20代のころ、まだ私がインポートカジュアルショップの店員だったころ、私のファッションセンスや洋服における美学に決定的な影響を及ぼした人がいる。
何度かこのブログにも登場するミキナカオという店長だ。
彼はブリティッシュトラデショナルやアメリカンカジュアルよりも、イタリアやフランスのトラデショナルとカジュアルを基本としていたようだ。「着崩す(きくずす)」という言い回しが大好きで、洗練さを残しながらも基本を崩す、遊び心のあるファッションスタイルを特に愛していた。
そんなミキナカオが職場に来なかった時期がある。海外研修だったか、それとも痛風で足を悪くした時だったか、記憶が定かではないが、一ヶ月間に取ってせいぜい一か二日、ほとんど休みも取らずに働いていた彼がかなり長い間姿を見せなかった。
この時とばかり、楽しくやっていた私とバイトの子たちの前に、他店の店長が入れ替わりでやってくるようになったのだ。
印象に残っているのは、S店長である。彼がカウンターの横に立ち、その周りに立ち並ぶ私たちに講義をするようにこう訊いた。
「カジュアルの基本は何だか知ってるかい」
私たちは、何でしょう、と口々に言ってはまじめに考え始めた。内心可笑しさがこみ上げた。ミキナカオと比べると、S店長のいでたちはあまりにも洗練されていなく、体は太り、背は低く、バイトのおしゃれな学生たちに「基本」を唱える資格があるとは考えにくかったからだ。
しかし気安い対応をするほどの距離感などあるはずもなかった。ミキナカオの代わりに私たちを指揮し、指導するためにためにやってきたS店長の発言をおもむろに待った。
「わからないかい? ほら、自分たちの格好を見てみなよ。」
「はぁ」(一同見まわす)
S店長は心もち顎を逸らして、得意げに言った。
「背広(礼服と言ったか?)と労働着だよ」
彼が言うには、カジュアルのすべての基本はトラデショナルとワークウェアだと言う。今思うと、私はそれにミリタリーウェアを足してもいいのではないかと思うのだが、その二つのどちらかを基本として発生したのが今のカジュアルなのだと物知り顔に言った。
当たり前ではないか、とはだれも言わなかった。英国の紳士と農場や工場の労働者を連想した。そう言われれば、そうである。ミキナカオの感覚が今一つ宇宙人的に感じたのは、私がこの基本をはっきりと眼の裏に描けなかったことが問題だったのだ。
それ以来、私はミキナカオの言うことも以前より理解できるようになった。洋服の着崩し(応用)が何となく楽に感じられるようになった。
初日の出を撮りに片瀬海岸に出かける。
紅白歌合戦を見た後仮眠をして夜更けに家を出た。江ノ島駅に着いたのは5時過ぎであった。
これが全部東浜の日の出を見に来た人々なのか、駅前は若者であふれていた。中学生から二十代の若い人々が群れをなしている。改札の前もコンビニの前も東浜へと向かう地下道も若者の姿とかしましい声で満ちていた。カップラーメンの容器があちこちに転がっている。潮の匂いがする前に生ごみの匂いが鼻についた。
「このゴミ誰が片づけるんだよ」
コンビニの前のごみを見て思わず呟きながら通り過ぎる少年がいた。ひでぇなぁ、と言いたいのだろう。ここではまともな方が珍しい。私は思わず顔をしげしげと眺めた。
センスのいい少年。おしゃれな若者。このごろの若者はみな小奇麗で、私が若い時よりよほど洗練されている。
私は若者たちの間を縫うように東浜へと向かっていく。海岸沿いには人が並んでいた。海岸へと向かう石段にもずらり初日の出を待つ若者たちが座っている。ここでも彼らは大騒ぎである。特に少女たちより少年たちはひどい。歌ったり踊ったりやかましい声を張り上げたりチンピラのように騒いでいた。しかし、こういう威勢のいい若者は意外と安心なものである。経験上そう分かっていたので、私は一番騒がしい彼らの後ろについて三脚を立て始めた。彼らは時々、数名にわかれてコンビニへと出かけていく。まだ日の出には1時間半ほどの時間があった。
