かえし歌

 
 
日曜の今日、母と姉と姉の子供たちと私で百人一首をした。
正確に言うと小倉百人一首、31音の和歌を母が唄うように読みあげる。懐かしかった。子供の頃よく祖母の家で百人一首をしたものだ。
母は思い出話に花を咲かす。昔の記憶は衰えていない。夏の夜、太鼓の音が聞こえると、母は家を飛び出すのだ。盆踊り大会で自慢の踊りを披露するのだった。母は子供の頃から日本舞踊を習っていた。
私は踊りがうまくなかった。子供を連れて実家へ戻り、久々の夏祭りに心躍らす母の邪魔にならないよう、ひとりでふらふら遊びに出かける。
御輿は男の子のものだった。
山車を引くのだ。
祖母の町の、本町の1丁目から4丁目を、桜の造花で飾られた大きな山車を引いて歩いたものだ。
1丁目には大好きな下駄屋さんがあった。母が鈴の音のなるぽっくりを買ってくれた。
2丁目はいい匂いのするパン屋さん、いつでも焼きたてのパンの香りが裏手の路地を漂っていた。
3丁目は初めて文庫本を買った本屋さん、4丁目はお正月にお年玉を握り締めて走ったおもちゃ屋さん。
4丁目の先に大きな川がある。長く、立派な橋がわたっているのだが、山車はそれを超えない。
超えると、祭りの管轄区が違うのだった。
一緒に山車を引くのは小さな男の子たち。まだ神輿を担げない。青やオレンジのはっぴを着ている。それから大きな女の子。
小さな女の子は山車の上にちょこんと座らされている。
見上げると、彼女たちは足をぶらぶらさせて楽しそうに笑っているのだ。
私と少年たちは一緒に商店街を山車を引いて歩くのだ。
ずっと先まで。
 
あの上に座ってみたいと思ったことがある。
あの川を越えてみたいと思ったことがある。
 
山車は集合場所の山車を引き初めたところとは、まったく違うところで終わりを告げるのだ。ずいぶん離れた遠くまで来てしまったように思ったが、たぶん子供だったからだろう、そこはお祭りを主催している自治会の本部で、子供たちはその終点地でジュースとお菓子をもらうのだ。
少年たちはご褒美のお菓子を抱えて所在無さげだ。
彼らの母親も夜の準備で忙しいのか、見当たらない。
陽は傾いて、みんな家へとちりぢりに散っていくのに、ここがどこなのか、家はどっちだったのかもわからない様子なのだった。
祭りと書かれたはっぴの後姿が、さみしそうだった。
 
 
 
 

眠らない夜

 
 
眠りたくない夜、自分のブログを荒らして遊ぶ。
退屈凌ぎの私の人生の中で、初めてだろう。
時間がもったいない、と思う。
 
眠りに落ちて、潰れてしまうこの一瞬の、時間が惜しい。
 
 
 

堕天使の涙

 
ルシフェルは類まれなる才能を持つ天使だった。
彼は自惚れが強く、自分こそが天の父になれると思い込み、自分に従う天使たちと共に反乱を起こした。
全天使の3分の1が彼に従ったと言う。
残りの3分の2、ミカエル率いる天使軍が勝利を収めた。
ルシェルは地に落ち、ルシファーとなった。
そうして、地の底に居場所を作り、サタンとなったのだ。
 
ミカエルはどんな気持だったのか。
私が思うのはそのことだ。
サタンとなったルシファーは肉を持って地にやってくる霊を貶めようと、誘うのだ。
この世の戦いはすべて、彼の仕業だと言う。
ミカエルとルシフェルの戦いはなんだったのか。
ルシフェルだけではなく、彼によって地の底へ落ちていく人々をミカエルは救えなかったのだろうか。
 
ただの物語だ。
しかし、私はよく不思議に思うのだ。
 
私がミカエルだったら―
ルシフェルだったら―
 
もし、あなたなら。
どうします?
 
