大室山花紀行。 ~トウゴクミツバツツジと峠の行者たち~

 
 
 
 
 終点より少し前のバス停で男女の登山者が降りた。
 彼らは西丹沢自然教室を始点にせず、ここから檜洞丸に登るのだ。
 おそろいのノースフェイスのジャケット、色違いで男性は黄色を、女性は鮮やかなグリーンを着ている。目に付いたのは、女性のゲーターだった。黄色のそれは男性と同じ色合いだった。
 メーカーだけでなく、色までこうして二人の一部が重なると、並んで歩くさまも絵になるし、微笑ましい。本人同士も同じ一部を身につけることによって、心強い思いがするのだろうか。一人じゃない。一緒に頑張っているのだと。
 ゲーターの色が一緒になったのはたまたまの偶然かもしれなかった。だけどその足元の小さな黄色の重なりが、私には軽薄ではない、強く清浄な繋がりに感じられたのだった。
 これから始まる険しい山道にこそふさわしいように思われた。
 
 
 

 
  
 
 先々週、トウゴクミツバツツジを見逃した私だ。また檜洞丸に登ろうかと思ったが、それはあまりに癪に障るので、すぐ隣の大室山に足を伸ばすことにした。
 大室山は丹沢山塊北部の雄峰で、武田信玄が小田原攻めの時に越えたという犬越路から一気に550メートルの登りがある。「あそこに行くなら天気の悪い日(曇り空で日が照っていないとき)がいい」。そうじゃないときついよ、といつか知人に聞かされたことがあるが、そのスケールは丹沢でも一、二を競うそうだ。
 ところで私はこの550メートルを標高ではなくて、距離だと勘違いしていた。
 頂上に着くまで、頂上付近に約0.5kmの急登り(イメージとしては鎖場の急登り)があるのだと信じ込んでいた。
 登れるだろうか、山頂付近ではいつも体力を使い果たしへろへろになる。おまけに今日は、午後から50パーセント以上の確率で雨だという天気予報だ。不安が頭をよぎるが、今週を逃すと梅雨入りが始まってしまいそうだ。梅雨明けはもう夏の陽気で体力的に自信がない。強行突破することに決める。
 どうしてもミツバツツジを見てやろうではないか。意気込んだものの、私の不安を後押しするように、西丹沢自然教室ではスタッフが叫んでいる。
「入山者は登山カードを書いてください!今日は3時過ぎから雨と雷の予報です~!」
 地元のご婦人のボランティアだろうか、いつもの男性スタッフではない、見かけない年配者の女性が二人。「雨」、と「雷」、と「避難小屋」という単語を繰り返す。
「降られたら、なんでしたら避難小屋がありますので、そこで待機するようにしてください!」
 入山者の表情に現れる戸惑いと一瞬の不安を、面白がっているのではないかと疑うほど溌剌と(もしくは嬉々として)諭している。「大室山・加入道山」と書いたカードをデスクに渡しに行くが、女性が仕切っているせいか、置き場がない。彼女に申告するのはどうも気がひけたので、話しているところを見計らって素早く渡した。
「お願いします」
「はい、どうも」
 もう一人の女性に本当は渡したかったのだが、私が近付いたら事務所内に逃げられてしまった。で、私はここでふと姉の話を思い出したわけだ。介護の現場にいた看護婦の姉が、入浴中のある老人が滑って頭から豪快に倒れ込むのを目にした。すると、同時に周りにいた看護婦が一斉に散った、というのだった。彼女たちは口を同じくして言った。「何も見てなかったわ」。幸い老人は無事だったが、上司に報告する段になると、「○○(姉の名字)さんが知ってるみたいよ」。
 この場合、雷の落ちる日に一人で山に登る私というのは、豪快に倒れる老人と変わらないのだろうなぁと思ったわけだ。仕切っていた婦人がしきりに前の団体との会話を続けていたのも、私が教室をうろうろしていたからかもしれなかった。まぁ、いい。どうにか無事に帰ってやろうではないかと気を取り直して、進む私の背中にまた声がかぶさってくる。
「今日は3時過ぎから雨と雷です~!」
 大室山は急いでも6,7時間の歩行距離だ。始発のバスに乗って入山するのが9時過ぎ、お昼休憩を考えると、写真を撮らなくても午後の4時過ぎが戻り時間となる。今日は山頂付近でミツバツツジを撮ろうと、70-200㎜の望遠ズームレンズと三脚を持ってきていた。じっくり写真を撮る時間があるかどうか… もしもミツバツツジを撮っている間に豪雨と雷に襲われたら… 私は引き返して、仕切っているご婦人に訊きに行った。私が3時過ぎにいるであろう、コースの地点の地図を示して。
「すみません、このへんに避難小屋はありますかね。大室山から加入道山のコースですが・・」
「ああ、加入道山を過ぎたらもうありませんねぇ」
 彼女はそっけなく言うのだった。おまけに、たったこれだけの質問をするのに、目を合わせたら逃げられて、近付いたら他の団体客と会話を始められてしまったので、終わるのを待っていなければいけなかった。どうも幸先が悪いようだ。
 
 私が今日の旅に大室山を選んだのは、檜洞丸にまた行くのはばつが悪い、ということもあるが、それよりも檜洞丸より空いているだろうと予想したことも手伝っていた。今日の檜洞丸の山頂は躑躅が満開だと、自然教室の男性スタッフが事務所の外で説明していた。
「今日は天気がいいですからね… 満開の躑躅を綺麗に撮れますよ」登山者たちを笑顔で送り出していた。
 ならば、みな檜洞丸に登るのだろう。案の定、大室山へ向かうのは私一人だった。檜洞丸の登山口を過ぎると、用木沢沿いの山路は誰も歩いていない。時々、キャンプ場の客と軒先にいる地元の人たちの顔を見るくらいで、登山者らしいものは見かけない。ここまでいないとは逆に思わなかったくらいだ。用木沢にかかる橋を渡り、渓谷を超えて、犬越道へと向かっていく。この渓谷で、うろうろと迷ってしまった。標識もなく、石場なので足跡(道)もなく、どちらへ進んでいいのかさっぱりわからない。何度もガイドブックと地図を見返している。
「木橋を数本渡り、右岸の鉄筋橋を高巻き、渓谷美の中を進んでいくと川原に出る。前方に小こうげの稜線が望まれる。ベンチを過ぎて右岸を高巻くようになり、ガレ場を越すとしばららくしてコシツバ沢を横切り、犬越路への最後の急登りだ」
 高巻く… 小こうげの稜線にガレ場… 今いる地点は川原のようだが、もしかしてこれがガレ場だろうか?まるでなぞ解きのようだ。さっぱりわからず、だんだんと私はふてくされてきて、犬越路の登山道にたどり着けなかったら、この渓谷の写真を撮って返ってしまおうと考えている。そうすれば、雨と雷の不安も消えてしまうだろう。その時は、もうツツジには縁がなかったとあきらめてしまおう。
 ところが、そのあとすぐに木の矢印の標識を見つけたのだ。「犬越路 2.5km」と書いてある。ベンチの向こうに木々の茂る登山道も見えている。目的を反故にしてもかまわないと思いかけた瞬間だったので、これには本当に意外な思いがした。私はベンチに座り、休憩を取って、それから山の神々にお祈りをした。
「どうぞお守りください」
 そこから、やっと登山がスタートしたのだった。犬越路の細い登山道に入るとすぐに大きなブナが目に入った。驚いて写真を撮る。登山の始まり、ブナ、それが合図のように、すぐに霧が立ち込め始めた。風で木々がうねり、音を鳴らす。そのたびに、昨夜の雨の残りだろうか、滴がざあと落ちてくるのだった。一瞬、雨が降り始めたか、と冷や冷やしながら、木々を見上げる。まだブナ林は始まらず、オオモミジにホオノキにケヤキにコナラ、時折霧の晴れ間から陽が差し込んで、彼らの新緑を輝かせている。それもつかの間だ。大越路まで0.8kmの標識を見た後から登りが険しくなってくる。比例するように霧も深くなるのだった。
 
 
 
犬越路入口の大きなブナの木。
霧で視界の悪い大越路。ただし、空気がひんやりしているのでずいぶん登りやすかったと思う。
大越路に到着。奥の左手に避難小屋がある。右手の道が大室山へ続く山道。
 
 
 私はこの峠を越えた武田信玄の兵を思っていた。軍犬を先頭にして、何百人の兵がこの路を進んだのだろうか。その兵の姿が次第に戦時中の日本兵の姿に重なって来た。異国の峠を何日もかけて連なっては行く彼らの姿を。ほんの数時間だと思うから登れる山だ。もしもこの峠越えが数日にも及んで、しかも終わりの見えない軍行だったとしたならば…
 シャワーを浴びて、湯に浸かって、温かい食事を食べて、身体を休める、そんなこともままならずずっと行かねばならなかったら… さぞかし辛いことだろうなぁ…
 そんなことを思っていると、後ろから若者たちの声が聞こえてくるのだった。笑いながら登って来る彼らの喋り声。そして、前方に、まるで7、8歳くらいの小さな少年が、若い母親と一緒に登っている姿が突然目に入って来たのだ。私はみっともないくらい息を切らし、上半身を折り曲げて登っていたのだが、この後ろの若者声と、前方の少年の姿に気が付いて、ふいに姿勢を正した。後ろの青年たちが、そのとき想像していたからか、若き日本兵たちの明るい声のように感じられ、そして前の少年は、行者のように見えたのだ。あんなに小さいのに、母親の前を行くのだった。木の杖をつきながら、導くように。霧の中、彼らの姿は声だけだったり、はっきり映らなかったり、おまけにここは深山の峠のようなひんやりとした険しい山道で、私の日常とは違い過ぎて、現実感が希薄になり、次第に武田信玄の兵も、日本軍の兵も、少年も青年たちも私も、すべて行者の姿に重なって来るのだった。前から鈴の音を鳴らしながら、男たちが降りてきて、姿は見えないが降りてきて、前
の親子と会話をしている。
「あと少しだよ!頑張って」
 その30秒後くらいにやっと彼らは姿を見せて、しっかりした体格のいい山男たちで、私が道を避けると礼と挨拶をくれるのだった。「こんにちは」
 こんにちは、と私も礼儀正しく挨拶をして、「あと少し」という言葉を信じて進んでいく。
 この犬越路の残り0.8kmはずいぶんきつい道のりだった。なぜか、0.8kmを過ぎてから標識が頻繁になり、0.7km、0.6km、と0.1km近づくごとに立っていて、私は0.1kmと言えば、たった100mではないか、運動会では20秒もかからない短い距離だと何度も思うのだが、とうに、2、300m進んだ気になって、しかし、あと0.7kmの標識に出くわす。まだ、0.6kmか、まだ0.5kmか、まだ…とそのたびにげっそりする、といった感じであった。先々週の檜洞丸では絶好調だった。私は足取りも軽く、駆けあがるように登ったのだが、いったいどうして今日はこんなに厳しいのか。体調だろうか。たまたまのコンディションか。
 こういうときが以前にもあった。あれは去年の塔の岳を登った時だ。あの時も息が切れて、足が持ち上がらなくて辛かった。あのときの不調の理由を私は考えている。
 もしも、あの時と同じことがあるとすれば、そして、それが前回の檜洞丸ではなかったことだとすれば、原因はひとつしか思い当たらなかった。70-200㎜のズームレンズだ。私は替えのレンズをリュックに仕舞っていた。塔の岳の時と同じように、このレンズのプラス2kg弱の僅かな重みが負担となっているとしたならば。いや、今日は天候を考えてプラス雨具や非常食も持ってきたのだった。やはり荷物のせいだろうか。それともこのレンズは何か魔が取りついているのか。私は皮肉的に笑いたくなった。
 この交換レンズを後生大事に持ち歩くのは、塔の岳の時に感じたには、それが私のパス=入場券だからという理由だった。
 私は私が今大事にしている世界にい続けるために、どうしてもこのレンズが必要だった。しかし、笑みは止まらないのだ。もしかしたら、そう思っているのは私だけで、これは用をなさない入場券かもしれないという思いがしてくる。私だけがそう思い込んで持ってはいるけれど、実際の私はそのパスがなくてもそこにいられるし、それより本当は別のパスが必要であるかもしれないのにそれに全く気付いていないだけなのではないかなどと。そう思われてきたら可笑しくなってきたのだった。確か、塔の岳に登った時も、荷物の重みでさんざん苦労して、なのに頂上でこのレンズを持ってきた意味がなかったのだ。そのときもちょうど今と同じような霧の日で、望遠レンズで切り取って映すものなど、何も見えはしなかったのだった。今日の私は山頂付近でこのレンズを使うのだろうか。ツツジを撮るために、前日の最後の最後にやっぱり必要だと判断してリュックに収めたはずだった。けれど…
もしも豪雨が降ったら? 樹木の中をジグザグに進むと、大越路に辿り着いた。1時間ほどの道程だったが、やっと…という感が大きかった。少年が叫んでいる。
「やったぁー!!着いたぁ!」
 大越路に着いて初めて、私は母子と挨拶を交わした。先ほどからずっと一緒に登っていたようなものではあったが、あらためて顔を見せあって、
「こんにちは」
「こんにちは。もう着いちゃったよ!」
 少年が笑顔でそう言うのだった。母親も笑いながら、「まだ続きはあるんだけどね」
 彼らはここで終わりなのかもしれない。休憩しているうちに消えてしまい、そのあと二度と会うことはなかった。後ろのいた青年たちも現れた。檜洞丸の方面から来た人々も合流し、にわかに犬越路の休憩場は騒がしくなる。
 私はこの峠をずいぶんと甘く見ていたようだ。気楽に登って、そのあとの頂上付近の登りまで力を蓄えておこうと考えていた。ところが、あのラストの0.8kmがあんなにしんどく感じられたのだ。すでに息が上がっている。それよりも急な0.55kmを山頂付近で登りきれるだろうか。たぶん私は今ここにいる登山者たちすべてにおいていかれることだろう。塔の岳のときの、山頂付近の牛の歩みを思い出している。あの時は一歩がわずか数センチほどだった…
 
 
 
霧の中のブナ(上)と、犬越路を過ぎた後の大室山登山道。(下)
 
 
 
 私は彼らより先に大室山へと出発した。休憩している場合ではないような思いがした。雨と雷までに山頂を越えて、少しでもゴール(行きに登山カードをかいた自然教室)により近いところまでたどり着かなくてはならない。雨の軍行が長ければ長いほど私の体力はますます奪われることだろう。私は大室山山頂へ向かう登山道を大急ぎで駆けていく。
 その道こそが550メートルの急登りだとは思いもせずに…
 

 頂上には12時15分に辿り着く予定だった。ところが12時を過ぎて、私は登山道の途中に座り込んでしまった。
 あと10分と少しで山頂に着くなんて無理だった。まだ0.5kmの急登りも登っていない。
 私は案の定、すべての登山者に抜かれていた。抜いて行った若者の団体が、山頂についてお昼の休憩を終えて、下って来た時は正直ショックだった。いくら写真を撮りながら登っているからといっても、あとで三脚と交換レンズを出してからゆっくり撮ろうと思っていた私はそうそう写真撮影に時間を取ってはいなかったはずなのだ。
 一人になって今にも降り出しそうな霧(ガス)の中を歩く私の前に、ふと少しふっくらとした男の子が目に入った。たぶん学生の4人程のグループで、さっき通り過ぎた彼らの一人らしかった。どうやらあとの3人とはペースが合わないらしい。ほとんど私と同じ速度で、つらそうに前かがみになって歩いて行くのだ。

 
 
