母の愛

 
母は日に日に元気になってきた。
たずねていくと、嬉しそうな顔を見せ、起き上がって、ベットに腰掛ける。
もう歩行器を使わず、介助だけで、トイレに行ける。
リハビリ病院に転院する日が近づいてきた。
 
「お菓子をビニール袋に詰めていかなくちゃ」と真面目に言う。
「遠足みたいだね。どこに行くんだっけ?」と聞いてみると、
「○○○だよ、だめだよ、今日行かなきゃ」
と私の知らない地名を言う。
「昨日来たのは誰だっけ?」
「△△△だよ」
「私は誰?」
「×××」
いとこの名前を言う。ときどき幼なじみに名前になる。
今日は廊下の窓越しに、ふたりで病院の箱庭を見た。
車椅子を押して行き、一緒に花壇を見下ろした。
「綺麗だね」
「・・・」
生きていてくれただけで、嬉しいと思う。
老いた母の車椅子を押す日が来たことを、哀しく思う理由などないはずだ。
なのに、気がついたら、泣いていた。
母が、ずいぶん遠くに行ってしまったような気がした。
 
しかし、その考えはすぐに打ち破られたのだった。
 
夕飯の時だ。
母はずいぶんうまく箸を使えるようになったが、まだときどきこぼす。
介助して、食べさせてあげていると、何かを言いたそうに、時々こちらをうかがうのだ。
隣のベットにいた看護婦が、オムツの交換をするのだろう、ベットのカーテンを閉め、姿を消すと、
母は箸を奪い、私にそっと言った。
「これ、食べなさいよ」
おかずの蕗を上手に箸で取って、口元へ差し出した。
「これはお母さんのご飯だから、私はいいんだよ」
そう言っても肯かず、早く!と言いたげに、箸を差し出す。
私は蕗を食べた。
「美味しいね」
と笑いかけた。
「しっ!」
看護婦さんを気にして、
そうしてまた蕗を取り、私に食べさせようとするのだ。
「お腹いっぱいだよ。私は下でさっき食べたからいいんだよ」
「そうだっけ」
「そうだよ。お母さん食べな」
母はやっと肯いて、自分が食べ始めた。
 
愛は変わらない。
 
それは尊いことだ、と、
今の母に、あらためて、教えられた。
 
 
 
 

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