『愛の奇跡を否定する要望』 ~チャーリーズエンジェルはマハトマ・ガンディーを007に出来るのか?~

 
 
たとえばもし、愛する人と、お互い気遣いのない穏やかな関係を切実に望むのならば、答えは簡単だ。
自分と一番近い人と愛し合えばいい。
感じ方や考え方の近い人、それを左右する環境、つまりお互いが接するお互いの世界が同一の相手を選べばいい。
この傾向が昔からあるからなのか、それとも私の持論が単純に正論なのか、日本では職場(結婚or恋愛)とか、学生(結婚or学校やバイト先の相手との恋愛)とか、傍にいる人と付き合ったり結婚するパターンがどうも多いようだ。
しかし、時々困ったタイプの人がいて、そこでは相手を見つけれなかったり、またはそこで見つけた相手に満足できなかったりするわけだ。
彼(彼女)はたまたま寺の跡取りだったりする。
彼女(彼)はたまたま国際的なスパイ(それが大げさなら産業スパイ)だったりする。
そうして、寺には絶対向かない詐欺師や泥棒の女を好きになったりする。
官僚や警官のカタブツ男を好きになったりする。
攻撃性を孕む、恋というゲームのスリルで、相手を求めてしまうのだ。
もちろんそう簡単に巧くはいかない。
間逆のふたりがたとえ惹かれあったとしても、真っ逆さまに恋に落ちてたとしても、絶えず言い争いばかりしているのだ。
こんなふうに―
 
『てめぇ、さっさと犯罪から足を洗って坊主の嫁になりやがれ!愛が足りないぞ!』
『あんた、さっさとお国の仕事なんか捨てて私と逃避行でもしちゃいなさいよ、意気地なしね!』
 
不毛な、愛に纏わる、その争いは耐えないのだ。
『朱に交われば赤くなる』と言うことわざを全うして、どちらかが出家(するほど)の覚悟をしたり犯罪者に身を持ち崩したりするまでは。
 
穏やかな関係は遠い。
 
 

『今日の出来事』 または 『今日感じた事』

 
 
『鍵』
 
家を出ようと施錠をしたらまたしても鍵が抜けない。これで何度目だろう。ドアから突起しているシリンダー部分を回すと巧く抜けるので、今日もくるくる回していたら、シリンダー自体が取れた。ドアには鍵穴がぽっかり開いている。青くなった。はめて回すと元通りになった。しかし、施錠した後また回したらかちりと開錠してしまう。「鍵の救急車」のおじさんが言うには、シリンダーの取り付けミスですね。昨年入居してからずっと、この家の鍵は意味をなさないシロモノだった。壊れていたのだ。鍵をかけたつもりでいても、誰でも何時でも入り込める状態だった。まるで住居人に良く似ている。
 
 
『教祖様』
 
家族と言うものも一種の宗教のようだ。金のなる木を期待した父と言う教祖にとって、私はだめな信者だった。就職してもしがない給料しか稼げず、家に寄生する私にうんざりした頃、父は家を買った。私の住む部屋のない、小さなマンションだった。私はあのとき破門され、捨てられたのだと今日気がついた。
 
 
『嫉妬』
 
もてる男が好きだ。彼に何人の彼女がいようと、何百人の女と寝ていようと、私は嫉妬しない。たとえうすうすわかっていても。いや、確信していても。しかし、私の目の前で、故意に別の女といちゃついたり、故意に別の女と寝てる場面を見せられたならば、私は鬼になる。「浮気(あるいは本気)」されることよりも、「故意」に傷つけらることが赦せないのだ。嫉妬する。
 
 
『クリネックス』
 
昔「本は友達」と言うキャッチコピーの本屋があったが、私のキャッチコピーは「ティッシュペーパーは友達」だ。男ならば卑猥な意味に取るのだろうが、関係ない。長い夜に、私を慰め、涙をふき取り、ただ癒してくれたのは、クリネックスだ。私は良くこの愛しい箱を抱えて蒲団にこもった。泣き疲れ、眠りに堕ちるまで。
 
 
 

『チボー家の人々の希望』 ~この不毛なシステムを叩き壊すのはいったい誰だ?~

 
 
当時夢中になって読んだ小説の、その内容をすっかり忘れてしまうことがある。
『チボー家の人々』もそうだった。
あんなに胸をときめかせて全13巻を一気に読んだというのに、今は主人公の名前さえ覚えていない。
しかし、結末は―
 
