当時夢中になって読んだ小説の、その内容をすっかり忘れてしまうことがある。
『チボー家の人々』もそうだった。
あんなに胸をときめかせて全13巻を一気に読んだというのに、今は主人公の名前さえ覚えていない。
しかし、結末は―
会社の同僚がまた一人辞める。
上座が好きなA子ちゃんだ。
彼女は今よりもっと条件のいい企業にヘッドハンティングされ、旅立っていく。
給湯室の前で彼女は言った。頬を高潮させて、少し声高に。
「要するに私はトラブルシューターなのね」
「トラブルシューター?」
横文字に弱い私はゴミを吸い取るあの、しかしちょっぴり近代的な掃除機を思い浮かべる。
「そうよ。トラブルを起こしそうなね、いかにもややこしい仕事を押し付けれるの。そうしてこっちがやり玉に上がっている間にみんなは平和に過ごすわけ。当て馬だよ。冗談じゃないよね」
なるほど、しかし、当て馬にされるほどややこしい仕事を押し付けられるならば、それだけの器と業務をこなせる実力とやらを見込まれているのだろう。
私の慰めは、彼女の怒りに油を注いだだけだった。
「誰かや何かの盾にされるのはいや。出来る人に出来る仕事を任せないのもいや。ただの当て馬にされて、こんな人を大切にしない会社はいや」
なるほど、彼女の言うことはもっともだとも思う。
だけど、会社に勤めるということはイコールシステムの歯車のひとつになるということで、多かれ少なかれ誰でも当て馬にされるのではないだろうか。
私だって、今の会社でよく「悪意」の当て馬にされるのだ。
自分に向けられた悪意を他に逸らすために、嫌われ者の役を押し付けられたりする。いや、違うな、叩くのだ。私を叩いて、他に迎合する。悪意の連帯感を結んだりする。
そうして、仕事中に給湯室の前で立ち話をして、私に延々と愚痴を言い続ける彼のA子ちゃんだって、多かれ少なかれ私のことをこの「悪意の当て馬」にしていたのだった。(私が気付いていないとでも思っていたのだろうか・・)
私はちょっぴり哀しくなる。彼女が辞めていくのはとても寂しかった。その理由さえも、なんだか淋しかった。
たとえ自分は他人を利用しても、他人が自分を利用することは決して赦さない。
人間と言うのは不思議だ。
このA子ちゃんは私の所属する課で一番若かった。上昇志向も強かった。本当に実力があったから言える言葉だ、だから、まぁ、多少の哀しさは赦せる。
しかし、彼女が辞めたあと、うちの課は40代近い派遣さんと社員、いや、うちの課だけじゃない、周りを見回せば、20代がほとんどいない。
若者はいったいどこにいる?
いつも夜中まで残業しているのは、30代から50代の『大人(じじばば)』だけであった。
若者はいったいどこにいる?
ランチでよく行くカレー屋さん、大学生くらいの若い女の子が汗を光らせお皿を運んでいた。
休日のショッピングモール、高校生かフリーターか、そんな男女が楽しそうにパンやら洋服やらを売っている。
ふと店先の張り紙を見ると、「アルバイト募集・時給850円より」と書いてあった。
システムの歯車のひとつになることを拒んだ彼らは、まるで学生時代のサークル活動の延長のような仕事を選ぶ。仲間を選ぶ。
そこにはシステムからの恩恵は何一つ存在しないというのに。
私は時々こんなふうにも思うのだ。
日々ニュースを見て、「これは日本の誤算だった」と。
国民に娯楽を与え、テレビや恋愛やゲームや映画やファッション、そんなもので目眩ましをし、システムの危機が訪れれば、当て馬のニュースで関心を逸らし、そうして日本は一部のエリートだけが中枢を支配し続け、あとは「すべてが盲目に」と育てられてきたけれど―
そこからゾンビのように這い上がった若者達は、システムを拒否し、自分達の道を貫いていく。
強かに、逞しく。
もしも、この先、誰もが就職しなくなり、まともに、責任を持って、働こうななどと思わなくなったら?
いや、サークル活動のような仕事をし、わずかなお給料で満足し、全体よりも自分と仲間との生き方に固執したら?
システムを継続しなくなったら?
そうして、システムを守り続ける日本は崩壊していくのだ。
30代、40代のニートが70代80代の母親の年金で暮らし、またはその母親を叩き殺し、かと思えば親を子を刺し殺し、兄は妹を、妻は夫を。最低限のことさえ学べなくなった盲目の人々が、その社会のツケが、日本を不毛の地に変えていくのだ。
ならば私も賛成だ。
いっそ壊してしまえばいい。
そうして、滅びる前に叩き壊すのはいったい誰だ?
システムを拒否したゾンビはどこだ?
私は彼らに希望を託す。
まるでチボー家の人々のように。
新しい、新種の生命に創造を託すのだ。
再生する力などもう残ってもいやしないこの終焉の世界を、いっそあなたが壊してしまえと。