 
仲間から遅れをとり、一人歩く青年。
 
 
 私は彼には悪いがこれを幸運だと思った。まるで神が私のために授けてくれた使者のようだとさえ思った。彼がいる限り私は一人で行く不安とは切り離された。残りの青年たちも、しばらくすると休憩して彼を待ち、また合流して歩き始める。しばらくすると、彼がまた一人になり、するとまたしばらくしたのちに3人が待っていて合流する。その繰り返しだった。私はつまり彼ら4人一緒だということで、これはずいぶん心強いことだった。しかし、良く考えると、待っていてくれる3人は休憩を何度も取っているわけだが、待たせている彼一人は一度も休憩を取っていない。合流するとすぐに一緒に歩き始めるので、これはずいぶん辛いことのように思われて、歩きながら休憩を取り、ますます歩みが遅くなる彼に同情さえするのだった。
 その彼を見失わないようにしている私も休憩を取っていない。人よりもペースが遅いということは、休みを取れないということで、あの残りの3人のように早く歩ければいくらでも休めるものをと恨めしいというよりはふと不思議に感じているのだった。早く行く必要はないとか、のんびり楽しんでいこうよとか、行く過程に意味があるとか、いろいろ言うけれど、はやり早く行くものは多くの休憩を取れて、そうして体力を回復させて、また早く歩けるのだ。前を行くもっさりした青年の牛歩は、私と同じで、人のことは言えないと思いながらも、やはり男性にしてはずいぶんと遅いようだ。休みも取れず、仲間に気を使って歩きながら時折足を止め、天を仰ぐように見上げる。息を吐いて、また進んでいく。
 そうして、その彼がいるおかげで、私という人間一人が救われているわけだった。彼がいてくれなかったら、この山道、どんなに不安な思いをしていたことか。
 彼を見失わないよう、時折ブナを撮って歩いている。辛いなぁ、と思い、下を向いて、すると道に鮮やかな紫の、それから白のツツジの花が落ちているのだ。ヘンデルとグレーテルのパン屑のように、ポツリポツリと。はっとして、見上げると花は咲いていない。もう枯れたのか、それとも山頂から風で雨で流れてきたのか、今でも不思議でならないのだが、こんなことが本当に多かった。もうだめだとへこたれそうになると、ツツジが道を彩る。幾欠片もの落花が湿った土を照らすのだった。もうすぐだ…もうすぐツツジに出逢える。
 
 
 
道に点々と落ちるツツジ、見上げてもどこにも咲いてなく、木も見当たらず、不思議な思いがする。
 

 

 初めて、紫色のトウゴクミツバツツジを見つけた時はだから声をあげたい気持ちになった。私はカメラ抱えて、登山道から外れて、山の斜面へと駆けて行った。少しでもツツジを近い位置で撮ろうと近寄り、もうISOを上げても、露出補正を下げても、まともなシャッタースピードは出ないというのに、カメラを抱え、しゃがみ込んでツツジを撮っている。
 その初めて見たツツジを過ぎると、もうそれからの登山道は紫色のミツバツツジでずっと彩られていた。檜洞丸のようにツツジのトンネルこそないが、大室山と加入道山の登山コースは、始終ツツジだらけだったのだ。歩いても、歩いても、ブナとミツバツツジ。私は道を行くたびに、ブナとミツバツツジを見とめて、そうしてそのたびににっこりと笑ったものだ。まるでゲームのなかの、時間がくると自動的にほほ笑む小鹿のような笑顔で。
 しかし、そんな喜びはこの時はそう続かなかった。初めて見たツツジを撮っている間に、私は道を逸れ、そうして、あの神が授けてくれたかのような大切な青年を見失ってしまった。
 ついに私は深霧の中一人きりだった。
 登山道は急な登りと、平坦な山道が交互に現れては進んでいく。平坦な道は緩やかな坂道で、ずいぶんと楽なわけだが、それでも私はもう僅かな歩みしかできなくなっていた。こんなに体力を使い果たしていて、しかも嵐の近い霧の山中、青年を見失いたった一人で、それなのにまだ山頂に着く気配もなく、急な0.5kmの急登りも残っている。私は途方に暮れる思いだった。そのとき、不思議と霧が晴れて、陽が射した。私は力を振り縛るようにミツバツツジのある方へ駆けあがって、ブナと一緒の所を撮りたいと座り込んだ。残念ながら、ツツジがたくさん咲いているところまではたどり着けなかったが、何とか陽の射すときにブナとツツジを撮る。写真を確認する元気が残されていない。が、どう考えても、ピンボケではないかと思われてくる。三脚を出して、あの望遠ズームで撮ればもっと綺麗に撮れたのに、私はけっきょく使わないまま、青年を見失い、陽の射す瞬間を終えてしまった。本当にこのパスは必要なのだろうかという思いがまたしてくるのだった。それとも私が、何も使えていない。情けない思いがしてきて、ついに座り込んだ。もう時間は12時を過ぎていた。
 写真を撮っているとき以外には休めていなかった身体を休めようと思った。リュックを下ろして、足を伸ばした。もうスケジュール通りに進むのは難しいかもしれない。途中雨と雷に打たれるかもしれない。それでも前に進めなかった。しばらくそうして休み、ほんの5分ほどだっただろうか、それから気を取り直してまた登り始めた。なまじっか休んで飲み物を取るとなおさら息が上がる時がある。少しずつ少しずつ、ブナとミツバツツジの道を行く。アセビのオレンジの葉がまるで花のように群生していてツツジに負けず美しく感じられた。
 ふと、大室山0.3km の標識が現れた。このときの喜びをどう表現していいかわからない。
 もう永遠に0.5キロの急登りはないこと、それが私の勘違いであったことを一瞬で悟ったのだった。私はミツバツツジとアセビとブナを楽しみながら頂上まで一気に登って行った。
 
 
 
初めて斜面に見たミツバツツジ。

頂上付近。一瞬陽が射して、視界がはっきりする。
大室山山頂。

アセビも花のように綺麗だった。
頂上付近、ブナとミツバツツジが続く。
 
 
 
 すぐに辿り着いた山頂で昼食のお弁当を食べて、そして次は加入道山を目指して進んでいく。なだらかな稜線には行けども、行けども、ミツバツツジ。私は望遠レンズと三脚で、それから広角の単焦点レンズで、それを思い切り撮るのだった。
「今日は天気がいいですからね。満開の躑躅が綺麗に撮れますよ」
 自然教室のスタッフの言葉を思い返している。送り出してくれた言葉通りに、私は満開のツツジを撮ることが出来たのだった。戻ってきてまたバスに乗るまで、家に着くまで、私が雨と雷に打たれることはついになかった。
 
 
 
 帰りのバスの中で、というより白石峠を越え、白石滝沿いを歩いているときから、私が考えていたのはゲーターのことだ。
 それからノースフェイスの、朝見かけたあの黄色のことだった。
 あんなお洒落なジャケットと鮮やかなゲーターが欲しいものだ。今度山に登るとき身に付けた歩いたら、今日のような天候への不安も少なくなるように思われた。
 何色がいいだろうか。私はウェアとゲーターの彩りを考えて楽しんでいた。その組み合わせを想像して。写真の色彩効果の本で見かけた色の三原色などを思い出して。
 やはり黄色が可愛いだろか。それともオレンジがいいだろうか。
 そう、オレンジのゲーターに、薄紫か。それとも空のような青色のジャケットを着て。
 そんな鮮やかなウェアをまとって、また山を歩きたいものだと思いを馳せている。
 
 
 
 
 
ケイバイソウ、マルバダケブキが茂る山道。ミツバツツジが続いている。
アセビの向こうに見えるトウゴクミツバツツジ。紫色の花もいいが、立つように開く三つの葉が美しい。
加入道山へと向かう尾根道。霧は晴れないが、豪雨や雷はついぞ現れなかった。山の神々に感謝して―
 
 
 
 
 
 

私とカメラとマクロレンズ  ~息の詰まる世界を確認するための散歩について~

 
 
 
 
 人生は成長する過程だと思っている。ところが私があまりにも良く躓き、良く転ぶので、このままでは及第しないとあやしんだのか、ある日天からカメラが降ってきた。
「これを使って勉強しなさい」
 もちろんそんな御言宣をじかに聞いたわけではない。何ごとも偶然を必然と捉えるいつもの癖で、そんなふうに感じたわけだ。
 そこで私は、カメラを抱えて、どこへでも出かけて行った。道を探し、道に迷いながら、躓かない、転ばない歩き方を模索し始めた。
 週末1日だけの撮影旅行を心待ちにした。帰宅すると、その日感じたこと、整理できたことを必ずブログに書いて心のメモとした。
 同じ過ちを繰り返さないようにと。
 
 
 
 
 道を行くには時間がかかる。何せ成長するためのツールなわけだから、ただ上手く撮ればいいというわけではなかった。時間をかけて移動しながら、その旅の中で様々なお題をクリアしていかねばならない。と言っても、全く写真が上手くなくてもいい、出かけた風景を撮れば何でもいい、というわけにもいかない。もちろん上手く撮ることも重要なお題のひとつである。無人島に行くならまだしも、人が多いところに旅をすればするほど上手く撮ることは難しい。難しい状況でお題をクリアすれば、その分、成長率がアップする。
 そこで私は様々な問題に折り合いをつけながら、写真旅行を続けてきた。私がそうして努力し続ける姿を望んでいる誰かがいると確信していた。
 自分のためだけになど頑張れない。今まで続けてこられたのは、カメラが、与えられたものだからだった。
 そんな私に先日ある事件が起きた。「誰か」のひとりから青天の霹靂と思われるような助言を頂いたのだった。
 その方がいうには、折り合いをつける写真には意味がない、と言うようなことで、上手く撮らなければ写真ではない、そう言い切るたぐいのものだった。
 確かに上手く撮らなければ意味がないが、それだけがすべての意味ではない。今までの旅を、成長を望むドラマを全否定されたような思いに陥った。
 そこで、少し停滞してしまったのだ。まるで山の中腹で座り込んで動けなくなったかのようであった。
 またか・・・
 こういったことは何度もあるのである。道に迷う、躓く、転ぶ、それから座り込んで動かなくなり、しまいにリタイア。その繰り返しの人生であった。
 
 
 折り合いをつける意味を見失った私は、とりあえず近場の公園に出かけた。そこなら三脚も使用できるし、移動距離がない分時間をかけて一枚一枚の写真をじっくり撮れるのだった。旅と言うよりは散歩の意味しかないが、助言はつまりは私が下手くそだと言うところからきているのだろう、しばらくのあいだ成長することをあきらめて、ただ写真の練習をするのもいいかもしれない、と前向きに考える。
 いつもの森と名のついた公園は雨上がりで美しかった。辿り着いた途端、入口の木々たちはしっとりと濡れた姿を晒し、若葉を青々と輝かせている。なるほど、旅をする意味もないかもしれないな、とふと思った。近場でこれだけの素材があるのだ。ここで見出すことはできないものか。
 私は誰に憚ることなく三脚を広げて、遠慮なしにしゃがみ込んでは、手当たり次第に撮り始めた。雨の滴の残った野の草や木々の葉に目をつける。助言で一番傷ついた一言はレンズのことだった。
 
 
 
 
 
 
 
 いつも書いているが、私はマクロレンズが嫌いである。初めて、キャノンの展示場で使わせてもらったとき、あまりにも簡単に、浅い被写界深度の暈け味のある美しい写真が撮れるので驚いたものだ。これでは何の技術もいらないなぁとがっかりした。もちろん極めようと思えば奥は深いのだろうし、マクロの世界の醍醐味がいくらでもあるのだろうが、私が求める旅の世界とはかけ離れて思えたのだった。成長を望むなら難易度が高い方がいい。私にはマクロレンズはまるで戦争でいうところの「核」だった。あれは核兵器であって、人間のドラマを生む戦争を不必要とするものだ。核の性能を極める気にはなれなかった。
 70-200㎜のズームレンズで花を撮ろうと思えば、三脚が必要だし、人の集まる美しい花が咲く場所で撮ることも難しい。かろうじて三脚を使えたとしても接写ができないので、やはり道行く人々にも気を使う。もちろん三脚だけのことを言えばマクロレンズでも必要なのは変わりはないが、比ではないような思いがする。おまけにあれだけ大きく、はっきりと撮れることはまずないだろう。重さも断然違う。マクロレンズで良かったのなら、今までの私の旅はどれだけ楽であったか。が、私は成長するために与えられた写真というツールを、より成長するためだけに使いたいのだった。なのに、助言者はマクロレンズを使わない写真は意味がないというようなことを言うのだ。マクロデビューと言う言葉も愛好家たちの間であるように、マクロレンズを持っている、使いこなせる、と言うことの価値基準は私が思うよりずっと高い。それも気に食わない。
 しかし、もしも誰かの一人の助言として、私にカメラを与えてくれたものがマクロを望むならば、私は意固地にならず使う義務があるだろうと漠然とは思った。ふらり翌日立ち寄った電気店で、しかしお目当てのレンズは陳列されていない。それも必然だとしたら、答えはそこではないなと考える。別の方法があるはずだ…
 
 
 
 
 
 
 
 
 エゴノキの花が濡れた道に落ちていた。今年もこの時季だったかと、時の流れと季節の移り変わりを実感しながら白い花々を見つめた。雑木林を抜けると緑の原っぱに出る。晴れていたら木漏れ日が美しいであろう野の草の周りには、花を身にまとったやまぼうしが数本立っていた。
 私は露出に気遣いながら丁寧に撮った。それからピントに。基本的なところをクリアできるように、いつも好きで使用しているソフトフィルターも外して、撮った後に何度も確認する。今日は道を行かなくていい。誰かと出逢わなくても、成長しなくてもいい。そう思うと気が楽になって、ただ撮ることに没頭できた。
「良いのが撮れましたか」
 公園内の民家園の入口で、男たちがふたり、煙草を吸っていた。ひとりが笑いながら声をかける。
 先ほどから、私が野いちごを撮っているのを、あれこれ喋っているのが耳に入っていた。「苺を撮っているんだよ・・」
 私は男たちの傍を何も答えずに頭を下げて、駆けていく。今日は人間のドラマはいらないし、欲しくなかった。これ以後私は誰の声も聞かないし、誰とも言葉を交わさない。息が詰まる思いを抱えて、人間たちから離れて行った。
 前向きに考えても、没頭しても、どうしても立ち止まってしまう今日だ。私は何度も休憩を取って、一人煙草をふかした。今までの努力がすべて無意味だったようにも思われてくる。何のために旅していたのだ・・・と堂々巡りに考えている。
 マクロレンズでないから上手く撮れないとは言わせたくない。私のお気に入りのレンズで勝負したかった。成長はここから始めたかった。
 だけど、私が「誰か」の助言を受け入れられない本当の理由は、マクロレンズ嫌いよりもそこにあるのだろう。それが負い目となって、のしかかってくる。
 私はまだこのレンズをものにしていない。このレンズの良さを生かし切れていない。それどころか、まるで使いこなせていないかもしれない。
 だから、マクロよりもこっちの方が断然いいのだと胸を張って思うことができない。誰かに向けて発信さえできない。
 民家園を出た私は公園の中央の池の傍で今度は菖蒲に目をつけた。菖蒲は難しい。上手く撮れたためしがなかった。今日こそは・・・と力みが入る。
 最初は散々だった。まず、菖蒲自体に美しいものが少ない。田舎の公園にあるまるで野草のような菖蒲だ。咲き始めたばかりだと言うのに、ところどころ傷んでいて、または枝を折って倒れかけている。美しい花があると今度は場所が悪い。遠い、近ければ前暈けが何も作れない味気ない場所にあったりでとにかく簡単な絵作りも難しい。色やピントや露出にまで、たどり着けないありさまだった。
 
 
 

 
 
 
 
 ひとまず落ち着こうと考えた。今日は太陽もない、曇り空の柔らかい光があるだけだ。どう活かそうか。私は通常曇り空だとコントラストを高くするのだが、今日は露出補正をプラスにして明るい絵を撮りたかった。そこで、ふとコントラストを下げてみる。それが低い状態ならば、いくら明さを上げても白飛びすることはない。
 ところがコントラストを下げると、色が綺麗に出ない。そこで今度は彩度を高くする。200㎜の望遠の状態で開放にし、露出補正プラス、コントラストを最大まで下げて、彩度を上げると、驚いたことに私が思った通りの絵になった。頭に思い描いていた絵が撮れ、花や葉の痛みも下手くそなフレーミングさえ気にならなくなった。
 思わぬ発見だった。私は実験的にこの設定のまま、写真を撮り続けた。今までこのレンズで失敗した数々のことを試してみる。
 胸が高鳴ってきた。もちろんまだまだ試行錯誤と技術を要するが、それでも一歩前進だ。なんせ今までは頭に思い描いていた絵が撮れたためしがないのだから。
 望遠ズームレンズでも、マクロレンズに勝てるかもしれない。
 私は可能性のようなものを感じて、ふいに我に返った。今度こそすっかり没頭していたらしく、立ち止まる思考が出てくる余地もなかった。いけるかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 まるで初恋をした女子中学生のようであった。どきどきしながら、撮り続けていると、最近の撮影旅行では試しのない電池切れの終わりとなった。
 最後、水連の花を撮って、それが3回目の撮り直しで、やっと思うように撮れた瞬間に液晶画面が真っ暗になる。確認できたのはほんの一瞬だったが、私はこれが答えだったと確信して、満足している。2回目ではなく、3回目の絵で終わりになったこと。一通り花の写真を撮って、最後に残ったのが水連であったこと。
 合格。今日はここまで。
 まるでそんな号令のようではないか。
 池の周りには網でザリガニを撮ろうとする親子連れ、カメラを持ってうろうろする外国人。いつものえさ場で鳥がやってくるのを待つ人たち。売店の前で声を掛け合う店員たち。まだ彼らは心には届かないが、それでも顔を見ることは出来た。視線を合わせるでもなく、私は世界を確認して、エゴノキの花を踏んで帰途に付く。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

