山と人生について ~映画『劔岳 点の記』を観て思う~

 
 
 
 山を登ることは人生に似ていると思う。
 道を探して、苦しみに耐えて、ただ黙々と登り、そうして段々と高みに行き着き、はるか彼方を見渡せる、そんな美しい景色(視界)を手に入れる。
 辿り着く山頂は死だ。
 (やっと着いた山頂が死とは、その比喩はあんまりだ、と思われるかもしれないが、私は人の死を偉大なものだと思っていて、また、まともに往生できることの幸福さも多少は知っているつもりなのだ)
 大抵、ある山を制覇したものは、またそれよりも高い山を目指すものだ。
 なぜかはわからない、苦しみのあとに訪れる達成感が病みつきになったのか、人の手にはままならぬ自然というものを登頂によって征服したように感じられるのか、それともただ自動的に、登ることが当たり前の意志となるのか。とにかく一度山を登った人間は必ずまた登る。
 なので、死んだ人間は、また違う山を目指し、登って、以前よりももっと高い場所から美しい景色を得て、そうしてまた死んでいく。
 生きるということはその繰り返しで、最終的に行き着くのは、もう登らなくていい場所ではないか。つまり、もう登る山がないところだと。
 そんなふうに思えてならないのであった。
 
 
 映画、『劔岳 点の記』を観た。
 昭和40年、日本地図完成のために前人未到の死の山、「劔岳」に挑む男達の物語だ。監督は日本を代表する名カメラマン木村大作氏だけあって、CGと空撮は一切なし、すべての撮影は足場の悪い岩の壁から行った。ロケ隊は重い機材を担いで、立山連峰を登って、そうして自然の天候をただ待って、2年の月日を費やして撮った。
 通常映画の撮影は俳優のスケジュールや天候の都合上、シーンの順番に関係なく撮影し、あとで繋ぎあわせるそうだが、リアリティにこだわった木村氏はこれも拒否。すべてのシーンを最初から順番に撮ったため、まるでドキュメンタリー映画のような出来になったと言う。
 「厳しさの中にしか美しさはない」
 美しい風景は、じっと耐え抜いたものだけに神様が与えてくれるものだ、と言う監督の信念に基づいて、映画は進んでいく。
 美しく、時に厳しい山のなかをただ歩いていく、それだけに拘った映画だといっても過言ではないと思う。
 CGや空撮を見慣れた私たちには物足りなく感じることもあるだろう。それでもあの映像がすべて人間の手によって撮られたもので、本物の自然の姿なのだと思うと、やはり身震いを覚える。山が好きでない方でも、純粋に自然の美しさを堪能できることだろう。それだけでも観る価値はあるのだった。
 ただ、個人的に残念に思えたのは、結末が安易だったことだ。
 深いところに手を突っ込みながら綺麗なところで綺麗にまとめちゃったな、と言うのが正直な感想。(このあとはネタバレなので、これから観る方は読まないでください)
 劇中、観る側にとって興味深い、深い部分に行き着きそうなセリフ(問いかけ)はふたつあった。ひとつめは、
「なぜ地図を作るのか」
 これは、主人公の陸軍陸地測量手、柴崎芳太郎(浅野忠信)が発したもので、彼からすれば、ただ陸軍の沽券(こけん)を守るためにこの劔岳制覇と言う使命を与えられたようなものだった。また、無事劔岳に四角点を立てたとして、地図を作ったとしても、確かにそれは正確な立山連峰の地図となるのだろうが、しかしこんな誰も登れたためしのない山の地図を作っていったいどうするのだ?
 それともうひとつは、陸軍と競って、劔岳制覇を目ろんでいる日本山岳会の小島烏水(仲村トオル)に向けられたもので、(これも柴崎からの問いだ)
「あなたはなぜ山を登るのですか?」
 山岳会の小島は柴崎のように与えられた使命は何もない。ただ自分の「挑戦する」ということの美学に基づいて登っているだけだった。柴崎から見たらそれは遊びにしか見えない。自己満足のように映ってしまうのだった。
 この答えをどう出したか?
 最初の問は、柴崎の前に劔岳山頂を試みて失敗し、今は現役を退いている元陸軍参謀本部陸地測量部測量手の古田(役所広司)が答えを示唆する。
「住んでいる土地を知ることは自分を知ることだ。(略)私たちは国とか軍とか、そういう公的なもののために地図を作っているのではなくて、そこで生活を営んでいる人々のために地図を作るのだ」(正確なセリフではなく大意)
 つまり与えられた使命は地域の人々のためなのだ、というもの。
 次の問は、ラストシーンで答えを知ることが出来る。柴崎たちが劔岳から離れた山で劔岳山頂を視準をしていると、ふいにその望遠鏡の中の山頂に小島たちが現れるのだ。(この出来すぎた偶然にも驚いたが、そのあと小島が手旗信号で長々と、柴崎たちの栄誉を称えるというところも驚いたものだ)
 柴崎たちは自分たちの後を追って劔岳登頂を遂げた小島たちに対してこう言う。(やはり手旗信号で)
「おめでとうございます。君たちは僕たちの仲間だ」
 この僕たちの仲間と言うせりふの「僕たちの」と「仲間だ」との間に、偉大なる、とか、かけがえのない、とか何かもうひとつ言葉が入っていたのだが、残念ながらその一番大事なところを覚えていない。とにかく、そこが一番の、この映画で言いたいことだったことは確かだ。作り手はこのひと言のためにこの映画を作ったのではないか。そう思えるくらいだった。もちろんその前の、軍にも誰にも評価されないがあなたたちは偉大な功績を残した、敬意を払う、と小島が柴崎たちに手旗信号で伝えるところ、そこも大事なのだが、その続きとして、このセリフが来ること、その流れを考えるとやはりここでぐっと来る(来て欲しい)はずなのだった。
 つまり、山を開いた(道を作った)先人たちに対して、道を追って来たものが敬意を払ったこと。そのお返しとして、彼らが仲間と認められたこと。
 小島はこの手旗信号のセリフを聞いてはっとした表情をし、思わず目を濡らすのだった。
 これが彼が山に登ったすべての意味だ。使命でも、挑戦でも、遊びでもなくて、この瞬間を得るために彼は山を登っていたのだろう。
 これらの問と答えは納得が行くものの、地域に根付いたものが劔岳の地図を利用するのかはやはり疑問だし、またこの大自然との戦いの記録が、「仲間」と言うひと言でハッピーエンドになってしまうのも解せない。誰に認められなくても、何をしたかではなく、何を目的にしたかであって、そうして、正しい目的ならば、仲間があなたを褒め称えてくれる。
 そう公言しているような物であって、それは正しいのだろうけど、やはりあれだけリアルに自然を描いておきながらそれが最後の最後の、ラストシーンの主張としてはちょっと弱い気がしてならない。いつか香取慎吾が西遊記で何度も口走っていた「まなか、まなか」と言うあのノリ、あのわかりやすい感動を思い出してしまう。また、エンディングに「仲間たち」と言うエンドロールが出てくるところもそうだ。監督とか、製作とか、出演、協力とか、そう言った表示(と言うかくくり)は一切なく、すべての剱岳の映画に関わった人たちの名前が一緒に並んで出てくる、と言うあたりもその思いを助長させるのだった。まるで、僕たちは仲間だ!偉大な仲間とすべてでこの映画を創ったんだよ!そう観るものに訴えかけてくるように。
 おかげで私はがっかりして映画館を出た。「まなか、まなか」の連発がくどいかったのかもしれない。
 あれだけの根気で創りあげられた、素晴らしく美しい自然の映像を観たと言うのに、おかげでどこかうそ臭く、鼻白んだ思いが残ってしまった。
 
