『鎮魂歌、「鐘」を思う』 ~浅田真央さん銀メダルおめでとう~

 
 
 
 
 

 

 浅田真央の今季フリーのプログラム「鐘」(ラフマニノフ 前奏曲嬰ハ短調 作品3の2)は評判が悪かった。
 シーズン初めて披露したとき、メディアからは散々だった。
「どうしてあんな重苦しい曲を選んだのですか」
 外国人記者が訊いた。
 浅田は淡々とした表情でこう答えていたと思う。次のシーズンの曲を選ぶときに、今までのような曲と、重厚な感じの鐘があって、今回は後者を選んだのだと。
 彼女の妖精のような可憐な演技ではキム・ヨナには勝てない。何かが足りない。そこで、今までとは違う新しいイメージを創り出す必要があった。
 
 私は初めてこの曲のフリーを見たとき、ずいぶんとがっかりしたものだ。盛り上がりに欠け、何よりも暗い。華麗なフィギュアスケートにラスマニノフというのがまず合わないのではないか。彼にはどうも悲運のピアニストの印象が強い。
 今でもこの曲が何を意図して作られたものか、説明を聞かされても、演奏を何度聴いても、今一つ理解できない。鐘という愛称がつくくらいだから宗教的な色合いが強いのだろうが、そこは希望につながる祈りは浮かんでこない。闇のものに対しての鎮魂歌のように思えてならない。
 なぜ、19歳の浅田が、五輪に向けた大事なシーズンをこの曲に賭けなければいけなかったのか。
 新たなイメージを得るだけでは、計り知れないリスクがあるように思えた。
 
 タラソワはかつてこの曲をサーシャ・コーエンやミシェル・クワンに与えようとした。コーエンは離反、クワンは故障によって実現しなかったそうだ。
 鐘のプログラムを自分の教え子に氷上で舞わせることはタラソワの悲願だった。おそらく、この曲に彼女はかなりの思い入れがあったのだろう。遠い日の記憶とともに、いつでもこの名曲が彼女の心を捉え、ずっと放さなかったに違いない。
 選手としての自分の夢も、コーチや振り付け師のしての夢も、彼女はその長い記憶の想いとともに浅田に託したのではないか。
「本当に鐘でいいの」
 しかし、あまりに評判の悪さ、それに加えて浅田がこの曲を自分のものに出来ず調子を崩してから、タラソワはひるんで、そう訊いた。勝たなければ意味がない。
 それでも浅田はこの曲で行きたいと意思を変えなかったという。
 タラソワの判断は遅かったのだ。芸術性の高い、腹の底に響くような鐘というラスマニノフ名曲が、浅田を掴んで虜にした。
 そして案の定、浅田が銀メダルに終わったあとで、それはこのプログラムのせいだとはっきりと書くメディアさえあった。
 浅田のファンである私でさえ、バンクーバーのフリーの演技を見て思った。
 キムの、解説者いわく、「水の流れるような」なめらかな、完成度の高い、美しい演技に比べて、そのすぐ次に出てきた浅田のなんと空恐ろしかったことか。
 まるで氷上の天使のあとで、場違いな魔王が現れたかのようだ。何とも、禍々しかった。
 これは審査員に与える心象も悪いだろうと。リスクは回避できなかったわけだ。
 
 タラソワは名コーチだったと思う。しかし、思うにそれは過去の話ではないか。
 彼女の時代はもうとうに終わっているように思えてならない。
 芸術性の高さや、難易度の高さを追求しても、現在の採点方式では意味がないのではないか。
 今、一番大切なのは、見るものや審査員が何を求めているか、ということだ。どうすれば、彼らの心象を良くできるか、彼らの心に訴えることができるか、それらマーケティングがすべてではないか。新採点方式の良い評価点をいくら稼げるか、ショーとしてのプログラムの完成度はどれくらいか。
 フィギュアスケートが魅せるものであること、人の心を虜にするものであること、その本質が時代の流れとともに行きついた終着点なのだろうと。
 タラソワと浅田はそこを完ぺきに見誤まっている。まるで時代遅れのシーラカンスのようだ。
 しかし、それでも私はこの鐘を何度も聴きたくなってしまう。
 浅田が負けたというのに、たとえトリプルアクセルや銀メダルが素晴らしい偉業であっても、金を目指してきた彼女は確かに敗れたというのに、それでもその無様な曲を何度も聴きたくなるのだった。
 タラソワのように、浅田のように、この曲の虜になった。不思議なことに、聴けば聴くほど、良さがわかってくるようだった。
 私は美しいキムの演技よりも、狂った浅田の演技を繰り返し見てしまう。映画のように。エンターティメントとして完成度の高いそれを、私はいつでも二度と見たいとは思わないのだった。その場は興奮して、最大限に楽しめたとしてもだ。キムの衣装も、プログラムも、演技も、すべてが最高の出来だった。それでも私の心には残らなかった。
 
