上野恩賜公園~不忍池・花見狂乱編
3月 28, 2010 コメントを残す
かもめのジョナサンを読んでから、不思議と気が楽になった。
その理由を考えていたのだが、つまり私が生きている間に彼より高い場所へ行くことはない。ましてや女神になることもない。
すると、私は下へ降りていく(=人に優しくする)必要もないのだと。そのことで罪悪感も苦痛を感じることも、なく、独り散歩をしていていいのだと。
言葉にするのが難しいが、そんな感じだろうか。今まで私は、人を赦すことは自分を赦すことと同義で、そこを超えないと先に進めないような思いがしていた。
しかし、自分さえも赦す必要などなかったのだ。自分に優しくなくても問題なかった。
堂々巡りの散歩をしていても、他人も私も、誰も困らないということだ。
で、カメラを抱えて、桜を見に行くことにした。
今年は開花はしたものの、強風が吹いたり、氷雨が降ったりで、満開になるまではまだ時間がかかりそうだ。るるぶの開花前線を見ると、近場のお花見スポットはみな「20%の開花」、「まだまだ」という記述も多い。
唯一、40%~60%と、蕾ではなく桜の花マークになっているところが、東京の上野恩賜公園だった。
私は最近気に入って使っていたレンズを家に置いてきた。標準のズームレンズと70-200mmの望遠レンズと、その二つをどんなに重くても持ち歩くことは私なりの決意でもあったのだが、ふと、かつて人から勧めれて購入した中古のレンズを持って行くことにする。
M42マウントレンズのSuper-Takumar 28mm/F3.5。
オールドレンズだ。いつか蓋を落としてしまったため、むき出しのまま鞄に収めてふらり出かけていく。上野駅で降りて、いつものようにトイレを探す。先にトイレに行っておかないと散歩や写真撮影に集中できない。が、出口を間違えたのか、いつも改札を出る前にあるというのに、今日は改札を出ても見つけられない。仕方なくそのまま不忍池口を出て、公園入口の袴腰広場にたどり着く。
かえるの噴水の前に満開の枝垂れ桜、桜祭りの提灯が並んでいる。上野駅から排出された人々はここでまず記念撮影をするようだ。人だまり、英語と中国語が飛び交っている。枝垂れ桜を撮るにはどこから撮れば綺麗だろうか。私はお日様をみながら、順光、半逆光、逆光、とうろうろ歩いて眺めてみる。
「ここがいいよ」
3メートルほど先から声がする。振り向くと、60歳ほどだろうか、年配のおじさんが一人絵を描いていた。
「ここからだと、提灯も石碑も入るしね。枝垂れ桜、綺麗だよ」
おじさんは枝垂れ桜の枝を描き始めたばかりだった。中央よりやや左寄りに桜を置く構図のようだった。
「なるほど、そうですね」
光の当たり方も構図も正面で当たり前すぎる。もう少しひねりたかったのだが、これでは外国人の記念撮影と同じである。私はにこやかに応えたものの、内心がっかりしていた。
「今、人がいるからね。いなくなると、良く見えるよ」
「はい」
おじさんの隣に立って、おとなしく観光客の途切れるのを待つ。彼の絵を眺めている。まだキャンパスはほとんど真っ白だ。だけど彼の書く絵は私の写真とほとんど変わらないだろう。時折、「どうだい、撮れるかい?」を笑いながら私に問いかける。人の流れが多くて、美しい写真は望めそうもない。でもそれでいいのだ。ここからの構図が一番いい。奇抜な写真など撮る必要もなかった。美しい傑作でなくても良かったのだ。
この最初の一枚で、抜けかかっていた私の気は完全に抜け落ちた。観光客と同じ目線になった。旗を振って歩くツアーの団体客、彼らと紛れて桜並木を歩いていく。まだ花は6分咲きぐらいで満開とまではいかないが、思ったよりも花開いているようだ。厚みに欠ける桜のトンネルをお気楽気分で歩きながら、時折写真を撮るのだった。
京都の清水寺を似せて造ったという清水観音堂から桜を見下ろす。俯瞰の眺めもなかなかいい。上野公園は清水堂の他にも摺鉢山に大仏山と、上から桜を見ることができる場所が多い。桜は見上げることがほとんどなので、新鮮だった。ここも中国語、中国語、時折英語。聞き取れない言葉が聞こえたので、振り向くと、若い男性たち、よく韓流ドラマで見る若者にそっくりの顔つきをしている。不思議と国によって顔の系統は同じなのだ、とその特徴に妙に納得してしまう。大噴水の前では、パキスタンフェアー。カリーやバーベキューのパキスタン料理の屋台に行列が出来ている。それから、パキスタンの服や雑貨のバザー。こちらも大賑わいだ。
ずいぶん沢山の外国人を見た思いだ。上野動物園に向かう曲がり角でやっとトイレを見つけた。向かうと、こちらも中国人が行列している。けたたましく中国語で語り合い、中の一人、中年の女性がわざわざ舗装されていない一段上の地面に向かってつばを吐いている。痰が詰まって気持ち悪いのか、下を向いて、二度、三度と吐きかけている。まるで嘔吐しているようだった。
