『ETV特集 ケータイ小説@2007.jp 藤原新也・若者たちへのまなざし』を見て

 
魚は異なる海の層を泳いでいる。
その棚が違う魚たちは、交わることはないそうだ。
今の若者たちもそうではないかと、写真家、作家の藤原新也さんは言う。写真を通して現代の若者と関わる彼は、今彼らのあいだで人気のあるケータイ小説を読んでその思いを強めたらしい。
彼らは形成された社会の僕らと棚が違うと。
 
若者と言うのはダイヤの原石だ。
古くは芸者や舞妓、就職等の青田買い、現代でもジャニーズに代表されるような芸能界のアイドル、今まではその原石の市場は大人が独占して握っていた。
大人と言うと語弊があるかもしれないが、(誰でも自分の中にインナーチャイルドを抱えているからだ)ある一定の年齢に達した人々が手にせねばならない義務と権利であるところの社会的な立ち位置とその性質が形成する世界のことだと思って欲しい。
それら既成の社会には必ず規格があり、売人に渡った原石は規格に適応することで一人前と認められてきた。
適応するためには若者に努力と犠牲を強いるのが常だった。
規格外と判断されれば当然のごとく排除される。
排除されたダイヤは磨かれる前に永久にチャンスを失って、多くは道端の石ころとなっていくのだ。
ところがこの特番を見て思ったのは、現代の若者たちはそういった既成の社会と大人の価値観を拒否していると言うことだ。私が若い頃は規格から外れれば駄目だと自分を責めた。どうにか合うように努力しようと躍起になった。ところが、彼らは排除されたからでもなく、選ばれることも、認められることも、はじめから否定している。そんなことなど望んでいないかのようだ。
そうして、自分たちだけの棚を悠々と泳ぎ、そのなかで城を建てる。
そこは既成の社会は排除されているのだ。
 
若者は彼らだけでベストセラーを作り上げる。
現在は既成の社会が若者の価値観に迎合し、ビジネスに利用させていただくと言う形で解決を見せているが、この先、この棚の違いはますます明確化すると思われる。初音ミク騒動の時も思ったが、私が既成の社会と呼んでいるところの現在日本を形成する母体となっている社会と、それに属さない層は明らかに分断され始めていて、この先価値観の相違は更に進んでいくだろう。
藤原さんは彼らが愛情に飢えた避難民だとまとめた。
大人とは遠いところで、自分たちだけで傷を癒しているようだと。
確かにそれは事実なのだろう。彼らは充分傷ついた。
しかし、私は美しくまとめすぎではないかと思う。
 
これは復讐ではないか。
時代からの。
今まで個を軽んじられ続けた原石は、ダイヤになることを拒んで、石ころのままの姿で私たちに報復を始めたのだ。
 
 
 
 

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