 残念だな、劔岳・・・
 
 そう思って家に帰り、一息ついて、考えてみる。
 でももしも・・
 あの「まなか、まなか」は作り手のテレであって、もしもあの山頂を、登頂を、やはり私のように人生と捉えていたならどうだろう?
 そうだ。先に行くものは、いや神と言い換えてもいいかもしれない。それは人々のためにあり、そうして後を追うものは、彼から仲間と認められるために行くのだ。
 もしもそれが真実ならば。
 私はもらって帰った劔岳のチラシを観て苦笑いをした。美しくも厳しい劔岳の姿がそこにあった。
 あなたは何を感じるだろう?
 いろいろな意味を持って観てみるのも面白くはあるのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

低血圧の私、朝もやの森をめあてに早起きをして朝陽を浴びる。

 
 
 
 最近撮りたいものが三つある。
 まず、森林。次に、渓流。それから朝もや。
 この三つが揃えばそれに越したことはないが、私が住んでいる場所柄、朝もやの出るころ山深い森の渓流の前に佇んでいる、というのはなかなか難しいシチュエーションだ。
 そこで、昼間の森に通う。渓流はまだ実現出来ていない。(連休あたりに、と目ろんではいる)
 最後の朝もやは今朝試みた。朝の3時半に目覚ましをかけて、近場の森林公園に出かけたのである。
 
 
 

 
 
 本当は薄暗いうちに到着しているはずだった。ところがあれこれ準備をし、まったりと食事をしているうちにあっという間に空は明るくなってしまった。日の出は4時28分。食べている場合じゃなかった。急いでカメラを抱えて家を飛び出した。
 
 時間的にまだ太陽は昇っていないはずだ。だけど白んだ空の中、自転車を漕いでいく。かごの中にはレンズの入ったリュックとそれから三脚。胸から携帯とカメラをぶら下げて、口笛代わりにハミングする。道は誰も歩いていない。鳥のかしましい鳴き声だけが響いていて、まるで一緒に歌っているかのようだった。
 
 
 
 森林公園に到着すると、もう日が明けたころ、何となくあたりの景色はぼんやりしてはいるが、「もや」と言うほどではないようだ。私はリュックと三脚を担いで森の中へと歩きはじめるが、さて、どちらに行ったらいいものか見当もつかないのだった。まず昇った朝日がまだ見えないので、東がどちらかわからない。どこで構えていればこれから始まるかもしれない朝焼けが見られるか、とりあえず景色のいい方向へ向って、ベストポジションを探している。いつも来ている公園なのだが、まったく勉強不足だった。朝の景色を撮りたいならばそれ相応の下調べが必要だったはずなのに、我ながらのんきな性格だと苦笑いをする。言い訳をすれば、朝焼けのベストポジションには興味がなくて、朝もやが撮れれば良かったわけで、それがないから朝焼けに変更しようか、と言うところなので、仕方ないと言えば仕方ない。そのくせ私は、まだ朝もやをあきらめきれず、もしかしたら朝もやと言うものは日が昇ったあとに出るものかもしれない、などと甘い期待をして、森の中をうろつきながら三脚の準備をしているのだ。今にも風がさぁっと吹いて、私とこの目の前の木々の周りをもやが立ち込め始めるのではないか。それ。それ。と、薄暗い森の写真を数枚重ねて撮っているうちに、もやではなくて、あっけなく、朝焼けが始まった。
 