 
会社の同僚がまた一人辞める。
上座が好きなA子ちゃんだ。
彼女は今よりもっと条件のいい企業にヘッドハンティングされ、旅立っていく。
給湯室の前で彼女は言った。頬を高潮させて、少し声高に。
「要するに私はトラブルシューターなのね」
「トラブルシューター?」
横文字に弱い私はゴミを吸い取るあの、しかしちょっぴり近代的な掃除機を思い浮かべる。
「そうよ。トラブルを起こしそうなね、いかにもややこしい仕事を押し付けれるの。そうしてこっちがやり玉に上がっている間にみんなは平和に過ごすわけ。当て馬だよ。冗談じゃないよね」
なるほど、しかし、当て馬にされるほどややこしい仕事を押し付けられるならば、それだけの器と業務をこなせる実力とやらを見込まれているのだろう。
私の慰めは、彼女の怒りに油を注いだだけだった。
「誰かや何かの盾にされるのはいや。出来る人に出来る仕事を任せないのもいや。ただの当て馬にされて、こんな人を大切にしない会社はいや」
なるほど、彼女の言うことはもっともだとも思う。
だけど、会社に勤めるということはイコールシステムの歯車のひとつになるということで、多かれ少なかれ誰でも当て馬にされるのではないだろうか。
私だって、今の会社でよく「悪意」の当て馬にされるのだ。
自分に向けられた悪意を他に逸らすために、嫌われ者の役を押し付けられたりする。いや、違うな、叩くのだ。私を叩いて、他に迎合する。悪意の連帯感を結んだりする。
そうして、仕事中に給湯室の前で立ち話をして、私に延々と愚痴を言い続ける彼のA子ちゃんだって、多かれ少なかれ私のことをこの「悪意の当て馬」にしていたのだった。(私が気付いていないとでも思っていたのだろうか・・)
私はちょっぴり哀しくなる。彼女が辞めていくのはとても寂しかった。その理由さえも、なんだか淋しかった。
たとえ自分は他人を利用しても、他人が自分を利用することは決して赦さない。
人間と言うのは不思議だ。
このA子ちゃんは私の所属する課で一番若かった。上昇志向も強かった。本当に実力があったから言える言葉だ、だから、まぁ、多少の哀しさは赦せる。
しかし、彼女が辞めたあと、うちの課は40代近い派遣さんと社員、いや、うちの課だけじゃない、周りを見回せば、20代がほとんどいない。
若者はいったいどこにいる?
いつも夜中まで残業しているのは、30代から50代の『大人(じじばば)』だけであった。
 
若者はいったいどこにいる?
 
ランチでよく行くカレー屋さん、大学生くらいの若い女の子が汗を光らせお皿を運んでいた。
休日のショッピングモール、高校生かフリーターか、そんな男女が楽しそうにパンやら洋服やらを売っている。
ふと店先の張り紙を見ると、「アルバイト募集・時給850円より」と書いてあった。
 
システムの歯車のひとつになることを拒んだ彼らは、まるで学生時代のサークル活動の延長のような仕事を選ぶ。仲間を選ぶ。
そこにはシステムからの恩恵は何一つ存在しないというのに。
 
私は時々こんなふうにも思うのだ。
日々ニュースを見て、「これは日本の誤算だった」と。
国民に娯楽を与え、テレビや恋愛やゲームや映画やファッション、そんなもので目眩ましをし、システムの危機が訪れれば、当て馬のニュースで関心を逸らし、そうして日本は一部のエリートだけが中枢を支配し続け、あとは「すべてが盲目に」と育てられてきたけれど―
そこからゾンビのように這い上がった若者達は、システムを拒否し、自分達の道を貫いていく。
強かに、逞しく。
もしも、この先、誰もが就職しなくなり、まともに、責任を持って、働こうななどと思わなくなったら?
いや、サークル活動のような仕事をし、わずかなお給料で満足し、全体よりも自分と仲間との生き方に固執したら?
システムを継続しなくなったら?
 
そうして、システムを守り続ける日本は崩壊していくのだ。
30代、40代のニートが70代80代の母親の年金で暮らし、またはその母親を叩き殺し、かと思えば親を子を刺し殺し、兄は妹を、妻は夫を。最低限のことさえ学べなくなった盲目の人々が、その社会のツケが、日本を不毛の地に変えていくのだ。
 
 
ならば私も賛成だ。
いっそ壊してしまえばいい。
そうして、滅びる前に叩き壊すのはいったい誰だ?
システムを拒否したゾンビはどこだ?
 