花も富士もない旅路の  ~初夏の檜洞丸を訪れる~

 
 
 
 
『檜洞丸のブナ林(山頂の木標より)
 
 この付近の林は、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の樹氷などに加え、シロヤシオ、トウゴクミツバツツジ、バイケイソ、マルダケブキなどが花を添えた美しく、多くの登山者に愛されてきました。しかし近年、ブナが次々に枯死するという異変が起きており、自然環境が大きく変化しています。これは、私たちの生活に起因する大気汚染などが原因ではないかと言われています』
 
 
 
 
 
 
 たぶん塔ノ岳山頂の尊仏山荘で写真を見てからだ。私は檜洞丸に魅せられた。
 初夏のシロヤシオとトウゴクミツバツツジの頃、この山は一番にぎわうと言う。幻想的な富士と花々の写真を何度も眺めた。行ってみたいものだ。
 5月の最終日曜にシロヤシオの開花期に合わせて山開きが行われる。三脚を抱えた私は人々の邪魔になる。山開きの前、花が咲いたばかりの頃を狙って出かけてみようと決めた。ずっと前から決めていた。
 久しぶりの山だった。私は緊張して富士急湘南バスに乗った。玄倉でバスが折り返すと、東を向いて走っていた車体が西を向いた途端、富士が見えた。私は身を乗り出して、バスの車窓から大げさに富士を眺めている。乗り合わせた人々は皆登山の装備を身にまとっていたが、私の行動に見向きもしない。大声で教えてあげたかった。
 富士が良く見えますよ。
 
 
 前回、あれは去年の夏だった。檜洞丸に登った時は朝からあいにくの雨だった。しとしとと小雨が降り続け、それがふと山頂近くで止んで、壮大な雲海とともに富士が顔を見せたのだ。期待していなかっただけにあの景色は嬉しかった。私は自分の幸運をかみしめたものだ。
 今日は午後から曇ると聞いているが、急いで登れば、山頂でシロヤシオとトウゴクミツバツツジと富士のあの夢に描いた光景が拝めるかもしれなかった。私は座っているのがもどかしくなった。終点の西丹沢自然教室に着くと、登山カードを書いて、早々に登り始める。コースを良く見て、時間割を決める。ゴーラ沢出合まで30分、展望園地は1時間、石棚山コース合流点まで1時間、山頂付近で写真を撮るのが30分、頂上には1時に着いて、昼食を撮って帰途に着く。余裕を持って決めたつもりだ。それぞれの地点まで、早く到着すれば、写真を撮る時間が増える。圏外になった携帯電話を取り出して、何度も時間をチェックする。
 
 ゴーラ沢出合までは3人の婦人たちと一緒だった。前に足の悪い単独の年配者、後ろに二人組のやはり年配者。私はリーダーシップが皆無なのか、この組み合わせが妙に性に合った。先頭の女性が岩場を登るたびに立ち止まって、両手を使って足を持ちあげている。後ろの二人は世間話や山の景色の見事さを語りあっている。前で詰まるので、後ろからせかされてもこのペースは私のせいではなく、逆にペースアップして、二人組を導くこともしなくていい。まだ急登りもないので、新緑の見事さを味わいながら、久しぶりの山道を楽しんでいる。
 ところが、前の女性が気を使って、道を避けた。「若い方はどうぞお先に。私はこんななので・・」
 がっかりした。彼女は、遅いペースに後ろが苛立っていると感じてしまったのだろうが、それともプレッシャーだったのかもしれないが、私はしどろもどろに礼を言って、追い越した。後ろの二人組も続く。こうなって来ると、遅く歩いても、早く歩いても責任が生じてくるので、どうもやりづらい。
「のんびり行きましょ。頂上にたどり着けば、山は良いというものではないわ」
 二人組の一人がきっぱりと言った。その声を背中で聞いて、安心をする。左手には東沢、涼しげな水の流れを感じながら、樹林帯を行く。ふと時計を見ると、ずいぶん押しているようだ。二人組も気が付けば大分後ろに離れていた。私はペースを上げることにする。つい先ほど抜かしていった男性ハイカーに標準を当てて、彼を追いかけるように、行く。
 そうしながら仕事のことを考えている。私は良く、自分が無能と思われたくないばかりに一生懸命やり過ぎて、周りをあおってしまうことがある。部下ならまだしも上司をあおる。ペースを乱された彼ら年配者や経験が上の者は私をやりづらい相手、もしくは無能と判断し、全くの逆効果になったりする。山を行く時は抜くこと、抜かれること、人々のペースについて、いろいろと慎重に考えるものだが、評価が絡むと忘れてしまうのだろうか、上手く出来ない。私は前方の男性を追いながら、職場でもこんなふうに、私よりも力のあるもの(ペースの速いもの)をただ追いかけて行こうと考えている。あおらないようにひっそりと、普通に楽々と歩いているように見せかけながら、心に気概を灯して追っていくのだ。
 ゴーラ沢出合には、彼のおかげでタイムテーブル通りにたどり着いた。沢を渡ると、ここから石段の鎖場の急登りが始まる。気温が上昇していた。汗をかいていたが、水を飲むと体力が落ちる。私だけかもしれないが、体がだるくなり登りにくい。私は急登りの前の休憩で口の中を濡らす程度の水を取って鎖場に挑んだ。ここからの同行者は数名の登山グループだ。私の沢渡りを手助けしてくれた方々である。彼らのあとを置いて行かれないよう付いていく。
 後ろには若い20代の男女、山登りが趣味の恋人同士だろうか。7名で団子状態になって登っている。前のグループがペースダウンすると、私は木々を眺めて、それから落ち葉を拾っている。まだブナの葉はない。目標と決めた男性グループが意外と遅く、私の体力が余ると気付いたころ、私は初めてブナの葉を見つけた。はっとして顔をあげ、辺りを見る。左手の斜面近くに細い若木のブナがサンゴジュのように幹を密集させて立っている。青々とした葉、ブナの新緑を見るのは今年初めてであった。
 
 
 
 

左・今年初めてのブナ  右・背の高いブナの木が見え始める

 

 
 私は人々の邪魔になる三脚を取り出して写真を撮るのは頂上付近(のシロヤシオとツツジと富士の絵)と決めていた。なので、記念すべきブナの写真は携帯のカメラで撮らせていただく。この初ブナを見てから、足元の落ち葉はブナばかりになるのだった。ブナ林か?と思って顔を上げると、確かに大きなブナらしき木はあるが、天を見ても葉が識別できないほど背が高い。地衣類がまだらに付く白い幹が特徴のブナだが、意外と幹だけではカエデ類やニレ科やシデ類と見分けがつかないことが多い。特に深山の中の木はわかりにくい。必ず葉っぱを見るのだが、背が高い木だと葉が遠いし、隣の木の葉と重なったりで一瞬ではわからないのだ。(なので落ち葉を確認しながら歩いているのだ)目を細めて良く良く見ると確かにブナである。多分この葉の厚みのある成木のブナが辺り一面にブナの葉を落としているだけで、ブナ林と言う景観とは程遠い。もう少し先に行くと、背も低いし、老木でも成木とも思えない若いブナたちがブナ林を形成していたが、こちらは逆に足元にはブナの葉は全く落ちていなかった。葉が薄く、落葉も少なかったのだろう。
 私は面白く思いながらブナの葉を踏んで歩いていく。辺りはコナラにアセビにヒメシャラ、ハルニレの新緑、もしくはカヤかモミか(もしかしたらメタコセイヤ?)の濃い緑の常緑樹。そして、ときどきブナ。背の高い彼が現れると、圧倒されて、馬鹿のように顔を上げる。男性グループたちがブナの木の下で何と小さく見えることか。
 休憩しようか。の掛け声とともに、彼らは私と後ろのカップルに道を譲るのだ。今更ながら、「こんにちは」を言って、お先にとかスミマセンとかまたしどろもどろに呟いて通り過ぎる。少し登るとすぐに展望園地だった。タイムは上々だ。初顔のハイカーに何人も合流する。ベンチには前から座っていた方々、富士を撮っていると、後から後からやってくる方々。後続組はたぶん一本後のバスで来たのだろう、こちらは若い方々が多かった。学生のグループと言ったところである。
「だめだ、上手く撮れないなぁ」
 と呟いている。若者の一人が富士を一生懸命撮っているが、コンデジではうまく映らないようだ。今日の富士は曇り空にうっすらと浮かび上がり、全くはっきりしない。まるで空に溶け込むように淡い線を描いている。携帯で上手く撮れない私は、リュックを開けて一眼レフカメラを取り出して、コントラストの設定を変えてPLフィルターを回しながら撮ってみるが、やはりこちらも携帯の絵とほとんど変わり映えがしない。しかし、このために写真愛好家用に作られたリュックを開けたことで、山男たちが食らいついてきた。
「面白いね~ 背中が全部開くんだね」
「どこのメーカー?」
 ミレーだのノースフェイスだのでは確かにこんな作りはないだろうな、と可笑しく思いながら、「カメラ用なんです。機材を入れられるように開けやすくなっていて」と説明している。
 
 
 

 
左・真ん中あたりにうっすらと見える富士  右・トウゴクミツバツツジが道道に見え始めた。頂上を期待させる。
 
 
 
 展望園地に辿り着いた時、この後の休憩地点でもそうだが、休んでいる人々の中に入っていく時、私はずいぶん気を使ったつもりだった。挨拶をして、邪魔しないように人々の輪に加わっていく。上手く言えないが、今までのように、人々が休む場所だから、私も当然そこで休んでいいのだ、とは思えない自分がいるのだった。私がある場所で休憩をしようと願うこと、そこに人々がいること、その方々が私が加わることを良しとして、私も彼らといても苦にならず、私たちみんなが一緒に休憩を取ること。そういうことは、意外と当たり前のことではないのではないかと思われて来た、とでも言うのだろうか。これは職場とか、趣味の教室とかで考えるとわかりやすいが、誰しも人は、労働力と引き換えにお給料をもらっているからとか、授業料を払っているからとか、だから当然というわけではなくて、その場に居させていただくということなのではないかと。そんなふうに思えてきたと言うか。この地球に生まれ落ちて、今生きているのも、同じことなのではないかと、少し大げさだがそんなふうに感じられてきたのだ。
 そう思うと今ここに、彼らと一緒に休憩しているのはずいぶんとありがたい話で、
「たぶんアウトドア用のメーカーではないから」
 などと答えて、感心してくれる方々が周りにいると言うのも、ずいぶん貴重な出来事なのだった。
 私は楽しいひと時を過ごして、ではお先に、と声をかけてまた山を登り始める。若者の集団は後ろに置いてきた。しばらく行くと、また前に別のグループと出くわしたが、こちらとの同行も短かった。お喋りしながら(本来のペースよりも)ゆっくりと進みたい彼らは、「人が来たよ~避けて避けて」とあっさり道を譲ってくれるのだった。
 前を行く人で二人組だが休憩のために止まったので、挨拶をして通り過ぎると、一言も返事をしてもらえないということもあった。 または前を行く人で明らかにペースが遅いが、道を譲ろうとは決してしない。負けん気を出したのか、一生懸命進んでいく方。後ろの同伴者から「人が来たよ、避けてあげて~」と大声で叫ばれて、今気付いたかのように道の脇に退いて、挨拶もそこそこ、ということも。私もその一人だが、いろんな方がいて、いろんなケースがある。山登りは人生の縮図のようで面白い。
 山と、あとはドライブか、私は山登りと運転を見ればその方の生きざまや人生がありありと浮かびあがってくるような思いがする。
 私は今の会社のことを考えた。山を登りながら、今のあの場所が与えられたのも、あの職場の人たちと偶然乗り合わせたことも、すべてが当り前の偶然というわけではないのだろうと。もしくは今の私の家族のことを考えた。私が一番生きやすいように、すべて導かれたのではないかと。自分が人生の中心で自分の都合よく考えたら、すべて、彼らは私のためにあるのだ。私のために乗り合わせてくれた人々だった。もしも問題があるならば、それは越えなければいけない、越えられるはずの試練であろう。私はずいぶんペースを上げていたようだ。若者は遠くなった。いつもは手を使い上半身を使って全身で登るものだが、今日は腰から下だけでサクサクと登っている。身体が飛ぶように軽い。若者が道を譲ってくれたわけではなくて、私の力が増したような思いがして来ている。しかしもしも、たとえば神が私のために、私が最も生きやすいようにと与えてくれた人々や場所や機会であるならば、今までの人生のつまずきや挫折は何だったのか。数多くの失敗は。それとも、あまりにも、何度も私が転ぶので、今こう身軽に進めているのは、神が見かねて、レベルを下げてくれたということなのだろうか。それとも、知らずに私の適応性が増したのか。
 2キロを過ぎたころから、立ち枯れのブナが多くなった。倒木も多く、まだ土に返れぬ彼らが無残に転がっている。そしてこの頃からハエが出始めた。ぶんぶんとまとわりついてうるさい。手で払うと、手の甲にぶつかるので、気持ち悪くて仕方がない。このハエは、まさか倒れたブナのせいで発生したのか。こんな山の上に、これだけのハエが集まるのだ。良く見ると、青く緑に光って、けっこう大きいではないか。それとも鹿が死んでいるのか。動物の死骸があると言うことか。
 私は崖沿いの柵を眺めた。鹿除けのためのフェンスだ。丹沢に多く発生するシカの食害で、ブナたちも深刻な被害を受けている。木肌が丸裸のものさえあった。しかし、もしもこれらのハエが動物の死骸、鹿の死骸から集まったものだとしたら・・・ 土に返った鹿が、その肉が養分となって土に吸収されていくところを想像した。ブナの張り巡るされた木の根がそれらを深い土の底から吸い取っているところを思った。昇るたびに、ブナの木は化物染みてくるのだ。木肌は黒くなり、もしくは朽ちかかり、根は何本もの足のように地上に迫り出して、延びている。それらのブナが、もしくは、夜中にふいに枝を動かして、食べ物を求めてさまよう鹿をふいとつまんで、山の谷底へ放り出す。そんな黒い闇の中の幻想を思った。それとももしくは、このハエは私だけにまとわりついているのか。若者の周りにはなかったではないか。
 私は苦笑いをしたものだが、ふと自分がすでに亡骸になっていて、ハエに見抜かれているような思いまでしてくる。なるほど、私のためのものであるはずだ、私はすでにこの世になくて、自分で自分にとって都合のいい世界を想像してるだけなのだ。だから、幸せを感じているのかもしれない。
 
 待ちに待った石棚山コース合流点が近付いた。この少し前に、大室山を見渡せるベンチがあり、その辺りからツツジのトンネルが始まるのだ。
 しかし、シロヤシオがわずかに咲いているだけだった。
 夢に描いたトウゴクミツバツツジと富士とシロヤシオの絵は現れず、どこまで登っても現れず、あきらめきれない私は三脚を取り出して、カメラに付けて担いで山頂まで登ったものだが、このときの同行者の老夫婦が、石棚山コースから降りてきた男性と会話を始めて、そうしてついに現実を受け入れた。
「あっちも全く咲いていませんでしたよ」
「そうですか。あちらもじゃあ仕方ない。去年来た時はもっと咲いてましたがねぇ」
「今年は一週間、いや、二週間遅いかもしれませんね」
「せっかく登ってきたのに・・・残念ですね」
 最後の言葉を発した婦人は、この後三脚を担いで歩く私に声をかけた。
「これじゃ写真に撮れませんね」
「ええ、残念です」
 私は彼女の言葉を繰り返した。
 
 
 