 
 
早朝の森林公園。朝もやとまでは行かないが、日が高く昇る前だけあって視界がはっきりしなくてどこか幻想的な雰囲気。
朝焼けが見始まったので、東に掛けていく私。
 もうずいぶん昇ったところ。光のシャワーが森に射し込んでくる。
 
 
 
 それは突然で、森の道のはるか先からオレンジの光が現れた。ちょうど朝のウォーキング中の中高年の夫婦連れが歩いていて、影になった彼ら、その真後ろが眩く耀いている。「未知との遭遇」を連想する。または「ET」か。そんなふうに波動のような光はどこかSFチックなのだった。私は三脚を担いで掛けていく。もうもやどころではなくなっている。あの眩い光を見てしまったらもう出ないことは確定のように思えた。万が一、可能性がまだあるのだとしても、来るか来ないかわからないものよりも、今来ているものに飛びついていく、優先順位の法則的に朝陽に向っていくのだ。
 朝って綺麗だなぁ、と感嘆したのは、この朝陽に照らされて葉の朝露の粒がきらきらと耀くくだりだった。もちろん朝陽に照らされた木々も葉も森の景色も美しいが、あの小さな光の粒にはかなわない。もう一度見たいなぁ、と明日も明後日もずっと早起きして森に通おうかと夢想するほどである。
 
 
 
朝陽に照らされて葉っぱも染まっています。
葉の後ろの小さな玉ボケは朝露のついた草が輝いているところ。
朝露の輝き。小さなキラキラが可愛らしくて葉の影からもっと小さな妖精さんが出てきそう~なんて思ってしまいました。
 
 
 
 残念ながら念願の朝もやは見ることが出来なかったが、めずらしく気持のいい朝を迎えることが出来た。
 私は低血圧なので、朝が弱い。必要以上に早く起きたためしがない。それでも日々の通勤で日の出前に家を出ることは多いし、またその頃起き出して写真を撮りに行くことも時にはある。しかし、たいていはそのまま電車に飛び乗って会社や目的地へと向ってしまうので、朝を満喫する時間も堪能する心の余裕もないのだった。
 朝は空気が澄んでいるようだ。ひんやりして気持がいい。森林公園をすれ違う人々が「おはようございます」とみな挨拶を交わすのもいい。明るく、爽やかな気分になる。
 いつか朝もやが見れるだろうか。それまで、もう少し続けてみようか。そう心の声が訴えかけてくるようだった。
  
  
 
 
 
 

山で人に道をきいてはいけない。 ~鎌倉アルプス縦走記~

 
 
 
 
 北鎌倉駅を南下すると鎌倉駅に着く。鎌倉アルプスはそのふたつの駅の間を、東に進んで西へと戻ってくる尾根伝いの道である。
 
 

 
 「鎌倉アルプス」と言うものがあるらしい。
 一番高い大平山の山頂で標高159m、すべてを巡っても3時間弱の山道だ。私は吹き出した。アルプスとは大げさではないか。
 軽い気持ちで北鎌倉の駅に降り立つ。季節柄か、紫陽花寺で有名な明日院へ向う人々で小さな駅はごった返し、横須賀線沿いの細い道を行列を作るように歩いている。鎌倉へと向う県道21号線に合流すると人の波が穏やかになった。コースの始点となる建長寺に順調に辿り着く。
 お参りをしてから本堂の左手から道しるべに従って進んでいく。石段を登るとカラス天狗像が立ち並ぶ半僧坊、またお参りをして進む。この辺りからやっと山道らしくなってきた。すぐに勝上嶽展望台に到着する。ここが分岐点なのだ。私はこの大事なところで、道しるべを見逃してしまった。段差があって、下にあった道しるべに気がつかず、崖上のふたつの道しるべだけをみて、適う方向へ進んでしまったのだった。
 ハイカー達が私を追い越し、アップダウンの多い山道を進んでいく。大きめのリュックに登山靴に杖、みな本格的な登山の装備をしているようだ。私は「アルプス」と言う表現を鼻で笑ったことを反省しはじめた。なるほど、けっこうな尾根道なのだった。
 
 
スタートの建長寺。この本堂の左横からハイキングコースへ。
カラス天狗の像が並ぶ半僧坊。見晴台より。
勝上嶽展望台。この展望台のすこし下に天園ハイキングコースの道が続く。道沿いに登ってしまうと別の分岐点とぶつかります。
 
