愛を謳う。

 
 
 恋愛は精神力だといつか父が言った。
 感心したのを覚えている。
 それからと言うもの、もう駄目だと思ったときは、必ずこの言葉を思い出して、自分を鼓舞する。
 
「×××××」
 
 伝わらない声をふりしぼって、何度も、何度も、愛の言葉を口遊むのだ。
 いたわるように、誓うように。
 
 
 
 

なすすべもなく。

 
 
 
 叫び声を聴いた。
 私は携帯電話のディスプレィを眺めていた。
 ここが入口だ。
 
 たとえば小さな鏡の箱の中に、まるで無限の、四次元空間があって、その中には私の愛するものがいるとする。
 小さな彼らは、閉じ込められたのだ。
 限りない大きな世界で、悠々と過ごしているのだった。
 私は小さな箱を大切に持ち歩き、彼らと密かに会話をした。
 毎日。毎日。そう。
 
 あと、少しで、あちら側に、いける。
 
 なのに、なすすべもなく、今彼らの声を聴いている。
「助けて。助けて。助けて」
 ここに来て。もしくは。ここから出して。
 
 入口の透明の向うで、鏡の隔たりを叩く小さな彼らを姿を、胸を痛め、消えてしまわぬように祈りながら、ただ眺めているのだった。
 
 
 

子供のようにはしゃいでみる、雪の朝。

 
 
 
 朝起きたら雪だった。
 
 すげ~!!!
 

 IMG_2031

 ※雪国の方ゴメンナサイ、うちの地方はめったに降らないんでめずらしいんです。。

男女同権って言うけど満員電車は絶対おかしいと思いませんか? 

 
 
 飛躍した発想の文章を読んだ。
 同姓同士で結婚でもしたほうが世界は平和になるのではないか、と言う内容だった。
 言い得て妙だ。
 実は最近、男と女が一緒の空間に存在すること自体に違和感を覚えている。
 私のほうが飛躍しているのか、歳を取り潔癖症にでもなったのだろうか、それとも違和感があることこそが常識だったのかもしれない。
 たとえば満員電車だ。
 
 通勤で長時間電車に乗る時は必ず女性専用車両を使う。
 十分程度の乗り換えの地下鉄では例外になる。最後尾から一番頭の車両へ、または最も連絡通路の階段から遠くへと、なぜか乗換えが不便になるように女性専用車両は設置されているからだ。
 男女が乗り合って、体を寄せ合う。
 私は疑問が湧いてくる。
 なぜ、見知らぬ男とくっ付き合わなければならないのだ?
 
 昔見た発展途上国らしき国のドキュメンタリーでこんな場面があった。
 乗り合いバスだ。彼らは朝夕バスに乗る。当然大勢の人でごった返す。するとふたりがけの椅子に座っている彼らは、混んでくると、隣の席の人の膝の上に移って座り、席をひとつ空けるのだ。空いた席にはまた人が座り、その人の膝にまた人が座る。こうして、より大勢の人が座れるように皆で協力するのだった。
 当然膝に乗るのも、乗られるものも、老若男女問わず、である。若い女の膝の上におじさんが座ったり、その逆もある。それでも彼らはみな微笑んでいた。男女を越えた、性別の区別などない、人類としての助け合いの精神や、譲り合いの精神しか存在しない。高貴だった。
 
 しかし私は腑に落ちない。
 なぜ、恋人とさえ日常的に接しない距離間で、見知らぬ男とくっ付きあわなければならないのだ。
 臭い息の匂いを嗅いでしまったり、相手の湿ったぬくもりまで感じなければならないのだろう?
 なぜ、当たり前のようにこの物体は私を押しつぶしてくるのか?
 私の態度があまりにも露骨だったのか、最近ではくっ付かざるを得ない相手の方が困った様子だ。二人組みにはあからさまにこんな会話をされる始末。
「この間、痴漢に間違えられてよ。睨まれた」
「ブスだろ」
「誰がてめぇなんか触るかっての」
 あきらかにイヤミ(あるいは自己防衛)である。
 
 昔はこんなふうに思わなかった。
 それは「仕方のないこと」だった。
 満員電車なら当然人に触れる。見知らぬ男性とくっ付くのも押しつぶされるのも当然だ。でなきゃ電車に乗れないし、会社にいけない。
 
 会社に行けば男性社員がいる。取引先も、得意先にも男性がいて、接しなければ仕事にならない。
 町を歩けば、男性とすれ違う。飲み会に行けば半分は男だ。
 親戚は男ばかりだ。父も兄も男だった。
 しかしそれは本当に仕方のないことだったのか。
 割り切れないと感じてしまう最近だった。
 
 女は女といるべきだ。
 出来うる限りそうして、もっと性の違いを意識した方がいい。
 男女間の人類愛など糞食らえと。
 女が接する男は、愛する人一人でいいのではないだろうか。
 社会進出などと担がれ、いい気になり、女はますます居場所を失い、迷子のようなのだった。