 心に残った番組があった。
 フリーの前にNHKでやっていたスペシャル番組で、浅田が鐘のプログラムを自分のものにするまでのドキュメンタリーだった。
 ジャンプの技術と、表現力、この二つを今まで両立させたフィギュアスケートの選手はいない。ジャンプを重視すれば、表現がおろそかになり、表現力で勝負しようとすれば、ジャンプは難易度が低いものとなる。浅田は自分の限界を超えるために、両方を自分のものにしようとする。鐘の音に流れるその姿は鬼気迫るものがあった。
 彼女はこの曲に魅せられただけか。負けず嫌いで、出来ないまま放りだしたくなかっただけなのか。
 もしかしたら、これは私の予感でしかないのだが、老コーチの思い入れを感じ取っていたこともあるのではないだろうか。
 浅田がタラソワと契約したときの条件は一つ、「他の選手には教えないこと」、対してタラソワ側の条件は、「五輪直前で契約を破棄しない事」、だったという。
 前回のトリノオリンピックで荒川静香は大会直前にタラソワコーチを捨てた。苦手なステップを覚えるために、手本を自ら示すことができるニコライ・モロゾフに変えたのだった。モロゾフはたった3カ月教えただけで、金メダル選手のコーチという栄光を手にしたわけだ。
 荒川は私には前進する必要があったと言った。新採点方式でステップの重点は高い。彼女は新たな評価基準でいかにいい点が取れるかをあらゆる角度から研究した。マーケティングを決して怠ることはなかった。その賢い選択は、キム・ヨナと通じるものがあり、私の心にはどこかそぐわない。
 氷上の荒川とキム・ヨナの笑顔は最高に美しかった。勝者の輝きが確かにあった。
 一方、笑顔という人類最大の武器を奪われた浅田は、「上手くまとめてきた」と慰めのごとく誰かに言われるだけの表現に終わった。
 彼女の初めての五輪は終わりを告げたのだ。
 
 それでも私はドキュメンタリーのラストを思い返している。暗く、僅かな明りの灯る部屋、タラソワが深く椅子に腰をかけている。その丸めた背中に、膝かけ。年老いた女の哀れな姿。彼女はテレビを見つめて泣いていた。浅田が最後にキムヨナに勝利をした試合を繰り返し見つめて。刻まれた皺、老いた皮膚を、とめどなく涙が伝うのだった。
 
 浅田真央は荒川静香やキム・ヨナが成しとげなかった何かを確かに果たした。
 タラソワはそう遠くはなく、引退することだろう。時代には逆らえない。
 彼女の鎮魂歌は浅田が与えたのだ。僅か19歳の少女の人生が、長い時の封印を解いたのだった。
 私にとって、それはメダルに代えがたいものに思えてならない。
 
 
 
  
 

 
 
 

独創力って何だろう? ~爆笑問題×京大 独創力!を見て~ 

 
 
 爆笑問題のニッポンの教養スペシャルを見る。京都大学の学生、教授陣と爆笑問題がトークバトルをするというもの。テーマは独創力。
 
 目から鱗が落ちる思いだった。
 常々思っていたのは、独創性のありすぎるものは社会の異端児となる。または、すべてが出尽くした飽和状態のこの時代、そんな中で新たなものを生み出すのは至難の技だと言うこと、すべては二番煎じ、三番煎じじゃないか、と言うことだ。
 しかし、独創性の定義自体を間違えていたようだ。
 トークバトルと言う形式の番組を通じて、独創性とはこういうものじゃないか、と言うメッセージを頂いたように思う。
(たぶん太田さんがこれを読んだら、そんなこと言ってねぇよ、と怒られそうな気もするが、自分が感動したこと、それを表現し続けることこそが独創性となりうるとおっしゃっていたので、多分許していただけると思う)
 
