日本橋七福神巡りと雨の訪問者
12月 6, 2009 コメントを残す
『NHKスペシャル権力の興亡第3回』が先日(12月2日)の深夜に再放送をしていた。「小泉、そして小沢、民意をめぐる攻防」と題された政界ドキュメントの最終回、小泉(元首相)と小沢(幹事長)の深層に迫るという。前回はながら見だったので、今回は本腰を入れて見た。
驚いたのは、一番の山場であるラストの小沢のインタビュー(番組流に言うと証言)だ。
「政治は変わりますか?」
聞き手が訊いた。日本は変わりますか?もしくは、政治(日本)は良くなりますか?という言葉だったかもしれない、重要なのは紆余曲折の末、政権を獲ったものに対して、向けられた(求められた)言葉だったということだ。「あなたがそれをしますか?」と。
ところが小沢はこう答えた。
「もちろん変わりますよ。国民が変えるんです。みんな、自分は無力だと思っている。でも違うんです。私たちは決して無力じゃない。一人一人には国を変える力があるんです。私たちがこの国(政治を)を良くしていくんですよ!」(映像が見つけられなかったため大意)
私はこの正論を聞いて、心底驚かされた。
政権を獲る前に、私たちが政権を獲ったらこれだけのことをします、と約束したのは誰だったのか。あれだけ、何でもかんでも国がやってくれるような、バラマキ政策ばかりのマニフェストを掲げて、今までそれが出来なかったのは前政権が国民から搾取していたのだと言わんばかりに堂々と掲げて、そして国民の生活を第一にすると約束して、いざ国民がその気になって、「政権交代」が終わってみたら、ぬけぬけと言う。
「国に期待するな。自分たちでどうにかしろ」
現状がよろしくないのは自分のせいだと言うわけだ。
確かに私たちにはこの国を良くする責任がある。政治家ばかりに頼ってはいけない。一人一人は決して無力じゃないだろう。
だけど、このタイミングで、政権を獲った側のものが言う言葉じゃない。
何のために国民は自民党ではなく民主党に票を入れたのだろうか。あなたたちがこの国を、私たちの生活を、良くしてくれるのではなかったのか。
巧妙に逃げ道を作っているとしか思えなかった。
このNHKドキュメントはなかなか面白い番組だったが、一番良かったのは、小沢一郎という政治家の正体が詐欺師だとはっきりと私に悟らせてくれたことだ。
詐欺師がボスでは、政権交代してわずか二か月あまりで、経済も外交も混迷を来すはずだ。
「国民の生活」が「第一」どころかこれ以上「悪化」する前に、さっさと消えて頂きたい。
民主党のやり方を見ていると、私はいつも「動物農場」という小説を思い出してしまう。
ジョージ・オーウェルが書いた風刺のきいたおとぎ話なのだが、あれと全く変わらない。 民主党が私たちに描いて見せた「絵にかいた餅」は、社会主義国家の幻想と全く変わらないと言いたいのだ。彼らが悪と批判した資本主義よりもよほどたちが悪かったように、民主党のやっていることは自民党の政権時代よりもよほどたちが悪い。
ヨイショばかりの報道が続いていたが、マスコミも目が覚めたのか、最近やっと民主党叩きの番組が目立ってきた。
さすがにこのまま続いたら日本が、というより自分たちの身が危ないと言うことがわかってきたのかもしれない。
しかし彼らはまだましだ。年度末を持ちこたえられずに倒産する企業は多いことだろう。
私が杞憂するのはそのこと(日本の未来)と、もう一つは地球の未来のこと。先日、報道番組でロシア(シベリア)の永久凍土が溶け始めているという特集を目にして空恐ろしくなる思いがした。そこで、久しぶりに七福神巡りに出かけることにした。
七福神は長寿や豊作や商売(繁盛)の神々だが、私は地元に祀られた神々のいる場をその土地の聖地だと考えている。それで、巡礼のつもりで廻らせていただいているのだ。
今回選んだのは「日本橋七福神」、8つの神社を巡る旅だ。午後から激しい雨になると聞いていた。いつも七福神巡りには数々のドラマがあり、道に迷うことも多い。無事、最後までたどり着けるかと懸念していた。が、意外とあっさりと終わってしまい、自分でも驚かされた。
ひとつは人形町から水天宮から人形町小伝馬町と地下鉄で言えば3つの駅を廻る距離でしかなかったこともあっただろう、しかし何よりも神社から神社への道のりがわかりやすかったことが大きい。簡略化された地図と住所(番地)だけを見て、容易にたどり着いた。
あまりにも簡単すぎたので、巡礼としての効果が薄いような思いがしてきたほどだ。(来週はもっともっとしんどい道のりの旅に出かけたいものだ)
