恵みの雨と青天の霹靂について。 ~高幡不動尊八十八ヶ所参拝と山紫陽花~

 
 
 
 子供の頃、でも確かあれはずいぶんと大きくなってからで、中学一年生くらいだったと思う。
 美術の時間に絵を描いた。ジャージを来てグラウンドに出て、画用紙を一枚、それを乗せる木のボードを首からぶら下げ、クレヨンに絵の具。各自がてんでバラバラに自由な位置から校舎を描いた。
 出来上がった作品はみな良く似ていた。てんでバラバラ、と思っていたのは当時の私の印象で、もしかしたら友達同士で集まって、お互いに見せ合いながら描いていたのかもしれない。グレーの校舎、脇には木が立って、前にプレハブ校舎、それから茶色の地面。大体そんな感じの絵だったと思う。
 次の授業で、先生が全員の絵を順番にクラスのみんなに見せたのだった。
「この絵は、あら、ずいぶん違うわね」
 今気づいたと言う風に先生が妙な声を出した。
 私の絵だった。
 みんながくすくすと笑った。私の絵には茶色い地面がなく、青い空に木々と黄色の校舎が聳えているだけだった。
 
 
 
 
 真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊金剛寺)は関東三不動のひとつだ。
 この時季、三万余坪の境内は七千五百株の紫陽花が咲き誇る。面白いのは、裏山の不動ヶ丘には山内八十八ヶ所の弘法大師像が祀られていて、花木を観賞しながらのお遍路巡りが楽しめると言う。
 いつか年を重ねて、職業人としての義務を終えた暁には、四国巡礼に出かけてやろうと目ろんでいる私にとって、この小さな八十八ヶ所参拝はいかにも興味深い話だった。それに最近好んで良く撮っている木々と、旬の紫陽花が一緒に楽しめる。この上ない場所に思えた。高幡不動尊へ行こう。
 私はカメラと三脚を抱えて今週もまた小さな旅に出かけるのだった。
 
 
 
 
 
 
 写真左上・高幡不動尊参道
 写真右上・仁王門(重要文化財・室町時代)
 写真左下・不動堂(重要文化財)
 写真右下・弁天堂と弁天橋(左手の弁天池の奥は交通安全祈願殿)
 
 
 多摩モノレールの高幡不動駅を降りる。すぐ隣を京王線が走っていた。多分京王線でも来れたのだろう、そちらの方がもしかしたら便利だったのかもしれないと思いながら私は帰りも多摩モノレールを利用した。方角にも運不運があると信じている私は、どうも昔から府中(東京都西郊)界隈が苦手なのだ。京王線、と聞いただけで連想し、あまり良い気持ちがしない。
 去年の春に京王線を利用して深大寺に花見に出かけたのだが、あれも一緒に行った両親に強く勧められなければ行くことはなかっただろう。そこまで苦手意識を持って東京西郊を走る私鉄を避けたりしているのに、最近の私と来たらこの自分ひとりでは絶対行かないと思われる場所に興味があるのだった。
 思いも寄らぬ未知の体験や青天の霹靂が訪れるかもしれない、などと甘い期待をしている。
 高幡不動尊に着くなり、仁王門の左手に立っている土方歳三の像を見て驚いてしまう。青天の霹靂にしてはかなり小規模だが、歴史に疎い私は東京都西部の多摩地方が新撰組ゆかりの地と言うことを知らなかったのだ。そう言えば半分忌まわしく半分新鮮な、かの去年の花見の深大寺も、父が「近藤勇の墓が見たい。だから深大寺へ行きたい」と言い出したことが発端だった。(結局深大寺には近藤勇の墓はなかったのだが)多摩地方は新撰組の主な隊士たちの誕生の地が多いのだそうだ。
 私は土方歳三の像をまじまじと見た。
 両親も一緒だったらさぞかし喜んだことだろう、などと思う。しかしすぐにその思いを振り払って、八十八ヶ所の弘法大師象が待つ不動ヶ丘に向っていく。
 
 今日の私のテーマは地面を撮る、と言うことだった。
 先日、箱根の山の木々を撮った私はほとんどの樹木の写真をボツにせざるを得なかった。木々に申し訳がない。彼ら自体は美しいのに、私の撮った絵には地面がないのだった。空に高く枝を伸ばす彼らはどこに立っているのか、宙に浮いているのか、どこか心もとない。樹木を撮るのが上手い他の方の絵と比べると、地がない、ということが最大の、決定的な、違いだと言うことに気が付いた。
 