 独創力とは天才のごとく新たなものを生み出す力だけではないようだった。
 既成のものから、自分が発見したものを自分なりに表現すること、その一連の努力の総称のようなのだ。
 良く私は「難しいことを簡単に言うのが天才で、簡単なことを難しく言うのが凡人」と怒られるのだが、まさにそのことだった。
 で、凡人の私が難しく言ってみると、独創性の定義は、たとえば知識や人の道でもいい、それらの他や既存の型を学び、身につけて、壊せるようになり、そして型にも型を壊すことにも疑問を抱きながら、最終的に突き詰めた自分を殺した個(性)とは無縁の自己の型をまとって、なお、自分であり続けること。そしてそれを、自己として表現できること。
 それこそが独創性だというのだった。チャレンジしてもっと簡単に言えば、マジョリティの型を極めて、なおマイノリティであり続けること。マイノリティでありながら、マジョリティの型をもって表現することが出来ること。そういうことを独創力だと言っているのだ。
 トークのなかでは太田さんが、京都大学教授の哲学者西田幾太郎さんの「対矛盾的自己同一論」を例として揚げる。
 「Aは非Aであり、それによってまさにAである」
 矛盾するが自分を殺して到達するものこそが自分であり、そして太田さんはその「なおかつ自分である姿」を表現することが独創なのだと言い切るのだった。
 
 この定義を突き詰めていくと、冒頭の、私が感じていたような独創性のある人は異端児だと言う仮定(一般的な定説)は成立しなくなる。もちろん異端児には他の型を身につけることもそのために個性を消すこともできないだろう。
 また、同じく、無から有は生まれず、かつ既にあるものから新しいものを生み出すことは創造に値しないから完全な独創性は存在し得ない、と言う仮説も成立しない。
 人は生き続ける限り、既にあるものから吸収して自分の独創力を磨くことが出来るし、人は感じる心がある限り、自分の唯一無二の体験を通して独創力を発揮することが出来るのだ。
 私は間違っていた。
 
 太田さんは言い放つ。
 『あなたはあなたであることが既に独創力なのだ。あなたは、どこまでいってもあなたから離れることは出来ない』
 耳が痛かった。
 
 
 
 
    

書くことによって生き続ける。

 
 
 『あしたの、喜多善男~世界一不運な男の、奇跡の11日間~ 』にはまっている。
 11日後に死ぬことを決意した男の物語だが、実は有能な心理学者によって自ら死を選ぶように開発された男だ。
 人が善い彼は、自分のネガティブな側面を集結し、別人格を作ることに成功した。その別ものとなったもうひとりの自分を殺すことにより、ハイドのような自分の別の面を否定し、ジギルのような自分を全うさせようとするのだ。たぶん。
 たぶん、結末は分離した自己の統合。死ではなく、生を選ぶことによっての統合を描いてくれるのではないかと期待しているのだが、その方法がまったく見えない。
 はらはらする。
 もしかしたら、私が思うような物語ではないのかもしれない。
 
 
 私は自分の悪い面を知り尽くしていた。
 飽き飽きしたので、ある日を境に徐々に抹殺した。
 喜多善男のようにないものにしようとしたら、そいつは別人格にはならなかったが、時々爆発して暴れだし、手がつけられなくなった。コントロールできない状態になった。悪い面は閉じ込めると活発化する。
 ブログを書き始めたのは、ガス抜きの意味もあった。
 意味があった、と知ったのは書いた後だったが、あった。
 私は抹殺して閉じ込めた自分を少しずつ解放した。
 それ以上でも、それ以下でもなく、彼は書いてやることにより従順になったようだ。
 存在を認められて、だから書き尽くしたとか、ここよりリアルが面白くなったからとかそんな理由でもなく、生きることを選択した私は、少しずつ大人しくなり、救われていく。
 私は融合されていく。
 私は生きることを選択したのだ。 
 
 
 
 
 kita

ガンバレ、日本!

 
 
『穏やかな時の代償』 (2007年08月06日)
 