もしかしたら、私が慣れてきたのかもしれない。道を見つけることが楽になってきたのかもしれない。
もしかしたら、今まで多少なりとも頑張ってやってきたことは意味があったのかもしれない。
本当はそう思いたいのだが、今は確信できないでいる。
頑張っても、誰かのためにと思っても、結局は私は排除される側のものであるという思いは拭い去れない。誰も私の努力など認めないし、私が必死で生きていること自体にさえ誰も注意を払わない。
いつも私は誰かが豪華なドレスと美しい靴をはいて、賑やかな舞踏会へ出かけていくのを見ているだけだ。南瓜の馬車もガラスの靴もおとぎ話の中にしかない。指を加えて、ただ窓から燦然と輝く夜のお城を眺めている。
ただ、今週はそんな哀しみの上にもいつもとは違う満足感があった。
小綱神社(福禄寿)古くから福の神として信仰を集めてきている。11月にはどぶろく祭がある。
茶木神社(布袋尊)周囲に巡らされた茶の木の緑が見事。火伏の神といわれている。
水天宮(弁財天)安産と水難、水商売に御利益がある。毎月5日は縁日でにぎわう。
松島神社(大黒天)11月に酉の市が開かれる。財宝無限、大願成就に霊験あらたか。
末広神社(毘沙門天)毘沙門天は多聞天ともよばれ、世界の守護神福徳の神とされている。
笠間稲荷神社(寿老人)五穀、殖産興業の守り神として、また、長寿、開運の神として有名。
宝田稲荷神社(恵比寿神)祭壇の中央に安置してある恵比寿神像は、運慶作とも、左甚五郎作とも伝えられている。
誰も私になど重きを置かなくても、私自身は幸せに、いや、正直幸福かどうかはわかないが、私自身は確かに生きている。私の価値を奪う誰しも、そのこと自体は決して奪えないのだ。私は哀しくなるたびにその事実を思い出して、そうして心が安らいでいくのを感じた。すると、価値あるものと認められるために、声を上げる必要も、無理に努める必要ももうなかった。私はわざと今まで以上に大人しくしていた。
本当に価値あるものならば、それでも輝くものだろうと。たとえ輝かなくても、もう十分なのだと。
自分の価値基準を他人に求めず自分自身で完成させてしまうことを何と言っただろうか。あれはストア主義だったか。しかし、私が感じた満足感はそうした他人の承認を得られなかったことの挫折感から来ているものとは思えず、むしろ価値がなくても今ここに「在る」ということだけでざまあみろと言う気分なのだった。
生への充実感、それから他者に対する秘かな喜び、存在の誇りのようなもの。
私は打ちのめされた動物のような瞳をして、誰の心の中心にもおらず、それでも確かに満足していた。
七福神を巡りながら私は空ばかり見ていた。すでに午後だ。今にも激しい雨が降り出すのではないかと恐れていた。
傘を持つと手がふさがって写真が撮りづらい。が、それは何とでもなる。困るのは目が最近悪くなっていることだった。降るとなおさらよく見えないのだ。いつも撮った写真はすぐに露出とピントを確認して、気が済むまで何度も撮り直す。眼鏡をしたり外したりしながらその撮り直しと試行錯誤を続けるのが困難で、雨が降るとすべてが雑にならざるを得ないのだった。
私はそれを恐れて、休憩も取らずに廻り続けた。途中で空腹を感じたが降られるよりましだ。末広神社を探しているときにぽつりと雨の滴が額に当たった。降らないでくれ、降らないでくれ、頼むからもう少し勘弁してくれ。と願いながら道を歩き続ける。
結局、雨は降らなかった。最後の宝田稲田神社にたどり着いてもまだ空はもっていた。それどころか途中行く先々で晴れ間が見えたりしていたのだった。
私はそのことを奇跡のように感じながら、こんなことで奇跡を使い果たしたら余計願いが叶わないんじゃないかなどと心配しながら、夢のことを思い出している。
今週あまりにもひとりで満足したしまったせいか、コンクリートのだだ広い部屋にいる私が窓を閉めようとしている夢を見た。窓というよりベランダの出入口のその扉は唯一外と通じている、ベランダの柵の向こうは普通の道なのだった。嵐のなか、私は必死でガラスの扉を閉めようとしているのだが、そのたびにベランダから訪問者が現れたり、洗濯物が引っ掛かったりして、扉を閉めることが出来なかった。訪問者におののき、激しい雨に打たれながら、私はずいぶん焦っていたようだ。
だけどどうしても扉は閉まらず、私は目を覚ました。コンクリートの部屋で一人になることは決してないまま、夢は終わりを告げたのだった。