 
 ハイカーのあとについてしばらく行くとまた山の道しるべが現れた。私が目標としていた天園が今来た方向を示している。もうひとつの道しるべは北鎌倉の明日院、それと道しるべのない道がもうひとつ。私は首をひねった。最初の分岐点で間違いを犯したことに気付いていない。道はここしかなかったはずだと思っている。地図を眺めて、しばらく躊躇していると、道しるべのない細い山道からハイキングを楽しんでいると言った風情の家族連れがあらわれた。Tシャツにパンツにスニーカー、ハイカー達と比べると軽装である。荷物(リュック)も背負っていない。この近くに住む親子連れが、休日に近くの山にふらりと遊びに来たのだと判断した。
「すみません、大平山ってこっちですかね」
 私は父親に向って親子がやってきた細い山道を示した。
「大平山と天園に行きたいのですが、道しるべが逆を向いているので違いますかね~」
 当然違うのだが謙虚に尋ねるのである。父親は私が持っている地図をみて、ああ~とかうん~とかそうですね~とか意味不明の言葉を漏らしている。
「わかんないですけど、こっちに行くと町に出ちゃいますよ」自分が来た方を示す。
「どこかで間違えたんじゃないですか?」
「そうですね。では戻ってみます」矢印のない道は目的地ではなく、市街地へと向っている、そのことを確認できただけで私は満足をした。たぶん分岐点で間違えたのだろうと考えながら親子に礼を言ってもと来た道を歩いていく。親子もそちらへ向うようだ。彼らの後を追いかけるような格好となった。
 どうも気まずい。道のわからぬ私があとをくっ付いているような体である。父親は「わ~見てごらんほらこの木」とか、母親は「あら~ほたるぶくろよ!」とか、子供は「すごいすごい、山道だ~」と大はしゃぎで、せっかくの楽しい親子団欒の時間を邪魔しているような気分にもなる。私は時折木々を撮って、時間を空けるのだが、子供の足が遅いのでまたすぐに追いつくのだ。いっそ抜かしてしまおうか、と考え始めた時に父親が後ろを振り向いて叫んだ。
「こっちに道がありますよ!ここは行きましたか?」
「いえ!」私も叫ぶ。
「山の上に登っていく道のようですよ~!地図を見て確認してください!」
「ありがとうございます~!」
 今分岐点へと戻っている山道と平行して、それよりも細い山道が確かにあった。私は地図を出すまでもなく、この道は違うと知っている。こんな細い山道に迷い込んだらひとたまりもなく、いくらすこし本格的なアルプスだったとしても、ハイキングコースの山道のしかも獣道のような細い道へと進む分岐点に道しるべもまったくつけないと言うのはありえなかった。しかし、もっと山やハイキングコースに無知な方だったら、あの父親の立派な押し出しを信用してうっかりこの獣道へ入ってしまうかもしれない。ずいぶんと危ないアドバイスをするものだ。私は内心驚いていた。父親が自分が教えるべき道を知らなかったこと、またはその相手と一緒に歩いていることにやはり気まずさを感じていることだけは理解できた。いっそのこと親子とはぐれる間だけ、この獣道で時間を潰そうかとも考えてしまったほどだった。
 ところで、親子はどこへと向っているのだろう。このハイキングコースで、大平山や天園以外の見どころがあるのだろうか。さっきの本格的なハイカーが消えて行ったのは大平山や天園方向ではなかったからたぶん他にも何かあるのだろうがわからない。親子が私に教えた獣道を進まなかったことだけは確かだ。
 
 
天園ハイキングコースを行く人々。
鷲峰山を過ぎたあたりの岩。標高がない割にはけっこう急な、岩が隆起するハイキングコースです。

 

 