 部活動に明け暮れていた頃、よく遠征に出かけた。
 合同練習や練習試合、お堅い目的なのだが、ホスト役の学校はそれぞれが皆独特のおもてなしをしてくれた。

 一番嬉しかったのは、カルピスだ。
 
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  バケツ程の、大きな、金色のやかんに水を張る。たぶん業務用の冷蔵庫で冷やすのだろう、午前の練習を終え、お昼になる頃には、いい具合に氷が溶けはじめる。豪快にカルピスの原液を入れる。それをやかんごと、飲め、とばかりに渡してくれるのだ。
 天候や時間によって、氷の溶け具合とカルピスの濃度は変わるはずだ。きっと何度も試行錯誤を繰り返し、作り上げた、部の伝統に違いない。
 私たちはからからに干からびたスポンジが一気に水を吸い込むように、ごくごくと喉を鳴らして、カルピスを飲みほした。なくなると、氷だけが残る。今度はそこに水道の水を汲んできて、氷水にし、また飲む。それを氷が溶け切るまで繰り返すのだ。
 美味しかった。
 あんなに美味しいカルピスと氷水は、後にも先にも飲んだことはない。
 潤され、満ち足りた私たちは、汗で濡れたTシャツを脱いで、新しいものに着替える。グラウンドの木陰にごろりと寝転んで、休息を取るのだ。蝉の鳴き声、校庭のうだるような太陽のゆらめき、それらを感じながらそのまま暫くじっとする。目を瞑ると、木漏れ日が刺すように降りてきて、目の裏で騒いでいた。だけどとても穏やかで、風は心地いい。大地からは太陽の匂いがしていた。
 この時のカルピスと氷水の美味しさと、休息のひと時を。
 再び得るためならば、私は何度でも時を戻し。
 あのグラウンドを駆けよう。
 そうして、今。
 私は仕事に明け暮れる、日々―
 仕事を頑張れるのは、週末の休息があるからだ。
 まるで部活動に明け暮れたあのときのように、私はそれをいとおしむ。
 仕事で体が疲れ果て、心が疲れ果て、しかし疲れれば疲れるほど強く、私の休日は輝きを増す。あの穏やかな夏の日と同じように。
 もしも―
 私の夢が叶って。
 私はあくせく働く必要などなくなり。
 のんびりと日々を過ごせるようになったとして。
 この今の休日と引き代えに、得るものとは、いったい何なのだろうか?
 お金。
 ゆとりある時間。
 名誉。地位。キャリア?
 将来の安定。エトセトラ。
 すべて、それも夢だとしても。
 愛という代償がなければ。
 決して、手放しはしない。
 
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 
 
 私の人生の中で、こんなにハンドボールが盛り上がっているのは初めてのことである。
 もちろん自分のことではなく、世間でのことだ。
 先週末の休みは連日、宮崎大輔選手の姿をTVで見たように思う。
 
 アジア・ハンドボール連盟(AHF)の、日本と韓国への処分は、罰金千ドル(約10万8000円)と言うことに決定したようだが、意外と軽いのに驚いた。まぁ、お金ではなく、面子の問題なんだろうが。面子は保ちたいが、自分たちにも非があることを充分知っているので、そうそうばかげた罰も科せられないのだろう。
 しかし、クウェートは知らないのだろうか。面子をかけた争いでは、日本はちょっとした歴史と実績があると言うことを。
 円満解決は難しそうだ。
 
 韓国戦は残念だったが、オリンピック出場のチャンスはまだあるので、日本代表にはぜひ頑張ってほしい。
 マイナー球技の代表、ハンドボールをこの機会に世に知らしめてほしいと願う。
 あんなに美しく、面白い球技はないのだから。
 間違っても、精をつけようなどと言って冷凍餃子を食べることなく、練習に励んでほしい。
 
 
 宮崎大輔

そろそろ年の瀬。と言えば・・・

 
 
 ちょっと古いのだが、年の瀬を真面目に考え始めた私にとっては旬なネタで、『紅白』。
 今年の司会は男ふたり、紅組・中居正広と白組・笑福亭鶴瓶で、紅白の司会が両方とも男と言うのは51年ぶりのめずらしいことなのだそう。
 で、この鶴瓶なんだけど、なんでまた鶴瓶? と思った人は結構多いはず。どう見ても旬なタレントではないし、紅白と言う柄でもない。
 しかし、思い出してみてほしい。去年のNHKの醜態を。
 まぁ醜態と言うとオーバーなのだが、結構な騒動になりましたよね、オズマのバックダンサーの乳出し(ボディスーツね)。やっぱりあれ以上の醜聞インパクトを求めれば、しょっちゅうパンツ脱いで股間晒して騒動起している鶴瓶しかいないでしょ。
 NHKは去年のことなんて屁とも思っていないってアピールですよ。
 んで、「あの鶴瓶」が今年の紅白司会で国民の認知を得れば、去年のオズマもおのずと「あら、大したことなかったわね・・」的なムードに流れていくこと間違いなしです。(別に鶴瓶がモロ出しするわけじゃないだろうけど、イメージ戦略として)
 目くらましみたいなものかな? 意外とセコくいろいろと考えているんだな、NHK・・・ やっぱり関係者は去年大変だったのかな、なとどよけいなお世話的な心配をしつつ。
 それにしても中居君痩せましたよね。
 あんたガンじゃないの?! と思ってしまったのは私だけでしょうか。
 日に日にみのもんたに似てくる中居君、あなたの名司会で是非年の瀬も国民を湧かせてやってくださいませ。
 
 
 
 
 