 
 
 
 
 ところがこれが簡単なようで意外と難しいのだった。
 覚えている時はいいのだが、ついつい美しい木々の幹、枝と葉に心を奪われて、私の視線は上にばかり向いてしまう。紫陽花も同じだった。花と木々と空しか撮らない。はっと気が付くと地面がないのだ。どうにもやりきれない思いになった。
 地というのは人生で言えば土台のようなもので、なのに地を見ようとしない人というのは浮ついているような根っこがないかのような、どうもいい印象は感じられない。苦しい時はあんなに地面ばかり見て歩いているのに、なぜ写真となると上ばかり見てしまうのか。 自分の足元を見ようとしていないのか。美しいものを求めて、わざと避けてしまっているのだろうか。私の写真がどこか不安定なのも、この所為だったんだなぁ、と今さらながら納得するのだった。
 
 八十八ヶ所を廻って行く。弘法大師様は少しずつ違う表情をしているのだった。頂上のあたりで息を切らした若い男性とすれ違う。裏山もこの辺りになると派手な咲き方の紫陽花は少なく、観光客も減っている。周りは地元の人らしい普段着の年配者ばかりなのに、男は白装束を真似た白い長めのベスト(袖のない半纏のような白単衣)をシャツの上に着て道を急いでは、大師像の前で立ち止まる。手を合わせて拝む。5秒から10秒くらい。そうしてまた次の大師象まで走っていくのだ。
 熱心な信者なのだろうか。なぜ若い男性が、白装束(もどき)をわざわざ着て、プチお遍路を必死に走っているのか、私には理解しがたいのだ。彼が祈っている間に私は避けるように脇を通り過ぎるが、暫くするとまた、はっはっと荒い息が聞こえてきて、男は私を、老人達を、追い越していくのだ。3回続いて4回目に私は彼をやり過ごそうとベンチに座ってしまった。
 私はちっとも変わっていない。少なくともロングTシャツにジーンズに白いベストを着てお寺の弘法大師像を駆けながら巡ったりはしない。
 きっと隣に地面を描く友達がいなかったからだろう。
 しかし、なぜいなかったのだろう。
 
 

 

 

 私は当時を思い返している。
 この「事件」は私の心に深く突き刺さり、忘れがたい記憶となっていた。だけど、周りを思い出せない。
 八十八ヶ所め、順路の最後に大師堂があった。最中に、お賽銭はまとめてここ(八十八ヶ所め)に入れてください、と指示があったので、その通りにさせていただいて、丁寧に拝む。裏山の不動ヶ丘を一周して戻って来た、という感じだ。周りには鮮やかな山紫陽花が咲いていた。
 ひとつひとつ、数々の種類の山紫陽花のすべてに名前が付いていた。みやび、紅てまり、秋篠てまり、えぞあじさい、くろひめあじさい、はなび、江ノ島のひかり、土佐美鈴、仁淀八重。
 今度は忘れないようにしよう。私は周りの景色を焼き付ける。
 だいじょうぶだ。今の私には愛機のカメラがあるではないか。それと美しい地のある写真を見せてくれる他人達が。
 他人と言うものは不思議だ。
 親にしろ、友にしろ、たとえ恋人であったとしても、彼らは結局のところ、まったく私を愛してはくれなかった。長い人生を通して、私が彼らから感じ取ることが出来た唯一の感情は憎しみだけだった。
 または自分に利になるときだけ、見返りとして与えてくれる、ほんの少しの、愛情と言うよりは惠のような気持ち。ささやかな思い。
 とうに上がった雨がまた降り出した。しとしとと細い矢のように紫陽花に降り注いでいた。雨をうける紫陽花はやはり美しい。雨は彼らを濡らし、やわらかい光を浴びて輝かすのだった。
 帰宅したら他人と言う友の、または友と呼べない他人達の写真を見に行こう。
 まるで方角の悪い疎ましい彼らは、常に小さな青天の霹靂を私にもたらすことだろう。
 私は高幡不動尊の境内の写真を最後に撮り、それから土方歳三に挨拶をする。次回は両親も連れてきたいと思うのだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コメントを残す