私は彼らに希望を託す。
まるでチボー家の人々のように。
新しい、新種の生命に創造を託すのだ。
再生する力などもう残ってもいやしないこの終焉の世界を、いっそあなたが壊してしまえと。
 
 
 

『霞ヶ関のマノン・レスコー』

 
 
魚を下ろす変わりにカップラーメンをすする半月の今宵、帰宅途中の虎ノ門交差点で、女が叫んでいた。
「サイアクよっ!」
何がどういうわけでどのように最悪なのか、多分女はこと細かに連れに説明していたとは思うのだが、私は疲れ切っていた。いや、たとえ疲れていなくても、まったく興味がないせいだろう、台詞が頭を通り過ぎる。
通りすがりに確認した限りでは黒っぽいコートを着た、小太りの、老けた女だったように思う。
それより今夜は何を食べようか。漠然と想像する。お腹が鳴った。
「仕事はダメだしッ! 男は逃げるしッ!」
背後ではまだ女が呪縛霊のように騒いでいた。
「男は逃げるしッ!」
二回繰り返した。
「逃げてねぇじゃねーかよ!」
ふと足が止まりかかる。
女の叫びにおっかぶせるように男の憐れな叫びが響く。
「逃げてねぇじゃねーかよ! 逃げてねぇじゃねーかよ!」
三回繰り返した。
思わず振り向いてしまった。
 
この時点で、『ただの女のヒステリー』というありがちで無関心にならざるを得ないただの出来事から、『ほのかな男女の色恋沙汰』という興味津々の物語へと姿かたちを変えている。
見ると、小太りの女の連れは背の高い、これまた体格のいい男だった。今どきというくらい前髪を七三にわけて、なのに不潔そうにやや長い。女とお揃いのように黒のロングコートを着ていた。年は30代後半から40代初頭くらいか。
女のほうは肩までの髪の前髪だけを後ろにひっつめ、おでこを全開にし、やはり気のせいではなく小太りだった。いったいなぜこんなところにいるのか、という純朴そうな、しかしイカレた雰囲気、○浦あたりにいそうなタイプだ。
 
霞ヶ関の夜は早い。車のほかの歩行者は私だけだった。男と女の外見を確認した時点で私の興味は空腹へと戻りつつあった。しかし振り向く視線に男は気付いて、慌てて向きを変えるのだ。挙動不審にうろうろし始めた。
女はうっとりと男を見つめ、―なぜならどう考えてもそれは、恋愛向けの台詞だったから― ええ、私なら小躍りして喜んで、仕事やら何やらの『最悪』もすっ飛ぶだろうと思われたのだが、そうではなかった。
 
女は挑むように、ただ男を見つめていた。
 
私は前に向き直ってそっとため息をつく。
いつだって女は、『あなたしか見えない』。
周囲を見渡すのも、役割を忘れないのも、男のほうが一枚上手だ。
私は空腹を忘れ、考え始める。
そういや、そもそも男は狩猟する人たちだったんだっけなぁ、そか、そか、だから視野が広い、あんなにいつでもすぐさま獲物や危険を察知できるようにひたすら辺りを見回して・・・偉いこっちゃな・・・うんぬん。
 
その割には、太古の昔から決まっている。
ラブロマンスで、恋で破滅するのは男の役目なのだ。
 
 

スタンドバイミーと魚を三まいに下ろす夢を見る。

 
  
なんだか無性に、瑞々しくて、清々しい、思い出のひとこまでも書きたくなった。
甘酸っぱい、青春時代のひとこま、でもいいだろう。
同じことだ。
まぁ、出来るならば、欲を出せば、『スタンドバイミー』のような感じが好ましい。
高望みして記憶の引き出しを捜してみたが、瑞々しさとは無縁の人生なのか、さっぱり思い浮かばない。
便意を我慢するときのような、または苦虫を噛み潰したような、そんな顔で気分転換のお風呂に入って、ふと思う。
 
『そうだ、来年は結婚しよう』
 
決定的な閃きだった。
(が、この場合、スタンドバイミーとはまったく関係がない)
  
そうだ。
良く考えれば、来年は運勢がいいのだ。
細木和子が言っていた。
ジャガー横田だって、子供を生んだし。
まだまだ希望はあるかも知れぬ。
  
そこまで一気に思い込むと今度は、ウェディングドレスがいいか、文金高島田がいいか、などとおのれの晴れ姿をうっとり想像する。
新居は絶対○○に構えて、夕方には成城石井に買い物へ行こう。
そうして、犬を飼う。何がいいか?
いや、その前に料理を勉強しなければ。
 
