18センチの片手鍋を買った。
ソースパンと言うらしい。
そもそも私は愛用の片手鍋があった。あれは16センチだったのか、今日買ったものよりも小ぶりで、もう少し浅かった。白くて、可愛らしい熊のイラストが描いてあるのだ。10年以上は使い込んでいた。作るのはどうせカレーやビーフシチュー、メニュー限定であった。後はフライパンしか使わない。それで十分だった。
小さな割には万能なだった。きゃつは一人暮らしで全部食べきれない私のために、冷蔵庫にそのまま納まってくれた。私は翌日また温めなおして食べることができたのだ。
ちょうど私サイズだった、と言うことだ。
私はその愛用の鍋を使い込んで、白い色がくすんで来ると、スポンジのたわしの面できゅっきゅと磨いたものだ。
あれは2004年の年末、彼の運命は変わった。
私が実家に帰ったのだ。
一緒に実家へと引っ越した片手鍋は流しの上の棚に仕舞われることもなく、そのまま我が家で使われることになった。
母は私に輪をかけてずぼらだった。彼は絶えず、お味噌汁やら煮豆やらに満たされていて、休む間もなかった。色はだんだん白からは程遠くなってきた。(ベージュと言ったところか?)私は彼が変わっていくさまを、少しだけ寂しい気持ちで眺めていた。
もちろん実家へ帰ったが最後、私は料理などしないのだった。母に文句を言う資格もなかった。使ってくれてありがとう~と感謝するくらしかできないのだ。
そうして、昨年、その母が倒れた。
はじめ私は奮起して料理をした。
母の居ない穴を埋めなければ、と頑張ったのだった。
少ないレパートリーを愛用の片手鍋で作った。
しかし父は見向きもしない。母が倒れたあとの精神的ショックが大きく、食欲どころではなかった。おまけに、父は気に食わないのだった。「母の台所」で母の居ない隙に、私が料理をしていることが。
炊いたご飯は手付かずで残された。まぁ、それはいい。仕事が終わって帰宅をしてから、チャーハンにして翌日のお弁当に持っていけた。だが、シチューは無理だった。3日間、一人で夕飯にしていたら、飽きた。
父はオリジン弁当でお惣菜を買ってきて食べている。
いつか父の心の氷も解け、仲良く夕飯を食べるか、と期待したが、そのうち、飽きた。
「親子ごっこはやめよう」
と言う父の一言で張り詰めていた心の糸は切れた。私もオリジン弁当へとなだれ込んだ。
そのうち父は作り物の惣菜にうんざりしたのか、はじめからそれが狙いだったのか、誰も立たなくなった台所を支配し始めた。
自分で料理を作り始めたのだ。
それがどう見てもまずそうなのだった。味噌汁にはだしの元が大匙2杯くらい入れられた。砂糖と塩を間違えているとしか思えないものもあった。
食え、食え、と言うのだが、食が進まない。食べないと、「俺の作ったものが食えないのか」と怒るのだった。
私の愛用の片手鍋も父の新たな趣味の犠牲となった。
彼はしょっちゅう使われるようになった。
父は料理は作るが洗い物はしないのだ、男性とはそんなものだろう、おかげで我が家の鍋と言う鍋は全部借り出された。
実験台になった彼らはたいてい焦がされて、底におこげのような物がこびりついているのだ。タワシで洗ってもなかなか落ちなかった。
気がつくと、私の愛用の片手鍋は真っ黒だった。
ベージュどころではない。もとの白色の跡形はなく、イラストの熊さんも黒人のように変わっていた。
しかし、またしても私は父に文句を言う資格もなく、人生の無常を感じながら、一抹の寂しさを深めただけであった。
初夏が来て、母が家に戻り、私は近くのマンションへ越すことになった。当然私は愛用の鍋を連れて行きたかった。
第一鍋は高いのだ。礼金敷金で素寒貧になった私には彼が必要だった。
引越しの準備をしているとき、鍋にはお味噌汁が入っていた。
引越しの当日の朝、鍋はジャガイモとにんじんの煮物で満たされていた。
私は彼を奪回できないまま、実家を後にした。
私は新しい鍋を買わなかった。
お金もなかったし、父との陰険な鍋戦争で見るのも嫌になっていたせいもある。
しかし、ないと困るので、100円ショップで安い片手鍋を買った。ちょっと煮込むとすぐに真っ黒になってしまった。
半年くらい経った頃だろうか、実家へ帰ると、キッチンに目新しい圧力鍋が置いてあった。
どんな料理も手軽に作れる、銀色に輝くそれは、どう見ても2万から3万はしそうな代物であった。
「買ったんだよ」
父は満面の笑みだった。
料理本を広げてはあれこれ研究をしている、その様子を楽しそうに語るのだった。
そうして、一人暮らしをしてから長い間使っていた私の愛用の片手鍋は、キッチンの隅の隅。
相変わらず黒いまま、放置されている。