三渓園訪問記 ~若緑が目に沁みる~

 
 
 
 
 【松】一説に、神がその木に天降ることをマツ(待つ)意とする。(広辞苑より)
 
 
 
 
 
 
 
 三渓園は写真愛好家の作品によってよく目にしていた。
 外苑のシンボルの旧燈灯寺三重塔、手前に大池、という定番の構図は、実物を見る前から私をなえさせた。私はこの美しい庭園が嫌いだった。横浜にあるというところも嫌だった。あえて行こうとはしなかったのだ。
 土曜日、山に行こうとしていた私を引き止めたのは友人である。しかし、直接的な原因ではなく、心理的に言うならば、私は自分を少し変えたいと思っていて、いつもとは違う写真を撮ってみたい、という思いに駆られたことも大きい。
 私は使い慣れたレンズを置いて、70-200㎜の望遠ズームレンズを持った。絞り解放、ギリピンでの遠景、シャッタースピードを優先して取る花のブレ写真など、試すべき撮り方を頭に入れて、験(ゲン)の悪い横浜へ、好ましくない三渓園へと向かっていった。
 奇しくも青天である。
 行きたくて、行きたくて、たまらないところにやっと行けた時は雨や曇りが多いものだが、気の乗らない今日は絶景の撮影日和であった。
「しっかり勉強しなさい。青天にしてあげたからね」
 そう神様に背中を叩かれたようでもある。
 横浜駅から乗り換えて10分、根岸駅からバスでまた10分、三渓園にはすぐに辿り着いた。途中二度ほど道を尋ねたのだが、不思議とふたりとも簡潔でわかりやすい教え方である。
「こっちの方向をまっすぐです」
 と一人め、真直ぐ行った後のもう一人は、
「つきあたりを右に曲がってすぐの交差点を左に曲がって2,3分です」
 愛想もないが迷うこともなかった。一人目のこの方向を真っ直ぐという意味もなるほどという思いだった。手ぬかりなく、完ぺきなようである。面白みがなくて、ますます三渓園が嫌いになってくる。
 正面入口の前には到着したばかりのツアーバス、団体客数十名が2,3人のグループになって降り立ってくる。彼らは駐車場のトイレに行き、喫煙所で一服して、それから女性のガイドに促されて園内へと入って行った。付いていくと、すぐ正面に大池、手前に藤棚と園内地図が見えた。地図の前に立っているガイドらしき初老の男性に尋ねてみる。
「今ってお勧めの花はなんでしょう。あやめはありますか?」
「あやめはないんですが、花菖蒲なら。まだ咲き始めたばかりで向こうに(ここで藤棚の左奥を示す)ひとつ、ふたつ。でも黄菖蒲が綺麗に咲いていますよ」
 私は男が手を挙げて示した内苑方向の大池沿いを眺めた。入口前のポスターでは紫のあやめ(花菖蒲だったか)に大池、向こうには三重塔が見えて「完ぺき」だったものだ。まるで私がよく見る写真愛好家の写真のようであったが・・
 私はあやめではなく花菖蒲であること、紫ではなく黄色であることにがっかりしている。
 ガイドに礼を言うと、とりあえず前回亀戸天神で散々だった藤の花を撮ることにした。そうしているうちにも、後から後からツアー客がやってきては藤棚の下のベンチに座るのだ。「綺麗ねぇ」と大池を眺め、「集合写真撮りますよ」と声をかけられるまで。私と藤の間を行き来してはファインダーの中に雑多な影を作っていく。
 
 
 
 

 
 
 
 