私は懐中電灯で照らしながら、カメラとレンズの設定を確認する。隣にいた青年が語りかけてくる。この青年は騒がしい少年たちの先輩であったようだ。
「寒いですね~ まだ時間がありますね~」
どこかで聞いたような間延びのする声である。思わず安心するような攻撃性の欠如した・・今思うとあれは大槻ケンヂに良く似ていた・・そんな声で、思い出したように語りかける
「去年はあっちから出たんですけど、今年はどうでしょうかね~ あの雲があるところあやしいですよね~」
ちょうど朝陽が昇るのではないかと想像していた場所には暗雲が夜空いっぱいに広がっているのだ。雲が途切れた左手の空、そちらもかすかに染まっては白んでいる。暗雲の中からのご来光となるか、それともあの雲の切れ間の明るい空から昇ってくるか。私は大槻ケンヂに相槌を打ちながら待っている。時々ぴょんぴょんと飛んで手をすり合わせる。
「プロの方ですか?」
隣の若い女性が訊ねてくる。趣味ですと答えると、「良いレンズですね」と驚いた顔でお愛想を言う。こちらは黒一色、フリルのスカート、ビジュアル系が好きなのかもしれない。大槻ケンヂのほうは新しく三脚とカメラを持ってきた年配者の男に私に声をかけたことと同じことを言っている。去年はあっちから出たんですけど、今年はどうでしょうかね~・・彼はブルゾンとだぼだぼのパンツを履いて、頭は短く刈り込んでいた。
騒がしい少年たちはコンビニから戻ってくるたびに、私を目印にしている。いたいた、カメラの人、と声が聞こえる。三脚が目立ってちょうどいいらしい。カップラーメンを持って戻ってくるのだ。彼らは光沢のある素材のジャンバーとジャージを着ている。
不思議なのは、この若い少年たちのファッションである。江の島駅から東浜に来るまでに何度も目にしていた。ちょうど近所のショッピングセンターのカジュアルショップが、私には理解できない洋服をディスプレりし始めたように、彼らのファッションは洗練されたこの国の多くの少年たちのものとはまるで違う。
これが今のカジュアルか・・・目を疑うほど、その基本はどこにあるのだか全く想像が出来ない。
安っぽいツルツルの生地、ジャージでもないのに必ずジャージライン、防寒用に内側に綿が入っているその微妙な厚み、これは背広でも労働着でも軍服でもないな・・・私はルーツを必死に考えるが、私が彼らの年だったころに来ていた体操着と防寒ウェアしかやはり思い浮かばなかった。それとヤンキーの学ランか?それともどこか異国のものだろうか。近所のアジアの人が経営する格安露店で見かけたような思いもする。ショッピングセンターのカジュアルがアメカジから得体のしれないものに変わったのは、もしかしてあの格安露店のアジアンカジュアルに追いついたということなのだろうか・・少年たちは相変わらずカップラーメンの容器を浜辺に打ち捨てる。
私の後ろも横も、ふと気が付くとたくさんの人が立っていた。大槻ケンジの間にも年配の男が割り込んでいた。後ろはカップル、少女が登山に行くと甘えて声で話している。
「登山なんかいかないでしょ」
「行くもん。いいもん、一緒に行ってあげないからぁ」
なになに。なんて言った? と笑い返す男は寒さのせいか始終貧乏ゆすりをして私のリュックをぐいぐい押している。このころになると、朝焼けが一番明るく染まり、太陽が出てくるだろうと思われる点が明らかになっている。厚い雲が沈んだ空からではない。左の暗雲の切れ間のほうだ。私は神に感謝したい思いにとらわれながらも、次第にいらいらしてきて仕方がなかった。ファインダーをのぞきこんで、カメラや三脚を操作するのもカクカクと体が揺れる。私も貧乏ゆすりをする男とは山に登りたくない、などと考える。隣の黒づくめの少女はマクロレンズをつけたカメラのシャッターを必死で切っている。自分の声か、誰かの声か、「来た!」と声がして、みな息を止める。一瞬の緊迫が走った。