想像がどんどん膨らむ。
思わず、にやにやする。
はじめから何の根拠も具体性もない夢想なだけに、心浮き立つ純粋な楽しい想像である。
明日あたり、本屋で魚の下ろしかたが書かれた料理本を熱心に眺める私がいるかも知れぬ。
どちらにしても、料理を学ぶのはいいことだ。
 
 
 

『コーヒー&シガレット』 ~キャリア層は程遠い・・私の愛する場末のカフェ~

 
 
最近、寄り道が好きになった。
どうせ急いで帰っても待つ人がいるわけでもない。
ふらふらと立ち寄る先は―
 
  
登場人物が煙草を吸ってばかりいる小説を読んだ。
大概のシーンで煙草をすぱすぱと燻らすのである、しつこいほどに。
読んでいると胸が悪くなるようだった。
そうして、主人公の『僕』はバイクで20キロあまりをかっ飛ばして、コーヒーショップへと行く。
ただ一杯のコーヒーを飲むために。
煙草を吸いながら、泥水のような苦いコーヒーを飲んで、なのに、それがしびれるくらいカッコいい。
ふと、コーヒーが飲みたくなった。
 
 
思い出したのがこの映画。
 
『COFFEE AND CIGARETTES』
 
最初から最期まで、登場人物が煙草を吸ってコーヒーを飲んでいる。
「カフェ」と紹介するライターもいるようだが、この舞台はどう見ても日本人が認知する「カフェ」ではない。
場末の「コーヒーショップ」という感じ。いや、「レストラン」や「喫茶店」か?「お洒落なホテルのロビー」なる場所も出てくることは出てくるのだが、しかし全編にわたって不健康さが満載の廃れた場所という雰囲気である。
そんな昔風の「カフェ」で、登場人物たちがただニコチンを吸って、カフェインを取る。
それだけだ。
途中、指先に力が入らなくなる。(あまりに胸が悪くなりすぎて・・)
「絶対禁煙しよう・・」
くらくらしながら、そう心に誓う。
ずいぶんと良く出来た「禁煙用ビデオ」だ、と思ったりもする。
しかし、ラストに至る頃には、その考えも消えうせる。
 
こんな人生もありだよな・・・・
 
などと、その味わい深さに納得してしまうのだ。
こんな人生も満更悪くはない。
あんなふうにはなりたくない、でもあんなふうに老いていくのもいい、煙草はやめたほうがいいだろう、だが絶対死ぬまで煙草を吸い続けてやる、などと心に誓ったりもするのである。
煙草を吸わない人には一生理解できない、矛盾した気持なのかもしれない。
そうして、そんな愛しい煙草にはやっぱりあの苦い、泥水のような、不健康そうなコーヒーが一緒でないと。
仕事が終わった後は特に美味しい。
苦ければ苦いほど旨い。
 
 
今日も私は「カフェ」に寄って帰る。
 
 
 

スタメンを見て思うこと ~「華麗なる一族」を見逃した代わりにそのまんま東を応援しよう!の巻~

 
 
 
恒例スタメンを見てのんびりしていたら、ふと現時刻が10時半をまわっていることに気がついた。
しまった・・・
『華麗なる一族』の第2回目を見逃してしまった。
いったい何をしていたのか、としばし歯軋りをする。
歯軋りしても過ぎた時間は戻らないので、仕方ない、来週こそはこんなバカはしまい、と自らを戒める。
 
 
今週のスタメンのトップニュースは、『そのまんま東宮崎知事選当確!』だった。
耳を疑う。
私は「これは絶対ギャグだ」と信じ込んでいたのである。
しかし、背水の陣のそのまんま東は本気だった。
本気と見せかけたギャグでも、一発逆転のネタでもない。
まさしく、彼の今までの人生と、これからの人生を、この宮崎選に賭けていたのだった。
用意周到な綿密なるマニフェストを掲げ、自慢の足で宮崎中を走り回り、芸能関係絡みの派手はパフォーマンスは一切拒否。
はじめは各方面からの圧力、誹謗中傷もあったらしい。
「マラソンにたとえれば、中盤くらいから自分らしい走りが出来ました」
当確という吉報を聞いても、にこりとも笑わず、そうのたまうそのまんま東の顔はただ険しい。
そうして、「これから自分を応援し、支持してくれた宮崎の人たちの想いにこたえなくてはいけない」
責任と重圧をどしりと受け止めていた。
 