NHKは12日、大みそかに行われる紅白歌合戦の司会者発表を行い、紅組司会者にSMAP中居正広(35)白組司会者に笑福亭鶴瓶(55)を起用することを明らかにした。紅・白司会者をどちらも男性が務めるのは1956年にアナウンサー2人が担当して以来51数年ぶり。中居は昨年に続く登板で、通算4回目。鶴瓶は初めての紅白司会となる。総合司会は松本和也(40)住吉美紀(34)の両アナウンサーが務める。記者会見で、初司会となる鶴瓶は「そばで歌を聴けるのは本当に楽しみです」と語り、中居は「歌手の皆さんに楽しく、気持ち良く歌ってもらえるよう努めたい」と話した。2人を起用することについて、NHKは「歌の力を伝えるため、幅広い視聴者から親しまれ、話術にたけている人を選んだ」と説明した。
 

『ETV特集 ケータイ小説@2007.jp 藤原新也・若者たちへのまなざし』を見て

 
魚は異なる海の層を泳いでいる。
その棚が違う魚たちは、交わることはないそうだ。
今の若者たちもそうではないかと、写真家、作家の藤原新也さんは言う。写真を通して現代の若者と関わる彼は、今彼らのあいだで人気のあるケータイ小説を読んでその思いを強めたらしい。
彼らは形成された社会の僕らと棚が違うと。
 
若者と言うのはダイヤの原石だ。
古くは芸者や舞妓、就職等の青田買い、現代でもジャニーズに代表されるような芸能界のアイドル、今まではその原石の市場は大人が独占して握っていた。
大人と言うと語弊があるかもしれないが、(誰でも自分の中にインナーチャイルドを抱えているからだ)ある一定の年齢に達した人々が手にせねばならない義務と権利であるところの社会的な立ち位置とその性質が形成する世界のことだと思って欲しい。
それら既成の社会には必ず規格があり、売人に渡った原石は規格に適応することで一人前と認められてきた。
適応するためには若者に努力と犠牲を強いるのが常だった。
規格外と判断されれば当然のごとく排除される。
排除されたダイヤは磨かれる前に永久にチャンスを失って、多くは道端の石ころとなっていくのだ。
ところがこの特番を見て思ったのは、現代の若者たちはそういった既成の社会と大人の価値観を拒否していると言うことだ。私が若い頃は規格から外れれば駄目だと自分を責めた。どうにか合うように努力しようと躍起になった。ところが、彼らは排除されたからでもなく、選ばれることも、認められることも、はじめから否定している。そんなことなど望んでいないかのようだ。
そうして、自分たちだけの棚を悠々と泳ぎ、そのなかで城を建てる。
そこは既成の社会は排除されているのだ。
 
若者は彼らだけでベストセラーを作り上げる。
現在は既成の社会が若者の価値観に迎合し、ビジネスに利用させていただくと言う形で解決を見せているが、この先、この棚の違いはますます明確化すると思われる。初音ミク騒動の時も思ったが、私が既成の社会と呼んでいるところの現在日本を形成する母体となっている社会と、それに属さない層は明らかに分断され始めていて、この先価値観の相違は更に進んでいくだろう。
藤原さんは彼らが愛情に飢えた避難民だとまとめた。
大人とは遠いところで、自分たちだけで傷を癒しているようだと。
確かにそれは事実なのだろう。彼らは充分傷ついた。
しかし、私は美しくまとめすぎではないかと思う。
 
これは復讐ではないか。
時代からの。
今まで個を軽んじられ続けた原石は、ダイヤになることを拒んで、石ころのままの姿で私たちに報復を始めたのだ。
 
 
 
 

亀田大毅は悟りを開きなさい。

 
『菩提の樹の下で』 (2007年06月02日)
 
『悟り』
①理解すること、気づくこと。
②迷いが解けて、真理を会得すること。
 
欲望は尽きない。
人間である限り、付いてまわる。
満たしたいと願う。満たされないと苦しくなる。
しかし、欲望を果たせる割合が極端に減ったら、どうなるか?
望みを持っても叶うことはないだろう、と自覚できたとしたならば。
長い間、私にとって、老いとは、諦めの極致だった。
老いこそが平穏を与えてくれる、唯一残された手段だった。
所詮凡人は老いて悟りを開くしかないのだと。
しかし、最近不思議に思う。
若い人を見ていると、どうもみな、悟りを開いているように見えるのである。
みな、諦めている。
果たせる割合は限りなく減ったのだと。
真理を会得して、穏やかに過ごしているようだ。
 