 勝上嶽展望台の分岐点まで戻ると、案内板の傍に人々が集まって道を探していた。例の親子も見ているようだ。私と父親は暗黙の了解のように目を合わせないで通り過ぎる。来た道の反対方向から外国人の観光客が数名でやってきた。父親が果敢に声を掛ける。
「すみません、あなたが来た道は鎌倉駅方向ですか?」(英語)
「×××。あなたは日本人ですか?」(英語)
 外国人の返事は聞き取れない。父親の、イエ~ス、イエ~ス!と言うかん高い声を後ろで聞きながら私は別の道しるべがないか調べるために崖下を下りて辺りを見回している。勝上嶽展望台をすこし戻るような細い道を見つけた。小さく「瑞泉寺」とコースの終点の寺の名前が書いてあった。ずいぶんわかりにくい道だなぁ。小さな小さなハイキングコースだと思っていたが、装備のしっかりしたハイカーがいるだけあるのだ。細い道は岩を下らないと辿り着けず、うっかり足を滑らすと道から逸れて崖下に転がり落ちそうだ。わかりにくい上にやけに危ないではないか。私はあの親子のことをまた思った。鎌倉方向へ行きたいのなら、もしかして私と目的地は一緒なのか。
 私は父親が獣道を私に勧めたことを思い返して、たぶん大平山とか天園とか言う単語(私が彼に訊いた目的地の名前)を知らなかったのだろうと自分を慰める。彼らはただ自然に触れにやってきて、鎌倉駅まで散策をしながら景色の良い場所を目指しているだけなのだ。
 私はこの頃になるといつものように三脚を担いで歩いている。撮りたい木々や景色に出くわすと三脚の足を広げて、撮る。それからまた担いで山道を行く。山道は木々の葉で空を覆われ鬱蒼としているので、天気が良くてもやはり三脚が必要だった。この三脚を重い、と思うこともなくなった。軽々と担いで、岩を駆ける。大平山のハイキングコースはかつて海面下にあった凝灰岩質の岩が隆起している。岩が風化して滑りやすい上に、岩についた苔や岩の上に敷き詰められた落葉樹の葉がいっそう道を滑りやすくしている。狭い岩肌の道のすぐ横は崖下。標高こそはないが、やはりずいぶんな山道なのだった。親子のはしゃぎ声がまた聞こえてきた。岩の上で小さな磨崖仏(十王岩と言うそうだ)を撮っている私のすぐ横下を通り過ぎながら父親が無邪気に言うのだった。
「あれ~ ここさっき来たところじゃないかな」
「え、そうだっけ? また来ちゃったの?」若い妻が答える。
「何かそうじゃないかな、見覚えあるなぁ。ぐるぐる周っちゃったかな」
 私の姿が視界に入ったのだろう。彼らと出会った場所と今の道がぐるぐる周るほど繋がっている、とは今は思えないだけに、父親の声が痛々しく聞こえてしまう。わざわざ外人に声を掛けたのも納得出来てくるのだった。今度こそは彼らに道を訊かないようにしっかり歩かなくては。あと抜かさないようにしようと思うものの、やはり子供の足が遅いのだ。これだけ写真を撮っているのに、やっぱり追いついてしまうのだった。
「ここいらでご飯にしようか!」ついに父親が言った。
「ここで? まだ先があるんでしょ?」と奥さん。
「いや、子供達だってお腹が空いているだろうし」
「え~~!こんな所で食べたらおにぎりが転がっちゃうよ!!」と子供。
 私は聞こえないふりをしてどんどん進んでいく。コースは数名のハイカーやカップルが歩いていて、この流れに着いて行きたかった。親子だってそうなはずなのに。
「カメラマンさーん!!」と父親がまた叫ぶ。
 自分のことだろうか。戸惑った後振り向いた。父親がにこにこと笑いながら(その笑顔がまた痛々しいのだった)尋ねるのだ。
「峠の茶屋ってどこですかねぇ~!!」
 「峠の茶屋」は私が言うところの「天園」である。やはり目的地は一緒だった。私は彼らに向って叫んだ。
「もうちょっと先です!」
 親子はまたはしゃぐ。良かった、じゃあ頑張って歩こう。もうちょっとだ、と言った感じである。本当はあとまだ1.5キロほどあるがまぁすぐと言えばすぐだろう。
 ずいぶん騒がしい親子なのだ。5歳~10歳前後の子供がふたり。父親と母親とその母親。5人で常に喋っている。特に声が大きいのは父親と子供達。彼らは自然の中で面白いものを見つけたり、岩肌の難しいコースに出くわすと、ギャーギャー何かしら叫んでいるのだ。細かい会話は聞こえないが、その楽しそうな様子は伝わってくる。私は写真を撮ってハイカー達と歩き、山を降りてくるハイカー達とすれ違っては挨拶し、時折また写真を撮り、前を見て一人にはならないようにしながら。また時折後ろを見ながら。親子の声が聞こえなくなると立ち止まってまた写真を撮るのだ。それと言うのもつい先ほど、急な岩肌を行く時に、くねる山道で私の姿が見えなくなる瞬間子供達がわめいたのだ。
「すみませ~ん!すみませ~ん!すみませ~ん!」
「いいからいいから、やめなさい!」父親にたしなめられていた。
 振り向くと私に向って手を振っているようにも見える。たぶん、峠の茶屋はあとどれくらいかとか、そういうことを訊きたかったのかもしれない。子供にはきつい山道だった。そろそろお腹も空いたのだろう。私は彼らが山頂まで辿り着けるか気になっていた。
 アップダウンを繰り返して、息を切らし。鎌倉アルプスやるじゃないか、と楽しくなってきた頃、鬱蒼とした木々のカーテンがめくれるように視界が開けた。大平山の山頂だ。風が吹いた。ハイカー達や散策に訪れたカップルにおじいさんとお孫さん、老年の夫婦連れ、山道で出くわしたすべての人たちが岩の上に開けた山頂の、その岩肌や若草の上に座っていた。彼らはお弁当を広げたり、語り合ったり、ただ風を受けて体を休めていたり。梅雨の晴れ間の青空が、太陽が、彼らを眩く照らしているのだ。
 三脚を立てて、その山頂の様子を撮っていると程なくあの親子がやってきた。
「わ~~~!!着いた!」
「わ~!!すごい!達成感!やったね、気持ちいいね~~!!」
 意外にも一番大声を出しているのはずっと大人しかった奥さんだった。子供達もはしゃいでいる。
「きれい~!!」
 父親の彼が言うのだ。
「ホントだ~。いい眺めだね。さっきのところでご飯食べなくて良かったね~!!」
 
 
 
大平山の山頂。
 
 
 私は思わず笑ってしまった。
 何だかすべてが愉快だった。
 山頂で写真を撮り、おにぎりを食べて、この妙な連帯感を持ってしまった親子ともついに別れの時が来た。この先はもう二度と出くわすこともないだろう。彼らはもっと長い間休憩を取るだろうし、鎌倉駅行きの道は途中瑞泉寺経由の鎌倉宮(駅)行きの道と別れるのだった。だから多分この頂の景色と風をもって、彼らとの不思議な縁も切れるだろう、そんな予感を抱きながら私は峠の茶屋に向って歩き始めた。
 のんびり座って楽しそうにおにぎりをほおばっている彼らの横を目が合わないように通り過ぎて、心の中で父親に声をかけるのだった。
 おとうさん、「峠の茶屋」はもう少し先だよ~
 目的地はやはりどこでもいいのだ。景色がいいところに向って気持ちが良い場所に向って歩いていく。人間と言うのは面白いなぁ。私はつくづく感心している。その利己心とか、虚栄心とか、滑稽さとか、無邪気な悪意とか、それから気遣いに、その優しさとか。いろんな面を抱えて、すべてをひっくるめて人間で、面白いなぁ。
 木々を見に出かけたのに、まるで人を見に行ったようだった。
 愛しい木々のかたわらには、こんなふうにいつも人々がいればいい。おにぎりをほおばりながら、風を受けていればいい。いつまでも。
 そう思えてくるのだった。
 