 
右・シロヤシオの花  左・頂上付近のベンチから。大室山を見渡す。僅かに咲いているシロヤシオ。
 
 
 
 
 富士は、せめて山頂の富士はと思えば、お昼を過ぎて、さらに曇り空に溶け込んでいた。肉眼で確認するのもやっとなほど、私が必死で写真に撮っているとあとからやって来た登山者が不思議そうに通り過ぎていく。
「良いカメラですね~」
「ええ、でもあんまり綺麗に出てないんですよね」
「あれ~富士があったんですか!」
 私が撮っているのが富士だと知って驚く始末だった。
 一週間後、あるいは二週間後、山開きのあとにもう一度来ようか。たとえ人が多くて、多少の迷惑をかけたとしても、トウゴクミツバツツジの紫とシロヤシオと富士の純白が空に重なるところが見たいものだ。
 山頂には大勢の人々、私は彼らの隙間に入れていただいて、一人おにぎりを食べている。まるで体が自分のものではないように軽かった。何人もに道を譲ってもらった。若者の足手まといになると思った日々さえ遠く感じた。
 だけど、花は見れないのだ。見たくて見たくて、仕方がなくて、ここまで登って来たというのに、空前に調子の良く感じる私の前にはついに現れなかった。
 私は山頂のブナを眺めて、彼の根元に腰を下ろしていた。小さな若葉をたくさん纏い、その姿を10メートル先から男性が写真に収めている。耀く若葉を見上げる顔がまぶしい。こんなことでがっかりしたら、ブナに失礼だな、と私も顔を上げた。今日はずいぶんたくさんのブナを見たものだった。
 すべてが上手いようにはいかないよ。調子に乗りすぎるなよと、まるで釘を刺されたようだ。
 生きているのだから。
 私は三脚をリュックに仕舞い、それでも裾野に咲いていたトウゴクミツバツツジを今度は一眼で撮ってやろうと首にぶら下げたまま駆けだした。2時間後のバスに何としても乗ってやろうと。焦って、急いで、何度も滑り腰を打ちながら。地を這うようにぶざまに進んでいくのだった。
 
 
 
 
ブナと山頂の標。ここでみんな記念撮影していた。
シロヤシオもトウゴクミツバツツジも咲いていない山頂付近。 右上に微かに富士が見えている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

新宿御苑で空を見る。

 
 
 
 
 
 音楽ならば繰り返し聴くように、好きなものはただ味わうことに興味があって、知りたいとは思わない。
 知るということと、好きということが分離しているようだ。「○○音楽完全解読本」など読みたくないし、知識を得ると、つい吹聴して、「音楽論」などを語りだしたくなる。そうなると、私の好きな音楽が不意に俗っぽく感じられてくるのだった。
 もちろん知ることが俗だとは思っていないし、人並み以上の知識欲はあると思う。知るということは大切なことであると感じている。ところがやはり好きなものはだめだ。
 これだけは、ただ好きであることだけが尊いように思われるのだ。好きである対象についての知識を深めるよりも、好きであるその思いを深化させること、それだけがすべてではないか。でなければ本当に好きだとは言えないのではないか。
 そんなふうに「好き」を貫いて生きてきた私は、好きなものに対していつでも限界にぶち当たるのだった。
 好きなことを仕事にできない。(好きなだけでは飯は食えない)
 好きなことで人に負ける。(好きなだけでは他者の評価にそぐわない)
 誰よりも好きなことには自信があるのに、いつでもしっぽを巻いてすごすごと撤退する羽目になる。
 
 
 
 

 

 
 いつものように、カメラを抱えて出かけようとしたら、携帯が壊れた。
 正確に言うと、壊れた充電するための電源コードを無理やり差し込んだら差し込み口の突起が折れて、二度と何物もさし込められなくなった。もちろん充電など出来はしない。今の電池が切れたら、携帯は再起不能となる。朝の30秒ほどの出来事だった。
 私は青ざめた。写真旅行どころではなかった。なぜ出かけしなに壊れかかった電源コードを無理やり差し込まなくては行けなかったかと訊かれれば、外出先で電池が切れたら嫌だったからだ。充電マークがフルではなかったことにふと気が付いて、ほんの少しの時間で良いから充電しておこうと焦ったためであった。
 200ミリの望遠ズームレンズは家に置かれた。外出先は山ではなくて、ドコモショップになった。
 私は携帯やパソコンや機械上のネットワークによる繋がりというものをそう軽視していない。その小さな繋がりを遮断されたり、そこからはじき出されたりしたことで、親を殺したり、自殺をしたりする者の気持ちがわかる、と言うよりはそれが真実だと思ってしまう。
 誰もがハリネズミなのだ。ぶつかり合った痛みを受け入れてくれる場所も機会も現代にはありはしない。恐る恐る、お互い安全地帯から僅かな繋がりを保ち続け、それがすべてとなる。でももしも、場所と機会さえあったならば、痛みを受け入れてくれるものがあったならばと思うことはあるけれど・・当分私は携帯を肌身離さず、一瞬たりとも離さず握りしめて、生き続けることだろう。
 ドコモショップで携帯の電源差し込み口は直らないことを知り、それは大事なアンテナの役割をしていて、折れていると少々具合が悪いということを聞かされた。とりあえず、今日は卓上ホルダーを使うことにして、明日本体を交換することにする。保険を使って5千円だそうだ。なぜ保険料を毎月払っているのに5千円もかかるのか、安いとは思えないのだが、それでも小さな繋がりをほんの一時でも手放すことにはならなそうだった。卓上ホルダーは在庫のある新宿店に取りに行くことにする。
 新宿へ向かう電車の中で、私は本を読んだ。写真の露出の決め方の完全マスターというもの。プロの写真家5名が自分の撮った写真を例にとりながら、あらゆるシーンでの露出の決め方を解説してくれている。私は写真について正式に学んだことがほとんどないので、初めて知ることが多かった。心に残った絵やコメントを頭に入れて、この後試してみようと考えている。
 ドコモショップで卓上ホルダーに乗せてあげると、部品のちぎれた携帯は嬉しそうに点灯した。赤く輝く機種を見ながらほんの数分そうしている。充電のための携帯お預かりコーナーにはすぐに人がやってきて、鍵をかける気のない私はほんの少し温まった彼を抱えて店を出て行く。
 店内のパソコンで新宿御苑の地図は見ておいた。甲州街道をずっと行けばたどり着ける。この道を右だ…
 ところが歩けど歩けど、新宿門は現れなかった。右手に都庁が見え始めた。さすがに方向を間違えたと悟った私は念のため交番で「逆ですかね」と訊いてみる。
「新宿御苑ですか・・・全く方向が違いますが」
 まるで10代に見える若い警官は穴のあくほど人の顔を見つめるのだった。
 ドコモショップへ引き返して、甲州街道を逆方向へ進んでいく。新宿駅南口を過ぎるとすぐに新宿門だ。流れる大勢の人々と一緒に園内に滑り込んでいく。
 目指したのはフランス式の庭園だ。春薔薇が綺麗に咲いていると言う。樹木も美しく、「プロの写真家の解説付きお手本写真」の中でプラタナスの葉が輝いていた。
 花を撮るとマクロレンズが欲しくなる。標準のズームレンズでは無理があるなと思いながらも、別のアプローチを探している。大きく撮ればいいというものでもあるまいし。大体私は誰が撮っても綺麗に暈けて、誰が撮っても蕊まではっきり映るというあのマクロレンズが嫌いなのだ。あれを買うくらいなら中間リングを買って重い望遠ズームレンズに取り付けてやろうと思ってる。なのに、やはり手軽なマクロレンズがあればなぁと思う私がいるわけだ。
 
 
 
 

 
 
 
 悶々としながら、中途半端な花の絵を撮り、それからプラタナスの美しい並木を撮る。木肌の模様が芸術的だ。
 新宿御苑のプラタナスは明治時代に植えられたもので100歳近いと言う。新宿門傍のゆりのきというレストランの前にある木は特に立派で、2007年の台風で被害にあったというものの、幹の直径は2mは軽くあるのだ。包帯のような布で保護され、折れた身体をさらすその姿は立派と言うよりは「お化け」と呼んでもいいかもしれない。「お化けプラタナス」、「お化け染井吉野」、「お化けカツラ」、「お化けホオノキ」、「お化けケヤキ」、「お化けヒマラヤスギ」。新宿御苑にはお化けの樹木がたくさんある。敷地内の景観もさることながら、木を見て歩いているだけで飽きない。
 
 
 

 
 
 
 樹木の辞典は真っ先に買った。葉を見て、何の木かわかるという本を大切にいつも見ている。
 不思議なもので、これだけは好きなだけで見ているだけで良いというわけにはいかなかった。何の木かわかると、私はいっそう樹木が愛しくなったものだ。
 
 プラタナスの並木を過ぎて、日本庭園へと向かう。中央のイギリス風景式庭園と新宿門近くの芝生には、人々が溢れていて、近寄りがたい。彼らは花見のようにシートを引いて固まって、縄を引いて遊戯をしたり、お弁当を食べて、飲んで、それから毛布をかけて寝ているものもいた。
 来て早々、芝生に座り込み、横になる人を見た私は、自分もやりたいと思っていた。寝転がって、青い空を眺めたい。だけど、恥ずかしかった。一人では勇気がなくて、今もあまりにも多い人々を避けながら日本庭園の脇道を通っている。そうして、人気のないところで美しい芝があったら、絶対寝転んでやろうと思っているのだった。
 新宿御苑の人の多さは異常なほどだった。休日とは言え、ここまで人の集まる公園は見たことがないし、新宿御苑に来た中でも初めての経験だった。多くの人が園内でくつろいでいるというよりは園内に密集している。これだけ広大な土地がこれだけ埋まるほどの人々がよくぞ集まるものだ。
 「ゆりのき」のそばでプラタナスを見ていた私の前を新宿御苑の刺繍入りのベストを着た男が通り過ぎて行った。スタッフの彼は車を引いて、その上にはゴミ袋が山のように積み重なっている。薄い白濁のビニールからはコンビニのお弁当箱や飲みものの紙パックが透けて見えている。
 人が集まればゴミも出るのだった。消えていくゴミの山を眺めながら、私はまるでこのお化けプラタナスやお化け桜たちがたくさんの人々が吐き出すゴミを吸い取ってくれているような思いがしてくる。
 ここで憩いの時を過ごした彼らは、ゴミを預けて、安らかな表情で去っていくことだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 日本式庭園の池の終わり付近で私はちょうどいい芝生を見つけた。辺りは低木に覆われて、まるで個室のようだ。私一人がちょうど寝そべることができる良いスペースになっていた。
 私はカメラとカバンを芝に置いて、身を横たえた。背中を芝に、大地に付けて、空を見上げる。
 今日は少し雲が多いようだ。だけど、青い。もう少し水色だと綺麗だと思うくらいの、そう劇的でもない空が広がっていた。
 感動するでもなく、私は空を見上げて、いい気持ちになっている。周りの樹木から、根の張る地から、変哲もない青の色から、暖かいものを授かっている。まるで力が満たされてくるようだった。
 
 この空で繋がっている。
 
 私はゆりのきのベンチを立ち上がった。ゴミ箱へ向かって、ペットボトルを捨てて行く。
 新宿門を出るときに、ありがとうと呟いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

三渓園訪問記 ~若緑が目に沁みる~

 
 
 
 
 【松】一説に、神がその木に天降ることをマツ(待つ)意とする。(広辞苑より)
 
 
 
 
 
 
 
 三渓園は写真愛好家の作品によってよく目にしていた。
 外苑のシンボルの旧燈灯寺三重塔、手前に大池、という定番の構図は、実物を見る前から私をなえさせた。私はこの美しい庭園が嫌いだった。横浜にあるというところも嫌だった。あえて行こうとはしなかったのだ。
 土曜日、山に行こうとしていた私を引き止めたのは友人である。しかし、直接的な原因ではなく、心理的に言うならば、私は自分を少し変えたいと思っていて、いつもとは違う写真を撮ってみたい、という思いに駆られたことも大きい。
 私は使い慣れたレンズを置いて、70-200㎜の望遠ズームレンズを持った。絞り解放、ギリピンでの遠景、シャッタースピードを優先して取る花のブレ写真など、試すべき撮り方を頭に入れて、験(ゲン)の悪い横浜へ、好ましくない三渓園へと向かっていった。
 奇しくも青天である。
 行きたくて、行きたくて、たまらないところにやっと行けた時は雨や曇りが多いものだが、気の乗らない今日は絶景の撮影日和であった。
「しっかり勉強しなさい。青天にしてあげたからね」
 そう神様に背中を叩かれたようでもある。
 横浜駅から乗り換えて10分、根岸駅からバスでまた10分、三渓園にはすぐに辿り着いた。途中二度ほど道を尋ねたのだが、不思議とふたりとも簡潔でわかりやすい教え方である。
「こっちの方向をまっすぐです」
 と一人め、真直ぐ行った後のもう一人は、
「つきあたりを右に曲がってすぐの交差点を左に曲がって2,3分です」
 愛想もないが迷うこともなかった。一人目のこの方向を真っ直ぐという意味もなるほどという思いだった。手ぬかりなく、完ぺきなようである。面白みがなくて、ますます三渓園が嫌いになってくる。
 正面入口の前には到着したばかりのツアーバス、団体客数十名が2,3人のグループになって降り立ってくる。彼らは駐車場のトイレに行き、喫煙所で一服して、それから女性のガイドに促されて園内へと入って行った。付いていくと、すぐ正面に大池、手前に藤棚と園内地図が見えた。地図の前に立っているガイドらしき初老の男性に尋ねてみる。
「今ってお勧めの花はなんでしょう。あやめはありますか?」
「あやめはないんですが、花菖蒲なら。まだ咲き始めたばかりで向こうに(ここで藤棚の左奥を示す)ひとつ、ふたつ。でも黄菖蒲が綺麗に咲いていますよ」
 私は男が手を挙げて示した内苑方向の大池沿いを眺めた。入口前のポスターでは紫のあやめ(花菖蒲だったか)に大池、向こうには三重塔が見えて「完ぺき」だったものだ。まるで私がよく見る写真愛好家の写真のようであったが・・
 私はあやめではなく花菖蒲であること、紫ではなく黄色であることにがっかりしている。
 ガイドに礼を言うと、とりあえず前回亀戸天神で散々だった藤の花を撮ることにした。そうしているうちにも、後から後からツアー客がやってきては藤棚の下のベンチに座るのだ。「綺麗ねぇ」と大池を眺め、「集合写真撮りますよ」と声をかけられるまで。私と藤の間を行き来してはファインダーの中に雑多な影を作っていく。
 
 
 
 

 
 
 
 
 これもいつか誰かの写真で見慣れてた木船が池を漂っている。どうも今日の場所は良くないようだ。
「もっと船がこっちに来てればいいのにね」
 あとで三重塔を撮っているときに、横で三脚を広げていた男性にそう声をかけられた。
「そうでね!残念ですね!」
 私は大声で答えて、そのくせ内心ではホッとしていた。何せあやめだと思い込んでいたのは花菖蒲で、紫ではなく黄菖蒲ばかりだと言い、咲き始めたばかりの(群生とは程遠い)幾花かの寂しい咲き方で、おまけに・・・
 これで船だけちゃんと定位置に浮かんでいたら、まるで間の抜けたパロディではないかと考えている。
 カメラを持った方々はさすがに多く、いたるところで私はすれ違った。藤棚で、大池沿いで、初音茶屋の奥の寒霞橋で。蓮池の男性「カメラマン」は外国人だった。長い、大砲のレンズを持って、しゃがみ込み、白い小さな水連の花をずっと撮っていた。隣には同じようにしゃがみ込んで小さなカメラを構えた女性が二人、異国の三人で一花を狙い続けている。三脚は旅の荷物になるからやめたのだろうか、あれだけのレンズを使うならば、あと数キロ増えたとしても持ってきた方が良かったのに。隣の女性はともかく、彼にとってはと、残念な姿に思えてならなかった。
 数名の観光客を引き連れた初老のガイドとも再開した。蓮池の傍で、大池の傍で、何度もすれ違う。私が入口の藤棚の右手の大池沿い(彼が教えてくれた方向とは逆方向)で紫の花菖蒲を撮っている横を通り過ぎていくのだ。私はそのたびに、三脚と身を避けて、道の端っこにへばりついた。
 三重塔へ向かう頃には太陽は高くなっていた。私は空腹を覚えたが、茶屋の食事が意外と高いのを見て取ると、腹を満たすことをあっさりとあきらめた。今日に限って、おにぎりもチョコレートも持ってきていない。いつもは必ずリュックに入れたものだが、おかしいものだ。いつもと違うことを求めたせいか、いつもと違う感覚が、小さな失敗から、人々の姿ややり取りから、すべてにおいて違和感となっては付きまとって離れない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 三脚を担いで、小山を登っていく。階段を上り切ると旧燈灯寺三重塔が現れた。遠くで見ているとずいぶん高く、大きく見えたものだが、あれは山の上にあったからというだけで、実物はずいぶん背も低いようだ。関東地方では最古の塔(1457年建築)だけあって、さすがに貫禄は否めないが、私からすると例えは悪いが、
 幽霊の正体見たり枯れ尾花
 といった感じである。この塔が夕陽や霧中に、満開の桜の中にそびえ立つ美しい絵を何度目にしたことか。まるで別世界の使者のように、私を突き放した塔が、今古き朽ちかかったありのままの姿で私の目の前に身をさらしていた。
 私は彼の一部をなおざりに切り取って、それからすぐに眼下の眺望を見に行くのだ。大池や旧燈灯寺本堂が見渡せた。右手に、松の木が二本、美しく立っている。
 また松だ。
 どうにかして、松を入れた展望を絵に収めたいが、一望できる場所から遠い。三脚の足場がなくて、松が上手く入らない。
 