あんなに願っていたのに、私より先に達した彼らを見ても、特にうらやましいとは感じられない。
それよりも、憂う。
 
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
 
ババ臭い愚痴を言わせてもらう。
どうも若い者からアテにされることが多い。
彼らは美味しいポジションと自分の未来には興味があるが、今現在やらなければならない実質的な業務には関心がない。
面倒くさいことは上任せなのだ。
その面倒くさいことこそが仕事の本質すべてであり、そこをかっ飛ばしては大事な未来も意味をなさないと思うのだが、まるでお構いなしのように見える。
日本と言う見た目は豪華だが中はぼろぼろの沈没船で、胡坐をかいて生きている今の彼らの姿とだぶる。
若い人たちにはもっと頑張ってほしいと思うが、どうだろう。
 
きっと彼らは彼らなりに頑張っているが、必死なところを見せるのがみっともないだけかもしれない。
きっと見えないところで努力をしていることだろう。
そうは思うのだが、ならば老兵をアテにするなと言いたい。
率先して、お前がやれ、と。
 
 
亀田兄弟なんかはまだマシだと思えてくる。
明日の処分がどうなろうが、バッシングが酷かろうが、たいしたことはない。
彼らは私たちより確実に、この国すべてに貢献している。
対戦相手の内藤大助選手のファイトマネーは100万から、今回1000万だったそうだ。
それだけの金を流通させられる若者は貴重だ。
あとは、周りのためではなく、自分の未来のためだけに頑張ってください。
彼らは逆に、多少胡坐をかいて生きていった方がいいだろう、これからは。
内藤選手のように、コツコツと。自分のためだけに。
 
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人の噂も七十五日、エリカ様頑張ってくださいませ。

 
エリカ様謝罪で、マスコミは未だしも、外野は飽きた感のある一連の騒動
ファンの方々は今どんな胸中なのだろうか。
確かに、映画の舞台挨拶のときの彼女の態度は酷かった。
プロとしてあるまじきものだっただろう。
しかし、私は昔から何でも当たり間のことを当たり前と見ないで、表面化していない物事の理由を模索してしまうタチなので、今回もあれこれ考えた。
マリリン・モンローとダイアナ妃は暗殺されたと答えを出したし、ジョン・レノンは政府にマインドコントロールされた工作員(ファン)に、尾崎はオウムに殺されたと今でも疑り、エリカ様はと言えば、誰かや何かしらにハメられたのではないか、と仮定してみるのだった。
そもそもあれだけ急激に人気を博したのだ。(2005年から数えて出演した映画は9本に及ぶ)生き馬の目を抜く芸能界で不動の人気と地位を手に入れて、面白く思わない人がいても不思議ではない。
明らかに自分の不利益にしかなり得ない、酷い態度を見せなければならなかったのならば、それだけの理由があったのではないか。
当然のごとくそこまで考えれば、(ここから飛躍します、笑)前々から嫌っている竹○結子が怪しい。主演を脅かされて、撮影当初からずっと続いていた嫌がらせをまた直前にかましたのではないか、などと思い巡らせて見るのだった。
まぁ、それらの想定は、本人が「諸悪の根源は私」と結論付けた以上、深追いするまでもない話になってしまったのだが、今回の件で、私は意外にも沢尻エリカが好きになった。
今までは、生意気そうな子だなぁと思いながらTV等で拝見させていただいていただけだった。
が、今回の件で、意外にも純粋な子だったのだな、と思わされ、自分の先入観を反省したのだ。
 
女王様キャラはいつものこと、だけどあそこまで大胆に、公の場で披露してしまったのならば、よほど許しがたい何かがあったのだろう。
映画経験の多さから、ただプライベートを持ち込んだとも思いにくい。あの映画(または映画出演者)に対してきっと何かがあり、普通ならばファンとカメラの前だと心して、感情を殺して笑顔を作るべきところを、それが出来なかった。女王様キャラの域も超えている。ファンと周囲の期待値に相当する真似が出来ないほど、自分の気持ちを正直に出してしまった。自分の不利益を省みるよりも、その気持ちを通すことのほうが先決だったと言うことだ。
これがピュアじゃなくてなんだろう?
 