私は列を離れてしまう。上野動物園の前の桜を撮り始めた。そのうち別のトイレを見つけて、入ると、今度は日本人の列。老女が顔をしかめて出てきて連れに嘆いている。
「汚い、汚い。何かこすりつけたような跡があるし。入れないわ」
彼女たちが去った後、見てみるとそう汚くもないようだった。私はやっと入って、今更ながら集中出来る準備を整える。
もうほとんど回ってあとは不忍池を残すくらいだ。公園の中は絶えず屋台から食べ物の匂いが漂っていて、私を刺激し続けていた。そろそろ正午をまわっていた。お腹が空いた… 私は中の一つ、最初に見かけた屋台に向かって、焼きそばを買う。お花見の人々を避けながら場所を探し、桜の下で頂くことにした。いったいいつになったら集中するのだろう。疑問に思いながらも、特に焦るでもない。何だかねじが一本抜けてしまって気分だ。
桜のせいだろうか。
私は辺りを見まわしてみる。ブルーシート。段ボールを並べて、部屋のように区切りを作っている団体もいる。旗を掲げ、大学のサークルに職場の同僚たちに。お酒を飲んでは、語り合い、笑い合っていた。中年の女性たちは、ぷかり煙草をふかしている。あちこちに置かれるゴミ箱。ビニールプラスチックに空き缶に分別されている。その前でアルミ缶を拾う浮浪者。テレビ局か、高いところからマイクと大きなカメラを人々に向けている若い男。屋台の行列。絶えず消えない食べ物の匂い。
桜並木をずっと並んで揺れる赤と白の提灯。それからやっぱり外国人。観光客たちの異様な言葉。物珍しそうな視線とカメラ、カメラ。
一年に一度、この時季はお祭り騒ぎなのだ。桜の花の下で、食べて、飲んで、笑って、撮って、にぎわって。各地からたくさんの人々がやってきては、桜から桜まで列をなして歩いていく。
私はその流れる人々と桜の狂乱の中を遊歩していく。
誰もが一人ではなかった。ふと気が付くと、私だけがカメラを抱えて一人歩いているようだった。
なのに不思議と孤独さえも感じなかった。ただ、映り行く景色や人々を不思議そうに眺めている。
不忍池はこちらも驚くくらいの人々が店の傘の下に座り、弁天堂へと歩いていた。橋の上は右も左も屋台、屋台。氷に付けたタコやあんず飴にバナナチョコに鮎焼き、焼きとうもろこし、金魚売りの前には小さい子供と父親、中学生ぐらいの若い青年たちが、ソフトクリームいかがですか~と大きな声を張り上げている。
弁天堂の脇を抜けるとボート乗り場が現れた。ボート池に鴨やコサギや鳩やかもめ。野鳥に餌をあげないでください。そう書かれた看板の真前で、中国人が餌をばら撒いている。飛び交って近づいてい来る鳥たちを撮ろうとしたが、単焦点のオールドレンズでは遠すぎた。いつもの望遠ならば、簡単に撮れるだろうに。そう思いながら、今日の距離感が何だか心地いいような気持ちになっていた。
私は遠巻きに祭りの様子を撮って、桜を撮って、餌に食い付く鳥たちを他人事のように見て、ふとボート池の傍で大声を張り上げている父親の前で立ち止まった。
「もっと、もっと、右。違う違う。普通に漕いで!」
ボートに乗る小さな少年二人に、近くの岸から漕ぎ方を教えいているのだ。子供たちは、父親の言うとおりに必死に漕ぐがうまくいかない、池の水を何度も跳ね上げて、父親をいっそう苛立たせている。
父親と池の少年たちの距離は10メートルも離れていない。子供たちは近くで、離れることなくずっと練習をしているのだ。私は柵を乗り越えて、父親の横、彼が身を乗り出している池の淵に座り込んだ。カメラを構えている。子供たちのすぐ先の木の杭にとまっているかもめを撮ろうとしているのだった。
かもめは父親の怒鳴り声にも、子供たちの飛沫にも動じない。私が見つけてから去るまで、ずっとそこに留っていた。スワンのボートが通り過ぎても、空を仲間たちが飛んでいっても、鳩がからかうようにすぐ傍を通り抜けても、うるさそうにくちばしを突く真似をするくらいで、終いまであっちを見たり、こっちを見たり、突然振り返って、私のレンズを見たり、父親のことも不思議そうに時折眺めているのだった。
私は彼が動かないのをいいことに、ゆっくりと足を進めて、父親よりも身を乗り出した。何だか妙にこのかもめが気になってきたのだ。せめてもう少し大きく撮りたい。
1センチでも、と思ったが、やはりファインダーのなかのかもめは点のように小さく見えた。相変わらずかもめは空の仲間たちを見たり、ボートを見たり、振り向いたり。
時折思い出したように毛づくろいして、眠そうに眼を細めていた。
ボート池の逆側には桜も咲いているのに、ここには餌もないのに、ずいぶんのんびりしているではないか。
可愛いなぁ… そう思って見ていると、不思議と水面が輝いて、彼の周りに光の点が星のように現れるのだった。
カメラを置いて煙草を吸った。ずいぶんと刺激的で集中できなくて、そのくせ白昼夢のような今日の遊歩は、彼のおかげで最後の最後で別のものとなった。
私は心穏やかな気持ちで、かもめの世界にいる。
不忍池を煌めく小さな小さな光の珠を、一緒に眺めているのだった。