 
私はこのニュースに疎かった。
今回、選挙に当たるそのまんま東の顔をはじめて見たのだ。
反省しました。
一瞬でも、ギャグか一発逆転のネタか、などと皮肉的に考え、嘲笑したことを。
それくらい本気の顔でした。
 
 
人間の生き様というものは顔に表れる。
言葉巧みに嘘を重ねても、虚勢を張っても、本気だと自分に信じ込ませても、何をしていても、顔だけは嘘がつけないのだ。
そんなわけはない、と言う人がもしいたら、夜中にこっそり自分の顔を鏡で見てみるといい。
私の顔は『そのまんま東』に絶対負けている。
後がない、何があっても、待ち受けているものがたとえ地獄であろうと先に向かうしかない、貫くしかない、そんな本気に憑かれた人間の顔には、哀愁だけではなく、死相さえも浮かびあがっているのだ。
 
おお、恐ろしや、そのまんま東・・・
(無事を祈ります!)
 
  
 

『小説・星影のステラ(続編)』~あるいは『失われた時を求めて私編』~

 
  
起きたら、ベルナールが戻ってきていた。
今にも雨が降り出しそうな、曇った朝だった。
 
ベルナールとは先日出て行った私の愛的な幻想である。
私の気持ちを察して、先手を打って出て行った彼は、またしても先手を打って出戻ってきたのだった。
そうして、一言も口を聞かず、どっかりとマッサージチェアーに腰をかけ、本を読み始める。
『失われた時を求めて』
であった。
 
どうやら『ベニスに死す』に飽きたらしい。
 
(続く)

雨の日に口遊む歌 『傘がない』

 
 
 
都会では 自殺する 若者が 増えている
 
だけども 問題は 今日の雨 傘がない
 
 
 
行かなくちゃ 君に会いに行かなくちゃ
 
君の街へ行かなくちゃ
 
雨に濡れ
 
 
 
冷たい雨が 僕の体を濡らす
 
君に会うこと以外は 考えられなくなる
 
それは いい ことだろう
 
 
 
雨が降ると必ず口ずさんでしまう。
実はこの歌詞も、題名さえも、あっているのかわからない。
強烈な印象とともに、残っているだけだ。
たしか井上陽水の歌だった。
ネットで簡単に調べられるが、あえてこれで完結させてしまう。
私ならこう創り、歌いたい。
歌の中の主人公は世間の暗いニュースを、彼を取り巻く世界のさまざまな、大きな問題を抱えた現状を理解している。
だけど、「君に会うこと」しか頭にないのだ。
なくなっている、そんな勝手な自分を責めながら、そんな自分に気も狂わんばかりの焦燥感を感じながら、すべてが「君」へと向かう。
そうして、それはいいことだ、と、死んじまう若者よりはよほどいいだろう、と言っているのだ。
 
私はこの歌を歌いながらいつも思う。
決してこの主人公は「君」のもとへは行かないだろうと。
実際には、彼は死んじまう若者とそう大して変わりはないだろう。
だから切なくなる。
 
関係ないがこの歌を歌うときに、(たぶん陽水のものと思われる)切ないだみ声を推定して頭の中で歌うといい。
いかな~くちゃ、君に~会いに行かなくちゃ
知らずと会社や自宅についてしまうので、雨も楽しい。
 
 
 
 
※掲載に当たり歌詞を調べました↓  

『小説・星影のステラ』 ~または『ファイトクラブ私編』~

 
 
 
起きたら、ベルナールが消えていた。
雪の降る朝だった。
 
 
ベルナールとは私のサイドビジネスの拠点であるシェアオフィスの管理人で、小太郎と桃尻子と権三郎という名の3児の子を持つオヤジ、いや、美青年である。
暇をもてあました彼は、さらに暇になると言うのに、前後の見境なしに突然管理人をやめてしまった。
そうして相変わらずの年不相応ぶりを遺憾なく発揮し、家出青年のように私の部屋に転がり込んできたのだった。
 
「奥さんと小太郎たちが心配してるよ・・」
「あんたの居場所はここじゃないよ」
 
諭すようにやさしく訴えても、きゃつは聞く耳を持たない。返事もしない。
耳と口に障害があるのではないか、と疑い始めた。
まぁ、いい。どうせ害は無い。
根負けした私は、彼を部屋に置くことにした。
 