残念なのは、その3日後に、すぐに謝罪文を発表し、謝罪会見を行ったことのほうだ。
それだけのピュアな思いが、なぜ「諸悪の根源は私」になるのだろうか。
彼女の「ああせざるを得なかった思い」はその程度のものだったのだろうか。
バッシング程度で揺らぐ気持ちだったのか。
プロとして最低だったと言うならば、同じようにプロとして女王様キャラを演じ続け、度を越えていようがなんだろうが、覚悟を決めて貫くと言う選択もあったのではないか。
それで芸能界から干されるならば、諦める。
どうせ女王様キャラを返上して新たに人格者キャラ、愛想のいいアイドルキャラを演じようにも、無理があるのだ。今まで通り、順調にはいくまい。どちらにせよ、「あの日で台無しになった」ものは取り戻せないのだ。ならばたった数日で謝ったりせず、自分のしたことを貫いて、それで人気が落ちたら、その時はじめて、「人間が未熟だった」と反省すればよかったのではないだろうか。
 
残念だ。
バッシングを収拾するよりも、理由は大切ではないと言ってたその理由に対する彼女の思いをこそ、もっと、重要視して欲しかった。
彼女にとっては、自分の思いなんかよりも、芸能界で生き残ることのほうがはるかに大事だったと言うことだろう。
たとえ、少しでも可能性が多い選択肢であるならば、キャラを返上しても、それに賭ける。
関係者や、ファンの方々、自分を応援し、愛してくれる人々にこたえるために。
彼らを裏切らぬために。
たった3日でピュアな思いを返上して、すがったのだ。
 
どうか業界やマスコミは、それでも彼女を許さない、などと言う残虐な仕打ちはしないで欲しいと願う。
謝った彼女を笑いものにすることだけはないようにと。
 
 
 
 

ああ、曼珠沙華

 
彼岸花、別名曼珠沙華を撮りました。
赤に白に黄色、色とりどりでまことに美しい。
 
 
             
 
 
で、ふと家に帰って、そう言えば大昔、この華の歌を誰かが歌っていた、と言うことを思い出しました。
確か、引退した山口百恵でした。
そう、彼女特有のちょっと陰のある雰囲気と声で、ライトタッチの情念をしっとりと歌い上げていたように思います。
撮ってきた美しい写真を眺めながら、是非その名曲を聴いてみたくなったので、YouTubeで検索したところ。
ありました! ↓下です!
 
 

       

 

懐かしいなぁ~とわくわく胸をときめかせながら聴きはじめたのですが・・曲が進むにつれ・・・

無言になりました。

 
え? こんな曲だったか??
どうも記憶の中で美化されていたようです。
こぶしを利かせて歌う百恵ちゃんは、どうみても、一年後大麻取締法違反で捕まる頃の内藤やす子か研ナオコにしか見えません。
「弟よ」だの「あばよ」だの、あの本格的歌謡ロックと謳いながら、どう聞いても演歌の世界の楽曲なのでした。
 
百恵ちゃん・・・
私の中では百恵ちゃんは完璧です。幼少の時分に人気絶頂にありながら引退したと言う伝説がそうさせているのだとは思いますが、しかしこれはちょっとひどすぎるのではないでしょうか。美しい曼珠沙華の写真も、美しく撮れたと思っていたこと自体が大きなカンチガイだったような、色褪せたものに見えてきます。
 
 
しつこいけどもう一度、曼珠沙華登場。↓
 
 
     
 
 
 
しかし、よけいなお世話ですが百恵ちゃんの名誉のために言っておくと、この曲がたまたま彼女に合わなかっただけだと思うのです。
引退間際の貴重?な映像を発見したので、是非ご覧くださいませ。
ロックンロール・ウィドゥを大胆に歌い上げる百恵ちゃんは、これぞ本格ロック歌謡といった趣きです。
美しい。(曼珠沙華より)
 
 

       

 

関係性と恋愛の微妙

 
『男女7人秋物語』 (2007年04月28日深夜)
 