 
 
 
 

ガラスと鋼の心を持つ

 
 
人間の心はガラスでできているのか、鋼でできているのか、わからなくなる。
 
繊細に扱うと、痛い目にあう。
手荒にすれば、壊れてしまう。
 
たぶん私がそうなのだ。
 
 
 
 
 
 

淘汰される幸せ

 
 
最近良く思うのは、「淘汰」されると言うこと。
もともとは私が現在勤めている会社の社長がどこかのインタビューで答えていたのだ。
「絶えず変化していかないと、社長と言うのは会社から淘汰されていく存在」
確か、そんなような話だった。
 
私は子供の頃から体が強いほうではない。
精神面もそうだ。
昔遺伝子の話を読んで、私はきっと劣性遺伝子を持って生まれてきたのだ、と思ったものだ。
優性の部分は全部姉に持っていかれた、と。
(大きくなってから姉と話したところによると、姉も同じようなことを考えていた)
 
「淘汰される恐怖」と言うのは、絶えず、ある。
だから人より頑張るのかもしれない。
 
しかし、もし、社長と呼ばれる存在でさえも抱える恐怖であるならば、たいていの人はそんな思いを抱いていると言うことだろう。
ならば、絶えず淘汰されることと戦うことにより淘汰されていく私は、そんなたいていの人の気休めにはなっているのかもしれない。
 
あなたが勝利者になりたいならば、私は喜んで負けよう。
 
そんなふうにも思う。
 
 
 
 
 
 

18センチのソースパンを買った日

 
 
18センチの片手鍋を買った。
ソースパンと言うらしい。
そもそも私は愛用の片手鍋があった。あれは16センチだったのか、今日買ったものよりも小ぶりで、もう少し浅かった。白くて、可愛らしい熊のイラストが描いてあるのだ。10年以上は使い込んでいた。作るのはどうせカレーやビーフシチュー、メニュー限定であった。後はフライパンしか使わない。それで十分だった。
小さな割には万能なだった。きゃつは一人暮らしで全部食べきれない私のために、冷蔵庫にそのまま納まってくれた。私は翌日また温めなおして食べることができたのだ。
ちょうど私サイズだった、と言うことだ。
私はその愛用の鍋を使い込んで、白い色がくすんで来ると、スポンジのたわしの面できゅっきゅと磨いたものだ。
 
あれは2004年の年末、彼の運命は変わった。
私が実家に帰ったのだ。
一緒に実家へと引っ越した片手鍋は流しの上の棚に仕舞われることもなく、そのまま我が家で使われることになった。
母は私に輪をかけてずぼらだった。彼は絶えず、お味噌汁やら煮豆やらに満たされていて、休む間もなかった。色はだんだん白からは程遠くなってきた。(ベージュと言ったところか?)私は彼が変わっていくさまを、少しだけ寂しい気持ちで眺めていた。
もちろん実家へ帰ったが最後、私は料理などしないのだった。母に文句を言う資格もなかった。使ってくれてありがとう~と感謝するくらしかできないのだ。
 
そうして、昨年、その母が倒れた。
 
はじめ私は奮起して料理をした。
母の居ない穴を埋めなければ、と頑張ったのだった。
少ないレパートリーを愛用の片手鍋で作った。
しかし父は見向きもしない。母が倒れたあとの精神的ショックが大きく、食欲どころではなかった。おまけに、父は気に食わないのだった。「母の台所」で母の居ない隙に、私が料理をしていることが。
炊いたご飯は手付かずで残された。まぁ、それはいい。仕事が終わって帰宅をしてから、チャーハンにして翌日のお弁当に持っていけた。だが、シチューは無理だった。3日間、一人で夕飯にしていたら、飽きた。
父はオリジン弁当でお惣菜を買ってきて食べている。
いつか父の心の氷も解け、仲良く夕飯を食べるか、と期待したが、そのうち、飽きた。
「親子ごっこはやめよう」
と言う父の一言で張り詰めていた心の糸は切れた。私もオリジン弁当へとなだれ込んだ。
そのうち父は作り物の惣菜にうんざりしたのか、はじめからそれが狙いだったのか、誰も立たなくなった台所を支配し始めた。
自分で料理を作り始めたのだ。
それがどう見てもまずそうなのだった。味噌汁にはだしの元が大匙2杯くらい入れられた。砂糖と塩を間違えているとしか思えないものもあった。
食え、食え、と言うのだが、食が進まない。食べないと、「俺の作ったものが食えないのか」と怒るのだった。
私の愛用の片手鍋も父の新たな趣味の犠牲となった。
彼はしょっちゅう使われるようになった。
父は料理は作るが洗い物はしないのだ、男性とはそんなものだろう、おかげで我が家の鍋と言う鍋は全部借り出された。
実験台になった彼らはたいてい焦がされて、底におこげのような物がこびりついているのだ。タワシで洗ってもなかなか落ちなかった。
 