 
ベルナールの一日はこんなふうに始まる。
まず私が出社してから随分経った頃起き出して、私がボーナスの大枚はたいて買ったマッサージチェアーにどっかりと腰をかける。
働きもしないくせに、働くもののご褒美として天から与えられたその権利の象徴に深々と腰をすえ、本を読むのだ。
何の本かは知らぬ。一度ちらりと見たが小説ではなく、小難しい理学か法律か、何かの専門書のようだった。(私が帰ると必ず『ベニスに死す』に変えてしまうのだ)
読書に飽きるとぐーぐー寝てしまう。
睡眠に飽きると私が買い込んだ食材を勝手に使って、豪勢な食事をする。
私の分を残しておいてくれたことは一切ない。
私は『星影のステラ』という物語を思い出し、もしきゃつが最後の卵を使い切ったら、その時こそは追い出してやろう、と心に決める。
睡眠と食事に飽きるとゲームを始める。
私の買ったばかりのマンションに存在するすべてのものに、あらゆる仕掛けをほどこす。
そうっと。
たとえば本棚の本のなかに、自分がチョイスした本を紛れ込ませたり。簡単には気づかぬよう、私がその前後にある本を買った年代の版をわざわざ古本屋で見つけて来るという手の込みよう。
レコードも、洋服も、小物置物、すべて同様だった。
帰宅後、または休日に、私がそれらを見つけて、まるではじめから自分のものだったように読んで、聴いて、体感して、そうして人知れず自分の世界を広げていく、それが楽しいようなのだった。決して彼のおかげではなく、自ら―
彼のゲームに気づかず、また仕事が忙しく、時間と心の余裕がなくなって、この遊びをないがしろにすると、とても怒る。
そうして、2、3日帰宅せず、小太郎と桃尻子と権三郎のもとへといって、一緒に妻に可愛がられてくるのだった。
 
 
あほか・・・ 初めからそっちにいろよ。
 
そう毒づきながら、私は彼を追い出せない。
彼がいる風景が好きだった。
いや、慣れたのだ。
いることに馴染んだその部屋は、いないと味気なく、寂しく、また彼の魔法で生まれ変わった本やCDや一切は、宝石のように輝き始めていた。
私は彼に詫びを言い、ここにいてくれるよう、必死で頼み込むのだった。
 
しかし―
私はこんなふうにも思う。
切実に。
 
ひとりになりたい―
 
私にはプライベートがまったくなかった。
会社でも家でもお金や愛や快楽や、何かと引き換えに、必ず、煩わしさが纏わりついた。
ベルナールもそうだった。
最近どんどんずうずうしくなった彼は、私のリビングだけではなく、ベッドルームにもバスルームにもトイレにまでも着いてくるのだった。特に何をするわけでもなく、ただ「いる」のだ。退屈凌ぎのように、眺めながら。
私は病んできた。
うんちをする姿や自慰行為を見られるのが特に辛かった。
そうして、気づくと、家にいるときは押入れで過ごすことが多くなった。
真っ暗な、ひとりきりの空間を、切実に求めはじめたのだ。
リビングを覗けば、そこにはマッサージチェアーに深々と腰をかけ、ワインで口をしめらせて、プラズマテレビで映画鑑賞なんぞを楽しみながら、にやにやと笑っている『きゃつ』の姿があった。
―醜い。
ふとそう思った。
 
 
たとえば彼が、トーマス・マンが形容したとおりの絶世の美男子であろうと、私に輝ける世界を示してくれる神であろうと、しかし私が自ら押入れに閉じこもるはめになるならば、それは、いったい何の価値があるだろう?
 
 
私はベルナールを追い出そうと心に決める。
そうだ、夜が明けて、明日の朝には。旧友にでも手助けしてもらって― いや、生ぬるい、警察に来てもらって―
そうだ、明日こそは―
 
 
 
目醒めると、ベルナールが消えていた。
カンの鋭いきゃつは、私の気持ちを察して、先手を打って出て行ったのだ。
きっと、小太郎たちのもとへと戻ったのだろう。
 
私の本箱には彼の残した本がある。彼のレコードや服や小物が。写真がある。
彼が紛れ込ませた数々の輝ける品々。
 
それは私が買ったのだ。
かつて私が、手にしていたのに忘れたもの。
手にしたのに、日々に追われ、読みそこねて、それさえも気付かずに、放っておいたものたちだった。
ベルナールという幻想を失った今、もう、それらが再び輝くことは決してない。
窓の外では、雪が雨に変わっていた。