鉄に1時間少し揺られると、地上に出ればそこはもう私の街だ。私の愛する街だ。
 だけど、今週末は旅に出たくなった。遠くへ行きたい。遠さとは距離のことではなく、意識の差だ。心の距離のようなものだ。私は神奈川の丹沢方面に向う。なじみのない景色。山と川と緑。いつものように地下ではない。目的地に着くまでに、景色を見れるのは久々のことだった。私は映り行く景色を眺めている。バスの窓際に座り、遠足に出かけた子供のように見つめている。
 目的地は丹沢大山国定公園。西丹沢行きバスに乗って45分、玄倉停車場を降りてすぐ、のはずなのだが、降りると山にかこまれた景色の中に季節外れのキャンプ場があるだけだった。首を傾げる。停車場近くの地図を見るとどうやらこの辺の山(道)全体が公園のようなのだ。私は鎖で通行止めをされた道をくぐって、キャンプ場に降りていく。すぐ目の前は丹沢湖が広がっていた。絶景とは言えないが、なかなか悪くもない撮影スポットだった。
 バス停の真ん前、帰りは安心だし、万が一お腹が空いたら小さな商店もあるし、トイレもあった。山はなめられない。帰りのバスの時間を調べた。ここでやりすごそう。私は写真を撮り始めた。
 

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 ところが、しばらくすると退屈してしまったのだ。キャンプ場の景色は限られている。せっかくテリトリー以外のところに旅に来たのに、また小さな枠で収まっている。幸い夕刻にはまだ時間はある。バスを乗り過ごしても次のバスで帰ればいい。私は勇気を出して歩き始めた。よし、行こう。誰もいない山道が続いていた。
 先日、数名の人たちとの撮影会に参加してから、私は美しい写真というものに興味を持った。それまでは、色彩鮮やかな花の写真とか、美しい風景写真とかを見ると鼻白んだものだ。ありきたりすぎて魅力を感じない。どちらかというとモノクロのどぎつい写真が好きだ。社会派だったり、思想性を感じさせられたり、美しさだけではない何かを心に訴えかけられるような写真。だけどリアルな他人の影響力と言うのはけっこうすごいと思った。そういう写真を撮り続けて、過ごしてきた人生、時間の重み、そう言ったものをふと感じた。旅に出たのもそのせいかもしれない。いつもと違うものを撮ってみたくなった。
 そこで迷いが生じたのだ。私はカラーで撮るか、モノクロで撮るか悩んでしまった。景色を美しく撮りたいなら色彩で魅せるカラー写真の方がいいだろう。
 私は小さなキャンプ場でカラー写真を撮り続け、そうして、山中を歩き始めた頃モノクロにシフトする。せっかく人から授かった良い影響を、たとえそれが良いものであろうと迷いを生じさせるものを振り払って、山道を黙々と歩いていく。後ろ髪を引かれる思い。または甘いものをあきらめて断食をする坊さんみたいな気分だ。
 何枚か撮っているうちに、だけど楽しくなってきた。モノクロで美しい風景写真は多少無理があるかもしれない。今現在のこの風景の良さも、モノクロ写真の良さも、両方とも失ってしまっているような残念な気もした。だけど、楽しくなってきたのだ。
 私は次第に迷いを忘れ、モノクロの世界に引きずり込まれていく。
 
 
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 最後の乗客は前のバス停で降りてしまった。最後尾の後部座席に、交代要員なのか新人の教育係なのか制服を着た年配の運転手が座っている。
 私は停車ボタンを押した。この行き先でいいですかと訊かれて頷いた私だ。もともとこの停留所にこそ来たかったのだ、という体を装っている。
 降り立った場所は山の中だ。温泉が一軒ある。山肌。小さな渓谷にせせらぎのような小さな川。風情のある橋がひとつあるだけだ。山、民家。山、道。そんな中をふらふら歩く。降りたバスが終点で折り返して戻ってくるのは40分後だ。多分若い運転手は私を見て気がつくだろう。やはり行き先を間違えたのだと知るだろう。
 私はそれまでの間、この寄り道を楽しんでいる。これが私の道なのだと今では確信しているように。
 心にふと熱いものを感じた。柔らかいそれが、だけど強い、一本の芯のように感じられた。
 何があっても、もう大丈夫だ。あの運転手の女神は戻ってくる。時が来れば必ず。
 私はバスを待ちながらモノクロの写真を撮り続けている。ここで、楽しんでいる。
 大地をしっかりと踏みつけた。