 これもいつか誰かの写真で見慣れてた木船が池を漂っている。どうも今日の場所は良くないようだ。
「もっと船がこっちに来てればいいのにね」
 あとで三重塔を撮っているときに、横で三脚を広げていた男性にそう声をかけられた。
「そうでね!残念ですね!」
 私は大声で答えて、そのくせ内心ではホッとしていた。何せあやめだと思い込んでいたのは花菖蒲で、紫ではなく黄菖蒲ばかりだと言い、咲き始めたばかりの(群生とは程遠い)幾花かの寂しい咲き方で、おまけに・・・
 これで船だけちゃんと定位置に浮かんでいたら、まるで間の抜けたパロディではないかと考えている。
 カメラを持った方々はさすがに多く、いたるところで私はすれ違った。藤棚で、大池沿いで、初音茶屋の奥の寒霞橋で。蓮池の男性「カメラマン」は外国人だった。長い、大砲のレンズを持って、しゃがみ込み、白い小さな水連の花をずっと撮っていた。隣には同じようにしゃがみ込んで小さなカメラを構えた女性が二人、異国の三人で一花を狙い続けている。三脚は旅の荷物になるからやめたのだろうか、あれだけのレンズを使うならば、あと数キロ増えたとしても持ってきた方が良かったのに。隣の女性はともかく、彼にとってはと、残念な姿に思えてならなかった。
 数名の観光客を引き連れた初老のガイドとも再開した。蓮池の傍で、大池の傍で、何度もすれ違う。私が入口の藤棚の右手の大池沿い(彼が教えてくれた方向とは逆方向)で紫の花菖蒲を撮っている横を通り過ぎていくのだ。私はそのたびに、三脚と身を避けて、道の端っこにへばりついた。
 三重塔へ向かう頃には太陽は高くなっていた。私は空腹を覚えたが、茶屋の食事が意外と高いのを見て取ると、腹を満たすことをあっさりとあきらめた。今日に限って、おにぎりもチョコレートも持ってきていない。いつもは必ずリュックに入れたものだが、おかしいものだ。いつもと違うことを求めたせいか、いつもと違う感覚が、小さな失敗から、人々の姿ややり取りから、すべてにおいて違和感となっては付きまとって離れない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 三脚を担いで、小山を登っていく。階段を上り切ると旧燈灯寺三重塔が現れた。遠くで見ているとずいぶん高く、大きく見えたものだが、あれは山の上にあったからというだけで、実物はずいぶん背も低いようだ。関東地方では最古の塔(1457年建築)だけあって、さすがに貫禄は否めないが、私からすると例えは悪いが、
 幽霊の正体見たり枯れ尾花
 といった感じである。この塔が夕陽や霧中に、満開の桜の中にそびえ立つ美しい絵を何度目にしたことか。まるで別世界の使者のように、私を突き放した塔が、今古き朽ちかかったありのままの姿で私の目の前に身をさらしていた。
 私は彼の一部をなおざりに切り取って、それからすぐに眼下の眺望を見に行くのだ。大池や旧燈灯寺本堂が見渡せた。右手に、松の木が二本、美しく立っている。
 また松だ。
 どうにかして、松を入れた展望を絵に収めたいが、一望できる場所から遠い。三脚の足場がなくて、松が上手く入らない。
 
 
 
 

 
 
 
 
 松風閣、と名前付けたのは、伊藤博文だと言う。三渓が別荘としていた中国風建築の建物、のちに海外からの要人に宿泊してもらうためのゲストハウスとなった館からは横浜の海と何本もの松が見渡せた。
 残念ながら当時斬新だった優美なる建物は関東大震災で消失し、現在はコンクリートの展望台になっているが、それでも、この旧原家の敷地の最高に位置する場所が松風と喩えられた意味は今でも色濃く残っているように思われた。
 三渓園の松はどれも美しかった。
 山で見かけるアカマツや、クロマツや、風情よりは樹木の価値しか持たない彼らを見慣れた私にとって、その繊細な美しさはまるで目に沁みるのだった。
 松の新緑越しに歓心橋を撮り、松の枝の合間から三重塔を撮る。松と藤、松と庵、アングルが可能な限り松を入れて撮ってみるのだ。
 
 
 私はこの園内の到るところに立つ松の木のおかげで、次第に三渓園に親しみを覚えてきた。私の生活にとって身近なものではなくても、近しいものを感じるのだ。写真愛好家の園内の写真だけではない、何度も、何度も、これは今まで私が目にしたものだ。
 この国にもっともなじみ深いものとして、常に描かれていたものであり、一般的に日本の美を形作るものの中には必ず存在するもの、し続けるもの。
 それが松だった。そうだ、こんなふうな・・・
 なぜ、愛好家の彼らはそのことをもっと早く私に見せてくれなかったのだろうか。
 中国かぶれの三渓氏も、当時松を愛していたかと思うと好ましく思えてくる。それとも松は中国古来の樹木だったか。わからない。が、それでも私は満足だった。
 私は外苑を一周して、最後の最後に旧燈灯寺本堂でお参りをした。いささか遅い参拝をして、敬虔な気持ちに包まれた後、歓心橋の傍のベンチに座って、躑躅を眺めている。彩り豊かな花たちは午後の陽を一身に浴びて、照り輝いている。つい先ほど、横笛庵の前で声をかけられた異国の「カメラマン」の言葉を思い返す。
「眩しすぎて上手く撮れないよ・・」
 彼は私の長いレンズをからかって、広角がいいよと自分のレンズを見せてくれた。そして訴えたのだ。こういう陽射しのきつい日は嫌いだということを・・
 上手く撮れない、いつでも上手く撮れない。それでも今の私は眩い陽射しを愛おく感じている。
 次に来る時は、あの松をもっともっと素敵に撮ってあげたいものだ。完ぺきな美が似合う三渓園に、その頃の私こそはよく馴染むことだろう。
 私は立ち上がった。天満宮に一礼をして、正面玄関前の藤棚へと帰っていく。花菖蒲が、一花、二花、ひっそりと咲いていた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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