気がつくと、私の愛用の片手鍋は真っ黒だった。
ベージュどころではない。もとの白色の跡形はなく、イラストの熊さんも黒人のように変わっていた。
しかし、またしても私は父に文句を言う資格もなく、人生の無常を感じながら、一抹の寂しさを深めただけであった。
 
初夏が来て、母が家に戻り、私は近くのマンションへ越すことになった。当然私は愛用の鍋を連れて行きたかった。
第一鍋は高いのだ。礼金敷金で素寒貧になった私には彼が必要だった。
引越しの準備をしているとき、鍋にはお味噌汁が入っていた。
引越しの当日の朝、鍋はジャガイモとにんじんの煮物で満たされていた。
私は彼を奪回できないまま、実家を後にした。
 
私は新しい鍋を買わなかった。
お金もなかったし、父との陰険な鍋戦争で見るのも嫌になっていたせいもある。
しかし、ないと困るので、100円ショップで安い片手鍋を買った。ちょっと煮込むとすぐに真っ黒になってしまった。
 
半年くらい経った頃だろうか、実家へ帰ると、キッチンに目新しい圧力鍋が置いてあった。
どんな料理も手軽に作れる、銀色に輝くそれは、どう見ても2万から3万はしそうな代物であった。
「買ったんだよ」
父は満面の笑みだった。
料理本を広げてはあれこれ研究をしている、その様子を楽しそうに語るのだった。
そうして、一人暮らしをしてから長い間使っていた私の愛用の片手鍋は、キッチンの隅の隅。
相変わらず黒いまま、放置されている。
 
 
 
 
 

日本をダメにした男は誰だ

 
休日前なので、のんびりと過ごしている。
正確に言えば、「休日」なので。
 
テレビでは、朝まで生テレビが流れている。
まだ放送していたんだな、と感心しながら、見る。
今日はパネラーが全員女性だ。
テーマは、「日本をダメにした男は誰だ」、だそうだ。
 
 

雛人形決戦の日曜

 
 
子供の頃、よく母からこんな話を聞いた。
「お雛様はね、早く出さなきゃだめ」
なんでと聞くとは母は笑うのだった。
「早く出せば出すほど、早くにお嫁さんになれるのよ。ぎりぎりだとね、いき遅れちゃうの。仕舞うのも早くしないとやっぱりそうなるのよ」
そうなのかぁーと子供心に思ったものだ。
お雛様をないがしろにすると、嫁にいけん!
ちょっとしたオカルトのようだった。
私は姉が生まれたとき祖母が買ってくれたという雛人形を大事に大事にし、雛祭りよりずいぶん早くに出したものだ。とくにお雛様と三人官女は可愛がった。丁寧に顔を拭いて、長い髪の毛を撫でてあげたり梳いてあげたりしていた。(今思うとそっちのほうがオカルトのようだが・・)
お内裏様には興味がなかった。
なんとなく可愛らしくない。男の人形はたいていそんなものだ。面白味がないのだった。
 