 
 
 

 
 
 
 
 松風閣、と名前付けたのは、伊藤博文だと言う。三渓が別荘としていた中国風建築の建物、のちに海外からの要人に宿泊してもらうためのゲストハウスとなった館からは横浜の海と何本もの松が見渡せた。
 残念ながら当時斬新だった優美なる建物は関東大震災で消失し、現在はコンクリートの展望台になっているが、それでも、この旧原家の敷地の最高に位置する場所が松風と喩えられた意味は今でも色濃く残っているように思われた。
 三渓園の松はどれも美しかった。
 山で見かけるアカマツや、クロマツや、風情よりは樹木の価値しか持たない彼らを見慣れた私にとって、その繊細な美しさはまるで目に沁みるのだった。
 松の新緑越しに歓心橋を撮り、松の枝の合間から三重塔を撮る。松と藤、松と庵、アングルが可能な限り松を入れて撮ってみるのだ。
 
 
 私はこの園内の到るところに立つ松の木のおかげで、次第に三渓園に親しみを覚えてきた。私の生活にとって身近なものではなくても、近しいものを感じるのだ。写真愛好家の園内の写真だけではない、何度も、何度も、これは今まで私が目にしたものだ。
 この国にもっともなじみ深いものとして、常に描かれていたものであり、一般的に日本の美を形作るものの中には必ず存在するもの、し続けるもの。
 それが松だった。そうだ、こんなふうな・・・
 なぜ、愛好家の彼らはそのことをもっと早く私に見せてくれなかったのだろうか。
 中国かぶれの三渓氏も、当時松を愛していたかと思うと好ましく思えてくる。それとも松は中国古来の樹木だったか。わからない。が、それでも私は満足だった。
 私は外苑を一周して、最後の最後に旧燈灯寺本堂でお参りをした。いささか遅い参拝をして、敬虔な気持ちに包まれた後、歓心橋の傍のベンチに座って、躑躅を眺めている。彩り豊かな花たちは午後の陽を一身に浴びて、照り輝いている。つい先ほど、横笛庵の前で声をかけられた異国の「カメラマン」の言葉を思い返す。
「眩しすぎて上手く撮れないよ・・」
 彼は私の長いレンズをからかって、広角がいいよと自分のレンズを見せてくれた。そして訴えたのだ。こういう陽射しのきつい日は嫌いだということを・・
 上手く撮れない、いつでも上手く撮れない。それでも今の私は眩い陽射しを愛おく感じている。
 次に来る時は、あの松をもっともっと素敵に撮ってあげたいものだ。完ぺきな美が似合う三渓園に、その頃の私こそはよく馴染むことだろう。
 私は立ち上がった。天満宮に一礼をして、正面玄関前の藤棚へと帰っていく。花菖蒲が、一花、二花、ひっそりと咲いていた。
 
 
 
 
 
 
 
 

未来の空へ ~新緑の頃、高麗山から浅間山、湘南平の最後の旅路~

 
 
 
 
 
 うたた寝していたら夢を見た。
 私はバスに乗って買い物に出かける。近場の町へ、ちょっとそこまでといった様子で、いつも家で部屋着の上にひっかけているフリースのガウン姿だ。かっちりとボタンを締めて、その下は何も着ていないのか、部屋着が恥ずかしいから隠しているのか、ワンピースのような趣で小さなカバンをひとつぶら下げている。
 バス停広場を過ぎると町の入口の娯楽施設、立派な建物がそびえている。通り抜けると、温泉街のような坂道続きの商店が並び、通りから右へ左へ、細い道が広がっていく。初め楽しみながら店を見ていた私は、ふと道を見失った。帰り道がわからなくなり、辺りは暗くなる。商店街の前に立っている男に、バス停までの道を尋ねると、困った顔をしてこういう。「それは20ウィルですので・・・」
 1kmに付きいくらと定められた貨幣単位で道を教えているのだと言う。私は今まの人生で道を尋ねて、お金を払った記憶がない。なぜ、ばかばかしい、という思いがこみ上げてくるのだった。1ウィルはいくらだろう・・そう必死で考えながら、だって、この町にこんなに複雑な道をめぐらせたのは、あなたたちではないかと。東西十字でもなく、どこへ通じるかもわからない町を作り上げて、迷った観光客からお金を取るなんてそんなのずるいだろうと。
 腹を立てながら、私は自分の恰好が恥ずかしくなってきてたまらないのだ。こんなに長くうろうろするつもりはなかった。ねま着のような姿のおかげで、行きすぎる楽しそうな観光客たちから見下されているように思われてくる。彼らにも道は聞けない。声をかけられない。
 そうだ。道を探すことができないならば、来た道を戻ればいいのだ。あの大きな観光協会のような施設にさえたどり着ければ、バス停はすぐだ。すぐに帰れるだろう。
 ところが私は、娯楽施設をすぐに見つけるものの、なかなかそこを通り抜けられないのだった。子供たちに阻まれたり、走って、人を押しのけて走っても、まだ、まだ、敷地内をうろうろいているのであった。バス停が見えない・・・1ウィルはいくらだろう・・・景色はどんどん闇に包まれて来て、街灯が赤々とともり始める。
 
 
 
 

 
 
 
 4年間住んでいた部屋を引っ越すことになった。
 今日は最後の土曜日だ。
 ここに住んでいる間、私はずいぶんとたくさんのことを学んだようだ。思い出も数多い。暇つぶしのように過ごしていたそれ以前とは、まったく違った時を過ごしていた。充実していたと言えばそうだ。ここを出て行くということは、そのがむしゃらに、スポンジのように吸収し続けた時間そのものが終わるかのような、惜別の思いがある。
 毎週土曜日は写真を撮りに出かけていた。学びと、たくさんの思い出を与えてくれた、最愛の趣味だった。
 私は最後の土曜日を飾るように、4年間のうちの絶調期の頃のようにリュックとおにぎりを持って、散歩に行こうと心に決めた。山がいい。新緑の綺麗な、小さな山を登るのだ。使わなくても、替えの、お気に入りのレンズと、三脚を携えて行こう。
 ところが、お米は切れていた。引っ越しする時の荷物になるので、買わなかったのだ。リュックは新居に運ばれていた。私は儀式をしくじったような、痛ましい思いを感じながら、新しいショルダーのカバンを斜めに下げて、その中に5kg程あるレンズを収め、肩に3kgの三脚を担いだ。首元からはこれも2、3kgはあるだろう、カメラをぶら下げる。重い。目的地の大磯について、高麗山入口の高来神社まで25分ほどの道のりの間に、体中が荷物の力点である首(のつけ根から肩)だけになったように思われた。
 陽射しが降りかかってきた。今日の陽気は最高気温が22度と聞いていたが、その時、8時半時点で、すでに22度は越えているように感じられる、そんな暑さだった。
 首だけの私は深く帽子をかぶり、下を向いて、まだ山を登るでもないのに、一歩一歩のんびりと進んでいく。暑いねぇ、重いねぇ、と時々独り言。どうやらだいぶ体力が落ちているようだった。
 私が下を向く理由はもうひとつあった。最後の旅だというのに、目的の山は山頂の展望がないという。私はこの大切な事実を行きの電車の中ではじめて(ガイドブックを確認して)知ったのだった。なんと愚かなこと。高麗山も、尾根続きの浅間山も山頂は木々で覆われ、富士も海も見えないのだ。浅間山の先に湘南平というカップルに知られた観光名所があるが、その展望台からは景色は見渡せるものの、車で行くことが一般的な湘南平の山頂からの眺望は目的となるのだろうか。
 大磯駅から平塚方面へ東海道線沿いを歩いていくと、国道1号に合流し、すぐに高来神社への標識が見えた。左に曲がると、参道だ。新旧の鳥居が二つ、本殿の裏から山道が始まる。高来神社の名前も戦時中に日韓併合のあとに変えられたそうだ。このあたりの高麗という地名は、かつて唐と新羅に攻めれて滅びた高句麗の王族が難を逃れて上陸したことから名付けられたという。
 眺望のない山の山頂で、私はその説明文を聴いて苦笑いをしたものだ。それさえも私は知らなくて、ネットの下調べでは、「かつて高句麗が攻めてきて、地元の人々が山に登って難を逃れた」というふうに、全く違う事実として理解していたのだった。
 
 
 
 
高来神社より高麗山山頂を望んで。
この石段を登ると、高麗山山頂。
「(移り住んだ彼らが)この付近に高句麗文化をもたらした」というくだりが石か何かで傷つけられ消されている。
 
 
 
 
 茂る木々のトンネルが果てで割れ、眩い新緑が見えていた。たどり着くと山頂だった。私は山頂の説明文を見て、大きな欅を写真に撮りながら、馬鹿みたいだなぁと独り毒づいている。楽しい最後の散歩にするはずだったのだが、どうも初めの儀式から予習不足から勘違いから、何から何まで気が抜けているようだった。新しい生活は大丈夫なのかと、不安を感じ始める。笑い声が聞こえてきて、色とりどりの鮮やかなスポーツウェアを着た若者たちが、山頂を称え始める。
「わ~!着いた。いいねぇ、ここ」
「けっこうきついコースね、でも登りがいがある」
 彼らは走ってきたのだろう。ちょうどいいトレーニングコースらしい。私のように牛の歩みではないのだ。独り山頂で欅と格闘していた私は、はしゃぐ声をしり目に三脚を片付けて先を急ぎ始めた。尾根沿いの道、新緑が眩い、美しい道を歩いていれば、すぐに彼らは追い抜いて、道を避ける私に声もかけず、目にも入らないかのように颯爽と、風のように通り過ぎていく。
 もしも、苦しい思いを抱えて山頂にたどり着いたとして、その場所が木々で覆われていたら。何の眺望もなかったら。美しい景色が目に入らない場所だったらいったいどうなるんだろう。私はそんなことを漠然と思いながら、黙々と歩いていく。
 標高200m弱の小さな山なので、しばらく尾根を行けば、すぐに浅間山だ。ここでは年配者の10人程のグループが山頂の木の台と椅子を陣取って宴会をしていた。といってもお酒があるわけではないが、何本ものペットボトル、缶の飲み物が並び、食べ物が狭しと広げられている。ワイワイ、ガヤガヤ。その横に割り込んで、浅間神社と一等三角点、その横の大きな榎の木を写真に撮る。
 行けども、行けども、花もなく、緑ばかりの道だったが、これが本当に見ごたえがあるのだった。気の抜けた下を向く私を何度も捉え、がんと衝撃を食らわせる。例年、新緑の頃はこんなに美しかったか。私は彼らの姿を見て、思わず足取りも軽くなるのだった。先ほどの高麗山山頂にたどり着いた時は鬱蒼として光が足りないように思えたが、あれは常緑樹が多かったせいだろうか、浅間山へ続く尾根と浅間山山頂、そこから湘南平までの道のりはずっと緑が美しかった。青々と茂り、陽を浴びて、輝かんばかりだった。
 私は夢中になっていた。楽しんでいた。いつか鎌倉アルプスに行ったとき、生い茂る木々の写真、山道を行く人々の写真を失敗したことから、多くのことを学んでいた。同じ間違いを犯さないよう慎重に絞りとシャッタースピードを確認する。が、あの時と同じように眩い光の空がどうしても白飛びしてしまう。飛ばないようにすると、新緑の美しさが映えない。何度も撮りなおして、白飛びし過ぎず、緑が暗くなり過ぎない露出を探していた。
 
 
 
 
尾根沿いの大きなタブの木。
ところどころにベンチがあり、休憩できるようになっている。
 
浅間山山頂近くの木のテーブルと椅子。
 
 
 
 
 真剣に樹木を撮っていると、何度も声をかけられる。
「鳥ですか?」
 面倒くさいので初めは「そうです」と笑っている。二度目に「渡り鳥今たくさんいるみたいですね」と言われて「そうですね」と答えた後はさすがに気が引けた。今何の渡り鳥がいるのかもわからないでは、まるで詐欺のようだ。それからは聞かれると、「新緑が綺麗なので」、一本で通すことにした。木に張り付いて撮っていることから、からかうような言葉を投げかけてくるおじさまもいらしたが、「この葉っぱにピントを合わせて、こっちの景色をぼかしているんです」と言うと、けむに巻かれたような表情になる。ますます楽しくなってくる。「新緑が綺麗なので」とやって、通り過ぎた後に、追い越して行った老夫婦は、私がカメラを向けている木が撮影に値する貴重なものだと思ったのだろう、眩く見上げて、ぽんぽんと触って通り過ぎて行くのだった。大きな葉桜だったが、私はそれで嬉しくなってしまった。
 
 
 

 
浅間山山頂、神社と一等三角点と大きな榎。
 
 
 
 
 
 新緑など、目には入っていても良く良く見てはいないだろう道行く人が、私の行いによって、見上げ、触れて、興味を示してくれた。大好きな樹木を労わってくれた。それが嬉しくて、心が弾んできたのだった。私は葉桜を通り過ぎるときに、先程の婦人と同じように、その力強い幹を触れて行く。綺麗だね、ありがとう、と声をかける。
 浅間山からの尾根を伝い、最後の階段を登っていくと、湘南平の山頂広場が現れた。観光客が多くて、俗な印象がぬぐえなかったのだが、そこで見る眺望などと軽視していたものだが、それが何とも言えぬ良い眺めなのだった。決して海や富士が見えるからだけではなく、広場に集う人々がみな楽しそうで、広大な敷地に青々とした芝や樹木、藤棚に八重桜に躑躅が咲き誇り、まるで楽園のようなのであった。
 赤と白の鮮やかな電波塔、それから展望台、はしゃぐ子供たちに親やおじいさんおばあちゃんが付き添って説明する。
「あっちが丹沢、後ろは房総半島、伊豆半島・・」
 芝の上に座り、ベンチに腰掛け、ちょうど時刻は昼時なのだ、みなお弁当を広げている。その本当に穏やかな楽しそうな様子といったら。
 私は展望台に上り、富士山を写真に収めた。今日初めて見る富士だ。反対側の海も撮ってみる。しかし、なぜか緑の景色よりも美しさは感じられないし、心も弾むでもないのだった。山頂がたとえ木々に覆われていて、眺望がないとしても、それでも良かったのだな・・私は今日の最後の散歩を肯定的に捉えた。来て良かった。最後がこの時季で、この山で良かった。
 そんな浮ついた私を打ち砕いたのは、最後の一枚、海を背景にベンチに座る婦人を小さく収めて取っていた時だった。
 
 
 
 
この階段を上ると、湘南平山頂広場。
山頂の電波塔が見えてきた。
山頂広場から微かな海を眺める。
展望台から望んだ富士山。
展望台からの房総半島。江の島も薄っすらと見えている。
 
 
 