太陽が昇り始めた。歓声と言うよりは、吐息が漏れるような、声なき声があちこちでこぼれる。前のかしましい少年たちも太陽に見入っているのか、静かだった。私はシャッターを切る。去年ゴーストで失敗したので、今年こそはと思っていたが、やはり朝陽を撮るという学習機会があまりにも少なかった。その場になって絞りと露出補正を変えては、必死で撮り続けている。思っていたより空が明るいから+補正、ゴーストが出たから絞り込む、光が足りない。絞りを開く。海のヨットやボートのシルエットを撮りたいから-補正・・・いつの間にかとっくに太陽は昇り切って、波打ち際にいた人々は、帰り支度を始めている。階段に並んでいたこちらに向かってぞろぞろとやってくるのだ。
「きゃ~○○ちゃん!」
大きな声がした。後ろにいた山登りのカップルの少女の友達が偶然来ていた。少女の大群が私に向かって駆けよってくる。
「嫌だぁ~元気だったぁ?誰と来てるの?えっ。彼氏?」
彼女たちは自分たちしか目にないのか。私を蹴飛ばしそうな勢いだった。こちらはこちらで日の出しか眼中にない。邪魔しないで邪魔しないで、声を出しながら必死で踏ん張り、ファインダーから目を離さない。私たちって騒がしくない?最悪ぅ~と自分で言っている。全く最悪だよ、と聞こえるように言ったが動じる気配もなかった。
「やだ~○○ちゃん、素敵な彼氏といっしょでうらやましい」
人々が帰っていく中、私はまだ写真を撮っていた。後ろの少女たちの騒がしい声が消えたころ、あきらめてカメラと三脚をしまい始める。一服をしたい、と切実に思ったが、あのカップラーメンの容器であふれたコンビニの前まで我慢することにしよう。
早くこの場を離れたかった。まるで、得体のしれない格好の少年たちや、あの動じない舌足らず声の少女たちが、私を襲いに戻ってくるとでも思っているかのように。
私は東浜から駅へと向かう地下道へと入る。人、人、人、すべて若者の群れだ。私は彼らのことが次第に相対するものの象徴のように思えてきて、不気味に感じ始めていた。逃げるように電車に乗る。ここも若者でごった返して、前には中学生のような少年たち。足を広げて深く座りながらも、その顔はどこか神妙そうだ。並んだ四人は友人たちと時々けだるそうに話をする。
「ねみぃな・・・寒かったな」やっぱり奇妙な光沢のあるジャージのようなカジュアルなのだった。
自宅が近くなると、電車はやっと空いてきた。私は少年たちに向き合うように席に座った。左隣にも少年、こちらは高校生くらいか、やはり四人組であった。私は疲れ切っていた。撮ってきた写真を見るのは帰宅してからだ。次の次は私の駅だ。帰ったらのんびり反省会をしようではないか。手前の駅でジャージの少年たちが下りていく。
「おい、軍手忘れてるぞ」
仲間に促され、ひとりが降りかかったドアから戻ってくる。落とした軍手を拾い、その横にある座席の上の空のペットボトルには見向きもしない。ホームを歩く少年のひとりが、煙草の箱を取り出した。マルボロのメンソールを口に咥えて笑いながら、彼らは視界から消えていった。
「だっせーな、あれ中坊だろう」
驚くほど大きな声で、隣にいた少年たちが話し始める。
「煙草吸ってたぜ・・マジださかったな、気持ちわりいな」
「このへん、治安わりぃな・・」
横目で覗き込むと、彼らはミキナカオを連想させるカジュアルを着崩した格好をしていた。洗練された今時の若者である。
「言ってやりゃ良かったのによ」
「喧嘩したら負けるぜ俺」
「はは・・ 左のやつ強そうだったな」
「いや、左から二番目だよ。ぜって―かてねぇ」
ファッションから遠ざかってずいぶんの月日がたった。私は基本からも応用からも遠ざかった安物ばかりを着ている。
治安の悪いと彼らの言う「このへん」の、次の駅で、私は背中を丸めて降りていく。「しっかし、まじださかったな・・」繰り返す声を後ろで聞きながら逃げるように、どこかでほっとしているように、複雑な思いを抱えながら電車を降りて、若者たちからやっと切り離されていく。