たいていの場合、人を好きになるには理由がない。
気がつくと、ふと好きになっている。
恋をすると、ありきたりだった日々は、魔法のように輝き始める。
しかし―
昔見たドラマが忘れられない。
『男女7人秋物語』という物語があった。
トレンディドラマの発祥かもしれない。
『夏物語』の続編でもあった。
再会する恋人のふたり。
しかし、男(明石家さんま)には職場の同僚である仲間と、新しい恋人がいる。いつも楽しく遊んでいる6人組。
女(大竹しのぶ)はその輪に入れない。
彼女が戻る場所はもうなかった。
女は男をあきらめ、忘れようとする。
すると、男が言うのだ、何気なく。
「ノンフィクションライターになる夢、どうしたんや?捨てたんか?」
彼女が夢を持っていたのは、男と共に過ごしていた時の話で、夢は男の夢でもあった。
「俺はな、お前の夢が実現するチャンスだと思ってアメリカ行かしたんや。なんでそう簡単に捨てるわけ?」
彼女は夢をあきらめないと決意をする。またペンを取り書き始めるのだ。
ある日、書いたものを男に見せに行く。しかし、彼の部屋には恋人がいて、彼女は原稿を渡すのがやっとだった。追い出されるように帰っていく。
『恋物語』という楽しそうな響きの割りに、シリアスな、つらいドラマだった。
切ない演技をさせると、大竹しのぶは最高だ。存在自体が哀れになる。
彼女を冷たくあしらう男の背中に、大竹しのぶは叫ぶ。
「どうしてーー! どうして言ったのよー! どうして言ったのよー!」
歩道橋の上から、夜の街を去っていく男に向かって訴える。
「どうしてあんなこと言ったのよ!」
男は舌打ちをし、周りの目を気にして不愉快そうな顔をする。
「ややこしい女だなぁ・・」と吐き捨てながら、きびすを返して、戻る。
女のもとへ駆けていくのだ。対峙するふたり。
「私あなたに会ってからずっとつらかったんだよ。会う前からずーっとつらかったんだよ。会ってからもつらかったんだよ。
私もあなたのこと忘れようと思ってたのに・・・ どうして言ったのよ・・ どうしてあんなこと言ったのよ!」
恋を輝かせるのは、それが一方的なものだけではなく、関係性があることが前提となる。
他者との関係性、その中での二人の関係性、それが起こりうること、それが発展する可能性があること。
その前提の上でこそ、お洒落も、生活も、未来も、努力も、世界のすべてが輝くのだ。
しかし、同時にそれが最大の悲劇でもある。
もし私が、ひとりで想うだけならば。
誰も傷つかない。
何も壊れはしないのに―
男女7人秋物語のラストは寂しい。
男は付き合っていた彼女と別れ、職場の同僚からも、仲間のすべてからも非難され、弾き出てしまう。すべての関係性から断ち切られ、失ってしまう。
木枯らしの吹きはじめた夜の道、大竹しのぶとふたり、肩を寄せ合って歩く。
「もうどこにもやらへんぞ。
どんなことがあってもなぁ、お前離せへんねや」
固い決意と言うよりは、頼りないつぶやきのように、夜の闇にかき消されてしまう。
ふたりはもう世界にいないのだ。
 
 
 
              
 
 
☆☆☆☆☆
 
 
恋愛と人間関係と言うのは切り離せない。
家と家の結びつきとしての結婚は崩壊しつつあるが、職場や学校や、仲間内での恋愛は未だ強いしがらみがあるように思う。
 
二度目に就職した会社は若い会社だった。
社員たちは仲が良く、いつも一緒に行動していた。実際カップルも何組か存在していた。社内恋愛は表向き禁止している会社が多いので、その親密さを不思議に感じながら傍観していた。
若いグループのボス的存在が、少し太めの貫禄のある女性社員、Aさんだった。(見た目は40代に見えないこともなかったが22,3歳だったと思う)彼氏は仲間内で一番イケメンのB君だった。どう見ても釣り合わない。B君にべっとりするAさんはまるで母親のようだ。
Aさんと一緒にいて、相好を崩すB君をついぞ見ることはなかったが、B君はきっと居心地が良かったのだろう。
Aさんの彼氏と言うことで、社員から一目置かれていた。仲間との関係も良好だったようだ。あの会社に居続けるならば、彼女と付き合うことこそが最善だったに違いない。
しかし、私には、時々美形の彼が、囚われの身のしょぼくれたサルのように見えたものだった。
 
また、派遣時代のある会社ではこんなことがあった。
社内で親しい仲間を作り、社員旅行や全社飲み会等でつるんだり、就業後に遊んだりを繰り返していたある女性の先輩。
仲間の一人に恋をした。
明るく前向きな彼女は思い切ってデートに誘い、夜の公園でいいムードになったものの、ある日突然連絡が来なくなる。
メールしても返事が来ない、あのデートはなんだったのか?彼女は派遣の私に訴えた。涙目で。当然社員の仲間には言わない。失恋したのは明らかだった。
それからと言うもの、彼女はその彼を一切誘わなかった。グループのキャンプだの飲み会だのがあるときもだ。
電話でのやり取りを何度か聞いた。
「○○君と、○○ちゃんと、○○と~」
メンバーを選出しているその中に、彼の名はなかった。
相手が「○○君(彼の名)は?」と言ったのだろう、彼女は眉をひそめて、「え、いいんじゃない?○○君は最近忙しそうだし・・」と答えていた。少しばつが悪そうに。
それから何年かの月日が経ち、未だその会社にいる人と先日飲みに行って聞いた話だ。その後、今なんとふたりは仲がいいらしい。
恋が実ったのか、何が起きたのか。
大体の察しはつくのだった。