 
峠の茶屋(天園)。

天園の崖の上から。ここが天園ハイキングコースのハイライトらしい。
尾根の木々。背の高いクスノキの成木が多かった。

 

 

 

ガーッ、ペッ!おじさんはマムシか蚊トンボにでも生まれ変わってしまえ。

 
 
 
 私は道ばたに唾を吐く男の人が大嫌いである。
 ガーッ、ペッ!
 あの奇声を耳にすると、悪寒が走るほどである。
 なぜ、ティッシュか、ないならハンカチか、それもないなら自分の手のひらに吐き出さないのか。公共の道に白い唾の泡、もしくは黄色い痰を吐き出して、その上をもし次に歩いてきた私が踏んづけたらどうしてくれると言うのか。想像するとぞっとする。自分の一瞬の不快感を取り除くためなら他は何も考えない、身勝手極まりない人間に思えてくるのだった。
 ところがある日、最愛の彼氏と楽しく町をデートしていたとき、彼が、ガーッ!ペッ!とのたまったのである。
 私はぎょっとして横をみた。彼は道端に自分の一部を吐き捨てて、涼しい顔をしている。
 父親も同じだった。幼い頃から父と出かけるときは車が多かったので、気が付かなかったのだが、これもぎょっとしたものだ。年老いた昨今、父と歩く機会が増えて、彼のガーッ、ペッ!を目の当たりにしてしまったと言うわけである。
 もちろん彼氏も父親も、彼らのそれだけではない違う側面(尊敬できる一面、私は自分を棚に上げて自分よりも精神レベルの高い人格者的な男が好きである)を知っているので、「道に唾を吐いた=幻滅=即嫌いになる」と言った簡単な図式にはならなかった。だけどずいぶんがっかりさせられたものだ。
 この事実と、それから長年「ガーッ、ペッ!」おじさんを見続けた経験から判断すると、男の人はある年齢に達すると、誰でも喉に痰が絡まりやすく、それは生理的な現象で、もちろんそんな彼らがテッシュやハンカチを几帳面に持ち歩くわけもなく、またそうした男特有の生態に反したやからではない限り、だれしも必ず道ばたに唾を吐く生き物だと言うことである。
 人間社会で人格者だとか思慮深いとかそう思われていても、お金持ちであっても、それは関係なく、頭の良さにも関係なく、彼らはガーッ、ペッ!を発するのだ。
 問題は、すでに、発するか発しないかではなく、どのように発するか、にかかっている。
 どれだけ上品にスマートに、ガーッ、ペッ!が出きるか、なのだ。ここで、私が見た最悪の、ガーッ、ペッ!を紹介したいと思う。
 
 
 
 
 画像・江ノ島の海(文章とは無関係です)
 
 
 ある日のことだった。夕刻、会社帰りに私は駅の構内付近にいた。最近ホームや構内は禁煙なので、改札の横の、構内から外れた、一般歩道の脇で、一服をしていたのだった。
 その場所はこれから電車に乗る人たちの暗黙の喫煙所と化していて、常に4~5人の人々がぽつぽつと立ってはもくもくと煙草をふかしている。いつものように私の3メートルほど先にもおじさんが立って一服をしていた。
 すると、おじさんがすたすたとこちらに向って歩いてきた。私が立つすぐ後ろはマンション、道との間に3メートルほどの生け垣があった。カナメモチ(赤くないようだったからもしかしたらマサキとかウバメガシかもしれない)が茂っている。
 一日の疲れを癒すべく放心して煙草を吸っていた私はおじさんのダッシュに気が付かない。視界にぼんやり入っていたかいないかといった感じだ。するとおじさんは私が聞いたこともないほどの大きな奇声を発して、私のすぐ耳元でやったのである。
「ガーッ!ペッ!」
 例のあれだ。私は体をびくんとさせて、000000コンマ1秒ほどの最速速度、かつ全反射神経を疾駆して瞬間のおじさんを見た。
 おじさんの白い痰唾が弧も描かず、真っ直ぐに発射されていた。それは生け垣に向かって飛んでいって、カナメモチをざわつかして消えていった。
 私は一瞬にして頭に血が昇った。ハンマーを掴んで、涼しい顔をして何事もなかったように去っていくおじさんの、その後姿の脳天に振り下ろしてやりたかった。
 道ばたに吐くならまだいい、風が吹き、砂が舞い、人々や車が通り、雨が降って、いつかは風化して消えても行こう。しかし、木々に直接吐くとは何事か。
 樹木や生け垣などの木々がどれだけ私たちを助けてくれているのか、彼は知らないのだろうか。
 目にも優しい緑、心を癒してくれたり、ヒーリング効果もあるが、それ以前に、地球温暖化の危機が迫る現在、彼ら木々がどれだけ私たちが排出したCO2を吸収してくれているかわかっているのだろうか。
 いやいや、そんな正論以前に、それ以前に、木がかわいそうだった。じじいの痰唾を吐きかけられるなんて、いったい彼が何をしたと言うのだろう。
 道ばたに吐くのは、道ばたがコンクリートだったりするので、あまりかわいそうとか酷いとかは思わないのだ。しかし一応木々は生き物ではないか。何でそこに唾を吐きかけるのかなぁ~ その神経がサッパリまったく理解できない。頭がおかしいんじゃないかとさえ疑ってしまう。
 それとも、生き物に吐きかけても別に酷くも何ともない、自分の唾は汚くない唾だと思っているのか。
 ならば、自分で飲み込んでしまえ。喉が詰まって無理なら顔面に塗りこんでパックにでもしたら良い。唾は乾くと固まるので、きっと効果があるだろう。おじさんのしわも薄くなり、美肌効果があると言うものだ。
 