 
 最近は肖像権の問題もあるし、私は個人が特定できるようには撮らないようにしている。景色に溶け込んでいる美しい様の人々しか被写体にはしていない。つもりだった。ところが、ベンチに座り下を向いてもの思いにふけっていたご婦人の連れの男性が、突然ファインダーのなかに現れて、彼女をふさいだ。私ははっとした。自然な仕草だったし、たまたま彼女の前に立った、と見れなくもない。しかし、彼は私がいる間ずっと彼女が見えないように、自分が盾になっていたのだった。あきらかに、彼女を撮られることを嫌がっていて、私から守っていたとしか思えなかった。
 私は自分が変質者か何かと思われているようで、一気に気持ちがふさいでしまった。その場から離れられなくなり、ずっと写真を撮る真似をしていた。顔を上げず、カメラを覗き込んでいた。男と婦人はしばらくすると、立ち上がってベンチから去っていく。階段を上がり、私のすぐ横を通り過ぎて行った。
「そっち写真撮っているから、避けてあげなさい」
 と私の真ん前を登ってきていた夫人に声をかけ、腕を引っ張って視界から消えた。
 言葉はこちらを気遣ったもののように聞こえる。しかし、私はこう解釈している。「そっちは危ないからこっちに来なさい」
 私は彼らのいなくなったベンチに腰を下ろした。お弁当を広げて、海からの風を受けながら少し過ぎたお昼休憩にする。展望がなくても・・そう思って膨らんでいた風船はすでにしぼんでしまった。美しい海の景色を見ながら、すぐ下のアスレチックで楽しげに遊ぶ子供たちを見やりながら、もの寂しい気持ちになっている。
 海側の帰り道では誰とも会わなかった。湘南平には車で来るので、みな車で帰ったか、浅間山方面に戻ったのか、それともまだあの楽園で休んでいるのだろうか、道を下るものは私一人だ。行けども、行けども、木々。そのうち海もかき消された。
 私はふと音楽を聴きたくなった。携帯にダウンロードしたYELLを鳴らして聴きながら歩いていた。
 
さよならは悲しい言葉じゃない
それぞれの夢へと僕らを繋ぐYELL
 
 善兵衛池を通り過ぎると、大磯駅はもう暫くだ。深紅の躑躅と淡い桃色の山桜が住宅街にそよいでいる。2回続けて聞いたYELLは途中何度も音を止めるのだった。私は曲に乗って、先ほどの些細な出来事などほとんど何も感じられなくなるくらい歌を楽しんでいた。が、ぷつり、ぷつりと、そのたびに美しいメロディはメールの着信音に切り替わる。それを煩わしく思いながら、私はふと、幸福感に満たされるのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

藤を撮りに郷土民家園に行ってみた今日のこと。

 
 
 
 
 昨年のこと。
 藤の花を撮りに出かけたら、見事に枯れていた。
 小田原城址公園に御感の藤という立派な藤棚があると言う。1時間ほど電車を乗り継いで、天守閣を一周めぐり、さて、最後に目的の藤をと思えばそれだ。がっかりして、僅かに残った枯れた花を、ぱっと見ではわからぬようにモノクロで撮ってきた記憶がある。
 今年は撮り逃したくないものだと思っていたら、すぐ近場の公園で藤が咲いていると言うではないか。立派な藤棚ではないようだが、藤は藤だ。
 撮ってやるかと鷹揚に構えて、出かけてきた。
 
 公園の中にある民家園の入口と一番奥に一本ずつ、藤は咲いていた。
 私は藤棚の藤しか見たことがなく、このような低木だったのかと驚かされた。もう少し背が高いものだという印象があった。見つけた藤はまるでミニチュアの梅の木のようである。
 ノダフジというらしい。どうも迫力はないが、マメ科の花は意外と好きなのであった。蔓のような姿で枝垂れるところも粋ではないか。私は藤が大きく見えるようしゃがみ込んで、ローアングルで撮ってみたりするのだった。
 気付くと、藤は人気者だった。狙っているとファインダーのなかに人が入って来る。写真愛好家たちがカメラを片手に後から後から現れる。中には子供連れの方も多かった。民家園の敷地で小さな子供を遊ばせておいて、自分は藤の花と格闘しているのである。
 
 
 

 
 
 民家園には鯉のぼりもそよいでいた。端午の節句のまつりがあるそうだ。藤の花を撮り終えて、戻ろうとすると、三脚を立てて蒲公英の群生を撮っている婦人と目があった。
「奥さん、いいの撮れた?写真長くやってるの」
 と気さくに声をかけてくる。
 奥に藤が綺麗に咲いていると教えると、もう撮ったからいいわといなされた。
「ほら、見てごらんなさい。ここから鯉のぼりを撮るといい感じよ」
 彼女は民家園の窓越しに見える新緑と鯉のぼりを捉えている。確かにいい構図だった。
 私たちは一緒に民家の中に入って、窓越しの鯉のぼりを撮りあった。
「レンズどんなの使ってるの。ふーん、広角なのね」
「マクロレンズですか?」
 大抵今まで出会う方はマクロレンズの方が多かったので聞いてみると、彼女は忌々しげに首を振るのだ。「私はフィルムだから」
「デジタルは色もけばけばしくて嫌いだわ。もうずっとフィルム」と笑って、「撮った後に、現像してどう撮れているのか見る楽しみがあるのよ」
「なるほど」
「どれどれ」
 年のころはもう60歳は過ぎているだろうか、小さなご婦人だが達者そうである。独りでいろいろなところに撮りに出かけるのだと言う。彼女は私の露出を失敗した写真を見て、デジタルは何度も撮りなおせるからいいわね、とまた笑っている。
 シャッタースピードを変えて、再トライ。上手く撮れると、彼女に見せる。
「どうですかね」
「いいんじゃない」師匠のようである。
 そのあとすぐに別れたのだが、最後にひとつ教えてくれた。私の住んでいる駅にあるカメラ屋さんで撮影会のツアーを企画していること。その行き先が渓谷であること。
 つい先日渓流の写真を撮りに行って、散々迷子になり、大失敗をした私は、不思議と何か縁深いものを感じてしまった。まるで導かれているような。
「行ってみるといいわよ。交通費とお弁当が付いて○○円と安いのよ。撮った写真はコンクルールに出して賞を撮ると景品がもらえるわよ」
 彼女は賞品を景品といい、まるでパチンコかゲームセンターでもらえるもののようだ。誰でももらえるものではないだろうに。
「どうせもらえませんからねー」
 ぶっきらぼうに言っても満面の笑みだった。
 撮っている間、彼女はカメラを持って現れたすべての人に語りかけていた。私は「奥さん」、おじさんは「おにいさん」。楽しい会話と笑顔が広がっていく。
 そのあと用事が入っていたので、あっけなく別れたが、もう少しいろいろ教えてもらいたかったな、などと後になって思った。
 じゅうぶん貴重な時間を頂いたのに、我ながら強欲であるかもしれない。
 またいつか逢う日もあるだろう。駅前のカメラ屋さんにも寄ってみようか。
 藤の花から、写真から、ふとした縁も広がっていくようである。
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 

桃源郷と四本目の大山桜。

 
 
 
  
 
 
 何のために生きているのかと訊かれたら、迷わず「金曜の夜のために」と答えた。当時の私にとってそれ以外の曜日は、長い、長い、苦痛の時でしかなかった。
 好きな人がいたのだ。
 彼と過ごす週に一度の夜のためだけに、すべてを耐えて、生きていた。
 ある日、職場の同僚に涙ながらに訴えたことがある。
「こんな糞みたいな人生だけど、それがあるからやっていけるんです」
 確か、金曜の夜のシフトを突然変えてくれと言われたのだと思う。十年前のことだ。販売職をしていた私は、カレンダー通りの休日のエリートの彼に合わせるために、金曜の夜を早上がりにし、土曜の朝を遅出にして、何とか時間を作っていた。
 私の涙は、しかし同僚の胸には何も響かなかったようだ。私の言葉は、無残にも宙に浮いた。
「そんなことだと思ったわよ・・」
 彼女は顎を逸らして、軽蔑するように私を見た。包装台の上の電話を手に取って、任務が「こじれた」ことを報告をしたのだった。
「もしもし、店長・・」
 

 山桜が見たかった。隣町に桜山という小さな山があると言う。ハイキングコースを行けば、四本の大山桜を見ることができるそうだ。大山桜はヤマザクラの変種だからいいだろう、私はそう納得して、出かけることにした。
 三本の大山桜は、実は一昨年見たのだった。最後の一本を見逃したこと、それと自生の山桜を上手く撮ることができなかったこと、そのふたつがずっと心残りだったこともあって、今回の再訪に繋がった。
 山桜が見たい。今度こそ四本すべてを綺麗に撮りたい。
 今の私ならば出来るような気がしていた。あのころとは違う。写真だって少しは上達しただろう。
 都心から一時間ほどの駅を降りて、通称「桜山」へと向かうバスに乗り込む。満杯だ。もっと詰めてよ。これが限界だよ・・リュックサックを背負った親子の会話が耳元で聞こえている。乗車ドアの段の下まで人が乗っていた。マスクを持ってくればよかったとふと思う。私は目と口をぎゅっと閉じて、下を向いた。手すりのポールにつかまって、大山小学校入口の目的地まで二十分、そうしていようと足を踏ん張って、ふと前の椅子に座っていた男性の声を聞いた。
「見てごらん、里山の桜が綺麗に咲いているよ」
「あら~ こりゃすごいね」
 顔をあげた。並んで座った男性二人が窓の外に身を乗り出していた。私も人の頭越しに窓の外を覗き込む。丘陵の民家の傍のいたるところに桜が咲いて、男が言うように懐かしい昔の里山といった風情である。バスが進むたび、民家は遠くなっていった。こんもりとした山がいくつも連なっては見えて、草の緑から落葉樹の枯れ木の間から薄紅色の桜の花が見えるのだ。一本、二本、三本、しまいに数えきれなくなる。続く里山の景色と桜は同化していて、まるで桃源郷のようなひとつの世界だった。
 私は焦り始めた。もしかして、目的地を間違えたのではないだろうか。
 このバスに乗っている人たちは、みんなあの里山の上へと向かっているのではないだろうか。
「今日は最高の一日だね・・」
 インターネットで下調べをしたときには、そのような名所はなかったが、私が向かっている桜山には桜が四本在るだけではないか。あの夢のような、浮かび上がるような里山の光景にはかなわないような思いがしてきた。バスの終点はしかし知っていた。あの桜の群れに行くわけではなく、行き慣れた観光地としての山だった。いや、もしくはハイキングコースのひとつにあの里山沿いのものがあるのかもしれない。今ここにいる人たちはあの桃源郷で花見をするのだ。
 バスの方向が里山へと向いていないか、私は何度も確認する。リュックを背負って楽しそうに会話をする人たちを漠然と眺めながら、出し抜かれたような置いてきぼりを食らったような哀しい気持ちになりながら。「・・・小学校前~」アナウンスがいつの間にか流れていた。私が降車のボタンを押すと、すでにブザー音が鳴り、赤いランプは消えていた。
「すみません、すみません」
 前回このバスに乗った時もここで降りたのは私だけだった。誰も降りるわけはないのだと、私は大きな声を出した。通路に立つ人々を少し強引に掻き分けて、運転席横の降車ドアへと向かっていく。意外なことにひと組の団体が一緒に降りた。年配の男性二人と女性が二人。すぐににこやかに話を始めた。あっちかしら・・・あら、あそこにも桜が。綺麗ねぇ・・

 
 
 
 

小学校の染井吉野。

小学校の染井吉野。
 
 
 
 彼らと重ならないように、私は大山桜へ向かう道から少し逸れて、小学校の桜を撮りに行った。校庭をぐるりと囲むように満開の染井吉野が並んでいる。この町が丘陵の上なのだろうか、私の町より開花が遅いようだった。グラウンドにぽつりとサッカーゴール。フットサル用のハンドボールのサイズの小さなものがなぜかひとつ。その横と後ろを守るように桜、桜。青空の方向を見上げて、真下から桜を撮ってみた。まだ若い花だ。蕊が透けるように白かった。
 ひとしきり撮ってから団体の彼らのあとを追いかけた。小川を渡り、前回と同じように、動物の侵入を防ぐための金網の扉を開いて、桜山へと入っていく。小川というより渓流なのだろうか、ハイキングコースの横をずっと続いている。せせらぎの音、小さな滝の段差から流れ落ちる音、小さな水の音と大きな水の音が合唱のように聴こえている。
 五分ほど歩くとすぐに下大山桜が見えた。杉の木立の間から薄紅色の灯籠のように仄かに映っている。前情報では前日開花したばかりだそうだが、今日は天気が良かったせいか、すでに三分から五分は花開いているように見えた。この桜で去年痛い思いをしたのだった。
 どう頑張っても、全体を撮れる場所がひとつしかない。しかもそこは樹齢四百年の大木を捉えるには余りにも近距離だ。魚眼か超広角のレンズがない限り難しい。前回はどうにか切り取って撮ったものだが、おかげで綺麗に撮るというよりはかろうじて収めた、というだけだった。今度こそはどうにか撮りたい。
 しかし、私は忘れていたのだ。彼らは愛でられるために数百年の時の前からそこにあったわけではないということを。だからこそ私は撮りに来たのではなかったか。容易に花鳥風月の写真など撮らせてくれはしないのだった。私は何度もアングルを変えて、どうにか撮れる場所を探して、しまいにはハイキングコースから外れて、山の道なき道を登って行った。鹿の糞があっても気にも留めず、しゃがみ込んだり、片手を突いたり… が、見えた、と思うと杉の木立が邪魔をする。あるいは、生い茂る黄と赤の三椏(みつまた)が邪魔をする。また、満開ではないので写った写真は花の色が薄く、寂しくて、どうにも絵にならないのだった。
 
 
 
 

下大山桜。まだ三分咲きくらい。

上大山桜。5分と聞いていたが、満開に見えた。
 
 
 
 私は愕然とした。二年前より撮れないのだ。今ならもっといいアングルを見つけられるだろう、などと。なんと愚かな過信だったかと思い知るしかなかった。
 認めるのが悔しくてずいぶん粘ってみたが結果は同じだった。
「上手く撮れましたか」
 あまりにも私が必死なので、年配の観光客が気の毒そうに声をかけていく。いや、難しいですね、と難しそうな声で答えると、そのあとは会話にもならなかった。気まずそうに去っていく。
 後からやってくる家族連れやハイカーたちに私は挨拶をする余裕さえなくなっていた。無言で、先に行ってもらったり、追い越して、アングルを探している。ついに日が陰ってきた。太陽が照っているだけが救いだったのだが、陽も当たらないと、鬱蒼とした杉林に隠れて、三分咲きの大山桜はただの枯れ木に見える。または白い、曇り空の背景と同化してしまうのだった。私はついに諦めた。
 山桜を見たかっただけなのに、写真を上手く撮りたいと欲が出た。一昨年の私を克服したいと、超えた証明を手にしたいと焦りが出た。これではお日様も隠れるわけだ。
 私は落ち着いて、山桜を堪能しようとその後何度も思い返すのだが、やはりその上の上大山桜でも同じことだった。失敗する、何度も撮る、陽が隠れる。待つ。お日様が見える。撮る。撮る。失敗する。撮る。隠れる。待つ。何の教訓にもなっていない。お日様と追いかけっこをしているように、山桜を堪能とは程遠いところにいた。
 衝撃を受けて我に帰ったのは、十人ほどの団体の年配者の一言だ。
「まるで桃源郷のようだねぇ…」
 それまで私は若い女性たちが「桜のカーテンのようねぇ」と言おうが、年老いた女性ハイカーたちが、「○○ちゃん、ほらここ赤いミツマタ」と大声を張り上げようが、びくともしなかった。二本目の上大山桜は満開で、先程の下大山桜よりは撮りやすかったのだが、それでも満足のいく構図もアングルも得られていなかった。ましてや美しく撮ることなど出来やしない。それは、耐えきれない、とまではいかないが、屈辱的なものには変わりなかった。私の二年間は何だったのかと、その時は無意識にだとしても、「無意味だった」と結論付けるに足るものだった。とにかく、たった一枚でいいから、納得のいくものが撮りたいと願っていた。人の声など、かまってはいられないのだ。
 しかし、桃源郷と聞いた時に、私は、はっとした。バスの中でのことを思い出した。
 見ると、大山桜の遥か眼下には町の景色が広がり、そして里山の景色が広がり、点々と、あの美しい桜色が見えるではないか。
 まさに、朝見た桃源郷の景色だった。
「本当だ… 綺麗だねぇ」
 男たちは立ち止まって、景色を見渡している。上大山桜が桃源郷の里山に覆いかぶさるように、大ぶりの花をそよがせている。さらさらさらさら。四本しか桜の木がないこの桜山は、バスの中で見た里山よりも遥かに高いところだった。そうして、今私の眼下に桃源郷が広がっているのだった。
「お~い、ここらで男四人を撮ってくれよ」
 男の一人が道の下にいる一人に声をかける。
「ほら並べ並べ。○○が撮ってくれるぞ」
 カメラを手にした男は、苦笑いをしながらこちらにレンズを向けるのだ。
「その位置じゃ桜が入らねぇよ」
「入らないか。いいや、俺たちが桜みたいなもんだ」
 大笑い。記念撮影をして気がすんだのか、並んで山を降りていく。
 上大山桜の上の桜山の天辺に「最奥の大山桜」と言われる一本がある。彼らはそこまで行かないのか、それともすでに見た後で降りたところだったのか、気が付くと林道を登っているのは私だけだった。若い女性の二人組も、婦人たちのハイカーも、満開の上大山桜を愛でて帰って行った。僅かに一人とすれ違っただけで、後は頂上まで誰とも会わない。前回来た時に一番私が気に入った最奥の大山桜はまだ五分咲き、山桜は赤い葉が先に咲くのか、枯れた後かと思うほど葉が目立ち、花が寂しい姿だった。おまけにこの小さな頂は桃源郷とは反対側に位置していて、見渡す景色もそう美しいものではない。私は寂しい山桜の木の下で休憩を取った。やはり、ここが一番落ち着くのだった。
 山を登るのは、達成感を得るため、眼下の景色の美しさを知るためだと思っていた。しかし、私はベンチ代りの横たわった木の幹に座りながらぼんやり考えている。
 今までに見た美しい光景の数々。煌めく夜の町や、小さな町や川や限りなく広がるあの景色たち。まるで桃源郷のようなあの場所は。
 それは私が住んでいるところなのだった。そして、今、桜の傍に座り込んでいる私の景色は、落葉樹の木の幹がむき出しになり、枯れ木が立ち並び、花のない大山桜がぽつりとあるだけの、寂寥としたところで、土から出る根もベンチの木の幹さえ、まるで屍のように思えてくる、まさにそんな場所なのだった。
 私は立ち上がった。休憩を終えて、これから前回見逃した四本目の大山桜を見るのだ。百メートル程戻ると、道が二つに分かれている。ひとつはバス停のある小学校方面、今登ってきた道だ。こちらには大山桜の標識がある。もうひとつの獣道には標識がない。この細い道を選ぶと、四本目に辿り着くのか、私はそちらに歩き始めた。
 