いつの頃からだろうか、雛人形を大事にしなくなってしまった。
たぶん三十路半ばを過ぎた頃だろう。
あんなに可愛がってやったのに・・
という思いがどこかに生まれてきたせいもある。
また、いい年して、いそいそと、しかも言い伝え通りに雛祭りよりずいぶん前に雛人形を出している自分がアホくさく見えてきたのだった。
ただの言い伝えじゃん・・・
そんなふうに冷めてしまった。(まぁ、冷めるのが遅すぎたくらいではあるかもしれない)
お雛様もあまり可愛がらなくなった。
おかげで彼女の髪の毛はざんばらに乱れ、さらにオカルトじみて来た。
この頃になると、私は雛人形を見るのが怖くなってきた。
姉がお嫁に行くとき、本当は嫁入り道具の一つとしてもって行きたいと願っていたのに、私が渋ったのだ。
だって、確かに姉の雛人形だったけど、私のときは買ってもらってない、持って行かれたらどうするんじゃ!私は嫁に行けんじゃないか!と思ったのである。
姉は諦めた。自分の娘のために新しい雛人形を買い、一件落着、そうして我が家の年代物の小さな雛人形はうちに残ったのだが、共に残された娘(私)はちっとも嫁に行かないし、雛祭りの前にいそいそ出してやるでもなし、出せば出すで可愛がってもやらないのだ。
私は雛人形たちが雛祭りになるまでの、天井裏に仕舞われた箱の中でひっそりとしている間、ふつふつと怨念をたぎらせているような予感がしないでもなかった。胸がさわさわし始めた。
「このやろ! 早く出しやがれ!」
「大事にしやがれ!」
と怒っているような気がしてきたのだ。
そうして最大の負い目は、私は人形たちに新しいお祝いの対象となる女の子を与えてあげることもできないのだった。
私と一緒に老いていくのかねぇーなどと思うと、いっそう彼女らが不憫に思えてくる。
思うとなおさら恨まれているようで、やはり腰が引けてくるのだった。
 
そんなこんなでここ数年雛祭りをろくに祝わず、その頃になると家を空けがちにして、3月3日直前に出してそそくさと仕舞うということを繰り返していたのだが、今年の私は違う。
逃げてはいけない!
彼女らと向き合わなければ!
私は休日の今日、実家へと向かった。心は「雛人形決戦」である。
いざ、出陣!と、意気込んで実家へ行くと、母がにっこり笑っていた。
「見てごらん、出しておいたよ」
なんと、懐かしの雛人形は、我が家のサイドボードの上にちょこんと座っていた。
母が出したのだ。
「あれ~出そうと思ってたのに、出してくれたの?」
「遅かったかねぇ・・」
母は悲しそうにつぶやく。
「そんなことないよ、去年よりぜんぜん早いよ」
去年は母が倒れたあとなので、出さなかったのだった。
 
私はなぜか涙ぐんでしまう。
母は記憶をなくしても、ちゃんとお雛様を出しておいてくれるのだった。娘のために。
ありがたい。
素直にそう思った。
 
私はお雛様を写真に撮る。
髪は相変わらずざんばらだった。
でも撫でないのだ。
そのままの姿を目の裏に焼き付ける。
もう恐くはなかった。
 
 
 
 
 

がんばれ!新人

 
 
パソコンを買い換えたので、好むと好まざるとに関わらずVISTAになった。
マックのOSは使えない。私はWindows3.1(だっけなー)の時代からマイクロソフトWindowsだ。
まだ買ったばかりなので、機能をまったく使いこなせない。
XPより不便である。
さすがにうんざりして、本屋に出かけた。立ち読みでは理解しきれず、VISTA攻略特集の雑誌を購入して帰宅する。
新機能のデスクトップのガジェットを、邪魔だからと時計以外は削除していたのだが、本を読んで意外と便利だと知る。
さっそく天気(予報)とカレンダーと付箋とCPUメーター、スライドショーを「表示」にする。
WindowsAeroインターフェイスを有効にすれば半透明の表示もできる。
(・・・と、ここまで書いた後、無効にして見ても半透明表示はできました、失礼)
マウスポインタを近づけると表示されるが、通常はほとんど隠れているので心配したほど邪魔にはならないようだ。これから新しいガジェットも仕入れて活用しよう。
スライドショーはお気に入りの写真を表示させる。これもなかなか癒される。
 
なんかいいんじゃないの?Vista。
 
などと思いはじめてきた。
ガジェットひとつでその気になるのだから、これから機能をもっと知っていけば、もっと好きになるだろう。
何かを好きになるのは簡単だ。
少し、手をかけてあげればいい。
 
 
 
 

私が生まれて初めて買った文庫本、『吾輩は猫である』 のお話

 
 
『迷亭』君。
迷亭君は美学者である。迷亭先生、とも呼ばれている。金縁の眼鏡をかけて、煙草をぷかぷか燻らす。人をからかってばかりいる。
それ以外は一切不明、職業も私生活も。
私の知りうる限りの物語の中で一番好きなキャラクターである。
 