 
 
 
 写真・江ノ島の巨大タブの木(文章とは無関係です)
 
 
 それが、私が見た史上最悪の「唾吐きおじさん」であった。
 彼を超える人物にはまだ遭遇していない。
 それ以来、私は自分がとても緑を愛していると言う事実を認識した。唾を吐く男は嫌いだが、許せる。生理的な現象だから仕方がないと思う。しかし、木々に唾を吐く男は、何があっても許せないのだ。
 
 
 
 
 写真上・江ノ島タブの木
 写真下・江ノ島銀杏
(文章とは無関係です)
 
  
 森で瞑想することの心地よさに気付いた私は、最近近場の森を渡り歩いている。
 「マイブーム森」とばかりに闊歩しているが、そもそもブームとは無関係に私の目的、いや使命とさえ思える事柄は一貫していて、七福神の神社を巡っている時の願いと森を愛する想いは一緒なのだった。
 世界遺産の白神山地のブナ林だって70年後には10分の1に減少、100年後には消滅すると予測されている。
 地球上からすべての緑が消える日もそう遠くはないだろう。
 その前に私は緑を見ておきたい。この目で見ておきたい。たとえ、無力で、彼らが滅んでいくことに何の堰き止めも出来ないとしても、もっと愛してあげたい。
 彼らとの記憶をたくさん残しておきたいのだ。
 私の緑への傾倒は日に日に増して、新興宗教の信者のようになっていきそうで不安ではあるのだが、まぁ、いい。
 辛い日々を乗り越えられる、その力となるのは記憶だけだ。
 今頑張れることのその源が、友との楽しい思い出であるように。
 私はたくさんの木々との記憶を抱えて、破綻し混沌とする世界に蘇える。次の生への準備をしているのだった。
 
 

 写真・江ノ島の夕景とニオイシュロランの木
 (文章とは無関係です)
 
 
 

恵みの雨と青天の霹靂について。 ~高幡不動尊八十八ヶ所参拝と山紫陽花~

 
 
 
 子供の頃、でも確かあれはずいぶんと大きくなってからで、中学一年生くらいだったと思う。
 美術の時間に絵を描いた。ジャージを来てグラウンドに出て、画用紙を一枚、それを乗せる木のボードを首からぶら下げ、クレヨンに絵の具。各自がてんでバラバラに自由な位置から校舎を描いた。
 出来上がった作品はみな良く似ていた。てんでバラバラ、と思っていたのは当時の私の印象で、もしかしたら友達同士で集まって、お互いに見せ合いながら描いていたのかもしれない。グレーの校舎、脇には木が立って、前にプレハブ校舎、それから茶色の地面。大体そんな感じの絵だったと思う。
 次の授業で、先生が全員の絵を順番にクラスのみんなに見せたのだった。
「この絵は、あら、ずいぶん違うわね」
 今気づいたと言う風に先生が妙な声を出した。
 私の絵だった。
 みんながくすくすと笑った。私の絵には茶色い地面がなく、青い空に木々と黄色の校舎が聳えているだけだった。
 
 
 
 
 真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊金剛寺)は関東三不動のひとつだ。
 この時季、三万余坪の境内は七千五百株の紫陽花が咲き誇る。面白いのは、裏山の不動ヶ丘には山内八十八ヶ所の弘法大師像が祀られていて、花木を観賞しながらのお遍路巡りが楽しめると言う。
 いつか年を重ねて、職業人としての義務を終えた暁には、四国巡礼に出かけてやろうと目ろんでいる私にとって、この小さな八十八ヶ所参拝はいかにも興味深い話だった。それに最近好んで良く撮っている木々と、旬の紫陽花が一緒に楽しめる。この上ない場所に思えた。高幡不動尊へ行こう。
 私はカメラと三脚を抱えて今週もまた小さな旅に出かけるのだった。
 
 
 
 
 
 
 写真左上・高幡不動尊参道
 写真右上・仁王門(重要文化財・室町時代)
 写真左下・不動堂(重要文化財)
 写真右下・弁天堂と弁天橋(左手の弁天池の奥は交通安全祈願殿)
 
 
 多摩モノレールの高幡不動駅を降りる。すぐ隣を京王線が走っていた。多分京王線でも来れたのだろう、そちらの方がもしかしたら便利だったのかもしれないと思いながら私は帰りも多摩モノレールを利用した。方角にも運不運があると信じている私は、どうも昔から府中(東京都西郊)界隈が苦手なのだ。京王線、と聞いただけで連想し、あまり良い気持ちがしない。
 去年の春に京王線を利用して深大寺に花見に出かけたのだが、あれも一緒に行った両親に強く勧められなければ行くことはなかっただろう。そこまで苦手意識を持って東京西郊を走る私鉄を避けたりしているのに、最近の私と来たらこの自分ひとりでは絶対行かないと思われる場所に興味があるのだった。
 思いも寄らぬ未知の体験や青天の霹靂が訪れるかもしれない、などと甘い期待をしている。
 高幡不動尊に着くなり、仁王門の左手に立っている土方歳三の像を見て驚いてしまう。青天の霹靂にしてはかなり小規模だが、歴史に疎い私は東京都西部の多摩地方が新撰組ゆかりの地と言うことを知らなかったのだ。そう言えば半分忌まわしく半分新鮮な、かの去年の花見の深大寺も、父が「近藤勇の墓が見たい。だから深大寺へ行きたい」と言い出したことが発端だった。(結局深大寺には近藤勇の墓はなかったのだが)多摩地方は新撰組の主な隊士たちの誕生の地が多いのだそうだ。
 私は土方歳三の像をまじまじと見た。
 両親も一緒だったらさぞかし喜んだことだろう、などと思う。しかしすぐにその思いを振り払って、八十八ヶ所の弘法大師象が待つ不動ヶ丘に向っていく。
 
