山と人生について ~映画『劔岳 点の記』を観て思う~
6月 29, 2009 コメントを残す
山を登ることは人生に似ていると思う。
道を探して、苦しみに耐えて、ただ黙々と登り、そうして段々と高みに行き着き、はるか彼方を見渡せる、そんな美しい景色(視界)を手に入れる。
辿り着く山頂は死だ。
(やっと着いた山頂が死とは、その比喩はあんまりだ、と思われるかもしれないが、私は人の死を偉大なものだと思っていて、また、まともに往生できることの幸福さも多少は知っているつもりなのだ)
大抵、ある山を制覇したものは、またそれよりも高い山を目指すものだ。
なぜかはわからない、苦しみのあとに訪れる達成感が病みつきになったのか、人の手にはままならぬ自然というものを登頂によって征服したように感じられるのか、それともただ自動的に、登ることが当たり前の意志となるのか。とにかく一度山を登った人間は必ずまた登る。
なので、死んだ人間は、また違う山を目指し、登って、以前よりももっと高い場所から美しい景色を得て、そうしてまた死んでいく。
生きるということはその繰り返しで、最終的に行き着くのは、もう登らなくていい場所ではないか。つまり、もう登る山がないところだと。
そんなふうに思えてならないのであった。
映画、『劔岳 点の記』を観た。
昭和40年、日本地図完成のために前人未到の死の山、「劔岳」に挑む男達の物語だ。監督は日本を代表する名カメラマン木村大作氏だけあって、CGと空撮は一切なし、すべての撮影は足場の悪い岩の壁から行った。ロケ隊は重い機材を担いで、立山連峰を登って、そうして自然の天候をただ待って、2年の月日を費やして撮った。
通常映画の撮影は俳優のスケジュールや天候の都合上、シーンの順番に関係なく撮影し、あとで繋ぎあわせるそうだが、リアリティにこだわった木村氏はこれも拒否。すべてのシーンを最初から順番に撮ったため、まるでドキュメンタリー映画のような出来になったと言う。
「厳しさの中にしか美しさはない」
美しい風景は、じっと耐え抜いたものだけに神様が与えてくれるものだ、と言う監督の信念に基づいて、映画は進んでいく。
美しく、時に厳しい山のなかをただ歩いていく、それだけに拘った映画だといっても過言ではないと思う。
CGや空撮を見慣れた私たちには物足りなく感じることもあるだろう。それでもあの映像がすべて人間の手によって撮られたもので、本物の自然の姿なのだと思うと、やはり身震いを覚える。山が好きでない方でも、純粋に自然の美しさを堪能できることだろう。それだけでも観る価値はあるのだった。
ただ、個人的に残念に思えたのは、結末が安易だったことだ。
深いところに手を突っ込みながら綺麗なところで綺麗にまとめちゃったな、と言うのが正直な感想。(このあとはネタバレなので、これから観る方は読まないでください)
劇中、観る側にとって興味深い、深い部分に行き着きそうなセリフ(問いかけ)はふたつあった。ひとつめは、
「なぜ地図を作るのか」
これは、主人公の陸軍陸地測量手、柴崎芳太郎(浅野忠信)が発したもので、彼からすれば、ただ陸軍の沽券(こけん)を守るためにこの劔岳制覇と言う使命を与えられたようなものだった。また、無事劔岳に四角点を立てたとして、地図を作ったとしても、確かにそれは正確な立山連峰の地図となるのだろうが、しかしこんな誰も登れたためしのない山の地図を作っていったいどうするのだ?
それともうひとつは、陸軍と競って、劔岳制覇を目ろんでいる日本山岳会の小島烏水(仲村トオル)に向けられたもので、(これも柴崎からの問いだ)
「あなたはなぜ山を登るのですか?」
山岳会の小島は柴崎のように与えられた使命は何もない。ただ自分の「挑戦する」ということの美学に基づいて登っているだけだった。柴崎から見たらそれは遊びにしか見えない。自己満足のように映ってしまうのだった。
この答えをどう出したか?