 
 
 
最奥の大山桜。辺りは木の根が突き出た土。
四本目の大山桜を探して裏山へ。寂寥としたスイッチバックの道を行く。 
 
 
 
 
 不思議なもので、獣道は突然消えるのだった。何度も、突然山の斜面とぶち当たり、道が消える。きょろきょろすると、斜め下に山道が見えている。その視線をたどると、私の背後に戻ってくる。登山鉄道のスイッチバックの要領だった。まさか道が突然後ろに切り替わるとは思わずに、ぐるぐる見まわしても気が付かない。妙に感心しながら(今まで登った山ではここまで露骨な真後ろ道はなかった)寂寥とした山道を行く。
 この裏山のコースはあまり人が通らないのか、最後までスイッチバックの獣道だった。すれ違ったのは白い山伏のような格好をした若い男。下にある神社の神職の方だろうか。白装束にも見えるのだった。表山と違って陽もささず、雨水が乾かないのか、道が始終濡れていて足場が悪い。枯れた木々は何度見ても何の木だかさっぱり分からなかった。真っ赤に焼けて幹の樹皮の剥がれた木。アカカシだろうか。深くしわが刻まれたようなコナラ、もしくはイヌシデ。ツルツルの幹に横皺が入っているのはモチノキか。彼らの根の傍に細い枝が立ち並び、合体するように絡みあって、木の葉もどちらのものだかわからない。酷くなると、常緑樹か、落葉樹かさえも判断できなかった。ただ、見慣れない姿と、鬱蒼とした裏山に茂る姿が不気味で、異様で、枯れた姿も倒れた姿も、骨か屍のように見えてきては仕方がないのだった。
 途中、最後の大山桜に出逢った。こちらは写真を撮る気にもならぬほど、無残に枯れていた。前情報では強風のため枯れたらしいと書かれていたが、本当に、僅かに花弁を残しているだけだった。おまけに大山桜と行っていいのか疑うほど、染井吉野よりも小さく、見栄えが悪い。私はなおざりに一枚、二枚撮って、彼の傍を早々に離れていくのだった。
 不思議とこの異様な空気の裏山は、怖いという感覚はなかった。ただ、あまりにも、人の手が入っておらず、すべてが剥き出しの姿だった。自然の美さえもない。無情。虚無感。
 一昨年と違ったのは、この景色を見たことだけだった。花を落とした四本目の大山桜を見て、骨と屍のような森の景色を見て、それだけだった。
 
 
 
 
四本目の大山桜。
視界が開けて桜祭りの様子が見えてきた。
 
 
 

 
 ふと、祭囃子が聞こえた。甲高い打楽器の音、和太鼓と鉦鼓(しょうこ)だろうか。リズム良く、続いている。鬱蒼とした景色が晴れて、ふと桜が見える。神社の社務局のすぐ傍に咲いている鮮やかな染井吉野の花、満開の桜が目に飛び込んでくる。青い祭りのはっぴを着た少年たち。桜色の着物姿の若い女性たち。
 桜祭りの最中だった。人々の先には里山が続き、そうしてやはりところどころに桜の木があるのだった。桃源郷だ。
 私は終わりかけた山道の途中で、眼下の桜の花を、祭りの様を、里山に立ち並ぶ桜を、撮った。今までの道とは打って変わって、明るく、眩く、色鮮やかな世界のように感じられた。祭囃子はまだ終わらない。ふと、腰に巻いていたカーディガンがないことに気が付いた。休憩をしたときにはあったから、多分裏山を降りている途中に落としたのだろう。まぁ、いい。私は桜祭りに飛び込むように降りて行きながら、それも悪くないな、と考えている。
 大のお気に入りだったのだ。十年前に手にしてから、ずっと着続けていたものだった。気が付いた時は、だからかなりがっかりしたものだ。だけど、あの淡いグレーのニットが、あの屍たちの裏山にそっと置き去りにされた様を想像すると、とても良く似合っているようにも思えてくる。
 そんなことだと思ったわよ… あの店で手にした、金曜の夜のためだけに生きていたあの頃の服。
 それは、ふさわしい埋葬場所だ。
 何かを失くしたからには、何かを得たのだろう。今日の私は、きっと。だからいいのだと。
 祭囃子、神楽殿の前には神輿。はっぴの男たち、着物の少女たちが座り込んで花見をしていた。桃源郷へ向かう私の横を、通り過ぎては戻ってくる青いはっぴの少年が二人。
「だめだよ、おいら見つかっちゃうよ」
「早く、早く…」
 彼らは登っては降りて、桜山の裾野をうろつきながら、祭りの様子をうかがっていた。
 登りたいのだろうか。隠れたいのだろうか。山の上に、祭りはない。
 だけど、それだけが確かなもののように感じられた。
「いいんだよ、俺たちが桜みたいなものだ」
 男たちの笑い声を思い出している。
  
 
 
 
 
 

 
 
 

「アルジャーノンに桜の花束を」 ~染井吉野、千本桜紀行~

 
 
 
 
 
 
 
 
 「知らぬが仏」とは良く言ったものだ。
 思い出すのは「あるジャーノンに花束を」。最新の脳手術に成功した知的障害者の主人公が、記憶力と思考力を得るたびに苦悩も大きくなっていくという物語。
 ラストに、また知的障害者に戻って、やっと笑顔を取り戻すというくだりが印象的だ。彼は人を愛した記憶さえも失うのだが、それでも幸せに行くていくには何の問題もない。たとえその笑顔を目にして涙を流す女性がいようとも、気付くこともない。心の平穏を手にした彼は、今や天上に住んでいる。
 せつない物語だった。
 くも膜下出血という病気によって記憶力と思考力を失った母親は口を酸っぱくして私に言う。
「あんまり本を読むんじゃないよ」
 彼女は本能によってそれを知っているのだ。私が知識を得ると、なおさら不幸になると信じて疑わない。
 
 
 桜が満開だ。
 私はカメラを抱えてお花見に出かけた。大好きな染井吉野よりも、なぜか山桜と枝垂れ桜が見たかった。多分数日前に、少子化で統合される小学校の桜の木を伐採する、というニュースのドキュメンタリーを見たせいだろう。
 100年近く村の子供たちを見ていた老木の桜が最後の春を迎えようとしていた。黒い幹に苔生す枝。咲き誇る桜の花。立派な木々たち。しかし、新しい校舎を建てるには、その場所にいられては邪魔なのだった。
「最後の力を振り絞って、この子の入学式まで咲いていて欲しいです」
 三代続いて桜を見てきた家族の父親がそう言うのだ。思い出がある、人々を結びつけていた桜が消えるのは哀しいと言いながらも、何と身勝手なことだろうか。確かに少年は最後の桜の花を入学式の記憶に留めるだろう。それは桜にとっても本望だろう。でも、木にだって命はあるのだ。生きているのに、殺されるのだ。私はランドセルを背負った可愛らしい少年に憎しみすら覚えてしまった。
 それで、生きている桜を見たくなったのだ。人々のために植林されただけではなくて、まるでどんなにいられては邪魔な時代が訪れても、自らの力で咲き続けていたかのような、力強い桜。命や精霊どころか、魔さえも宿っていそうな、妖しい、生々しい桜を見たくてたまらなくなった。
 ところが何の因果か、探しても探しても、見つからないのだ。満開の桜が撮れるチャンスは短い。私は焦るのだが、見たいと思う桜は時期が早かったり、遅かったりで、撮影旅行の当日になっても出逢える気配はなかった。山桜は4月中頃~末、枝垂れ桜は3月中頃~末が満開なのだ。また、遠出する余裕もないので、どうしても限られてくる。
 お昼間近になって、あきらめた私は今週は我が町の千本桜を見に行こうとやっと重い腰を上げた。染井吉野の満開を撮れるのは今日が最後だろう。幼いころから良く見ているので、感動はないだろうが、大人になってから改めて見るのは初めてだった。いつかこの桜たちも、あの学校の桜のように伐採されたり、自ら命を終える日が来るだろう。人々のために毎年、毎年、咲いてくれる桜の木を見ておこうではないか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 思えば、私が桜の花を撮りたいと願うのもずいぶん身勝手な話なのだった。4月2週目の誕生日まで咲いていてくれればいいと毎年願うのも、ランドセルの少年の父親と何も変わらないのだった。その上、少しでもうまく撮って、趣味の分野で評価されればいいとか、一目置かれでもしたなら喜んでいる有様だ。それでも・・
「君が持つことができるのは、記憶だけなんだよ」
 思い出だったか、いつかふと目にした言葉の通りに、私は決してアルジャーノンのように記憶を手放したりはしたくなかった。ランドセルの少年も桜の記憶を決して手放さないでくれると嬉しいな・・そんなことを考えながら、電車に揺られていく。
 3つ先の駅まで本を読んだ。相変わらず、最近夢中な政治関係の本、「外国人参政権で日本がなくなる日」。別冊宝島から緊急出版された本で、保守系の田母神俊雄さんや台湾(金美齢さん)、中国(石平さん)、韓国(鄭大均さん)の視点から日本に帰化した外国人の著名人、ノンフィクション作家にライターの方々が寄稿している。
 ちょうど読んでいたのは、文筆家但馬オサムさんの「三国人と戦後日本」という短い著述だった。
 在日韓国人と言えば多くの方が「差別」、「迫害」を連想する。しかし、作者は「決して在日は弱者ではない」と言う。日本の敗戦後、彼らが戦勝国民だと言い張って、日本人を差別したこと、横暴にふるまったこと、闇市を牛耳り、日本の法律には一切従わなかったこと。表の経済と三国人が支配する闇の経済の二重構造が出来あがり、現在でもパチンコ業界、サラ金業界、ラブホテル街などでそれらは続いていること。在日の暴挙に対して、治安維持に努めたのは、日本のやくざ(任侠団体)であったこと。
 戦後の在日の横暴は聞いたことがあったが、やくざとの抗争は初めて納得できた話だった。裏の世界、闇の世界、そこに根付く在日はもはや警察の手には負えなかった。警察庁から任を受けたやくざが国民を守り、裏側から国の経済をも軌道修正していったのだ。良く政治家はやくざと結びついている、と言われるが、こういう戦後の流れがあったのだな、と思わず感心せざるを得ない。在日は戦後ずっと日本国を敵に回して、弱者どころか、傍若無人にふるまってきたのだ。
「だがひとつ確認できるのは、彼ら在日はよく言われるような弱者では決してなく、日本社会の地下深く、複雑に絡み合い、太く強靭な絆を形成しているということだ」
 差別だの人権だのと言って、同情したり擁護したりする日本人のなんと無知で愚かなことか。私が死んでも、きっと彼らは生き残るのだろうな、と漠然と考える。きっと、私亡きあとも、桜の花をずっと見続ける。彼らの記憶はずっとこの日本から途切れることはなく、続いていくのだ。参政権はそれが表向き(合法)になるかならないかの話でしかない。
 車内のわずか10分足らずの時間で、私は今まで学んできたこと、感じてきたことの最後の1ピースを得たような思いがした。
 彼らは敵だ。(戦後の在日韓国人、その後韓国に帰った人々も含む)いや、ずっとこの国と相反するところにいたものだと初めて心で理解した。この前提を本当に知っているか、知らないかは大きいだろう。冬ソナの撮影現場で34人が怪我をしたとか、韓国をひとり旅した女性が行方不明になった とか、韓流ファンの女性たちが聞いたらヒステリーを起こしそうな話ではあるが、彼女たちは天罰が下ったとしか思ないのだ。たとえ一人の人間として、恋に落ちたとしても、その二つの事件は明らかにやりすぎだろうと。マスコミは「知らぬが仏」とばかりにブームや友好ムードを必死になって作り出すけれど、そういった歴史の前提を抜きにして、または万が一無知なまま危険地帯に放り出されたとしたら。団体で買春する男たちのように、恥知らずなツアーが何でもないと思えるようになっているとすれば。これはもはや物語もロマンもないな、と私は思っている。降り立った町で桜を撮りながら。
 そうではないか。敵と恋をするのはいい。だけど、それが敵だと知らなければ、ウェストサイドストーリーは、ロミオとジュリエットはあんなに感動できただろうかと。
 それは悲恋になったのだろうか。主人公のふたりが、自分たちのギャング団や家を愛していなかったら。相手と恋に落ちることが罪だと思わなかったならば…
 私はずっと携帯が鳴るのを待っていた。
 桜を撮りながら、韓流ブームの安易さを嘆きながら。純愛なんて、なんてつまらないものなのだろうと。そうじゃない、お互いが想い、守るべきものがない、無知の上に成り立った恋愛の記憶などなんと薄っぺらいものだろうかと。それはただの逃げ道ではないかと。まるで生活から逃げるように、私はずっと電話が鳴るのを待っていたのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 駅を降り立つと花見の客でにぎわっていた。駅前には花見弁当を売る特設の売店、商店街では店先で桜のお菓子を並べている。人々が群がって飛ぶように売れていた。
 私も桜ロールや桜パンを買おうかと足をとめたが、大勢の花見向けなのだろう、量が多くて食べきれそうもない。あきらめて、お花見のコースを歩いていく。すでに、駅からまっすぐに伸びる道路には両側に満開の桜。人々をいざなうように続いていた。お弁当や飲み物をレジ袋に入れて歩いていく若者たち。散歩風の老夫婦、彼らに続いて、私も歩いていく。道に迷う気配もなかった。それなのに、私は持って行った地図を何度も見ている。どう歩いても千本桜にはたどり着けるだろうが、決めた道筋で散歩したかった。
 案の定、若者たちは私の道とは違う道に逸れていく。ひとり別の道を選び、そこでまた他の花見客と合流する。桜が立ち並ぶ河川が見えた。老婆が二人並んで座り、煙草を吸っていた。私は正規の仕事を得るために、もし決まったら禁煙しようと思っていたところだった。ああやって、老婆になっても煙草を吸う、そんな年の取り方が理想だったはずだが、今は彼女たちを眩しく見ることもない。足を広げ、待ち合わせだろうか、「綺麗に咲いて良かったね」、「○○さんはまだかね」と話し合う口調さえも下卑たアウトロー的なものに思えてくるのだ。心の中はもう新しい世界へと向いている。
 河川沿いの散歩コースの起点には写真を撮る若者が座り込んでいた。年配の男性もみな必死でカメラを向けている。若者と年配の男性は団子より花という感じだろうか。年配の女性たちは、河川敷きに座り込んで、お喋りとお弁当。笑い声。しかし、みな楽しそうだった。
 「サクラサク」。この桜を撮っているうちに、私の世界も変わることだろう。心待ちにしながら、私は桜を撮り始めた。木の枝が白い。黒い幹に苔生す枝、あの学校の老木の桜とはえらい違いだった。どの木もまだ若木に見えた。人々を楽しませるために、千本並んだ桜たち。それでも、雪や強風にも負けず、こうして元気に咲いていくれた。
 私は色の美しい景色を見つけるとカラーで撮り、人々と桜はモノクロで撮った。いつもは撮る前に場所と題材によってカラーか、モノクロか、決めるのだが、今日は貴重な染井吉野の満開の日だ。どちらにこだわるでもなく、より美しく、ドラマチックに撮りたいと願っていた。桜が、桜と人たちが映えるように。
 河川敷をどこまで行っても桜、桜、桜。あまりに桜が続くので、足元の花韮やタンポポやムスカリ、チューリップにスミレ、そんな春の花々が目立ったくらいだ。不思議なことに、桜はコースの始めでは蕾も多く、まだ8分咲きという感じだったが、桜並木の終わるころには花吹雪が舞っていた。葉の目立つ木々が多かった。日当たりがいいのだろうか、おかげで、初めから終いまで満開にしては花のボリュームに欠けていた。例年ならもっと花の厚みがあるのだろうが・・ ここ数年、一斉に花開いて、一斉に散る、その刹那の花々に満ちた桜の姿を見ていないような思いがする。空に向かって花をつけた枝を広げ、君臨するように立ち並ぶ桜には目を見張ったが、どうも桜に対する感謝と不満の想いが交互に訪れて集中できなかった。電話はまだならなかった。
 一本の電話をこの桜の花の下で迎えたかった。それさえ出来れば、私の生活は桜色に満ちるはずだった。本当はそんなことはなくて、電話の相手は私の記憶とは無関係だとわかっているのだが、それどころか今までの私の生活を否定するものだともわかっているのだが。私はならない電話に次第に焦り始め、花吹雪を目にするころには、すっかりしょげてしまっていた。
 いくつもの橋を抜け、河川敷の千本桜が終わるころには、少年がひとり川辺で遊んでいる。花見の場所にいるより、川辺で遊ぶ方がきっと楽しいのだろう。石の上を飛ぶように駆けて、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。でも、花を見上げないのだった。彼には桜が目に入らない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 私はまた一人道を逸れて、住宅街へと入っていく。小さな公園には仮設のトイレがあって、人々が並んでいた。その公園を抜けて、フェンスの下の石垣に座って、煙草を吸った。歩き疲れたようだ。少し足を広げて、まるで最初に見た老婆のように。
 最後からいくつ手前の橋だっただろうか。商店街をまたぐ橋は、見覚えのあるものだった。懐かしさがこみ上げてきた。それは、私が学生時代に部員たちと走っていたマラソンコースだったのだ。
 桜が咲いたときにこの橋を走った記憶はない。
 実際はあったのか、それとも忘れたのか、私は驚きを隠せなかった。あの時、3キロコースと5キロコースと曜日によって走り分けていたころ、どちらもこの橋を抜けると、後は学校も近い、商店街を見やりながら最後のスパートをかけていたはずだった。その記憶と、桜の記憶が重ならない。
 千本桜は学生時代のマラソンの記憶と全く別のところで存在していたのだった。今、何十年の時を経て、ふたつが初めてひとつに結びついた。商店街は見ていたはずだ。だけど、それが商店街だとわかっていただけで、景色を見る余裕は実際はなかったのか。それさえも思い出せなかった。
 私は最後の橋を抜けて、河川で遊ぶ少年を超えて、隣町の駅へと向かっていく。この河川と平行に並ぶもうひとつの千本桜のスポットを見る予定だったが、思春期の思い出を塗り替えてしまいそうで恐ろしかった。もしくは、何も「桜の記憶」などなかったことを知ってしまいそうで・・
 駅へ向かう途中には季節の花が咲くことで有名なお寺がある。山門には色とりどりの桃の花が咲いていた。前回ここに来た記憶を私は昨日のことのように思い出している。失ったもののその代償と、愛するものが与えてくれた奇跡とを、今の力に変えたことも。
 学生時代とは随分遠いところに来てしまったようだ。あの頃あの橋を走っていた私が、今の私を想像できただろうか。何十年後にひとりカメラを抱えて、同じ景色を見ることなどと。
 私はあの頃の、何も知らない私が今の私を見たら、ずいぶんがっかりするのだろうな、そんなふうに可笑しく思いながらも、この記憶をしっかりと胸に焼き付けておきたいと願っていた。
 今日見た桜の姿を、花のお寺の想いと同じように、たとえ何十年の時が過ぎても、たとえそれが苦悩と結びつくものであっても、覚えているといい。
 知らないものに天上の幸福が訪れようと。知っているから、物語が、感動が、悲恋が生まれるのだ。
 苦しみの上に成り立つこの喜びを、いや、いつの日か必ず、誰よりも深い喜びに変わるこの記憶を。
 手放してなどなるものか。そう思いながら、お寺の脇の急な坂道を上っていた。見上げると、青い、青い空。
 携帯カメラで撮って、私の帰りを待つものに、そっと送っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