『吾輩は猫である』
という小説が好きだ。
これは小説と呼べるのかも定かではない。ストーリー性はほとんど皆無。長い物語ではあるが、唯一連続したストーリーがあるのは金田令嬢と寒月君のラブロマンス(と呼べるなら)くらい、あとは登場人物がお喋りばかりをしている、それを猫が観察しているという設定の物語である。
この登場人物のキャラがみな濃い。
一筋縄ではいかない人たちばかりだ。
まず、名無しの猫が帰属している家の主人苦沙弥(くしゃみ)君、教師である。しょっちゅう胃痛に悩まされ、胃に良いと呼ばれるものを片っ端から試すがちっとも良くならない、隣の子供にまでからかわれ、そのたびに本気で怒り出す、金持ちや権力も意に介さず、我が道を行く、融通の利かない頑固者の男である。隠遁者のような存在だ。
その苦沙弥先生の門下生だった寒月君。今は先生より立派になっているそうだが、しかしモノにならない博士論文ばかりを書いている。学問の研究材料はどう聞いてもギャグとしか思われない(首吊りの縄の法則だったり・・)が、本人はいたって真剣真面目である。この寒月君、羽織の紐をいじくりながら苦沙弥先生の元を訪れては、世のなかが面白そうな面白くなさそうな、女にモテてるようなモテてなさそうな、雲をもつかむようなたわ言を繰り返していくのだ。つかみどころがない。
寒月君の紹介により出てくる、越智東風君、おちとうふうではなく、おちこちという名前が韻を踏んでいることに非常にこだわる、文学美術をこよなく愛する変人。即興の詩を作ったり、前衛的な演劇(なのに近松の世話物だったりする)を発表するのが趣味である。誰がどう聞いても大失敗としか思われない発表会や彼の作品は、いつも自慢話として紹介されるのだ。寒月同様いたって真剣。話し手と聞き手の温度差に、読んでいるこちらは腹を抱えて笑ってしまう。
それから迷亭の知り合いだったか、哲学者の八木独仙君。名前のとおりにヤギのようなあごひげをなでる癖がある。人を思わずはっとさせ、深く頷かせてしまうような真理に満ちた話をしたり顔で述べる趣味がある。人格者の風合いだけは立派だが、よく読むとたいしたことはない。(てかギャグかも)
 
これらの強烈なキャラクターが登場する、まさにキャラクター小説である『吾輩は猫である』のキャラクターの集大成が、冒頭の『迷亭』である。
彼はすごい。
出鱈目な話を捏造し、誰彼かまわず吹き込んでは、相手がそれを真面目に信じて影響を及ぼされる様を金縁眼鏡の奥の目を光らせながら見ているのだ。面白そうににやにやしながら。もとがいい加減な話であればあるほど、相手が引っかかれば大喜悦の体である。
まさに「ほら吹き男爵」を地で行く男だ。
なぜ彼が人をからかってばかりいるのは不明だが、漱石の説明によるとこうある。
「この美学者はこんな好い加減な事を吹き散らして人を担ぐのを唯一の楽にしている男である」
寒月の学問や越智東風君の文学美術や独仙君の思想論と同様に、趣味のようなのだ。
この『迷亭』君の好い加減さは半端ではない。
もし、現代彼が存在していたら、真面目で信じやすい私はいっぱい食わされてばかりだろうし、またそれが全部が全部悪意ではないのだ、やられた、と腹を抱えて笑いながら、彼にいっぱい食わさてしまうだろう。
決して私だけではないはずだ。現代に生まれた彼ならきっと、お笑いのコンテストか何かのグランプリだって獲れるに違いない。
とある宗教によると、好い加減というのは、加減がいい(良い)ということであり、対極に偏りすぎずに中庸を極めているということでもあるそうだ。
 
私は若いときからずっと、自分が悩みでいっぱいになったり、哀しみに暮れたとき、いつもこの『吾輩は猫である』を開いたものだ。
苦しみと哀しみ以外は何も目にも心にも映らなくなったとき、この書を取った。
頁をめくり、苦沙弥先生や寒月や越智君、そうして迷亭の活躍を見て、笑い転げ、元気になるのだった。
彼らは私の理想郷だった。
昔も今も。