『言葉の魔術師 哀しき女流作家たち』

 
女流作家が好きだ。
女としての幸福よりも、作家であることを、第一に考える彼女らは、
人生のあらゆる絶望を見知っている。
人間の醜さも知り抜いている。
それでも母性という本能のなせるわざで、すべてを包み込み、静かに受け入れるのだ。
そんな彼女らが書く小説には、必ず、底辺に哀しみがある。
虚無と、そこはかとない哀愁が、漂っている。
フランソワーズ・サガン、コレット、樋口一葉、田辺聖子、林真理子、吉本ばなな、曽野綾子。
(私が特に愛するのは、その七人だ)
みな、哀しい。
きっと、それが、私が愛してやまない理由だろう。
 
何人かについて話そう。
サガンは「悲しみよ、こんにちは」という衝撃のデビュー作で知られた、フランスの作家だ。
彼女の哀しみは根が深い。それらを知るには、「ブラームスはお好き」という作品がオススメである。
コレットは同じくフランスの、おそらく世界で一番の、「女流・言葉の魔術師」だ。
彼女の書く文章は、官能的で、美しい。ただ、ひたすら、脱帽するばかりである。
もし、その魔術に惑わされたければ、「シェリ」「青い麦」を読んでみるといいだろう。
田辺聖子は大阪の不細工なおばさんである。(失礼)
辛らつなユーモアにあふれ、「ハイミス」という女性の姿を何度も繰り返し描いて、大衆文学の新しいジャンルを確立した。さらに、この人は自他共に認める天才だ。難しいテーマも、ユーモアに交えて、さらりと描く。「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)」で芥川賞も受賞している。
この「感傷旅行」を読んだときの、衝撃は計り知れない。歴史をまたいで、読み継がれていって欲しい作品である。「感傷旅行」「日毎の美女」をオススメする。
そうして、私が一番愛してやまない、曽野綾子である。
この人は徹底的な「作家」である。
エッセイも数多く出しているが、それらの本音を読んでしまうと、正直、小説の世界観が台無しになる、と私は思っている。
(意図的に仮面を剥いで、魔術の種明かしをしているとしか思えない、読者の楽しみをあっさりと奪うため、作品に対する深い感動と憧憬が薄れ、嫌悪感さえわいてくるのだ)
作家に徹しているときの、自らプロの女流作家で在るときの、彼女が私は好きだ。
 
曽野綾子は、文学賞を一切もらったことがない。
一度もらいそうになったが、辞退した。
どれだけ人気を博しても、優れた作品を描いても、ただの大衆作家という位置づけなのである。
しかし、彼女のすごいところは、安易な希望を決して描かないところである。
あれだけ、悲惨な結末にして、その深い洞察力と巧みな筆力で真実を描き出しておいて、
大衆文学であり続けられる作家は、私は他には知らない。
それは、彼女の言葉の魔術と、ストーリーが素晴らしいからだろう、と思っている。(ストーリーは特に長編小説)
美しくも儚い言葉の数々で、その確かな文章力で、決して読者を飽きさせず、
有無も言わせず、一気に結末まで読ませてしまう、そんな魔力がある。
偉大なるストーリーテラーである。
すべてが素晴らしいが、「天上の青」が面白い。
 
いつか暇ができたなら、あなたも、女流作家たちの本を読んでみるといい。
彼女たちは、みな作品の中で、泣いている。
その美しい涙を、もし味わうことができたなら、
あなたも、言葉の魔術から、
決して逃れることはできない。
 
 
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