上野恩賜公園~不忍池・花見狂乱編

 
 
 
 

 
 
 
 かもめのジョナサンを読んでから、不思議と気が楽になった。
 その理由を考えていたのだが、つまり私が生きている間に彼より高い場所へ行くことはない。ましてや女神になることもない。
 すると、私は下へ降りていく(=人に優しくする)必要もないのだと。そのことで罪悪感も苦痛を感じることも、なく、独り散歩をしていていいのだと。
 言葉にするのが難しいが、そんな感じだろうか。今まで私は、人を赦すことは自分を赦すことと同義で、そこを超えないと先に進めないような思いがしていた。
 しかし、自分さえも赦す必要などなかったのだ。自分に優しくなくても問題なかった。
 堂々巡りの散歩をしていても、他人も私も、誰も困らないということだ。
 
 
 

 

 
 で、カメラを抱えて、桜を見に行くことにした。
 今年は開花はしたものの、強風が吹いたり、氷雨が降ったりで、満開になるまではまだ時間がかかりそうだ。るるぶの開花前線を見ると、近場のお花見スポットはみな「20%の開花」、「まだまだ」という記述も多い。
 唯一、40%~60%と、蕾ではなく桜の花マークになっているところが、東京の上野恩賜公園だった。
 私は最近気に入って使っていたレンズを家に置いてきた。標準のズームレンズと70-200mmの望遠レンズと、その二つをどんなに重くても持ち歩くことは私なりの決意でもあったのだが、ふと、かつて人から勧めれて購入した中古のレンズを持って行くことにする。
 M42マウントレンズのSuper-Takumar 28mm/F3.5。
 オールドレンズだ。いつか蓋を落としてしまったため、むき出しのまま鞄に収めてふらり出かけていく。上野駅で降りて、いつものようにトイレを探す。先にトイレに行っておかないと散歩や写真撮影に集中できない。が、出口を間違えたのか、いつも改札を出る前にあるというのに、今日は改札を出ても見つけられない。仕方なくそのまま不忍池口を出て、公園入口の袴腰広場にたどり着く。
 かえるの噴水の前に満開の枝垂れ桜、桜祭りの提灯が並んでいる。上野駅から排出された人々はここでまず記念撮影をするようだ。人だまり、英語と中国語が飛び交っている。枝垂れ桜を撮るにはどこから撮れば綺麗だろうか。私はお日様をみながら、順光、半逆光、逆光、とうろうろ歩いて眺めてみる。
「ここがいいよ」
 3メートルほど先から声がする。振り向くと、60歳ほどだろうか、年配のおじさんが一人絵を描いていた。
「ここからだと、提灯も石碑も入るしね。枝垂れ桜、綺麗だよ」
 おじさんは枝垂れ桜の枝を描き始めたばかりだった。中央よりやや左寄りに桜を置く構図のようだった。
「なるほど、そうですね」
 光の当たり方も構図も正面で当たり前すぎる。もう少しひねりたかったのだが、これでは外国人の記念撮影と同じである。私はにこやかに応えたものの、内心がっかりしていた。
「今、人がいるからね。いなくなると、良く見えるよ」
「はい」
 おじさんの隣に立って、おとなしく観光客の途切れるのを待つ。彼の絵を眺めている。まだキャンパスはほとんど真っ白だ。だけど彼の書く絵は私の写真とほとんど変わらないだろう。時折、「どうだい、撮れるかい?」を笑いながら私に問いかける。人の流れが多くて、美しい写真は望めそうもない。でもそれでいいのだ。ここからの構図が一番いい。奇抜な写真など撮る必要もなかった。美しい傑作でなくても良かったのだ。
 この最初の一枚で、抜けかかっていた私の気は完全に抜け落ちた。観光客と同じ目線になった。旗を振って歩くツアーの団体客、彼らと紛れて桜並木を歩いていく。まだ花は6分咲きぐらいで満開とまではいかないが、思ったよりも花開いているようだ。厚みに欠ける桜のトンネルをお気楽気分で歩きながら、時折写真を撮るのだった。
 
 
 

 
 
 
 京都の清水寺を似せて造ったという清水観音堂から桜を見下ろす。俯瞰の眺めもなかなかいい。上野公園は清水堂の他にも摺鉢山に大仏山と、上から桜を見ることができる場所が多い。桜は見上げることがほとんどなので、新鮮だった。ここも中国語、中国語、時折英語。聞き取れない言葉が聞こえたので、振り向くと、若い男性たち、よく韓流ドラマで見る若者にそっくりの顔つきをしている。不思議と国によって顔の系統は同じなのだ、とその特徴に妙に納得してしまう。大噴水の前では、パキスタンフェアー。カリーやバーベキューのパキスタン料理の屋台に行列が出来ている。それから、パキスタンの服や雑貨のバザー。こちらも大賑わいだ。
 ずいぶん沢山の外国人を見た思いだ。上野動物園に向かう曲がり角でやっとトイレを見つけた。向かうと、こちらも中国人が行列している。けたたましく中国語で語り合い、中の一人、中年の女性がわざわざ舗装されていない一段上の地面に向かってつばを吐いている。痰が詰まって気持ち悪いのか、下を向いて、二度、三度と吐きかけている。まるで嘔吐しているようだった。
 私は列を離れてしまう。上野動物園の前の桜を撮り始めた。そのうち別のトイレを見つけて、入ると、今度は日本人の列。老女が顔をしかめて出てきて連れに嘆いている。
「汚い、汚い。何かこすりつけたような跡があるし。入れないわ」
 彼女たちが去った後、見てみるとそう汚くもないようだった。私はやっと入って、今更ながら集中出来る準備を整える。
 もうほとんど回ってあとは不忍池を残すくらいだ。公園の中は絶えず屋台から食べ物の匂いが漂っていて、私を刺激し続けていた。そろそろ正午をまわっていた。お腹が空いた… 私は中の一つ、最初に見かけた屋台に向かって、焼きそばを買う。お花見の人々を避けながら場所を探し、桜の下で頂くことにした。いったいいつになったら集中するのだろう。疑問に思いながらも、特に焦るでもない。何だかねじが一本抜けてしまって気分だ。
 
 
 

 
 
 
 
 桜のせいだろうか。
 私は辺りを見まわしてみる。ブルーシート。段ボールを並べて、部屋のように区切りを作っている団体もいる。旗を掲げ、大学のサークルに職場の同僚たちに。お酒を飲んでは、語り合い、笑い合っていた。中年の女性たちは、ぷかり煙草をふかしている。あちこちに置かれるゴミ箱。ビニールプラスチックに空き缶に分別されている。その前でアルミ缶を拾う浮浪者。テレビ局か、高いところからマイクと大きなカメラを人々に向けている若い男。屋台の行列。絶えず消えない食べ物の匂い。
 桜並木をずっと並んで揺れる赤と白の提灯。それからやっぱり外国人。観光客たちの異様な言葉。物珍しそうな視線とカメラ、カメラ。
 一年に一度、この時季はお祭り騒ぎなのだ。桜の花の下で、食べて、飲んで、笑って、撮って、にぎわって。各地からたくさんの人々がやってきては、桜から桜まで列をなして歩いていく。
 私はその流れる人々と桜の狂乱の中を遊歩していく。
 誰もが一人ではなかった。ふと気が付くと、私だけがカメラを抱えて一人歩いているようだった。
 なのに不思議と孤独さえも感じなかった。ただ、映り行く景色や人々を不思議そうに眺めている。
 不忍池はこちらも驚くくらいの人々が店の傘の下に座り、弁天堂へと歩いていた。橋の上は右も左も屋台、屋台。氷に付けたタコやあんず飴にバナナチョコに鮎焼き、焼きとうもろこし、金魚売りの前には小さい子供と父親、中学生ぐらいの若い青年たちが、ソフトクリームいかがですか~と大きな声を張り上げている。
 弁天堂の脇を抜けるとボート乗り場が現れた。ボート池に鴨やコサギや鳩やかもめ。野鳥に餌をあげないでください。そう書かれた看板の真前で、中国人が餌をばら撒いている。飛び交って近づいてい来る鳥たちを撮ろうとしたが、単焦点のオールドレンズでは遠すぎた。いつもの望遠ならば、簡単に撮れるだろうに。そう思いながら、今日の距離感が何だか心地いいような気持ちになっていた。
 
 
 

 
 
 
 
 私は遠巻きに祭りの様子を撮って、桜を撮って、餌に食い付く鳥たちを他人事のように見て、ふとボート池の傍で大声を張り上げている父親の前で立ち止まった。
「もっと、もっと、右。違う違う。普通に漕いで!」
 ボートに乗る小さな少年二人に、近くの岸から漕ぎ方を教えいているのだ。子供たちは、父親の言うとおりに必死に漕ぐがうまくいかない、池の水を何度も跳ね上げて、父親をいっそう苛立たせている。
 父親と池の少年たちの距離は10メートルも離れていない。子供たちは近くで、離れることなくずっと練習をしているのだ。私は柵を乗り越えて、父親の横、彼が身を乗り出している池の淵に座り込んだ。カメラを構えている。子供たちのすぐ先の木の杭にとまっているかもめを撮ろうとしているのだった。
 かもめは父親の怒鳴り声にも、子供たちの飛沫にも動じない。私が見つけてから去るまで、ずっとそこに留っていた。スワンのボートが通り過ぎても、空を仲間たちが飛んでいっても、鳩がからかうようにすぐ傍を通り抜けても、うるさそうにくちばしを突く真似をするくらいで、終いまであっちを見たり、こっちを見たり、突然振り返って、私のレンズを見たり、父親のことも不思議そうに時折眺めているのだった。
 私は彼が動かないのをいいことに、ゆっくりと足を進めて、父親よりも身を乗り出した。何だか妙にこのかもめが気になってきたのだ。せめてもう少し大きく撮りたい。
 1センチでも、と思ったが、やはりファインダーのなかのかもめは点のように小さく見えた。相変わらずかもめは空の仲間たちを見たり、ボートを見たり、振り向いたり。
 時折思い出したように毛づくろいして、眠そうに眼を細めていた。
 ボート池の逆側には桜も咲いているのに、ここには餌もないのに、ずいぶんのんびりしているではないか。
 可愛いなぁ… そう思って見ていると、不思議と水面が輝いて、彼の周りに光の点が星のように現れるのだった。
 カメラを置いて煙草を吸った。ずいぶんと刺激的で集中できなくて、そのくせ白昼夢のような今日の遊歩は、彼のおかげで最後の最後で別のものとなった。
 私は心穏やかな気持ちで、かもめの世界にいる。
 不忍池を煌めく小さな小さな光の珠を、一緒に眺めているのだった。