最初の問は、柴崎の前に劔岳山頂を試みて失敗し、今は現役を退いている元陸軍参謀本部陸地測量部測量手の古田(役所広司)が答えを示唆する。
「住んでいる土地を知ることは自分を知ることだ。(略)私たちは国とか軍とか、そういう公的なもののために地図を作っているのではなくて、そこで生活を営んでいる人々のために地図を作るのだ」(正確なセリフではなく大意)
つまり与えられた使命は地域の人々のためなのだ、というもの。
次の問は、ラストシーンで答えを知ることが出来る。柴崎たちが劔岳から離れた山で劔岳山頂を視準をしていると、ふいにその望遠鏡の中の山頂に小島たちが現れるのだ。(この出来すぎた偶然にも驚いたが、そのあと小島が手旗信号で長々と、柴崎たちの栄誉を称えるというところも驚いたものだ)
柴崎たちは自分たちの後を追って劔岳登頂を遂げた小島たちに対してこう言う。(やはり手旗信号で)
「おめでとうございます。君たちは僕たちの仲間だ」
この僕たちの仲間と言うせりふの「僕たちの」と「仲間だ」との間に、偉大なる、とか、かけがえのない、とか何かもうひとつ言葉が入っていたのだが、残念ながらその一番大事なところを覚えていない。とにかく、そこが一番の、この映画で言いたいことだったことは確かだ。作り手はこのひと言のためにこの映画を作ったのではないか。そう思えるくらいだった。もちろんその前の、軍にも誰にも評価されないがあなたたちは偉大な功績を残した、敬意を払う、と小島が柴崎たちに手旗信号で伝えるところ、そこも大事なのだが、その続きとして、このセリフが来ること、その流れを考えるとやはりここでぐっと来る(来て欲しい)はずなのだった。
つまり、山を開いた(道を作った)先人たちに対して、道を追って来たものが敬意を払ったこと。そのお返しとして、彼らが仲間と認められたこと。
小島はこの手旗信号のセリフを聞いてはっとした表情をし、思わず目を濡らすのだった。
これが彼が山に登ったすべての意味だ。使命でも、挑戦でも、遊びでもなくて、この瞬間を得るために彼は山を登っていたのだろう。
これらの問と答えは納得が行くものの、地域に根付いたものが劔岳の地図を利用するのかはやはり疑問だし、またこの大自然との戦いの記録が、「仲間」と言うひと言でハッピーエンドになってしまうのも解せない。誰に認められなくても、何をしたかではなく、何を目的にしたかであって、そうして、正しい目的ならば、仲間があなたを褒め称えてくれる。
そう公言しているような物であって、それは正しいのだろうけど、やはりあれだけリアルに自然を描いておきながらそれが最後の最後の、ラストシーンの主張としてはちょっと弱い気がしてならない。いつか香取慎吾が西遊記で何度も口走っていた「まなか、まなか」と言うあのノリ、あのわかりやすい感動を思い出してしまう。また、エンディングに「仲間たち」と言うエンドロールが出てくるところもそうだ。監督とか、製作とか、出演、協力とか、そう言った表示(と言うかくくり)は一切なく、すべての剱岳の映画に関わった人たちの名前が一緒に並んで出てくる、と言うあたりもその思いを助長させるのだった。まるで、僕たちは仲間だ!偉大な仲間とすべてでこの映画を創ったんだよ!そう観るものに訴えかけてくるように。
おかげで私はがっかりして映画館を出た。「まなか、まなか」の連発がくどいかったのかもしれない。
あれだけの根気で創りあげられた、素晴らしく美しい自然の映像を観たと言うのに、おかげでどこかうそ臭く、鼻白んだ思いが残ってしまった。
残念だな、劔岳・・・
そう思って家に帰り、一息ついて、考えてみる。
でももしも・・
あの「まなか、まなか」は作り手のテレであって、もしもあの山頂を、登頂を、やはり私のように人生と捉えていたならどうだろう?
そうだ。先に行くものは、いや神と言い換えてもいいかもしれない。それは人々のためにあり、そうして後を追うものは、彼から仲間と認められるために行くのだ。
もしもそれが真実ならば。
私はもらって帰った劔岳のチラシを観て苦笑いをした。美しくも厳しい劔岳の姿がそこにあった。
あなたは何を感じるだろう?
いろいろな意味を持って観てみるのも面白くはあるのだった。