 今日の私のテーマは地面を撮る、と言うことだった。
 先日、箱根の山の木々を撮った私はほとんどの樹木の写真をボツにせざるを得なかった。木々に申し訳がない。彼ら自体は美しいのに、私の撮った絵には地面がないのだった。空に高く枝を伸ばす彼らはどこに立っているのか、宙に浮いているのか、どこか心もとない。樹木を撮るのが上手い他の方の絵と比べると、地がない、ということが最大の、決定的な、違いだと言うことに気が付いた。
 
 
 
 
 
 ところがこれが簡単なようで意外と難しいのだった。
 覚えている時はいいのだが、ついつい美しい木々の幹、枝と葉に心を奪われて、私の視線は上にばかり向いてしまう。紫陽花も同じだった。花と木々と空しか撮らない。はっと気が付くと地面がないのだ。どうにもやりきれない思いになった。
 地というのは人生で言えば土台のようなもので、なのに地を見ようとしない人というのは浮ついているような根っこがないかのような、どうもいい印象は感じられない。苦しい時はあんなに地面ばかり見て歩いているのに、なぜ写真となると上ばかり見てしまうのか。 自分の足元を見ようとしていないのか。美しいものを求めて、わざと避けてしまっているのだろうか。私の写真がどこか不安定なのも、この所為だったんだなぁ、と今さらながら納得するのだった。
 
 八十八ヶ所を廻って行く。弘法大師様は少しずつ違う表情をしているのだった。頂上のあたりで息を切らした若い男性とすれ違う。裏山もこの辺りになると派手な咲き方の紫陽花は少なく、観光客も減っている。周りは地元の人らしい普段着の年配者ばかりなのに、男は白装束を真似た白い長めのベスト(袖のない半纏のような白単衣)をシャツの上に着て道を急いでは、大師像の前で立ち止まる。手を合わせて拝む。5秒から10秒くらい。そうしてまた次の大師象まで走っていくのだ。
 熱心な信者なのだろうか。なぜ若い男性が、白装束(もどき)をわざわざ着て、プチお遍路を必死に走っているのか、私には理解しがたいのだ。彼が祈っている間に私は避けるように脇を通り過ぎるが、暫くするとまた、はっはっと荒い息が聞こえてきて、男は私を、老人達を、追い越していくのだ。3回続いて4回目に私は彼をやり過ごそうとベンチに座ってしまった。
 私はちっとも変わっていない。少なくともロングTシャツにジーンズに白いベストを着てお寺の弘法大師像を駆けながら巡ったりはしない。
 きっと隣に地面を描く友達がいなかったからだろう。
 しかし、なぜいなかったのだろう。
 
 

 

 

 私は当時を思い返している。
 この「事件」は私の心に深く突き刺さり、忘れがたい記憶となっていた。だけど、周りを思い出せない。
 八十八ヶ所め、順路の最後に大師堂があった。最中に、お賽銭はまとめてここ(八十八ヶ所め)に入れてください、と指示があったので、その通りにさせていただいて、丁寧に拝む。裏山の不動ヶ丘を一周して戻って来た、という感じだ。周りには鮮やかな山紫陽花が咲いていた。
 ひとつひとつ、数々の種類の山紫陽花のすべてに名前が付いていた。みやび、紅てまり、秋篠てまり、えぞあじさい、くろひめあじさい、はなび、江ノ島のひかり、土佐美鈴、仁淀八重。
 今度は忘れないようにしよう。私は周りの景色を焼き付ける。
 だいじょうぶだ。今の私には愛機のカメラがあるではないか。それと美しい地のある写真を見せてくれる他人達が。
 他人と言うものは不思議だ。
 親にしろ、友にしろ、たとえ恋人であったとしても、彼らは結局のところ、まったく私を愛してはくれなかった。長い人生を通して、私が彼らから感じ取ることが出来た唯一の感情は憎しみだけだった。
 または自分に利になるときだけ、見返りとして与えてくれる、ほんの少しの、愛情と言うよりは惠のような気持ち。ささやかな思い。
 とうに上がった雨がまた降り出した。しとしとと細い矢のように紫陽花に降り注いでいた。雨をうける紫陽花はやはり美しい。雨は彼らを濡らし、やわらかい光を浴びて輝かすのだった。
 帰宅したら他人と言う友の、または友と呼べない他人達の写真を見に行こう。
 まるで方角の悪い疎ましい彼らは、常に小さな青天の霹靂を私にもたらすことだろう。
 私は高幡不動尊の境内の写真を最後に撮り、それから土方歳三に挨拶をする。次回は両親も連れてきたいと思うのだった。